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修了レポート 臨済宗 「臨済禅の伝来とその流れについて」

日付:2019年8月10日

第二十八期 和田 誠

 釈尊が、今から二千五百年以上前にインドのブッダガヤーの菩提樹の下で坐禅を行い悟りを開いたのが仏教の起源で、拈華微笑により魔訶迦葉尊者に伝えられ、以降、二祖阿南尊者から三祖商那和修尊者と代々師資相承で受け継がれていき、第二十八代祖の菩提達磨大師により、インドから中国へと禅の教えが伝えられ、その教えは、不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏の四聖句を用いて表された。

 達磨大師は、仏教の信仰の篤いとされた梁の皇帝である武帝に面会したが、功徳を問われ、時期尚早として去り、嵩山の少林寺で修行を続け、その教えは、二祖慧可禅師へ、以降代々受け継がれていったが、五祖弘忍禅師の門下から北宗禅と呼ばれる神秀禅師と南宗禅と呼ばれ、六祖となる慧能禅師が出たが、次第に北宗禅は衰え、法灯を伝えたのは南宗禅であった。

 慧能禅師から臨済宗の流れとなる南嶽壞譲禅師と曹洞宗他の流れとなる青原行思禅師が現れた。臨済宗は、唐末から南嶽壞譲禅師から馬祖道一、百丈壊海、黄檗希運、臨済義玄禅師へと継承されていき、臨済禅師が思想性を加え、公案禅で知られることとなった臨済宗を確立した。

 その後、臨済宗の系譜は、宋の時代に楊岐派と黄龍派に分かれ、黄龍派は、明庵栄西禅師により、楊岐派は、鎌倉時代に来日した高僧達により、日本へ伝わった。

 各地にそれぞれの宗風をもつ臨済宗、曹洞宗などの五家と臨済宗から分かれた、黄龍派楊岐派を含むいわゆる五家七宗が形成されていった。しかし、中国禅は、宋代末期に廃れていき、純粋な禅は日本に受け継がれることとなった。

 六世紀半ばに日本に仏教が伝えられたが、禅が日本に始めてもたらされたのは、六百五十三年となっており、学問僧として唐にわたった道昭和尚によるとされ、唐の都長安で玄奘三蔵法師について法相の教学を修め、さらに中国禅の二祖・慧可禅師の弟子にあたる慧満禅師に師事して禅を学び、帰朝後、飛鳥の元興寺の一隅に禅院を構えた。

 七百三十六年には、日本からの招請で唐より来日した道璿和尚が神秀禅師の流れをくむ北宗禅を伝え、さらに行表和尚から最澄へと継承されていくが、前の二つの禅は、禅を独立とした一宗としたものではなかった。

 九世紀初めの嵯峨天皇の時代には、南宗禅も馬祖道一禅師の流れをくむ義空上人を唐から招き、現在の天龍寺の地にあった壇林寺で修禅につとめたが、後継者ができず、途絶えた。

 最澄は、出家得度の師である行表和尚から入唐以前に北宗禅の教えを受けていた。その後、遣唐使船で空海とともに唐に渡り、天台の教えや密教、天台山禅林寺では、南宗禅を伝授され、帰国後、日本天台宗を開いたが、円、戒、密、禅が統合された四宗相承の教えであり、平安時代までに伝来した禅は、中国仏教移入の一端でしかなく、独立した禅宗としての位置を占めるようになるのは、鎌倉時代になってからであった。

 現在の岡山県吉備津神社の神官の家柄に生まれた栄西禅師は、十三歳で比叡山にのぼり、密教を学び、二十八歳で入宋を果たし、天台宗を学んだ。この時、お茶に傾倒し、帰国に際しては、茶の種子を持ち帰り、効用を「喫茶養生記」に著した。帰国後も密教の修学に努めたが、四十七歳で再び入宋し、宋からインドに渡る予定であったが叶わず、帰国しようとして、暴風雨に遇い、船が漂着したことで、天台山に入り、万年寺で、臨済宗黄龍派の虚庵懐敞禅師に五年間にわたり禅の修行をし、印可を受けて帰国した。

 宋から帰国した一一九一年、五十一歳から禅僧として活動を始めた。平戸に帰着後、九州各地に寺院を建立し、禅宗の拠点を築いていった。

 一方畿内では、大日能忍禅師が、すでに臨済禅を日本達磨宗として唱導していたが、新しい教えを良しとしない比叡山などの旧仏教勢力から圧迫を受けており、九州の栄西禅師にも及び朝廷は、両者に活動停止を命じた。

 これに対し、栄西禅師は、「興禅護国論」を著し禅の正当性を主張したが、圧迫が続き、栄西禅師は、活動の場を鎌倉に移すことにした。日本達磨宗は、曹洞宗の開祖となる道元禅師のもとに合流することとなった。

 鎌倉では、将軍源頼家やその母政子から帰依を受け、京都では建仁寺の開山となるなど、幕府の篤い庇護を受けて躍進した。

 しかし、建仁寺は、比叡山の迫害もあり、密教と禅の兼学道場となっており、旧仏教から独立した禅宗の確立への過渡期な段階にあったといえる。

 栄西禅師により建仁寺創建をもって臨済宗は開宗したとされているが、禅専修の臨済禅が定着するのは、鎌倉時代半ば以降のことであった。鎌倉時代は、中国においては、元の成立と宋の滅亡という時期であり、多数の中国宋が渡来してきたことも、禅の発展した要因となった。

 一二四六年北条時頼の招請により蘭渓道隆禅師が来日し、建長寺を開山し、宋の禅院の修行規則を移入して弟子の育成、禅の興隆に努め、また、京都の建仁寺の住持になってからは、純然たる禅寺になった。

 一二七九年に北条時宗の招きに応じて来朝し、建長寺に住した無学祖元禅師は、円覚寺を開山し、多くの弟子を育て、鎌倉武士の多くが禅宗に帰依することになり、鎌倉、京都を中心に勢力が拡大した。

 室町時代になると、足利幕府や朝廷の庇護を受け、臨済宗は最盛期を迎えることとなった。多くの臨済宗の寺院は、五山十殺制度によって管寺化され、五山派と総称された。

 この五山派がもたらした文化は、建築、庭園、文学など様々な分野に波及し、徐々に日本に浸透していった。南北朝時代に後醍醐天皇や足利尊氏の帰依を受け、天龍寺など多くの寺を開いた夢窓疎石禅師は五山文化を牽引した一人で、造園にもすぐれた才能を発揮している。

 一方で、朝廷や幕府の庇護を受けず、純禅を説いた大応国師(南浦紹明)を派祖とする大応派の僧たちがおり、大応国師の弟子の大燈国師(宗峰妙超)は京都に大徳寺を建立し、大燈国師の法嗣となった関山慧玄は、大徳寺を出て、岐阜の山中に庵を結び、後には、花園天皇の勅願で創建された妙心寺の開山となった。

 大徳寺からは、当時の堕落した仏教界を風刺や奇行によって風刺した一休宗純禅師を輩出している。

 五山派に対して三林派と呼ばれた大応国師の流れは、五山の凋落に対して江戸時代中期には、臨済宗の法灯を伝える唯一の流れとなっていった。

 最後に、禅宗界に大きな影響を与えた禅師を時代順に追ってまとめとしたい。

 栄西禅師の跡を継ぎ、東福寺を開山し製麺法や静岡茶のもとを伝えた臨済宗興隆の基礎を築いた円爾弁円禅師(聖一国師)。

 南禅寺の住職や天龍寺を建立した庭園等にも才能を発揮した夢想疎石禅師(七朝国師)

 室町時代中期には、各地での戦乱、飢饉や疫病がはやり人々は不安の中にあって、仏教界は堕落が激しく、禅僧の多くは流派の争いや名利を追い求めることに狂奔していた中で、非道な振舞をもって批判を浴びせた一休宗純禅師。

 安土桃山時代から江戸時代には、大徳寺の住持ちであったが、紫衣事件により流罪となるものの、徳川家光の帰依を受け、和歌・兵法・茶道・儒学・医学に通じた教養人で柳生宗矩のために「不動智神妙録」を書いた沢庵宗彭禅師。

 江戸時代には、祖師語録などの解釈に明け暮れてきたそれまでの臨済禅を嫌い漢籍を使わず日本語でしかも平易な日常語で禅を説くべきと主張し、姫路の龍門寺を再興し、妙心寺の住職になり、公案を否定する不生禅を唱えた盤珪永琢禅師。

 江戸時代中期に公案による修行体系を完成させ、臨済宗中興の祖として仰がれる白隠慧鶴禅師。

 日本の禅は、盤珪禅師とその半世紀後に公案による修行体系を確立した白隠禅師によって完成した。臨済宗各派は白隠禅師の確立した修行法を共有し、展開して、現在にいたっている。以上がおおまかな臨済禅の伝来とその流れと思われる。

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