浄土真宗専門課程の修了レポートの中から、ご講師に選んでいただいた優秀答案を掲載しました。
第22期 武内
浄土真宗コースの教場となった千葉光明寺浄土真宗との出会いは学生時代に遡る。大学の先輩の一人に、浄土真宗の住職を務めている人がいた。その先輩から、阿弥陀仏・他力本願・悪人正機説について聞かせてもらう機会があった。「阿弥陀仏の他力本願により、凡夫・悪人ならばなおさらのこと救われる。」と述べていたように記憶している。浄土真宗の教えに始めて出会った瞬間であった。当時、私は神や仏を信じない若造であったし、また、卒業後の人生は自力で切り開いていかなければならないとも思っていたので、阿弥陀仏の他力本願の教えをすんなりと受け入れる気持ちにはなれなかった。自力で頑張る人が報われて当たり前、他力本願で凡夫・悪人こそ救われるという教えは理解することさえ困難であった。しかし今回、仏教塾での学習を通して、宗教や仏教に関する捉え方が深まり、その結果、学生時代の浄土真宗に対する理解は大変浅いものであったと思えるようになってきた。
浄土真宗の宗祖、親鸞聖人が生きた時代は鎌倉時代である。武士階級が台頭し、貴族階級は没落、社会が大きく揺れ動いた時代であった。世は戦乱の渦中にあり、末法思想が蔓延、大衆は仏教に救いを求めていた。しかし、僧侶の多くにはもはや道心がなく、仏教界も末法の状況であった。そんな時代に親鸞聖人は九歳のとき僧侶となり、仏門を志し、以来二十年間比叡山で血を吐くような激しい修行と学問をされた。しかし、悟りを得ることができなかったという。つまり、自力の努力によっては煩悩を消し去ることができなかったのである。親鸞聖人は「大切なのは、自分が善であるなどと思わずに、素直に心の中の悪や煩悩と向き合い、自分も善でないと思う心である」と述べられている。二十年間の厳しい修行体験から発せられた、実に重みのある言葉である。この言葉には、自力による悟りの道を断念し、他力信仰の世界へ大転換をはかられた強い意志が感じられる。
仏教の開祖釈尊の亡き後その説法を、弟子たちは記憶に基づいて様々な経典を編集した。それらの中に、『般若経』・『法華経』・『華厳経』・『無量寿経』などの大乗経典がある。釈尊は相手に応じて様々に説法をされたので、それらの説法を編集した経典も多くの種類になったという。親鸞聖人はそれらのなかから、自力修行によっては煩悩を断ち切れない凡夫こそ救われるべきであるという観点から、阿弥陀仏の他力本願による救いを説いた『無量寿経』を選ばれ、浄土真宗の根本経典とされた。この経典のなかでは、法蔵という修行者が、迷いを脱した悟りの世界である極楽浄土を建立して我々をそこに救い取りたいという願い(本願)を発し、またその方法を完成し、すべての願いを果たして自らも阿弥陀仏になったことが記されている。つまり、阿弥陀仏は全ての人を救って浄土に往生させる強い願いをもっておられる仏として描かれ、煩悩に苦しむ我々がその願いに気が付けば、自ずと阿弥陀仏に対する感謝の気持ち(信心)が湧いてくる。阿弥陀仏の本願によって浄土への往生が約束されているのだから、安心して阿弥陀仏を信じることにもなる。
以上から、浄土真宗の要義を次の三点に要約してみた。
・親鸞聖人は『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』を根本経典として浄土真宗を開き、阿弥陀仏を本尊とされた。
・阿弥陀仏の本願によって全ての人は浄土へ往生することが約束されている。どんな悪人でも阿弥陀仏が救ってくれるという「絶対他力本願」の教えである。
・阿弥陀仏の本願を疑いなく受けとめる信心を不可欠とする。「南無阿弥陀仏」を称えるとは、仏に救われることに感謝し、仏への信心を表明することである。
日本仏教のなかで、法相宗・華厳宗・天台宗・禅宗など大半の宗派は、修行を通して悟りに至る道を説き、いわゆる自力仏教の姿を採っている。これらに対して、浄土宗の宗祖法然は「阿弥陀仏に帰依します」とひたすら唱えることに専念するだけで、阿弥陀仏が救ってくれると説かれた。悟りの道から救いの仏教への転換であった。阿弥陀仏の力を借りて救いを求めるので、自力から他力への転換でもあった。浄土真宗の宗祖親鸞聖人は救いの形態をさらに一歩すすめて、阿弥陀仏は無条件に全ての人を救うという「絶対他力本願」の教えに深められた。阿弥陀仏に救済の約束をしていただいたのであるから、念仏はその約束に対する感謝(信心)の表明として行うものとなった。したがって、救済を願って念仏すれば、阿弥陀仏の救済の約束を信じていないことになる。信心が根本であり、救済に繋がる念仏や修行は浄土真宗にとって意味がなくなったといえるであろう。
キリスト教プロテスタントの「予定説」は宗教改革の一翼を担ったフランス人カルヴァンが唱えた説で、前述した「絶対他力本願」の教えに大変近い考え方であると思われる。島田裕巳監修『手にとるように宗教がわかる本』に記された「予定説」の説明を引用すれば次のようになる。「予定説とは、死後神の国に行けるかどうかを予め神は決めているというものである。全知全能の偉大な神が、救済する人を決めていないはずがないというのをその根拠にした。信じるものは救われるという考えがあってこそ、神の救済を願う気持ちが生まれ、罪を許してくれる教会を有り難いと思うというのが当然のところを、信じるか信じないかにかかわらず神が誰を救うかは決めているのだから悩んでもしかたがない、神があなたを選んだことを感謝しなさいとしたのである。」このような信仰や善行が救済には繋がらないというプロテスタントの精神は「絶対他力本願」にも見られた通りであるが、特筆すべきは、ヨーロッパでこの精神が樹立されるその三百年前に、親鸞聖人が既に同様の精神を打ち出されておられたことである。
ところで、「予定説」は一神教の、「絶対他力本願」は多神教の異なる宗教を背景にして生み出された教説なので、違いがあって不思議ではない。
誰を救うかは予め神が決めている、これが「予定説」の考えである。救われない人もいるわけで、何故全てを救ってくれないのか、という疑問が湧いてくる。一神教の立場からすれば答えは恐らく次のようになるであろう。全ては絶対神が決めたこと、神の決定が絶対的な根拠であり、前提になる。
救済者を選択する「予定説」とは対照的に、「絶対他力本願」の場合は、阿弥陀仏が全ての人の救済を願っているという。こんどは逆に、何故全ての人を救済しようとするのか、という疑問が湧いてくる。私も大学時代に浄土真宗の教えを聞いたときからずっとそのことを疑問に思い、阿弥陀仏に聞いてみたいと思い続けてきた。そしてようやく、その答えのヒントになると思われる説明が、仏教塾専門課程のテキスト『仏教を読む』のなかに見つけることができたので、以下に引用してみた。「釈尊は、私達が自己に執着せずに、ものの本当のあり方を見れば迷妄から目覚めることができる、と教えられた。」「ものの本当のあり方を真如、法といわれるが、抽象的で分かり難いので、阿弥陀仏という人格的な姿をとって現れた」との説明である。阿弥陀仏は真如の化身であり、ものの本当のあり方のことであるという。もののあり方をそのままに認識する能力を智慧と呼び、阿弥陀仏の智慧を与えられて、ものの本当のあり方を見れば、全ての人が悟って救われることになるであろう。
阿弥陀仏が衆生の救済を願う根拠が丁寧に説明されていた。結論に至る過程に飛躍がなく、論理的で理解が容易であった。その論理性が浄土真宗の宗派としての普遍性と絶対性を保障しているのではないか、と思えるようになってきた。教義への理解をさらに深めていきたいと思っている
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