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修了レポート 天台宗 「伝教大師の生涯」

日付:2010年4月30日 関連記事:「仏教文化」第144号より

 天台宗専門課程の修了レポートの中から、ご講師に選んでいただいた優秀答案を掲載します。

第22期 安松

 比叡山延暦寺は、後に各宗派の祖師を輩出したいわば、当時の総合大学であった。

天台宗コースの教場となった長福寿寺

 その比叡山延暦寺を創建し、我が国天台宗を樹立したのが伝教大師最澄である。

 今を去る千二百年の昔、近江(滋賀)の国琵琶湖のほとりに、西暦七六七年、八月十八日、一人の男の子が生まれた。名を『広野』と言い両親の慈悲を一心に受け成長し、七才の時には他の子供達から抜きんでて優秀であり、記憶力、理解力、又何事にも熱心であった。普通の学問、医術、天文、うらない法はもちろんの事、特に仏教の学問は熱心であった。両親の希望、大師の切なる希みをもって、十二才の春、近江の大国師『行表法師』の元で出家し、日夜専心修学され、行表法師も驚くほど学問も進み、行も非常に優れていた。

 そして十四才で剃髪得度し、法名を『最澄』と名づけられた。当時の定めとして一人前の僧になるのには戒壇に登り具足戒を受けなければならぬ、ゆえに最澄は、奈良東大寺の戒壇院で受戒したのである。それは延暦四年(七八五)四月六日。春の事であった。しかし奈良の僧達のおごりにふけった傲慢の様子に失望し、その年の七月なかばいづことなく立ち去ったのである。

 それから目指した所は住みなれた国分寺でも無く、なつかしい父母の家でもなく、それは人里遠く離れた比叡の山奥であった。

 住まい(草庵)を定めた最澄は毎日『法華経』『全光明経』『般若経』等を読誦し、研究を重ね『発願文』を執筆したのである。

 「伏して願わくは解脱の味獨り飲まず。安楽の果獨りとして證せず。法界の衆生と同じく妙覺に登り。法界の衆生と同じく妙味を服せん」二十才にして堅い誓いと非常な名文には感服のいたりである。最初は一人であったが、時が経つに従って修行僧達が訪ね来、延暦七年(七八六)最澄二十二才の時であった。山中で不思議な光明を放つ霊木を得られ御等身大の『薬師如来』を一心にお刻になったのである。

 この如来様を安置する御堂『一乗止観院』(根本中堂)を建立し、かつ自ら火を打ちて、永却不減のお燈明を献ぜられ"明らけく後の仏の御世までも光り伝えよ法のともしび"とお歌を詠じられたのである。

 このお燈明は永代不減で消えることなく、ともされ現在も根本中堂に輝いている。大師が比叡山に入山してから十数年経っていた。かくしてこの根本中堂が出来上がったのは延暦十三年でその翌年九月、諸方から高徳の方々を招き『落慶供養』の法会が厳かにとり行われたのである。その時、かしこくも時の天皇『桓武天皇』が行幸の上、法会に臨まれ"国を守り鎮める教え(鎮護国家)を比叡山にたて、これを日本に広めよ"とのご命令を、賜わったことは忘れてはならない。

 当時わずか二十八才の青年で実に非凡なるのには驚くほかありません。

 そして延暦十六年(七九七)大師三十二才の時『内供奉禅師』に任命されたのである。大師は比叡山に入ってから勉強の第一は一切経の研究で、法華経による大乗の教えを広めるためにも、天台の教えを深く勉強するにも一切経の完備が必要であった。そして朝廷に一切経の完備と南都七大寺の学僧との勉強会を比叡山で開く事願いいで許され、次ぎに 洛西高雄の高雄山寺(神護寺)で法華経の説法が行われ天台の教えの盛大な講演会を開いたのであった。

 かねてより、大師は唐に渡り天台宗の根本道場である天台山に登り、天台宗の極意を 習得する事を望んでいたのであるが、それがかない還学生(一年間)として遣唐使船に乗り、辛酸難行の末中国唐に向かうのである。

 延暦二十四年(八〇五)天台山における求法を 終えた大師は帰国船に乗る前一ヶ月越州の竜興寺で善無畏の孫弟子にあたる「順暁阿闍梨」に遇い潅頂道場に導かれ三部三昧那の印真(印契と真言)を授った。

 その年の六月帰朝した大師に折しも桓武天皇の御病のため平癒の祈願を懇請され九月一日京都西郊の高尾(神護寺)において日本最初の潅頂儀式を修した。そして翌延暦二十五年止観業と遮那業の二人の「年分度者」を賜ることになり、ここに円教(法華経を中心とする天台学)と密教を統合するいわゆる円密一致の天台法門が成立することになったのである。

 最後に大事業比叡山戒壇院設立、それは弘任九年(八一八)の三月、一大決心のもと大師がかつて東大寺で受けた小乗戒を捨て、大乗戒のみを守って行くというものであった。

 朝廷に『顕戒論』三巻、大乗菩薩戒を授けるための「戒壇院設立の重要性」を申し出たのであるが、奈良七大寺の反対に受け入れられず、大師は重ねて『顕戒論縁起』二巻を著し、さらに主張したが願いは少しの光明も認められなかった。著書に『守護国界章』『法華秀句』等がある。

 それから弘仁十三年(八二二)六月四日、切なる願いかなえられず静かに生涯を閉じられたが、没後七日目にして、朝廷より「戒壇院建立の勅許」が届いたのであった。

 五年後大師の念願であった比叡山戒壇が設立され、これは仏教史上に初めて、純粋な大乗教団が設立された事を意味するものであった。

 この後比叡山は鎌倉時代の仏教を築く俊英達を生み出し彼らの説いた教えは連綿として、現代の各宗派に受けつがれて行くのである。ゆえに比叡山天台伝教大師はいつの時代にあっても日本仏教の中心的役割を担っているのである。

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