その他

修了レポート 浄土宗 「生死について」

日付:2010年4月30日 関連記事:「仏教文化」第144号より

 浄土宗専門課程の修了レポートの中から、ご講師に選んでいただいた優秀答案を掲載しました。

第22期 大和

 私は内科医として、長らくがんの診療に携わってきた。がんの診療では、ターミナルケアも重要な課題になる。

浄土宗コースの教場となった光明園

 がんのターミナルケアは、麻薬による痛みのコントロール、精神薬による不安、不眠の解消などにより、数十年前に比べたら格段の進歩がみられる。しかし、差し迫った死を受け入れるためには、患者自身が日ごろ、いかなる生死観を持っているかが、最も大きな問題ではないかと感じてきた。

 どんなに健康維持や延命に熱心になっても必ず死は訪れるわけで、死の受容はすべての人にとって重要な課題である。

 今の日本で宗教が生きる指針になっている人は少なく、死が目前の現実になってからあわてる場合が多いと思われる。

 後期課程で、浄土宗を学んだ機会に、仏教、とりわけ浄土教が、生死をどうとらえてきたか考察してみた。

 仏陀は生病老死という人生の苦を解決するために出家したといわれている。仏陀が悟った縁起の教えによれば、生がある時必ず老死があり、諸行無常ということで生と死が考えられている。一刻一刻移り変わる無常の世において、一日一日を充実させて修行を積み、我執を去り、生への執着をすてて死を当然のこととして受け入れることを教えた。与えられた生を充実して生きることが、満足して死を受容することにつながっていると思われる。仏陀によって自覚された智恵と慈悲の精神は、次第に高揚して本願思想となって展開し、やがて阿弥陀仏の浄土建立、人間救済の宗教となって結晶した。

 曇鸞は龍樹の空観によって、生を無生の生としてとらえた。凡夫は生と死を対象化して実体として存在するかのように思うが、実際には存在しない。あらゆる現実の存在は因縁によって存在するから実体がなく虚空のようで、不生である。浄土の生は、阿弥陀如来の清浄な本願による無生の生で、三界虚妄の生ではない。仏名を称することによって、実体として生があるという見方が転じられて、無生の智恵が得られる。生死界を捨ててその外に涅槃界を求めるのではなく、生死界を生きる中に名号を称えれば、そのまま生死を超越した世界が開かれるという。

 また一方では、曇鸞は一般庶民が、無生の生などという考えを理解できないので、十回の念仏で浄土に往生できるということも述べている。

 善道は、観無量寿経を凡夫救済の念仏の経典とみた。凡夫は、称名念仏すれば本願力によって不生不滅の悟り、無生法忍を速やかに得ると説いた。平生の救いの立場を示す一方では、臨終を重視して、具体的な行儀を示した。臨終に来迎に与かることを目的に、功徳を積むための念仏行をすすめた。

 日本では源信が、往生要集をあらわしたが、それが社会に与えた影響は大きかった。平安期における浄土教信仰による救済の証は、来迎引接ということであった。

 来迎とは西方極楽浄土にいる阿弥陀仏が、念仏者の善根功徳によって臨終に聖衆を伴って迎えに来て救済するというものである。臨終来迎に与かるために死の瞬間が大切で、臨終行儀という儀式が生み出された。

 源信の場合は、比叡山の出家者の浄土教であった。これに対して法然の場合は、愚痴無知の衆生の往生の行としての称名念仏であった。称名念仏すれば誰でも、臨終のときに聖衆が来迎して、阿弥陀仏のいる西方浄土に往く事が出来、浄土において悟りが得られるという教えであった。この教えは、天災、疫病、戦乱により多くの人が死んでゆくこの時代に、圧倒的に支持された。

 法然の救いは死後の往生であったが、死後の往生を確信した人は現生においても救いを体験したといえる。念仏を平常から称えるひとは、生死ともにわずらいなしといった。 親鸞は阿弥陀仏の本願を信じたときに、現生正定聚となり如来と等しくなると説いた。念仏による生死出離の救いは現生の救いと理解された。従って、臨終正念、臨終来迎は必要がないものと考えられた。

 浄土教を歴史的に見れば、高僧たちは縁起による無生の生を信じながら、仏教を良く知らない衆生を救済するという目的から実在的な浄土と人格的な阿弥陀仏を説いたと思われる。合理的、科学的な思考が一般的に普及している現代において、このような浄土と阿弥陀仏は受け入れられなくなっていると思われる。

 浄土は空の思想に基づき有無をはなれ、時間と空間を超えた悟りの世界であり、阿弥陀仏も偏在していると考えるのが仏教の伝統に即した考え方であろう。

 現在の浄土教において、信心を本来の自己になる、南無阿弥陀仏になる、如来と一体化するなどという表現がみられる。これらは現生において悟りを得るということに近く、念仏と坐禅という行の違いはあっても、浄土教と禅が近づいているように思われる。結局は、諸行無常、諸法無我と知って、はからいをなくして生き、自然なこととして死を受け入れるのが仏教的な生死という事に帰着するのであろう。

 日本の伝統的仏教は、葬儀と祖先崇拝を重要視してきた。このことの根底には、霊魂不滅の考えがあると思われる。宗教は永遠の生を得たいという人間の願いと結びついており、単に釈迦以来仏教は霊魂を認めないと言うだけで簡単には片付けられないものがある。

 私は道元の「この生死はすなわち仏の御いのちなり」という言葉にひかれる。ひとりひとりの小さないのちが、死後大きな仏のいのちに帰るというのが、無理のない考え方のように思われる。

カテゴリー:その他

  • 平成23年度(第24期)塾生募集開始
  • 写真で綴る仏教塾
  • 東京国際仏教塾20年の歩み

東京国際仏教塾 本部事務所

〒116-0001
東京都荒川区町屋1-2-1-3F
TEL:03-3809-5930 FAX:03-3809-5935

ウェブからのお問い合わせ

このページの先頭へ