仏教塾と私
佐藤(十五期)
東京御廟本堂四十歳を間近に控え、それまでの仕事上でのプロジェクトがひと段落着いた頃、私の心に引っ掛かっていたのが仏教でした。物質や経済といった現実的なことでなく何か漠然と大きな世界を求めていたのだと思います。お寺も法事もなんとなく知っていましたし、一般仏教書物で仏教の勉強をしていました。しかし、それらは視界にぼんやりとあっただけのことで、本当の意味で「寺院と仏法」を知っていた訳ではありませんでした。
仏教塾専門課程の各宗旨を順に学ぶ予定にしていましたが、ある時塾長の著書である『生と死を越える道』を再び手にし「生と死を越えるとは、善悪を超えること」「神道で得度しても良いしキリスト教でも良い」との言葉を読んだ時、逆に塾長にお預けし、真宗にて得度しようと覚悟を決めました。
度蝶を戴き五年が経過しました。現在も会社員としての仕事がありますので、お手伝い程度ではありますが、継続的に学ぶ中で東京御廟などで法務を担当させて頂く機会があります。自らも学ぶ中、参詣者のよき案内人となれるようにと考えております。
湯口(十九期)
鹿野山禅研究所臨済宗専門課程を修了して、早三年を経過しようとしている現在、如何に坐る時間をつくり坐るかを考えております。
坐り始めたころと今では、気持に変化が生じていることに気付きます。始めは、足の痛みで一しゅすら坐ることができなかったのが今は痛みに耐えながらも坐れるようになりました。この変化は、何だろうか。肚が据わって来たのだろうかと独りで勝手に考えている近頃であります。
臨済宗の専門道場への道は、年齢等から無理と思いつつ、同じ道を歩む人達のお手伝いをさせて頂ければ幸いと考え、接心会等に参加し、私なりの波羅蜜を実践していきたいと思っております。
坐禅への道を心の糧として、日々実践して行けば、体感できるものが観えてくるのではないかと思う昨今であります。
独り坐して 息のまま息のまま
谷(第二十期)
浄土宗コースを指導下さる河波先生私たち仏教塾第二十期浄土宗専門課程の卒業生十二名のうち、得度を希望した九名全員が昨年春、得度式を終え、うち八名が、来年十二月の加行・僧階資格取得に向け、修行しております。そのうち三名は、大正大学の大学院で、一名は仏教大学通信教育学部でさらに勉強しております。ひとえに塾の仲間同士の励ましあいと、河波昌先生による薫陶のおかげと感謝しております。先生は、博学を誇らず、見識は豊かで、接するだけで人格が陶冶されるような徳のある方で、浄土宗の素晴らしさを、科学の面から、哲学の面から、大乗仏教の面から分かり易く教示されます。このような機会を作って下さった仏教塾の皆様方に、感謝しております。
久保(二十期)
これからの人生をいかにして生きてゆくべきなのかと模索していた時に仏教塾に出会いました。現在は、天台宗の長福寿寺にて修行させて頂いております。
伝統仏教には、生まれた時から何のふれあいもなく、今でも、聞くもの、見るもの全て新鮮で未知との遭遇です。ましてや、天台の修行は厳しいものです。でも、学ばせて頂くにつれ、なにか心の中に温かさが広がってゆき、有り難さで胸がいっぱいになります。
昨年、塾の一泊研修の時、修行の基礎として法華経に説かれてあります五種法師の『受持、読、誦、解説、書写』のひとつである書写を写経という形で担当させて頂きました。お経の文字を一文字一文字、真心を込めて書かせて頂く、それは又、仏教との対話、自分自身との対話ができる時でもあり、止観そのものでもあります。終わったあとは、さわやかな清浄心を味わえます。 塾とのご縁がなければ、このような充実した人生を送れていなかったと思っています。
宇野(二十期)
写経の指導国際仏教塾を知ったのは仏教の専門誌「大法輪」の塾生募集がきっかけでした。
もともと日本の仏教に関心があり、何かのご縁があれば...と考えていたところでした。
大学在籍時、北海道のとある禅寺に一年生から卒業するまで、坐禅をしたり仏事に参加したりしていました。卒業後七、八年間は、お寺の仏事に参加していたが、二十九才の時大病をしたことがきっかけで六十三才迄ぴたりと縁がきれ、その間、さまざまな宗教に首をつっこんでいました。
ところが平成十九年四月から国際仏教塾の入門課程、専門課程で学んだお蔭で大学時代に自分で飛びこんだ禅宗(曹洞宗)が自分の膚にぴったりしていることを実感。平成二十年の九月には在家得度を受けさせていただきました。
今も日々小さな修行をさせて頂き、今日まで充実した生活を送らせて頂いていることに感謝しています。
梶川(二十一期)
専門課程修了後から半年たった昨年九月、仏弟子としての戒名を戴きました。
「仏弟子になるということは、帰依三宝という戒を命の底から師に誓うことだ」という導師のことばに、鳥肌が立つほど身の引き締まる思いを実感しました。
仏教塾の各師を通して学ばせて頂いたことで、自分がひとつ変わったことがあります。自分を推し量る物差しです。他人の目、自己の利得、不毛な期待など、従来ならその時々都合良く使い分けていた物差しが、仏弟子としてあるべき姿を尺度とした物差しへと変化しました。今更ながらですが、何が正しいことかを時々に意識するようにはなりました。しかしながら、その物差しは当然自らを測るものであり、日頃の行動、言動の実態は、仏弟子としての未熟さを思い知ることばかり。師にひたすら低頭する毎日です。
師の教えでもあり塾の仲間も実践している「一日一〇分でよいから坐禅をし、心を静める一時を大切にする」ということを忘れず修行を続けて行きたいと思っています。
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