「臨済禅の伝来と展開について」 第21期 濵
日本における禅は、法相宗を日本に伝えた道昭が日本への初伝であるとされ鎌倉時代以前にも禅が日本に伝わってはいたとされる。その後、来朝した道?が北宗禅を伝えた。道?は、天台、華厳にも通じ、その弟子である行表、さらにその弟子である最澄にも禅を伝える。臨済宗は、平安時代後期に天台宗の覚阿によって伝えられるが、覚阿は禅宗が流布するには時期早々とみて比叡山に隠棲したため、臨済宗が覚阿によって世に説かれることはなかった。最澄の開いた日本天台宗は、円・密・禅・戒の四宗融合の一つとして禅への関心は高かったが、その禅は、中国仏教の一端としてのものであり、日本における本格的な禅宗は鎌倉時代を待つことになる。
日本における禅宗の祖は、建仁寺の開山である明庵栄西が一般的に挙げられる。栄西は、二度目の入宋の時、臨済宗黄竜派を伝える第八世の禅匠である虚庵懐敞に出会い、在宋五年に大悟し、明庵という道名を授かる。帰朝後は日本初の禅寺である聖福寺を福岡に建立したのをはじめ、地方に数々の禅寺を建立する。このことが、比叡山の妬みを生み、朝廷からも禅宗停止の命を受けてしまう。『興禅護国論』を京に上り著して、比叡山に対して禅宗を説くがその弾圧は変わることなく、北条政子や源頼家の庇護を受け、鎌倉へ移り福寿寺を建立した。
臨済宗コースの教場となった鹿野山禅研修所兼修的な禅の宗風は、栄西の門下である釈円房栄朝や退耕行勇や、その弟子である円爾弁円や無本覚心らにも継承される。
覚心は、入宋して無門慧開の法嗣となってから、今の和歌山県西方寺を中心として臨済宗法燈派を発展させるが、その禅宗も、無門から受け継いだ宋朝禅ではなく、やはり栄西から継承された兼修的な禅風であった。しかし、覚心は、禅の公案集である『無門関』を宋から持ち帰ったことや中国僧に直接法嗣したことから栄西門流というよりも中国の禅宗を伝来させたという印象が強い。
円爾弁円は東福寺の開山となる。円爾は東福寺以外にも寿福寺や建仁寺の住職も兼任し、日本の東西において禅宗を広めることになる。門下の弟子には優れた僧が多く、東山湛照や無関普門などがある。
その後、蘭渓道隆、兀庵普寧、無学祖元らの中国僧が来朝することで、禅風が盛んになる。特に、日本の禅宗独立において中国禅林の厳しい修行形態を移入した蘭渓道隆の果たした役割は大きい。
蘭渓は南宋蜀に生まれ、無明慧性の元で大悟し、法嗣すると、安住の地を求めて京都へ来日し、建長元年に北条時頼の招きで鎌倉へ入る。時頼は、蘭渓を大船の常楽寺の開山とし、その後に建立した建長寺の開山とすると、宋代の禅院の規矩を延暦寺に移入し、鎌倉武士や学僧らに対して純粋禅による指導を始める。
蘭渓は、後嵯峨上皇の帰依を受けて建仁寺第十一世となると、未だ栄西の兼修道場としての色が強かった建仁寺にも、遠慮することなく移入し、純然な禅の専修道場とする。蘭渓は、亀山法皇より日本初の禅師号である大覚禅師という諡号を受けている。
無学祖元も北条時宗から帰依を受け、鎌倉、円覚寺の開山となり、その後も中国から多くの禅僧が来日することで北条家との関係を深めている。これにより鎌倉武士の多くが禅宗に帰依することで、臨済宗は禅宗として隆盛し、鎌倉や京都を中心にその勢力を広めていくことになる。
この時代に鎌倉に、建長寺を第一山とする五山が定められる。
南北朝、室町時代になると臨済宗は東の南浦紹明を祖とする大応派と西の夢窓疎石の率いる夢窓派をはじめとするいくつかの流派を形成していくことになる。夢窓疎石は、鎌倉の禅宗南禅寺の住職となる他、京都の天竜寺と祖国寺の開山となる。この時代になると、京都にも五山が定められ、さらにその下に十刹が定められ五山十刹となる。
鎌倉から京都へと政権が移る南北朝、室町時代になると足利将軍家が禅に帰依したことから禅の文化は大いに発展する。その範囲は、詩や文のような文学から、書や山水画、茶道や能楽、連歌などの芸能、庭園、建築のような技法が、禅の渡来とともに中国から伝えられ、今日まで伝わる日本独自の生活や美意識に影響を与えていくことになる。特に五山文学と呼ばれるこの時代の五山僧による文学、学問、思想は近世文化の源流になったとも言われている。
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