授業情報

第32期生第一回妙厳寺・南無道場修行感想文

日付:2019年10月10日

 日蓮宗妙厳寺における修行体験を通じて、受講生の皆様から、修行内容あるいはそれぞれ感じたこと・気づきなど様々な感想が寄せられました。その中の一部をご紹介させていただきます。



妙厳寺の八重桜
  A組 岩原 貞雄

 庭の八重桜はまだ見事な花を残していた。

 作務の前の僅かな時間、私はその気品あるピンクの花々を愛でながら、開講式で野坂住職がおっしゃった「季節が来れば花が咲く。そんな当たり前のことさえ、人の力ではできないのだ」という言葉を反芻していた。

 ふと見ると、その八重桜の幹には苔がびっしりと張り付いている。

『八重桜の幹が苔を生かしているのだ』

 そう思うと、自ら生きながら他を生かすという『利他』をこんな一本の樹ですらしているのだという感慨が胸にこみ上げた。

 もう一度花を観賞しようと目を上げた私の視界に、今度は大きな蜘蛛の巣が飛び込んできた。美しい花を連ねた枝の間に張られたその巣には、おどろおどろしい蜘蛛と巣にからめとられた何匹かの羽虫の死骸が揺れていた。

 美しい花を台無しにする光景だと思った。

 しかし、ふと全く別の感慨が湧き起こった。

 蜘蛛は自らが生きるため、当たり前にここに巣を張り、生きるために必要十分な虫の命を糧にしているのだ。そこにあるのは美醜を超えた生命の必然性のみだ、と......。

 八重桜の樹は、蜘蛛に生きる場を与え、羽虫は命を捨てることで蜘蛛を生かしている。

 この一本の古木の中だけでも、生と死が残酷と言ってもいいほどのつながりを持ち、樹はまるでそれを贖うかのように美しい花を咲かせている。

「ああ、ここにも生命の小宇宙があるんだなあ。これが命の連鎖ってことなんだろうな」

 何か大切なことを少し気づかせていただいた気がした瞬間、ふと空気の流れが止んで、甘い花の香り(桜餅の葉のような)が私の全身を包んだ。

 不思議な瞬間だった。ほんの一瞬のことだったが、八重桜にご褒美をもらった気がした。

 さて、私はこれからどう生きていくべきなのか。誰かのために何かができるのか、できないのか......正直言って今回の修行では迷いが深まるばかりでした。

 ただ、八重桜の樹に教えてもらったことは、これからの私にとって、何かの助けになる気がします。

合掌


唱題行に感じた亡き娘
  A組 大神 有子

 大多喜南無道場での修行の中で、最も心を動かされた体験は唱題行です。

 一日目。唱題行がどの様なものなのか分からず、ただ作法を追い、お題目を間違いなく唱えることに神経を配っていました。

 普段、同じ音節を復唱したり、大きな声を出すこともないので、息継ぎや喉の渇きも気になりました。それでも続けていくと、上半身の重心が下腹に降りていき、自然と力が抜け、深く呼吸ができるようになっていきました。同時に昨年事故で他界した、娘の遺影が目の前に浮かんでいるのに気が付きました。瞑目しているのにはっきりと遺影が見えるのです。思わず心の中で娘の名前を叫ぶと、行は深心行へ移っていました。

 二日目。行の流れは把握していたので、遠くでさえずる鶯の声や次第に暗くなっていく本堂の中と、反対に明るさを増していく蝋燭の炎を見つめる余裕がありました。

 「南無妙法蓮華経」と、自分の唱えるお題目が他のすべての人が唱えるお題目と融け合い、また強弱をもって繰り返される太鼓の音とも相まって、朗唱の波動の渦の中に、体が取り込まれていくような感覚を持ちました。

 「なぜ自分はここに居るのだろう。」

 「ああ。娘は仏になったのだ。」 と、素直に悟った瞬間でした。はらはらと涙があふれ、さらさらと長く頬を流れていきました。行を終えると体が暖かく、気持ちはすっきりとした高揚感に包まれていました。

 娘の死後、塗炭の苦しみ悲しみの中、現実を受け止められず貪るように読んだ本の中に一休禅師の言葉がありました。

 「死にはせぬ どこにも行かぬ ここに居る たずねはするな ものは云わぬぞ」

 生も死も超えて、ずっと永遠に、娘と共に過ごしたいと切に願いました。

合掌


法華の寺に学ぶ
  A組 村田 茂

 これまで、坐禅などの体験はあるが、寺院に宿泊して、いわば寺の見習い僧侶的な実体験ができるということで、期待に胸膨らませ妙厳寺の山門をくぐった。この三日間を通して思ったことは、当然なことではあるが決まった規律や作法に従う生活であるということである。遠い昔より仏教教団の中で確立された意味のあるものであり素晴らしい英知であると信じ、自己の恣意や決定など入る余地のないものと覚悟した。修行体験で最大の感動は何といっても浄心行から唱題行へ、さらに深心行と向かう夕方の修行である。夕闇せまる静寂の中、聴こえるのは唯一お題目だけ。太鼓に合わせてひたすら唱えていく。一同のお題目が本殿に溶け込み一体化していく不思議な感覚。私は、そこに妙な高揚感を感じていた。次に講話では、野坂住職や大熊学監両師より、それぞれ思いに残る言葉を受け止めた。野坂住職からは大曼荼羅本尊から導き出される仏教の重要な教えとして「一切衆生悉有仏性」という言葉を説明して頂いた。どんなものにも存在意義があり、かけがえのないものであるという。これには改めて考えさせられた。教師という立場で日々生徒の指導に当たっているが、時として「こいつはしょうがない奴だな」と決めつけてきたことがあった。この生徒が必ずや持っているであろう良さを見抜けない教師としての力量の狭さを教えられたからである。次に大熊学監からは「学ぶこころ」ということで我々がこれから学ぶ姿勢を示唆して頂いた。四弘誓願の解説では「衆生無辺誓願度」と最初に利他への願いを述べている。このことは、我々の学習や修行が自分のためだけでなく、常に他者へ思いを巡らす気持ちを持てということではないだろうか。今こそ、このような大乗仏教の思想や実践を学ぶ必要性を感じた。今後益々、修行意欲が高まる次第です。

合掌

 
「私」の融解
  A組 都 紫葵

 「私は木でもあり花でもあり、この肺を満たす空気でもある」。これは、私が静坐・唱題行中にふと感じたことである。今回の修行は様々な項目があったが、私は一日目の静坐・唱題行を経て大きく自身の何かが変わったような気がする。

 まず、半跏趺坐や手の置き場所等の講習があったが、その姿勢をとった時からもうリラックスして心が落ち着いた。その後、行が始まり場が静寂に包まれると、段々と「私」の境界が融けていくような不思議な感覚に陥った。その状態は非常に心地良かったのだが、不意に得も知れない恐怖を感じて「私」が収束したような心持ちになった。このままこの感覚に身を委ねるのが心底怖いと、そう思った。しばらく「私」の融解と「私」の収束がせめぎ合っていたが、そこでふと冒頭のように思ったのである。私は私であり私ではないのだと。そう思うと何故か非常に安心した。その状態で正唱行に入り『南無妙法蓮華経』と唱えていると、お題目の功徳に抱かれているような気がしてきた。それと共に、今思い返せば、それ以外何も考えられない、その状態すらも考えられていないという状態になっていたような気がする。その後深心行でまた「私」と向き合うことになったのだが、今度は融解する恐怖を感じることはなかった。

 修行を終えて今考えてみると、この「私」は、今までに積み重ねた固定観念や執着・偏見、自己中心性等の「我」だったのかもしれないと思う。例えば、私は日蓮宗に対して、授業で習った偏ったイメージを持っていた。また、元は釈尊が説いた教えなのに何故宗派が多数あるのか、そしてそのことは悪ではないか。他には、孝行と仏教の関連性がわからないが日本仏教は仏教と言えるのか等々仏教に関してだけでも数多くある。日常の細々した思考ではもっと多くあるだろう。今はもう列挙した例のように偏ったイメージはない。更に、他の参加者の方が、例で列挙した疑問を、私とは異なり純粋に疑問として聞いた。その解答で、疑問寄りの固執した考えはほどけた。これらは先生方の回答がわかりやすかったことも要因として多分にある。しかし、静坐・唱題行を行う前に聞いていたらきちんと聞けていたかどうかはわからない。凝り固まった「我」という厚い壁を通して聞いても何も聞こえてないのと同じ状態であったのではと思うからだ。

 今回の修行で、少し「私」という「我」の融解ができたが、愚かな私はまた「我」を形成し、「我」がほどかれることを今回同様に恐れるのだと思う。しかしそれを超えた時を今回の修行で少し体感したので、相も変わらず愚かだが、修行前の私とは愚かの方向性が違う愚か者になれたのではと思う。そして愚かなりに少しずつでも勉学に励もうと、そう思えた第一回修行体験であった。

合掌

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