授業情報

第31期生第二回修行・鹿野山禅研修所感想文

日付:2018年12月10日

 鹿野山禅青少年研修所における禅修行を体験して、受講生の皆様からは様々な感想が寄せられました。その中から一部を掲載させていただきます。

 
食と坐禅

A組 川口 雅子

 今回の修行のメインは食と坐禅に尽きる。作法は戸惑いの中、周りの人を見ながらの動であった。箸を落とさないよう歩いていく時から緊張し、座ってからは持鉢の音を立てない事や並べる位置を気にし、当番との呼吸を合わせての配膳を経てやっと食事が始まる。この頃には鉢の中の食物を睨み付けるような形相になっている。真に鉢の中で戦いが繰り広げられている気分になる。でも不思議なのは普段より皿数も少なく味も淡白なのに満足感があったことだ。何故だろうと考えて気付いたのは、今まで食器の中身をあんなに真剣に見つめながら食べた事があったであろうかということである。お米の一粒一粒が見えた。味噌汁の中のもやし、いんげん、キャベツの端やたくわんがどうしてこんなに薄く切れるのだろうなど、今まで自分で食事を作っていながら私は何を見ていたのだろうか。相手が見えていないのに感謝の心を持って扱っていたはずがない。何十年もの間、私は食物を粗末にしてきたなあと素直に受け入れることができた。
 坐禅はとても不思議な体験であった。坐り始めて時間が経つうちに頭の中が白霧になり、緑の竹の葉の一枚一枚がはっきり映像のように浮かんできた。耳に入ってくる音から脳の中で想像力が働いているのかなあと思いながら続けているうちにそれも無くなってきて何も無い。空間というものでもなく言葉に表現できるものでもないのだけれど、とにかく頭に何も無くなってしまい気が付くと終了の合図が鳴る。時間をワープした気分になり、しばらく何を聞いてもピンとこない。でも気分も肩こりも軽くなり身体も温かくなるから好きだった。

 今回の修行は体験する事の大切さを身を持って感じ取る事ができた。書物は再度読む事ができるが体験は、その時、その場所、その場面でしか味わえない楽しさがある。一時を大切にする事を改めて考えさせられた、私なりに充実したものであった。


初めての禅 

A組 重松 宏明

 一日目、初めて禅堂に入り、初めての禅の体験でした。この研修所は昭和五十一年開所とのことで、禅堂が建てられたのもその時期かと思いますが、中に入ると、時代を感じさせる雰囲気がありました。また、その日は風が禅堂を吹き抜け、風が梢を揺らす音、身体に感じる風圧、そして鳥の声と自然の中で坐禅をしている感じがあり、初めの体験としてはとても印象に残る坐禅でした。

 禅の方法について色々教えていただき、自分なりにやっていくうちに学監からお話のあった「工夫」という言葉が思い出されてきました。瞑想に入れたという実感はなかったのですが、それでも教えていただいたことを参考に、姿勢、呼吸を工夫しながら自分の身体の変化を観察するということを行っていると、教わったことはこういうことかとか、自分にはこれがあっているのではと、正しいとは言えないかもしれないが、自分の中の何かに気づいて来る感覚があり、二日目、三日目と段々に時間が気にならなくなりました。まだ終わらないかなという気持ちが湧かなくなり少し楽しさもありました。

 工夫と観察を繰り返している間は、瞑想状態とは言えないと思いますが、幾分かは集中している状態とも思えるので、その延長線上にいつか瞑想があると信じ、これを機に家でも工夫しながら坐禅に取り組みたいと思いました。


心と脳の戦い

B組 奥西 堅二

 静寂の中で深く呼吸をしながらただ座る。この質朴な行為には「心と脳の戦い」とも呼ぶべき自己にとっての壮大なドラマがある。まずは五感が冴える。雨音、羊の声、鳥の声や虫の羽音等、普段あまり意識する事のない音が聞こえてくる。湿った空気に土のにおいがする。暗かった堂内に明るさを感じる。

 程なく様々な考えが頭を巡る。無意識に頭が勝手に考え始めるのだ。考える内容は日常執着している事である。放っておくと執着は無限に思考の連鎖を繰り返してしまい、心を落ち着ける事ができなくなる。ここは意識的に思考を断ち切る必要がある。

 思考の連鎖を断ち切ると、脳が執着から解放され、あたかも自己が単なる空っぽの器に成った様に感じられる。空気を吸い込む度に外から自然が体の中を巡っていく。これを無心と呼ぶのだろう。緊張した脳が解放され、心が清々しく感じられる。

 ただ、この感覚も長くは続かない。間もなく脳は、再び勝手に考えを始める。周りの修行者が気になる。和尚の足音や警策を意識する。しかし、ここでもまた意識的に考えを止める。

 この坐禅体感は何かに似ている。そうだ、普段の生活そのものなのだ。私達は日常を忙しく暮らしており、脳は休まる事が無い。そんな中、入浴や用を足す時にほっと心が休まる瞬間がある。周囲の雑踏・刺激を離れた所だと心が休まる可能性が高まるのだ。これを意識して体感できるのが坐禅なのだ。

 第一回修行の際、作務は無心で行うという指導があった。第二回修行の初めに学監より「行住坐臥」全てが禅であるとの説明があった。確かに、思考の連鎖を断ち切ると、歩いている時でも心を休める事が出来る。「心と脳の戦い」を体験できたのが今回の修行における大きな収穫であった。


工夫をすること

B組 新里 真弓

 私が鹿野山禅道場での修行で一番印象に残ったことは、「工夫をする事」でした。道場内での心得の説明で、大熊学監より「禅の修行は常に工夫を求められる」とのお話がありました。

 歩く時や食事中は音を立ててはならず、音が出ないようにする工夫が必要でした。普段何気なく歩いたり、ご飯を食べたりしている時は、音を意識していないためか、歩いている時に昨日あった出来事を考えていたり、食事中もテレビを見ながら、ただ何となく食事をしていましたが、修行中は音が出ないようにするにはどうしたらいいのかを常に考えていました。

 また道場では、作法についても学びました。歩く時は"叉手当胸" をし、手をブラブラさせない事や、本堂や禅堂への出入りの仕方、食事の際の器の置き方やしまい方、食事の受け方や飯台看の作法などを教わりました。そして一つ一つの作法を思い出しながら、考えながら、また隣の人のやり方を真似しながら必死に行いました。そうやって一つ一つ自分自身の行いを考えながら行っていると、それ以外の事は何も考えられなくなっていました。しかし少しでも他の事に気持ちが向いてしまうと、皆のペースに遅れてしまったりミスをしてしまったりという事があり、自分自身では気を付けているつもりでも、まだまだ工夫が足りていない事を実感しました。

 今回の禅道場での修行を通じて、工夫をする事の大切さを学ばせていただきました。そしてそれによって常に「今」という一瞬一瞬の自己のあり方を認識させられました。一人一人が自分自身の行いに集中することで、大熊学監の講義で教わった「卒啄同時」となり、黙の修行へとつながっていくんだなと実感しました。


非日常と日常の境界で坐る

B組 吉川 克正

 二泊三日の修行体験を経て強く印象に残った事は、きわめて決まりごとの多い食事作法だった事は確かなのだが、非日常の体験という点においては、あの禅堂での坐禅に勝るものはなかったと感じている。

 私はこれまでいくつかのお寺で坐禅会に参加したり、マインドフルネスや上座部仏教の瞑想会にも参加したりしてきており、坐ることにそのものへの抵抗はあまりなかった。しかし、場所や雰囲気といった環境がもたらす効果は、自分の想像よりもずっと大きなものだったように思う。あの禅堂の仄暗さも、やや埃っぽい匂いも、鳥の鳴き声や木々の葉擦れの音も、外気の冷たさを直に伝えてくる風も、あの場で感じる事のできたあらゆる要素が、普段の生活とは大きく異なっていた。そんな環境下で坐った時の自分の息遣いもやはり非日常のもので、普段よりも時に煩く、時に静かに感じられた。家に帰ってきてからも同じように何度か坐ってみるのだが、あの時と同じ気分には至らなかった。禅堂での時間経過はとても緩やかでいて同時に終わってしまうと早くも感じた。鐘の音とともに我に返った瞬間に、自分がいつから坐っていたのか思い出せず、ずっと坐っていたかのような錯覚に陥る事すらあった。

 個人的に禅宗の修行体系が面白いのは、この時代にあって禅堂のように非日常の環境で修行を行うのと同時に、作務という日常生活そのものを修行とする考え方が両立している点にあると思う。願わくば、もうしばらくこの日常と非日常の境界で生活する機会を持ちたいと感じた二泊三日だった。

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