大乗仏教は、どういうふうにして起こったのか、大乗仏教の姿は実はどうなのか、世界の学会でもちゃんとした定説がないんです。歴史的にインド仏教の中でも大乗仏教というのはいったい何なのか、大乗の経典というのはいったい何をいおうとしているのか、本当にこれはブッダの説なのか、とかです。
大乗仏教が信仰されている国から来た留学生は、例えば「大乗経典はブッダが書いたんではありませんよ」っていうと「ええっ」て本当に驚きますね。いつ大乗経典がインドで生まれたか、これは紀元前後ですから、お釈迦様が亡くなって五百年ぐらいたってですから、お釈迦様が直接説いた教えだというふうには歴史的には当然いえないわけです。ただ、それがお釈迦様の教えとまったく別のものなのかというと、必ずしもそうとはいえません。
でも、すぐ変だなっていうふうに思われるんじゃないでしょうか。どうしてかというとブッダは自ら悟るために修行したわけですね。それを目標とする仏教の修行体系っていうのはすべて悟りに向かっていかないとまずいわけです。したがって、救いというのも、自己の悟りと結び付いてるわけです。
しかしながら、出家者が中心で、その出家者が自利であった。それを小乗仏教といって批判したのが新しい仏教の改革派、大乗だという言い方です。
それともう一つ特色があります。ブッダ入滅のあとに、いろいろな理由で仏教はさまざまな分派に分かれます。そういう分派した仏教こそが仏教思想の骨格を実は固めたんです。教団はどんどん発展して、ブッダ在世中に1200人とかに達していました。ブッダも「あなたたちは二人で行くな、一人で行け」っていうふうに、自分の弟子たちにいうんですね。「一人で行って、そして、バラモンの言葉を話すな。その地域の言葉を使って説法しなさい」とすすめます。
そのように弟子たちはブッダに代わってあっちこっちに移動しながら説法するわけです。ブッダの代わりですから、それなりの認可というのを弟子たちに与えなければいけない。初期の仏典を読んでみますと、その認可された最高の人を阿羅漢という言い方をするんです。この阿羅漢というのはやがて部派の仏教、そしてそれに続く大乗になると少し使い方が変わってきます。
わたしたちの情報っていうのは、ほとんど大乗側からの情報ですので、一方的なところがあります。もともとは、ブッダが自分たちの弟子を阿羅漢と呼び、自分の代わりとした。しかしその後の部派仏教では従来の仏教の伝統的な修行者、これを声聞と呼び、その中の最高の弟子を阿羅漢というふうに呼びました。僧院に住んで修行に励む人たち、自分の弟子たちも声聞ですね。
そして、そのような人たちとは別に単独で修行して、そして、悟りに向かうような人たち、あるいはそれを得た人たち、それを独覚、個々に悟る人と呼び区別しました。その声聞と独覚(縁覚ともいう)、ともに阿羅漢という聖者になることを最高の理想としていた。
大乗仏教はこの区別を踏まえて、さらに新しい修行者像を描くのです。
すなわち、革新仏教の信者たちはブッダを理想とした。そして、自らを菩薩と呼んだ。この菩薩っていう言葉も実は、いわゆる小乗仏教の中でも菩薩っていうのは使われているんです。
大乗仏教の始まったところっていうのは、パキスタンとか、ガンダーラ、アフガニスタンといわれます。特にそのガンダーラの地というのは、かつてはインドだったわけですね。そして、そちらの北西の方から大乗仏教は始まります。
この時代になって仏教の形態や思想は大きな変化を遂げるようになった。従来の伝統仏教では単数であったブッダ。ブッダはただ一人のお釈迦様だけです。ただ、ブッダは古い仏教聖典でブッダ自身の言葉でこのようにいうんですね。 「自分のたどってきた道は、これ自分がつくった道ではない。いにしえの聖者たちがたどってきた道を自分はそれを歩んでいく、その道は聖なる道なんだ。それはわたしが開発したのではない、ずうっと以前の聖者たちも同じような修行をして同じ悟りを悟った、わたしも、それを悟ったんだ」。
そして、非常に古い信仰としては、過去にもブッダが居た。それを過去仏っていいます。わたしはその第七番目だというような記述がありますし、はっきりと個性を持った名前として出てきます。しかし、やがて部派の仏教になるとブッダは単数ですね。同一の世界に複数出現することはありません。世界に登場するのは唯一人、ブッダです。最高の礼拝対象はブッダ一人です。お釈迦様以外は崇拝されてない。だから、その伝統をくんだ大乗以外の国々の仏教はブッダを一人としてのみ拝んでるんです。仏像を作ったのも基本的には、ほとんどこの思潮に対応します。大乗以前は仏像も普通は作らなかったんです。
そして、ブッダの代わりに何を拝んだかといいますと、ブッダの仏足石(足跡)、ブッダを象徴する宝輪、そして傘蓋、傘はその下に聖なる人が居るという象徴、あとは菩提樹、ブッダがそこに座って悟ったという菩提樹ですね。こういうものを描くだけで、ブッダそのものの姿は人間としては描かなかったんです。それはブッダへの崇拝というのが非常に高かったからですね。そのような仏教がずうっと続いていたんですね。今、世界中の仏教はほとんど釈迦牟尼仏の姿を描きますけれども、大乗仏教の特色というのは、人間の姿をした仏像の創造というところにもいえるかと思います。
大乗以前の仏教では釈迦牟尼仏がブッダになる前の存在を菩薩といっただけです。だから、釈迦牟尼仏は一人ですから菩薩も一人です。こういうような菩薩の使い方が、長いこと仏教徒に伝わっていました。こういうことだから、複数のブッダが考えられた時点で、複数の菩薩っていうのが生まれてくるんです。ブッダが複数になるっていうのは、大乗仏教の大きな特色でもあるわけですね。このような菩薩についての考え方が、さらに一般的になり、やがて菩提への心をおこした者であれば、それを菩薩というようになるわけです。
大乗仏教が成立したもう一つの理由として、仏塔があげられます。これは、皆さんもご存知と思いますけれども、この仏塔っていうのは、そもそもブッダの亡くなった後にその遺灰を八つに分けて、分骨して、それを聖地にしたという伝承があるわけです。この仏塔はやがてアショーカ王の時代になると、八万四千の仏塔っていうふうに描かれます。つまり、どんどんどんどん分散されるわけですね。この中に含まれるのは、ブッダの骨、あるいは、ブッダの遺物だけとは限らないんです。ブッダの弟子たちのものも、やがて含まれます。
しかし、ここで大事なことは、このストゥーパ(仏塔)っていうのは、単なる塔ではありません。今はないブッダの代わりに崇拝するという信仰がブッダの入滅以降、急速に広まります。そして、この仏塔の周辺は聖地になります。遺骨のようなさまざまなブッダにかかわるものを安置しますと、そこがまさに信仰のバックボーンなわけですね。
それが、どんどん大きくなって立派な礼拝対象の建造物になっていくわけです。今インドでわたしたちが見る八大仏蹟なんかは、ほんとに大きくレンガ造りにして造り替えたものです。これらの多くはアショーカ王の信仰がなせる技です。ここで大切なのが、生きたブッダの核心です。それは何かというと、ダルマすなわちブッダの教えとしての法です。ブッダとは目覚めた者という意味です。ブッダはダルマに目覚めた存在です。そうすると、ブッダをブッダにしたのは、法とか真理、これにほかならないわけです。
当時の書くものというのは紙はほとんど使いません。写本の素材はインドで採れるシュロみたいな葉っぱを、長方形に切って、文字を描いてそこに炭で塗ったりするんです。北インドの方は木の皮をやはり切って、そこに書きます。そういう物を、仏塔に安置したわけです。
こうして仏陀の教えが仏陀そのものというふうに見なされる。仏陀はダンマによって仏陀になったとすると、仏陀とは歴史的な仏陀でなくてもいいわけになります。肉体を持った歴史的な存在を、色身と言います。それに対してダルマ、すなわち教えからなる身、法からなる身体を法身、ほっしんと読みます。最初に、仏陀の身体をこのように二つに分けるようになるんです。そうすると、ここに安置されているのはまさにその仏陀の教えですから、ずっと仏陀が亡くなっても連続し得る、そういう普遍的な機能を与えるようになるわけですね。
この色身は歴史的に亡くなったかもしれないけれども、法としての身体、法からなる仏陀は、ずっとあり続けるという考え方ができてくるんです。これが大乗仏教の思想的な展開の大きな特色です。こうなると、いろいろな仏陀が出てくる要素が開けてくるわけです。ダルマの高みに至れば、その人は仏陀になると考えれば、その他の存在も皆同じような高みに至るとすれば、いろいろな仏陀が登場してもいいわけです。シャーカムニ以外の仏陀が、いろいろな性格を持った仏陀として登場し得るような可能性が、大乗仏教では開けてきたということなんです。
このサットヴァの一番の特色は何かというと、自分が悟りのために発心する、これが最も重要になります。この発心というときの、悟りへの強い情熱を持った求道心、それが菩提心を発すということです。菩提薩捶というのは、そういう悟りへの強い心をおこすこと、おこしている人、そういう存在です。
そして、元々はこのシャーキャムニブッダのみが一人、仏陀であったわけですから、ボサツはただ一人、シャーキャ・ボサツのみです。そのシャーキャ・ボサツが悟りたいっていう心をおこして、何度もいろいろな生まれかわり、死にかわりをしながら、やがてこういう名前の仏陀になったっていう伝承がインドに出来ていきます。ともかくもともと、この歴史性をもった菩薩という言い方が、最初の使い方だったわけです。だから、菩薩も一人、仏陀もたった一人だった。
しかし、先ほどいいましたように、仏陀はさまざまな存在があり得るんだ、さまざまな仏陀が存在し得るという可能性が、法身という考え方から展開いたします。そうすると、わたしたちのこの世界であるサハー(娑婆)っていう、苦しみの世界のことを中心に他方世界を考えるようになると、重層的な世界が開けます。地球以外にもいろいろな星雲があって、太陽系以外にもこの世界はいろいろありますね。大乗経典を読むと、そういう宇宙観が書いているんです。世界は一つではない。
こういうようなさまざまな他方世界を考えて、多くの仏陀のことを描くようになるんです。つまり娑婆世界にはかつて、釈迦という仏陀がいました。そして、ずっーと西方の極楽浄土がある。それはスッカーバティーと言います。スカっていうのは日本語と同じ、すかっとするという意味なんです。ですから、気持ちがいい国、安楽国と訳されもします。そこで説法をしてるのが、アーミダーバ、つまり阿弥陀仏です。一方、東方の浄瑠璃国にいる薬師仏とか、東方のアビラテイ(妙喜国)の阿閃仏とか、それぞれの仏陀にはそれぞれの国土が考えられているわけです。そこで釈迦牟尼仏が行ったようなそういう歴史的なことが、あちらこちらの世界でも当然あっていいわけだと考えるんです。そうすると、さまざまな世界には、さまざまな仏陀もおられる。さまざまな仏陀がいると、さまざまな菩薩がそこには当然いる。菩薩から仏陀になったのですから。このように考えると、仏陀がたくさんいると、その前の段階である菩薩もたくさんいるということになります。
今この現在で、この発菩提心っていうのを誰かがおこしたとしますね。悟りたいっていうことを心から願う。そうすると、やがていつかこの仏陀になる可能性を秘めた菩薩がやがて仏陀となり、その仏陀の説法によって新たな菩薩が生まれる。そういう命の連続が連綿と続いてゆくことになるわけです。例えばわたしも発菩提心をおこせば菩薩ですし、あなたも悟りたいと思って、そこで菩薩行を実践する、仏陀の世界に入ることを菩薩として実行してゆく。
そうすると、菩薩は、今この中に何人いてもいいってことになるじゃないですか。あなたも菩薩、私も菩薩、みんな菩薩だっていう考え方も、ここから生まれてくるわけです。そうすると、今こういうふうにしてわたしたちが生きてる世界に、さまざまな菩薩がいると、やがて将来にわたって、いろいろな仏陀になっていく。同時に、わたしたちのこの生きてる世界が、一つではなく、いろいろな世界にあることをさまざまに描くようになります。大乗ではこの他方世界を、三世十方世界と言います。いろいろな世界があって、そこにいろいろな仏陀がいて、説法してる。その説法を聞いて発心して、わたしも悟りたいという気持ちをおこす、これが発菩提心。これが次の時代の新しい菩薩、仏陀へつながっていくんだよってことになるわけですね。
こういうふうにして時間的にも空間的にも非常に広がりのある仏陀観・世界観を描くようになる。それが以前の仏教と大きな違いがあるということなんです。
プラジュニャーのプラっていうのは、皆さんが知ってる日本語で、プロペラとかプロフェッショナルとか言いますが、あれは強めなんです。ジュニャーってのは、これは智慧、知るっていう意味からつくられた言葉。それで全体で根本的な智慧とか、完全な智慧という意味となります。だから、普通の知恵じゃない、総合的に直観的にぱっと見通すような、そういう悟りに結び付く智慧のことがプラジュニャーです。これを音訳して、般若としたわけです。ですから、この般若っていうのは、経典のタイトルになっていますように、智慧を、悟りの智慧を説く経典群の名前なんですね。このような真実を見通す智慧は何かっていうと、あらゆるものを見通す在り方を意味します。この経典では、その対象世界を空っていうふうに表現してるんです。これも今までになかった大乗の特色でもあります。
〈インド系数字〉
『零の発見-数学の生い立ち』岩波新書、古田洋一より
この語、空とは、ゼロ(零)を意味します。このゼロを含む数字は、インドからアラビアに行ってそれがヨーロッパに伝わって、世界に広まっています。空というのは、このゼロのことです。確かに何もない、空っぽっていう意味ですが、これは無っていうふうに訳すとおかしいんです。ゼロはインド人が発明した偉大な発見ですね。それがあるために位取りができますし、数学も飛躍的に発展したわけですよね。
これは空っぽという意味ですけども、風船が、例えばぷーっと膨らんでその中に何もない、ああいうような状態でもありますし、例えばコップは空であるとか、この服は空であるとか、机は空であるとか、いうように「一切皆空」という言い方を、経典ではしばしば見受けられますよね。しかし、目の前にある机が空であるっていうのは、この机がないっていうことじゃない。だから無じゃないんです。あるんですよ、わたしたちはあると思って使ってるじゃないですか。だけど、この大乗の教えではですね、机は空であるっていうことを、詳しい説明もなくいうわけです。
机は空である。それは一体どういうことなんでしょうか。そのことをもう少し詳しく考えてみましょう。例えば、この家の中に、象さんはいませんね、象さんがいないっていうのを、この家の中に象が空であるという言い方をします。それは象という点で空だといってるだけで、この家そのものはあるわけです。この部屋はある、けれども象さんはいない。その場合、部屋と象は別物です。だけど「この机は空」というのは、言い方が違います。
そこで資料の「般若心経」の一節を読んでみましょう。「舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず。色即是空 空即是色。受想行識、またまたかくの如し。舎利子よ、この諸法は空の相なり。不生にして不滅、垢ならずして浄ならず、増ならずして減ならず。」
わたしたちが知っている般若心経の空に関する一節です。色は空に異ならないっていうわけでしょ。色というのは、これはこの机もそうですし、わたし自身もそうです。仏教では、あらゆる存在というのを、五つの要素に分けます。これを五蘊といいます。形や色彩も含めて、そういう物質的な要素のことを色といいいます。
だから、それ以外の要素を受、想、行、識とするわけです。つまり、受(感受作用)、想(表象をイメージする作用)、行(意志の作用)、そして識(認識の作用)、このような要素からわたしたち人間が成り立っているんだよ、というのが仏教の伝統的な考え方です。結局そういう五蘊、人間全体が、空なんだといってることにほかならないわけです。そして、色は空と異ならない、空も色と異ならない、主語と述語をまったく逆転させているだけですね。このようなものとして物の在り方というのを考えているわけです。
空とは空っぽの状態を意味するから、英語でempty、vacancyと訳されます。例えば車のガソリンが空っぽっていうような同じ意味で使われますね。ただし、この言葉は最初からそういう否定的な文脈で考えても分かりません。ガソリンがいっぱいある満杯の状態を想定して初めて、ガソリンがタンクにはないんだっていうことが意味を持つわけです。つまり充足した状態に対する否定概念です。最初から否定の中に生きてる人たちにとっては、まったくこのことは意味がありません。肯定があるから否定概念がここでやはり機能しているということですね。
タンクにガソリンが満杯の状態があって、それに対して空だというわけだから、タンクはガソリンという点で空であるということができます。つまり空なのは、ガソリンではなくてその入れ物だということです、入れ物とこれに対して目の前に咲いている赤いバラというのを想定してみてください。
この場合、机が空だとか、バラが空だといった場合に、この「バラが空っぽ」というふうに言い換えても、何のことか分かんないですね。ガソリンであったらタンクという容器がありますけども、バラにはその容器がないからです。じゃ、一体どうして経典ではこういう表現をたくさんいうのか。バラが空だ、バラが欠けてるっていうのはどういうことなのか。実はその容器とガソリンに当たるものがバラにはあります。それは何かっていうと、タンクが「バラ」であって、ガソリンが「バラであること」、「バラである性質」、つまりバラの本質です。バラをバラとする性質ということになりますね。タンクに満たされたガソリン、それが赤いバラの存在を充足するバラという性質だというわけです。
ここまで見てきますと、分かってくると思います。「五蘊が空である」という表現は、「五蘊という構成要素によって成り立っているものは空である」ということです。つまりそれは、五蘊によってつくられるものは、その固定的な存在性をなくすことを意味しています。さらにそれを論理的に説明をするようになると、「五蘊から作られたあるものは、その本質が欠けているから空なのだ」というように語られます。そういう、あるものの本質っていうのを想定しなければ、考えることはできなかったということですね。それを仏教では自性というわけです。
この般若経の言い方は、時計は空であるということからさらに発展して、時計は時計の本質という点が欠けている、だから空なんだよっていう言い方になります。「欠けているんだよ」というのは、「空だ」という意味です。つまり時計が空っぽというのは何かというと、あなたが時計だというふうに執着しているような、そういうようなものの本質は、執着しても駄目なんだということをいいたいんです。時計は時計の本質が空なんだっていうのは、このことなんです。
私達には「色は空である」なんていうのは、よく分かんないですよね。しかし、五蘊というようにいえば、これが全体だなっていうのは分かります。しかし、そういうものが空であるって言っても実感がない。だけど、時計の本質、時計の持ってる本質が空であるっていったらば、それは分かると思います。何にもないんじゃなくて、そのような本質の空虚なことを忘れちゃいかん。そして、そのように空としてあることが、もののありようなのだ、という構造が、色と空の二つの関係であらわされているのです。
悟りとは、解脱とは、修行とはこのようなものだという仏教の伝統的な考え方に対して、このままの考え方では、固定的になっていかんよ。悟りとはほんとにそうなのか。そのような固定化した教えで悟りは可能なのか、救いは達成されるのか、こういった批判を「空」の教えは含んでいるわけです。そこであらゆるものの根拠を見直し、初期の仏陀の精神を受け継いで、本当の仏陀に直結するような修行というのは、今までの煩悩を除去して、一定の修行を実践すれば、そこそこのレヴェルの境地に至るという発想を転回して、まさに発菩提心だけで、つまり菩提心をおこすということだけで、仏陀になり得るような、そういう修行の体系を言明するようになるんです。
発菩提心すれば悟りに至る。その時点で、それはもう悟りなんだというわけですよ。そんなことをいう仏教なんて今までなかったんです。だからそこに大きな発想の転換があったということなんです。今日私がお話した空という教えは、今までの固定的な仏教観を引っ繰り返す装置になったわけです。そういうような教えというのを、大乗仏教の核心である般若経系の経典では、空として説いたのです。
大乗仏教が信仰されている国から来た留学生は、例えば「大乗経典はブッダが書いたんではありませんよ」っていうと「ええっ」て本当に驚きますね。いつ大乗経典がインドで生まれたか、これは紀元前後ですから、お釈迦様が亡くなって五百年ぐらいたってですから、お釈迦様が直接説いた教えだというふうには歴史的には当然いえないわけです。ただ、それがお釈迦様の教えとまったく別のものなのかというと、必ずしもそうとはいえません。

大乗仏教とは
最初に分かるのは、大乗仏教は紀元前後から起こったインドの改革派の仏教だということ、そして、それ以前の仏教は出家者が中心であったのに対して、在家者が中心だということがよく書かれています。そのために出家者は自己の解脱を中心としている。つまり自らの利益のみを求めていると批判的に言われます。でも、すぐ変だなっていうふうに思われるんじゃないでしょうか。どうしてかというとブッダは自ら悟るために修行したわけですね。それを目標とする仏教の修行体系っていうのはすべて悟りに向かっていかないとまずいわけです。したがって、救いというのも、自己の悟りと結び付いてるわけです。
しかしながら、出家者が中心で、その出家者が自利であった。それを小乗仏教といって批判したのが新しい仏教の改革派、大乗だという言い方です。
それともう一つ特色があります。ブッダ入滅のあとに、いろいろな理由で仏教はさまざまな分派に分かれます。そういう分派した仏教こそが仏教思想の骨格を実は固めたんです。教団はどんどん発展して、ブッダ在世中に1200人とかに達していました。ブッダも「あなたたちは二人で行くな、一人で行け」っていうふうに、自分の弟子たちにいうんですね。「一人で行って、そして、バラモンの言葉を話すな。その地域の言葉を使って説法しなさい」とすすめます。
そのように弟子たちはブッダに代わってあっちこっちに移動しながら説法するわけです。ブッダの代わりですから、それなりの認可というのを弟子たちに与えなければいけない。初期の仏典を読んでみますと、その認可された最高の人を阿羅漢という言い方をするんです。この阿羅漢というのはやがて部派の仏教、そしてそれに続く大乗になると少し使い方が変わってきます。
わたしたちの情報っていうのは、ほとんど大乗側からの情報ですので、一方的なところがあります。もともとは、ブッダが自分たちの弟子を阿羅漢と呼び、自分の代わりとした。しかしその後の部派仏教では従来の仏教の伝統的な修行者、これを声聞と呼び、その中の最高の弟子を阿羅漢というふうに呼びました。僧院に住んで修行に励む人たち、自分の弟子たちも声聞ですね。
そして、そのような人たちとは別に単独で修行して、そして、悟りに向かうような人たち、あるいはそれを得た人たち、それを独覚、個々に悟る人と呼び区別しました。その声聞と独覚(縁覚ともいう)、ともに阿羅漢という聖者になることを最高の理想としていた。
大乗仏教はこの区別を踏まえて、さらに新しい修行者像を描くのです。
すなわち、革新仏教の信者たちはブッダを理想とした。そして、自らを菩薩と呼んだ。この菩薩っていう言葉も実は、いわゆる小乗仏教の中でも菩薩っていうのは使われているんです。
大乗仏教の始まったところっていうのは、パキスタンとか、ガンダーラ、アフガニスタンといわれます。特にそのガンダーラの地というのは、かつてはインドだったわけですね。そして、そちらの北西の方から大乗仏教は始まります。
この時代になって仏教の形態や思想は大きな変化を遂げるようになった。従来の伝統仏教では単数であったブッダ。ブッダはただ一人のお釈迦様だけです。ただ、ブッダは古い仏教聖典でブッダ自身の言葉でこのようにいうんですね。 「自分のたどってきた道は、これ自分がつくった道ではない。いにしえの聖者たちがたどってきた道を自分はそれを歩んでいく、その道は聖なる道なんだ。それはわたしが開発したのではない、ずうっと以前の聖者たちも同じような修行をして同じ悟りを悟った、わたしも、それを悟ったんだ」。
そして、非常に古い信仰としては、過去にもブッダが居た。それを過去仏っていいます。わたしはその第七番目だというような記述がありますし、はっきりと個性を持った名前として出てきます。しかし、やがて部派の仏教になるとブッダは単数ですね。同一の世界に複数出現することはありません。世界に登場するのは唯一人、ブッダです。最高の礼拝対象はブッダ一人です。お釈迦様以外は崇拝されてない。だから、その伝統をくんだ大乗以外の国々の仏教はブッダを一人としてのみ拝んでるんです。仏像を作ったのも基本的には、ほとんどこの思潮に対応します。大乗以前は仏像も普通は作らなかったんです。
そして、ブッダの代わりに何を拝んだかといいますと、ブッダの仏足石(足跡)、ブッダを象徴する宝輪、そして傘蓋、傘はその下に聖なる人が居るという象徴、あとは菩提樹、ブッダがそこに座って悟ったという菩提樹ですね。こういうものを描くだけで、ブッダそのものの姿は人間としては描かなかったんです。それはブッダへの崇拝というのが非常に高かったからですね。そのような仏教がずうっと続いていたんですね。今、世界中の仏教はほとんど釈迦牟尼仏の姿を描きますけれども、大乗仏教の特色というのは、人間の姿をした仏像の創造というところにもいえるかと思います。
大乗以前の仏教では釈迦牟尼仏がブッダになる前の存在を菩薩といっただけです。だから、釈迦牟尼仏は一人ですから菩薩も一人です。こういうような菩薩の使い方が、長いこと仏教徒に伝わっていました。こういうことだから、複数のブッダが考えられた時点で、複数の菩薩っていうのが生まれてくるんです。ブッダが複数になるっていうのは、大乗仏教の大きな特色でもあるわけですね。このような菩薩についての考え方が、さらに一般的になり、やがて菩提への心をおこした者であれば、それを菩薩というようになるわけです。
大乗仏教が成立したもう一つの理由として、仏塔があげられます。これは、皆さんもご存知と思いますけれども、この仏塔っていうのは、そもそもブッダの亡くなった後にその遺灰を八つに分けて、分骨して、それを聖地にしたという伝承があるわけです。この仏塔はやがてアショーカ王の時代になると、八万四千の仏塔っていうふうに描かれます。つまり、どんどんどんどん分散されるわけですね。この中に含まれるのは、ブッダの骨、あるいは、ブッダの遺物だけとは限らないんです。ブッダの弟子たちのものも、やがて含まれます。
しかし、ここで大事なことは、このストゥーパ(仏塔)っていうのは、単なる塔ではありません。今はないブッダの代わりに崇拝するという信仰がブッダの入滅以降、急速に広まります。そして、この仏塔の周辺は聖地になります。遺骨のようなさまざまなブッダにかかわるものを安置しますと、そこがまさに信仰のバックボーンなわけですね。
それが、どんどん大きくなって立派な礼拝対象の建造物になっていくわけです。今インドでわたしたちが見る八大仏蹟なんかは、ほんとに大きくレンガ造りにして造り替えたものです。これらの多くはアショーカ王の信仰がなせる技です。ここで大切なのが、生きたブッダの核心です。それは何かというと、ダルマすなわちブッダの教えとしての法です。ブッダとは目覚めた者という意味です。ブッダはダルマに目覚めた存在です。そうすると、ブッダをブッダにしたのは、法とか真理、これにほかならないわけです。
大乗経典
そうすると、仏塔の核心に収めるものは、これはブッダでなくてもいいわけですよ。ここに収められる核心はブッダの説いた教え、言葉です。書写された経典です。こうして大乗仏教になって初めて仏の教えを書くという作業が生まれるんです。それ以前の仏教徒はブッダの教えは書かなかった。大乗仏教の経典には初めて教えを書いて、そして、経巻のかたちにする、それを盛んに勧めるように述べられます。そして、他者にどんどんそれを説明しなさい、説きなさいっていうふうに言うようになります。当時の書くものというのは紙はほとんど使いません。写本の素材はインドで採れるシュロみたいな葉っぱを、長方形に切って、文字を描いてそこに炭で塗ったりするんです。北インドの方は木の皮をやはり切って、そこに書きます。そういう物を、仏塔に安置したわけです。
こうして仏陀の教えが仏陀そのものというふうに見なされる。仏陀はダンマによって仏陀になったとすると、仏陀とは歴史的な仏陀でなくてもいいわけになります。肉体を持った歴史的な存在を、色身と言います。それに対してダルマ、すなわち教えからなる身、法からなる身体を法身、ほっしんと読みます。最初に、仏陀の身体をこのように二つに分けるようになるんです。そうすると、ここに安置されているのはまさにその仏陀の教えですから、ずっと仏陀が亡くなっても連続し得る、そういう普遍的な機能を与えるようになるわけですね。
この色身は歴史的に亡くなったかもしれないけれども、法としての身体、法からなる仏陀は、ずっとあり続けるという考え方ができてくるんです。これが大乗仏教の思想的な展開の大きな特色です。こうなると、いろいろな仏陀が出てくる要素が開けてくるわけです。ダルマの高みに至れば、その人は仏陀になると考えれば、その他の存在も皆同じような高みに至るとすれば、いろいろな仏陀が登場してもいいわけです。シャーカムニ以外の仏陀が、いろいろな性格を持った仏陀として登場し得るような可能性が、大乗仏教では開けてきたということなんです。
大乗仏教の思想
シャーキャムニブッダは、シャーキャボサツという言い方をするんです。ボサツはボーデイ・サットヴァ(Bodhi sattva)の省略です。これを菩提薩捶と音訳したわけですね。これを漢訳で菩薩というふうに略していったわけです。Bodhi(ぼだい)というのは悟りという意味、sattva(サットヴァ)は、有情というふうに訳す場合もあるんです。「悟りを求める人、生きとし生けるもの」というような意味を持った言葉なんです。このサットヴァの一番の特色は何かというと、自分が悟りのために発心する、これが最も重要になります。この発心というときの、悟りへの強い情熱を持った求道心、それが菩提心を発すということです。菩提薩捶というのは、そういう悟りへの強い心をおこすこと、おこしている人、そういう存在です。
そして、元々はこのシャーキャムニブッダのみが一人、仏陀であったわけですから、ボサツはただ一人、シャーキャ・ボサツのみです。そのシャーキャ・ボサツが悟りたいっていう心をおこして、何度もいろいろな生まれかわり、死にかわりをしながら、やがてこういう名前の仏陀になったっていう伝承がインドに出来ていきます。ともかくもともと、この歴史性をもった菩薩という言い方が、最初の使い方だったわけです。だから、菩薩も一人、仏陀もたった一人だった。
しかし、先ほどいいましたように、仏陀はさまざまな存在があり得るんだ、さまざまな仏陀が存在し得るという可能性が、法身という考え方から展開いたします。そうすると、わたしたちのこの世界であるサハー(娑婆)っていう、苦しみの世界のことを中心に他方世界を考えるようになると、重層的な世界が開けます。地球以外にもいろいろな星雲があって、太陽系以外にもこの世界はいろいろありますね。大乗経典を読むと、そういう宇宙観が書いているんです。世界は一つではない。
こういうようなさまざまな他方世界を考えて、多くの仏陀のことを描くようになるんです。つまり娑婆世界にはかつて、釈迦という仏陀がいました。そして、ずっーと西方の極楽浄土がある。それはスッカーバティーと言います。スカっていうのは日本語と同じ、すかっとするという意味なんです。ですから、気持ちがいい国、安楽国と訳されもします。そこで説法をしてるのが、アーミダーバ、つまり阿弥陀仏です。一方、東方の浄瑠璃国にいる薬師仏とか、東方のアビラテイ(妙喜国)の阿閃仏とか、それぞれの仏陀にはそれぞれの国土が考えられているわけです。そこで釈迦牟尼仏が行ったようなそういう歴史的なことが、あちらこちらの世界でも当然あっていいわけだと考えるんです。そうすると、さまざまな世界には、さまざまな仏陀もおられる。さまざまな仏陀がいると、さまざまな菩薩がそこには当然いる。菩薩から仏陀になったのですから。このように考えると、仏陀がたくさんいると、その前の段階である菩薩もたくさんいるということになります。
今この現在で、この発菩提心っていうのを誰かがおこしたとしますね。悟りたいっていうことを心から願う。そうすると、やがていつかこの仏陀になる可能性を秘めた菩薩がやがて仏陀となり、その仏陀の説法によって新たな菩薩が生まれる。そういう命の連続が連綿と続いてゆくことになるわけです。例えばわたしも発菩提心をおこせば菩薩ですし、あなたも悟りたいと思って、そこで菩薩行を実践する、仏陀の世界に入ることを菩薩として実行してゆく。
そうすると、菩薩は、今この中に何人いてもいいってことになるじゃないですか。あなたも菩薩、私も菩薩、みんな菩薩だっていう考え方も、ここから生まれてくるわけです。そうすると、今こういうふうにしてわたしたちが生きてる世界に、さまざまな菩薩がいると、やがて将来にわたって、いろいろな仏陀になっていく。同時に、わたしたちのこの生きてる世界が、一つではなく、いろいろな世界にあることをさまざまに描くようになります。大乗ではこの他方世界を、三世十方世界と言います。いろいろな世界があって、そこにいろいろな仏陀がいて、説法してる。その説法を聞いて発心して、わたしも悟りたいという気持ちをおこす、これが発菩提心。これが次の時代の新しい菩薩、仏陀へつながっていくんだよってことになるわけですね。
こういうふうにして時間的にも空間的にも非常に広がりのある仏陀観・世界観を描くようになる。それが以前の仏教と大きな違いがあるということなんです。
空と般若心経
大乗仏教の一番初期の教義体系、教えというのを、はっきりと打ち出したのは、智慧の経典として知られる般若経です。般若っていうのは、サンスクリット語でプラジュニャーです。パーリ語ではパンニャーとなります。皆さん、日本語としてご存じですよね。あのおっかない顔してる般若。あれはパンニャーっていう口語で、智慧という意味なんですね。これは悟りの智慧のことです。般若の智慧というのは、初期仏教からずっと使われてきた言葉です。プラジュニャーのプラっていうのは、皆さんが知ってる日本語で、プロペラとかプロフェッショナルとか言いますが、あれは強めなんです。ジュニャーってのは、これは智慧、知るっていう意味からつくられた言葉。それで全体で根本的な智慧とか、完全な智慧という意味となります。だから、普通の知恵じゃない、総合的に直観的にぱっと見通すような、そういう悟りに結び付く智慧のことがプラジュニャーです。これを音訳して、般若としたわけです。ですから、この般若っていうのは、経典のタイトルになっていますように、智慧を、悟りの智慧を説く経典群の名前なんですね。このような真実を見通す智慧は何かっていうと、あらゆるものを見通す在り方を意味します。この経典では、その対象世界を空っていうふうに表現してるんです。これも今までになかった大乗の特色でもあります。
〈インド系数字〉『零の発見-数学の生い立ち』岩波新書、古田洋一より
この語、空とは、ゼロ(零)を意味します。このゼロを含む数字は、インドからアラビアに行ってそれがヨーロッパに伝わって、世界に広まっています。空というのは、このゼロのことです。確かに何もない、空っぽっていう意味ですが、これは無っていうふうに訳すとおかしいんです。ゼロはインド人が発明した偉大な発見ですね。それがあるために位取りができますし、数学も飛躍的に発展したわけですよね。
これは空っぽという意味ですけども、風船が、例えばぷーっと膨らんでその中に何もない、ああいうような状態でもありますし、例えばコップは空であるとか、この服は空であるとか、机は空であるとか、いうように「一切皆空」という言い方を、経典ではしばしば見受けられますよね。しかし、目の前にある机が空であるっていうのは、この机がないっていうことじゃない。だから無じゃないんです。あるんですよ、わたしたちはあると思って使ってるじゃないですか。だけど、この大乗の教えではですね、机は空であるっていうことを、詳しい説明もなくいうわけです。
机は空である。それは一体どういうことなんでしょうか。そのことをもう少し詳しく考えてみましょう。例えば、この家の中に、象さんはいませんね、象さんがいないっていうのを、この家の中に象が空であるという言い方をします。それは象という点で空だといってるだけで、この家そのものはあるわけです。この部屋はある、けれども象さんはいない。その場合、部屋と象は別物です。だけど「この机は空」というのは、言い方が違います。
そこで資料の「般若心経」の一節を読んでみましょう。「舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず。色即是空 空即是色。受想行識、またまたかくの如し。舎利子よ、この諸法は空の相なり。不生にして不滅、垢ならずして浄ならず、増ならずして減ならず。」
わたしたちが知っている般若心経の空に関する一節です。色は空に異ならないっていうわけでしょ。色というのは、これはこの机もそうですし、わたし自身もそうです。仏教では、あらゆる存在というのを、五つの要素に分けます。これを五蘊といいます。形や色彩も含めて、そういう物質的な要素のことを色といいいます。
だから、それ以外の要素を受、想、行、識とするわけです。つまり、受(感受作用)、想(表象をイメージする作用)、行(意志の作用)、そして識(認識の作用)、このような要素からわたしたち人間が成り立っているんだよ、というのが仏教の伝統的な考え方です。結局そういう五蘊、人間全体が、空なんだといってることにほかならないわけです。そして、色は空と異ならない、空も色と異ならない、主語と述語をまったく逆転させているだけですね。このようなものとして物の在り方というのを考えているわけです。
空とは空っぽの状態を意味するから、英語でempty、vacancyと訳されます。例えば車のガソリンが空っぽっていうような同じ意味で使われますね。ただし、この言葉は最初からそういう否定的な文脈で考えても分かりません。ガソリンがいっぱいある満杯の状態を想定して初めて、ガソリンがタンクにはないんだっていうことが意味を持つわけです。つまり充足した状態に対する否定概念です。最初から否定の中に生きてる人たちにとっては、まったくこのことは意味がありません。肯定があるから否定概念がここでやはり機能しているということですね。
タンクにガソリンが満杯の状態があって、それに対して空だというわけだから、タンクはガソリンという点で空であるということができます。つまり空なのは、ガソリンではなくてその入れ物だということです、入れ物とこれに対して目の前に咲いている赤いバラというのを想定してみてください。
この場合、机が空だとか、バラが空だといった場合に、この「バラが空っぽ」というふうに言い換えても、何のことか分かんないですね。ガソリンであったらタンクという容器がありますけども、バラにはその容器がないからです。じゃ、一体どうして経典ではこういう表現をたくさんいうのか。バラが空だ、バラが欠けてるっていうのはどういうことなのか。実はその容器とガソリンに当たるものがバラにはあります。それは何かっていうと、タンクが「バラ」であって、ガソリンが「バラであること」、「バラである性質」、つまりバラの本質です。バラをバラとする性質ということになりますね。タンクに満たされたガソリン、それが赤いバラの存在を充足するバラという性質だというわけです。
ここまで見てきますと、分かってくると思います。「五蘊が空である」という表現は、「五蘊という構成要素によって成り立っているものは空である」ということです。つまりそれは、五蘊によってつくられるものは、その固定的な存在性をなくすことを意味しています。さらにそれを論理的に説明をするようになると、「五蘊から作られたあるものは、その本質が欠けているから空なのだ」というように語られます。そういう、あるものの本質っていうのを想定しなければ、考えることはできなかったということですね。それを仏教では自性というわけです。
この般若経の言い方は、時計は空であるということからさらに発展して、時計は時計の本質という点が欠けている、だから空なんだよっていう言い方になります。「欠けているんだよ」というのは、「空だ」という意味です。つまり時計が空っぽというのは何かというと、あなたが時計だというふうに執着しているような、そういうようなものの本質は、執着しても駄目なんだということをいいたいんです。時計は時計の本質が空なんだっていうのは、このことなんです。
私達には「色は空である」なんていうのは、よく分かんないですよね。しかし、五蘊というようにいえば、これが全体だなっていうのは分かります。しかし、そういうものが空であるって言っても実感がない。だけど、時計の本質、時計の持ってる本質が空であるっていったらば、それは分かると思います。何にもないんじゃなくて、そのような本質の空虚なことを忘れちゃいかん。そして、そのように空としてあることが、もののありようなのだ、という構造が、色と空の二つの関係であらわされているのです。
悟りとは、解脱とは、修行とはこのようなものだという仏教の伝統的な考え方に対して、このままの考え方では、固定的になっていかんよ。悟りとはほんとにそうなのか。そのような固定化した教えで悟りは可能なのか、救いは達成されるのか、こういった批判を「空」の教えは含んでいるわけです。そこであらゆるものの根拠を見直し、初期の仏陀の精神を受け継いで、本当の仏陀に直結するような修行というのは、今までの煩悩を除去して、一定の修行を実践すれば、そこそこのレヴェルの境地に至るという発想を転回して、まさに発菩提心だけで、つまり菩提心をおこすということだけで、仏陀になり得るような、そういう修行の体系を言明するようになるんです。
発菩提心すれば悟りに至る。その時点で、それはもう悟りなんだというわけですよ。そんなことをいう仏教なんて今までなかったんです。だからそこに大きな発想の転換があったということなんです。今日私がお話した空という教えは、今までの固定的な仏教観を引っ繰り返す装置になったわけです。そういうような教えというのを、大乗仏教の核心である般若経系の経典では、空として説いたのです。
= 終わり =







