渡辺浩希先生

宗教概論(第22期スクーリング講義録 [ダイジェスト版])

2009年6月20日 第22期スクーリング講義録(ダイジェスト版)

宗教とは何か

 古今東西様々な学者、宗教者等々が様々な定義を宗教に対して与えてきておりますけれども、百人いれば百通りの定義があるという言われ方そのままの状況が今日も続いております。一つだけ有名な岸本英夫先生の定義を掲げておきます。「宗教とは、人間生活の究極的な意味を明らかにし、人間の問題の究極的な解決にかかわると人々によって信じられている営みを中心とした文化現象である。ただし、宗教には、その営みとの関連において、神観念や神聖性を伴う場合が多い。」例えば仏教でも、少なくとも原始仏教においては、超越的な、絶対的な存在を必ずしも言っていないと思われます。臨済玄義という中国の禅僧の『臨済録』という書物には「仏に逢うては仏を殺し」とありまして、いわゆる絶対者というものを積極的に否定する宗教というのも実際にあるわけです。

 それでは、いったい哲学とどこがどう違うのか。哲学自体の定義も極めて多様かつ複雑微妙なものがあります。明確に規定することは至難の業であるというしかありません。あるヨーロッパの宗教学者は、仏教を指して「あれは宗教ではない、哲学である」と言っています。インドにおいても仏陀の死後、いわゆる仏陀の神格化というものが起こり、そうなると絶対的な、超越的な存在というものがそこに見えてくるわけですが、原始仏教に関しては「あれは宗教ではない」いう言い方も可能になってくるのかなと思うわけです。

 いわゆる超越的な、絶対的なものを聖、日常的な世界における物事、考え方を俗というふうに分けて、聖に関わるものを宗教、俗に関わるものを哲学というふうな言い方はもちろん一つの言い方としては可能だとは思います。

 仏教の教えの一つに無記というものがありまして、これはすごい教えだというふうに思っておりますけれども、弟子が仏陀に対して、例えば世界は有限であるか無限であるか、霊魂は身体と同一か別離か等々のいわゆる形而上学的な質問をしたところ、それに対して仏陀はそういう質問自体無益にしてそれは涅槃に導くものでは決してないとして、回答しないことをもって回答に代えるということをしている。宗教とは何かということについて、哲学とどこがどう違うのかということについても、急いであまり厳密にぎちぎちとやろうとすることなく、いわば一旦棚上げして、先へ進んでいって、この仏教塾のプログラムを終えたというような時点で、例えば冒頭にありました岸本先生の宗教の定義を読み直して、そのときに今この定義を読んで皆さんが思った事柄、考えた事柄とどれだけどう違ってきているか、その違っている中身が皆さんのその間の成長を示しているというふうに私は考えたいと思っております。

宗教の類型

 宗教に関しては非常に様々な類型論というものが存在します。世界宗教と民族宗教というような分け方、あるいは一神教と多神教というような分け方、様々なものがあってそちらの方が類型論としては基本ではありますが、ここでは、これもまた有名な宗教社会学者の井門富二夫先生などが唱えられている類型論の一つをご紹介したいと思います。

(一)文化的宗教 文化的な枠組みとして存在している宗教。例えば初詣に行く、お盆やお彼岸になれば帰省をしてお墓参りをする。初詣に行ったその神社に何が誰がどんなものが神として祭られているか知らない。お墓参りに行く、法事に参加する、けれどもそのお寺の宗旨が何かよく知らない。それでも行くことは行く。いわゆる年中行事的なもの。そもそもの宗教的な意味合いというものが脱落、あるいは希薄化している、そういった類型を文化宗教というふうに名づけています。

(二)制度宗教 端的にいえば氏子制度であり檀家制度です。地域や家族といった制度に基づいて存在している宗教。神社であれば氏子区域という制度と一体化している。寺院であれば檀家、すなわち一種の家族制度によって支えられている。そういった観点で観た場合の類型を制度宗教というふうに名づけます。

(三)組織宗教 教祖を中心に新たに組織された宗教。多くの新宗教もここに含まれます。ある時期のある地域におけるという限定を付した方が正確かもしれない。例えば、いわゆる鎌倉仏教も初めは組織宗教であった。一人の開祖が現れてその人が中心に布教ということがなされていって、まさに組織宗教の形態から始まってそれが全国的に広まっていって、制度宗教、あるいは文化宗教的な側面を持つようにもなるということです。キリスト教にしてもジーザス・クライストが世に出て人々を引き連れて布教に歩いていた頃は組織宗教以外の何ものでもなくて、当時のユダヤ社会においてはカルト的な存在に過ぎなかった。ローマの帝政の初めの頃には大々的に弾圧も受けた。しかしいつの間にか国の教えとなってしまう。

(四)個人宗教 宗教に関する様々な書物、文学や芸術等々によって一人一人の心の内側において営まれる宗教をいいます。教団といったような集団的な、あるいは制度的な形態を持つものに束縛されるのは嫌だ。けれども自分なりの人生観、世界観といったものを求めたい。実際には、一人でやっていたものが二人、三人というふうに集まって勉強会のようなものからスタートして五人、十人、二十人となって、そこに一人のカリスマが現れたりすると途端に組織宗教に変貌したりもします。

(五)会員宗教 教団に入るわけでもなく、個人というわけでもない。例えばカルチャーセンターのようなもの、寺院などが行う文化講座のようなもの。文化講座は聞きに行くけれども檀家としては関わらない。いつでも参加できる、いつでも辞められる。個人宗教と組織宗教の中間のようなものといえるかもしれません。

宗教的行為とは何か

 例えば、一方にボランティア活動あるいはエコロジー運動としてのゴミ拾いがり、また宗教団体が神の国の実現の一貫としてやっているゴミ拾いもある。あるいはユニセフ募金と一食を捧げる運動。あるいは災害の現場で炊き出しをしたり様々な救援物資を提供したりする。日本にいるイスラーム教徒の人たちもそういう運動をし、それが新聞に取り上げられたりすることもありました。あるいは宗教には何ら関わりのないような近所のおばちゃんたちによる炊き出し、様々なものを思い浮かべることができるかと思います。それぞれ行動自体だけではそれが宗教的か否かというのは実はなかなか判別できない。

 一番大きいのは動機です。その行為をしている人が、内心何を思って行為をしているのか。地球温暖化防止のために植樹をしている人、神の国の実現を意識して植樹をしている人。行為自体を見れば植樹ということには変わりはなくとも、それをやっている人が内心で何を思っているかということによって宗教的か否かを分けるというふうに考えるのが常識というふうにされております。

 もう一つは結果です。実際にどのような結果が付随するかということがその行為が宗教的か否かを判別する基準の一つになるという考え方です。

 これらは、日本における政教分離に関わる裁判における目的効果基準というものにパラレルに関わってきます。動機が目的、効果が結果ということになりますが、例えば小泉元首相が靖国を参拝した、それが憲法に違反するか否かということが争われたときに、その目的意識を、まあ何回か行っているわけですが、そのうち一回は初詣の形をとって行っている。初詣はみんなするだろう。だから宗教的な目的意識は極めて希薄なんだと。だから憲法に違反しないという議論を展開することは可能ではあります。一方で、小泉元首相の靖国参拝を違憲だとした高裁判決もあるわけです。

日本人の宗教意識

熱心に聞き入る塾生の皆さん
 ある一定の地域における信者数カウントの仕方には大別二通りあって、一つは「教団に聞く。」宗教団体に対して「あなたのところには信者さん何人いますか」と聞いて、返ってきた答えを足し上げています。

 もう一つは「個人に聞く。」インドのように国勢調査のときに個人が信奉、所属する宗教を国民全員に聞いてしまう国もあることはありますが、多くの場合サンプリング調査ということになります。

 日本ではいずれの方法による調査も実際にあって、「団体に聞く」方の調査としては、私ども文化庁が毎年行っていて『宗教年鑑』という形で出版しているものがあります。「個人に聞く」の方は、統計数理研究所であるとか、読売新聞であるとか、あるいはNHKの関連の機関とかが何年か毎に行っている調査があります。

 この「教団に聞く」という方法で日本の信者数をカウントすると、合計が二億を超えます。日本の人口が一億二~三千万くらいにも関わらず、日本の信者数が二億を超えるんです。それから、「あなたは何か宗教を信仰してますか」と「個人に聞く」と、「はい」と答える人が大体二割から三割。残りの七~八割は何の宗教も持ってない。いったいどういうことなのでしょうか。

 読売新聞のこの平成二〇年の調査では、「初詣には行きますか」「お墓参りには行きますか」という質問を同時にしていて、大体七割から八割くらいの人が「はい」と答えています。実際に、多くの日本人が初詣をし、お墓参りをしています。一人の人が両方やっています。いまだに多くの日本人が氏子として檀家として神社や寺院の信者名簿に載っています。教団からすれば、氏子をやっていて、同時に一人の人間が檀家をやっていて、何かあれば参拝に来る、お墓参りに来る、お金も出してくれる。これを信者としないわけにはいかないです。初詣に行った人、七五三やった人、新しく車を買ってお祓いをしてもらった人、あるいはお墓参り行った人、法事に参加した人をつかまえて、「今あなた初詣に行きましたよね。神道の信者さんですよね」と聞く、「お墓参りに行きましたよね。仏教の何々宗の信者さんですよね」と聞く。聞かれた人は「え、いや、私は特に何も信じてません」と答える人が七割から八割。そういうことです。

 神道系が約一億、仏教系が大雑把にいって約一億。足し合わせると二億を超える。けれども個人に聞くと二割から三割ぐらいの人しか「私は宗教を持ってる」と答えない。これが二億と二割、三割を説明するおよその答えになります。これの二つの数字ともが、そういう日本人の心持ちのあり方、行動の仕方、実際の行動のありようをうまく説明することのできる重要な数字ということになります。

 例えば、これは四年前の前回の読売新聞の調査ですが、仏壇と神棚の両方が家の一つの空間に置かれていること、あるいは信者でもないのに初詣に行くこと、クリスチャンでもないのにクリスマスを祝うことを特に何とも思わないという人が、八十%から九十%以上います。おおらかといえばおおらかといえるかもしれません。また例えば、イスラームのような排他的な一神教を信仰している人からすれば、極めて奇妙というか、無節操というふうに当然映ると思います。一つの家族が初詣に行き、節分をやり、お盆をやり、クリスマスを祝う。それを変なことだとも何とも思わない人が圧倒的に多い。それが日本の今の現実。それは知っておいていただきたいと思います。

 同じ四年前の読売新聞の調査の中にあった事柄ですが、「あなたはこれまでに神や仏にすがりたいと思ったことがありますか」という質問に対して、「ある」が五十三・九%、「ない」が四十四・二%です。ある宗教学者が紹介している話ですが、例えば、兜町で株価が下がれば近くの神社に詣でる人が増えるそうです。いわゆる現世利益、困った時に何か、絶対的な、超越的なものにすがりたいと思う。受験を前にした学生さんがお札をもらいに行くような、絵馬を掛けに行くような行為もそういうようなものの一部と考えてよいと思います。

 さて、一方で、スピリチュアリティいうことが、世界的に、ここ十年、二十年の間、非常に需要が高まっている、そういう方向性を持つ人が増えているというふうにいわれております。例えば、「オーラの泉」というテレビ番組が、最初は深夜枠だったのがゴールデンに進出して、視聴率を稼ぎ続けている。本を出せばかなりの売れ行きを示す。そういうものを求める気持ちというものが少なからず日本人の中にある。そういう時代でもある、ということも同時に知っておいていただきたいことだと思います。

宗教は必要か

 このような日本の宗教事情を踏まえて、もう少し広く世界的な視点から、人類にとって宗教は必要か否かといったような問題に少し迫ってみたいと思います。

 昔は、宗教というものは、教育であるとか、福祉であるとか、医療であるとか、芸術であるとかの様々な分野において指導的な役割を担っていた。これは日本においても、世界的に見ても同様です。そういった役割を、現在は国であるとか、地方公共団体等の団体が行うようになってきています。私立の学校の中には宗教系の学校もたくさんありますけれども、同時に、公的な機関においては、憲法の政教分離の規定に基づいて、いわゆる特定の宗教教育は行ってはならないことになっています。

 近代化とか、合理化、都市化という社会の大きな流れの中で、科学的な知見というものが広く、深く浸透していく。それまでの伝統的な、宗教的な世界観、宇宙観などが信頼を失っていく。創造説を、ダーウィンの進化論と一緒に、公的な学校でも教えなきゃいけないという運動をしている人がある一方で、その息子、娘たちは「今どきそんな創造説なんて」と鼻で笑っているというような状況が同時にあったりするわけです。そういう中で、宗教団体の権威が失墜していく。それまで担っていた社会的な様々な側面における活動、先ほど申し上げた教育、福祉、医療、芸術等々のフィールドにおける活動に関しても、かなりの部分が公的な、自律的な団体によって奪い去られた。初詣やお墓参りでの様々な行事に参加することについても、もともとの宗教的な意味合いは失われ、一つの習俗、慣習として残りはするけれども、ある意味、神の存在などは見向きもされなくなる。

 そういう状況が進展しいく中で、結局、純粋に宗教的なものというのは消えていかざるを得ない、科学的な知見がますます広く深く浸透していくにしたがって、合理化、近代化ということが進展していくにしたがって、宗教というものは結局なくなっちゃうんじゃないかということが、世界的に、一九六〇年代に多くの宗教学者によって唱えられました。

 これに対して、トーマス・ルックマンという学者が「見えない宗教」ということを唱えます。目に見える宗教活動は確かに社会の表面から消えていくかも知れない、社会が宗教性を脱却していく、いわゆる近代化、世俗化ということがそれはそれで進むかもしれないけれども、それがどれほど進もうとも、人間が人間であるからには、やはり何らかの人生観やら世界観といったものを求めいこうとするものではないか。ここで最初に申し上げた宗教の定義を思い出しながら聞いてみてください。それまでの伝統的な宗教的価値観といったものが失われていく、あるいは科学的な知見によって否定されていく中で、それでも人間というものは、個人的に、私的に、自分のよるべき世界観、自分のアイデンティティ、究極的な価値観といったものを求める存在であるということもできようかと思います。

 そういうものを求める営みを宗教というのであれば、それは確かに社会の表面からは、役割が薄れていって、見えにくくはなるかもしれないけれども、個人の内面において営まれてはいく、見えない宗教としては残っていく。世俗化というのは教団としての宗教から個人の宗教への変化であるというふうな見方も出て来るわけです。

 一九六〇年代の前後くらいから特に、世界各地の様々な世論調査において、先ほど申し上げたような人々の宗教離れの傾向が指摘され、六十年代の半ば頃には世俗化と宗教の衰退ということが、多くの人が認める事実と受け止められるようになっていきます。ところが、同時に、あるいは少し遅れて、いわゆるカルトであるとか原理主義といった現象が世界的に耳目を集めるようになってきます。アメリカにおいては、その六十年代に服装や音楽、政治意識や道徳といったものが若者の間で大きく変化していく。カルトといわれるような様々な新しい宗教グループが生まれ、そういうものにアメリカの青年や、ヨーロッパの青年なども今なお多く惹きつけられていますが、多くの若者がそこに参加するようになっていきます。

 一九七〇年代も後半になれば、今度は世界的に、いわゆる宗教回帰の傾向が認められるようになります。政治的にも文化的にも、宗教というものが世界各地で強い影響力を示すようになる。例えば、前のブッシュ政権などは、いわゆるネオコンといった人々、と同時にメガチャーチ、巨大教会といった、いわゆるペンテコスタリズム的な人たち、キリスト教の一つの流れですけれども、が大きく後押しをしてブッシュ政権が成り立っていたというのも一つの事実です。そういうふうに宗教が公的な場面で、結構大きな役割を、かえって果たすようになっていく。こういったカルトであるとか原理主義的な動き、先ほど公的な学校においても進化論と同時に創造説、神が宇宙を創り、地球を創り、人を創ったのだということをちゃんと教えなきゃいけないっていうことが普通にまかり通ってしまう、そういう状況を、ある宗教学者は宗教の復讐というふうに表現をしました。

 それを宗教であると呼び得るかどうかは一旦置くとしても、現世利益的なものを求める行為であるとか、超越的なものにすがりたい、そういう気持ちはなくなるどころではなくて、人によってはますます強くなっている。一方でスピリチュアリティ的なものが社会に横溢する。これは日本だけでなく、世界的な動向として指摘されてきています。宗教は嫌いだけれどもスピリチュアリティには興味を持つ、そういう人も多々あります。その場合の宗教は教団的な、伝統的な、あるいは制度的な宗教を、具体的には意味している場合も多かろうと思います。つまり制度的な宗教には疑問がある反面で、霊的なもの、スピリチュアル的なものには関心が高いという人が世界的に増えつつある、そういう流れがあることも、様々な調査結果から明らかになっています。これは日本だけでなく、世界的な動向です。

 一昔前には、宗教をやるようになる理由、入信動機として貧、病、争ということがよくいわれました。貧困、病気、人間関係の争いです。ある意味直接的に現世利益的な側面もありますが、ある程度は科学的な知見であったり、あるいは公的な、世俗的な機関などによって解決される面も、もちろんあります。ですけれども、それ自体は今日においてもなくなっているものではない。貧困や争い、病気というものが地球上から、あるいは人間の間からなくなったという話は聞いたことがない。そういう中で、そういうものの解決を望むのも同時に人間であり、自分なりの価値観なり、アイデンティティなりといったものを追求していく、まさしく究極的な意味を求め、究極的な解決を求める営みというものは、やむことはないだろうとも思われます。それは、私たち一人一人が、人として如何により良く生きていくかという、人間の本質に関わる問題であり、そしてそれは、仏陀が八正道の教えなどを通じて語ろうとしたことではなかったかと思います。

人間という不思議な存在

 最後に、信じる者は救われるというお話を少ししたいと思います。これは、一昨年の秋、紀元会という宗教法人の事件が世間を騒がせましたが、この紀元会が、紀元水という、科学的な分析によれば何の変哲もないただの水を、教祖が「これを飲めば万病が治る」「医者に行く必要がない」といって信者などに高く売りつけて大儲けをしていたということです。報道によれば、ある八十二歳の直腸がんと診断された男性が、「手術するな」という教祖の言葉を信じ、その水を毎日体に塗り、飲みもしたところ、便に混じった血の塊が十日前後でなくなり、下腹の痛みも消えた。それから病院には行っておらず、今も元気でいるというのです。治らなかった人ももちろんいます。

 医学の場面でプラシーボ効果といわれているものがあります。信頼しているお医者さんに「この薬が効きますよ」といわれて飲む。それがたとえ小麦粉の塊であっても、あらゆる医者が見離したようながんが治ってしまうことがあるそうです。長いこと世界各地で様々な事例が報告され、真剣に世界の最先端で研究されています。治らない人の方が多いとは思いますが、何人かの人は本当に治っちゃうそうです。

 極めて不思議な話ですが、治った人は幸せですよね。その人にとってはそれで良かったのだと、もしかしたらいえるのかもしれない。実は、高い壷を売りつけられた人でもそうです。その人は、本当に幸せに死んでいくことができるのかもしれません。

 プラシーボ効果というものについてもっともっと研究が進んで、信頼している人から、それが小麦粉の塊であろうと、それをもらったことによって、あるいは脳内物質で何らかの物質が分泌されるとか、何らか特定のホルモンバランスの状態になって、それによってがんが治ることがあり得るということが、本当の意味で科学的に証明される日がくるかもしれません。

21世紀の日本の仏教者へ

 例えば、キリスト教を始めたジーザス・クライストも、仏教の開祖であるゴータマ・シッダールタも、あるいは鎌倉仏教の祖師たちも知らないような、想像もしなかったような社会に皆さんは生きていて、二十一世紀のこの社会を生きている日本人として、既に皆さんはそれぞれ何らかの程度仏教というものを選び取っていると思われるわけですが、なればこそ、二十一世紀を生きる日本の仏教者として、同時に世界市民の一人として、二十一世紀の日本国民の一人として、視野を狭くすることなく、より広くより深く、諸宗教、宗教だけでなく社会全体、世界全体を見ていって欲しい。宗派とか宗教とかを超えて、様々な人と、老若男女、語り合い、今の、仏陀もまったく予想もしなかったような社会の中で、皆さん一人一人が、皆さん一人一人にとっての仏道を、悩みながら歩まれていっていただきたいというふうに思うわけであります。

= 終わり =

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