渡辺浩希先生

宗教概論(第21期スクーリング講義録 [ダイジェスト版])

2008年6月20日 第21期スクーリング講義録(ダイジェスト版)

宗教とは何か

 一口に宗教といいますけれども、古今東西さまざまな学者、宗教者、文学者などがさまざまな定義をしてきており、百人いれば百の定義があるという状態が今日まで続いています。その中から、ここでは、岸本英夫先生の定義を挙げておきます。「宗教とは、人間生活の究極的な意味を明らかにし、人間の問題の究極的な解決にかかわると人々によって信じられている営みを中心とした文化現象である。ただし、宗教には、その営みとの関連において、神観念や神聖性を伴う場合が多い。」

 皆さん、宗教あるいは仏教にたいする思いの度合いや既に勉強されている度合いもいろいろでしょうし、さまざまなご経験をご自身の人生の中で積み重ねてこられていると思いますが、そういうものを踏まえた上で、この定義を読んで何を思い、どう感じるでしょうか。何だか分かったようで分からないような、ここはちょっと違うんじゃないか等々、いろいろな思い、考えをお持ちかと思います。今のそのお気持ちやお考えを是非覚えておいてください。半年後、一年後、二年後にあらためてこの定義を見て、感じること、考えること、その差が皆さんの成長になる、仏道の修行の一齣になるんだろうと私は思っています。

 この定義において核心となるのは、人間の問題を究極的に解決してくれる、それを求めていく営みということになります。それがどういうことかというのは、敢えてここでは申し上げません。皆さんで考えてください。答えのヒントは、この後に少しずつ、出てきます。

 この定義の核心がそうだとして、それでは、よく比較されるといいますか並べて考え合わされることの多いものとして哲学というものがありますが、宗教と哲学はどこが違うのか、どこで線が引けるのか、結論から申しますと、引けません。そもそも宗教の定義が百人いれば百あるわけです。哲学という言葉もまた、哲学とは何ぞやといったときに、答えはあってないようなものではないでしょうか。その二つを比べて、どこで線が引けるのか、これは至難の業です。

 必ずしも超越的な存在を語らない原始仏教を特に意識してか、あるヨーロッパの仏教学者は、「仏教は宗教ではなく哲学である」と言い切っています。仏教も時代を経てさまざまに展開をしていきます。日本では、鎌倉時代に法然、親鸞が出て、浄土宗系が形成されていく。そこでは「弥陀一仏」ということが強調されます。これは宗教改革で有名なルターの神と非常に似通っているという宗教学者もいて、そうなると、「仏教は哲学である」というふうに言い切るのもかなり難しくなろうかと思います。

 聖なるもの、あるいは超越的なものを宗教といい、俗的なものを哲学という、一応こういう区別を設けることも可能かと思いますが、いずれにせよ、それぞれが微妙な問題を抱えています。

 仏教には「無記」という教えがあります。ある弟子が、お釈迦様に向かって、「世界は有限か無限か」とか、「霊魂と身体は同一か別異か」などの質問を投げ掛けた。それに対してお釈迦様は、そういうことに関して問答することは無益であって、涅槃に導かないとして、回答しないことをもって回答とした。これはある意味、ものすごく深い教えだというふうに、私自身思います。例えば宗教とは何かとか、宗教と哲学の間に線は引けるのかといったような問題は、いったん棚上げにしておかないと、いつまでもそこに留まっていると、先へ進めなくなってしまう。今ここで、岸本英夫先生の定義を読んだ、哲学とはどう違うのかっていうような話を私から聞いた。今皆さんが感じ、思い、考えていることを覚えておいていただいて、カリキュラムが進んでいった先々において思い返してみて、当時の自分とどれだけ思いや考えが違ってきているか、あるいは違っていないかを自分で見つめ直す、そういうこともしていただければと思います。

宗教の類型

 世界宗教と民族宗教、あるいは一神教と多神教、さまざまな分類方法、類型論が宗教に関してもあります。ここでは宗教社会学の井門富二夫先生などが唱えられている類型論をお話ししたいと思います。

(1)文化宗教 いわゆる文化的な枠組みとして存在している宗教をいいます。例えば初詣に行く、お盆になれば帰省をしてお墓参りに行く、日本人全体を見渡してみたときに、初詣に行くけれどもその神社にどんな神が祭られているか知らない。檀家として、あるいはその縁者として、さまざまな機会にお墓参りに行く、場合によってはそこでお坊さんの講話なり法話なりを聞く、でも、そのお寺のご本尊が何かは知らない、そのお寺の宗旨を知らない。もともとは宗教的な意味合いを持っていた儀礼行為ではありながら、その意味合いは希薄になって、慣習的なものとして残っている、年中行事的に人々が行う行動様式、これを文化宗教といいます。

(2)制度宗教 日本の場合、端的にいえば、氏子制度、檀家制度、これが制度宗教です。地域であるとか、あるいは家族といったような、ある意味、制度に基づいて存在している宗教です。神社でいえば、氏子区域という地域と一体化している、檀家、 すなわち家族制度に支えられている寺院、そういう存在をいいます。

 (3)組織宗教 これは、教祖を中心に新たに組織された宗教です。多くの場合、新宗教がこれにあたります。例えばジーザス・クライストが新しい教えを説き始めた、今でこそ世界で一番多くの信者を集めている宗教となり、いろいろな面で組織化されて制度宗教の側面も持って、さらに文化宗教の側面も持つ宗教になっていますけれども、当時のユダヤ世界においては、彼が率いた集団は新興宗教団体です。その当時は組織宗教でした。

(4)個人宗教 宗教書、文学、あるいは芸術等によって個人の内心において営まれる宗教をいいます。教団、グループ的なもの、あるいはそれに類するものに束縛されるのは嫌だ。けれども、自分なりの人生観、世界観などなどというものは求めたい。自分一人、何か書物を読んだり、旅をしたり、芸術に打ち込んだり、そういうありようを個人宗教というふうにカテゴライズします。一人でやっていたものが何となく仲間ができてグループになって、そこに一人のカリスマが現われたりすると、途端に組織宗教に変貌したりもします。

(5)会員宗教 教団に入るわけでもない、個人というわけでもない、例えばカルチャーセンターだとか、あるいはお寺さんなどが行う会員制の文化講座などです。いつでも参加したいときに参加できる、やめたいときにやめることができる、 そういうものをいいます。

宗教的な行為とは

 ある人が何らかの行為をしたときに、それが宗教的か否かを判断する基準についてお話をします。

 例えばごみ拾いをする、植樹活動をする、さまざまな募金の類、あるいは災害の現場での救援活動、炊き出しなどもありますが、ごみ拾い一つをとっても、ある人は宗教云々とは全く関係なく、ボランティア活動として、あるいはエコロジー運動の一環としてごみ拾いをしているかもしれない。一方で神の国の実現の一環としてごみ拾いをしている人もいるかもしれない。

 行動それ自体を一見するだけでは、その行為が宗教的か否かを判断するのは、実際なかなか難しいものがあります。宗教学的には、動機と結果、特に動機を重視して判断をするということになっています。動機あるいは目的意識、その行為をしている人が、内心、何を思ってその行為をしているか、それによってその行為が宗教的であるか否かを判断する。もう一つは結果です。ごみ拾いを続けていって、それが本当に神の国の実現になるのかどうかはさておき、どのような結果が附随しているかということが、宗教的か否かを判断する一つの基準になると考えます。

 政教分離にかかわる裁判においていわれる目的効果基準というものも、これと似通った考えであろうかと思います。動機が目的、結果が効果というように、言葉は違っておりますが、基本的な考えかたは共通していると思います。

日本人の宗教意識

 ある社会集団において、そこに宗教の信者が何人いるか、信者数をカウントする、そのときの調査方法に大別して二通りのやりかたがあります。

 一つは教団に聞く。「あなたのところ、信者さん、何人いるの」というふうに聞いていって、返ってきた答えを足し上げていく。教団に聞くというやりかたは、文化庁が毎年行っていて、その結果を冊子にして公表しております。これがとんでもない話になるんです。日本の人口が二〇〇八年、この四月一日の段階の推計値で、一億二千~三千万だったと思うのです。教団に対して「あなたのことろの信者さん、何人」と聞いて、返ってきた答えを足すと、二億を超えます。人口が一億数千万なのに宗教人口が二億を超えるのです。

 もう一つは、個人に、その社会集団の構成メンバー一人一人に聞くやりかたです。インドなどのように国勢調査の際に信じている宗教を聞いてしまうような国もありますが、日本においてはサンプリング調査ということになると思います。「あなたは何か信仰を持っていますか」とか「何か宗教を信じていますか」というようなことを個人に聞く、「持っている」「信じている」という人が、統計数理研究所の数字では二十九%、読売新聞の調査では二十二・九%、「信じていない」「持っていない」という人がどちらも七割強、個人に聞くとこういう数字が出てきます。

 どうして、教団に聞くと二億を超えちゃって、個人に聞くと二ないし三割なのか。

 私の実家なぞもそうですが、お茶の間の同じ空間に仏壇もあり神棚もあり、朝はそれぞれお水をあげてお茶をあげてということをします。その時々に、お墓参りにも行きます、初詣にも行きます、七五三などでも神社へ行きます。さすがに私自身は知っていますが、宗旨を知らない、本尊を知らない、祭られている神を知らない、けれども年中行事的に、慣習の一つとしてやっているという家庭、人が、日本人のかなりを数を占めるというふうに思われます。

 先程の類型でいえば制度宗教とか文化宗教ということにかかわってくるわけですけれども、いまだにかなり多くの日本人が氏子であり檀家であると思われます。だからこそ、文化庁の統計では神道系が一億、仏教系が一億になるわけです。

 本来持っていた宗教的な意味合いが希薄になり、しかしお墓参りだとか初詣だとかという行事はこなす。お金も出す。それぞれ一人一人、その行為をしている個人の側では、信者としての意識は極めて低い。低くても、教団側からすれば、当然「うちの信者さん」ですよ。数えない理由はないということになります。これが、二億、二ないし三割という数字の説明になります。日本という国はそういう宗教的なありようを持っている、それを如実に教えてくれるのがこの二つの数字です。日本人の宗教的なありかたの一端を見事に説明する、どちらも貴重な数字であると思います。

熱心に聞き入る塾生の皆さん
 本来持っていたはずの宗教的な意味合いだとかは希薄化し、なお、一つの行事として残っている、残っているばかりか結構盛大に行われたりもします。いってみれば、正月には初詣に行って、節分をやり、お盆にはお墓参りをして、クリスマスにはパーティーをやる。一人の人が、あるいは一つの家族が、ある意味無節操、ある意味寛容とでもいいましょうか、少なくとも世界の人々から見ると、かなり奇異に映ります。日本の宗教的な状況というのは、そういうものであるということは、知っておいていただきたいと思います。

 先にお示しをした読売新聞の調査の際に、これは個人に聞く調査の一つですけれども、同時に他にもいろいろな質問をしていて、例えば「あなたはこれまでに神や仏にすがりたいと思ったことがありますか」と聞いています。「ある」が五十三・九%です。「何か宗教を信じているか」と聞かれると信じていない人が七十五・四%にもかかわらず、です。この調査に國學院大學の石井研士先生が、「兜町で株価が下がれば近くの神社に詣でる人が増えるなど、現世利益は都市文化でもしっかりと生き残った」というようなコメントを寄せられています。理性的に考えれば、神様の存在を信じていない、あるいは少なくともどんな神様が祭られているか知りもしない。けれども、特に何かあったときには、お参りせずにはいられない。これもまた、日本人の宗教意識、日本の宗教事情の一側面であろうと思います。

 平安末期の歌人、西行という人の歌に次のような歌があります。「何事のおはしますをば知らねどもかたじけなさの涙こぼるる。」出家をしたお坊さんが、伊勢神宮を訪れて、この歌を詠みます。この神宮にいったいどのような神がおいでになるのかは知らない。何だ、平安の頃から日本人は知らずにお参りしているのかというのも一方でありつつ、参拝に行って有り難い気がして、涙がこぼれたというのです。一神教的な宗教観からすれば不思議なことではあるけれども、日本人らしいといえば日本人らしい、そういう事柄を示すお話の一つとしてご紹介しました。

 また、ご存じの方、いらっしゃるでしょうか、『オーラの泉』というテレビ番組があります。少し前でいえば宜保愛子とか織田無道とか、いろいろな人の名前が出たり消えたりしていると思いますけれども、そういう番組が視聴率を取る、本を出せば売れる。スピリチュアリティという言葉で括ってよいかどうか、いずれにしろ、そういうものを求めている人が、今皆さんが住んでいるこの日本に結構たくさんいる、そういった現実が一方にあるということも、皆さんに知っておいていただきたいと思います。

宗教は必要か

 昔、宗教というものはいろいろな分野において指導的な役割を担っていました。教育であるとか、これは例えば寺子屋なんかをイメージしていただければよいかと思います、福祉であるとか、医療、芸術等々、日本に限らず世界的に大きな役割を担ってきていました。けれども、日本においても、近代化ということがなされ、法治国家的な仕組みがつくられていく中で、そういう国、地方自治体などの世俗の団体がそういうもの、それまで宗教が、あるいは宗教的な団体が担っていたものを自律的に行うようになる。また、近代化、合理化、都市化という社会の大きな流れの中で、いわゆる科学的な知見というものが広く、深く浸透していくようになる。当然、それまでの宗教的な世界観、宇宙観などは信頼を失っていく。宗教団体がそれまで持っていたような権威はなくなっていく。その活動の場もかなりの部分は奪い去られていく。そういう中で初詣だとかお墓参りだとか、もともと持っていた本来的な宗教的な意味合いを失いつつ、一つの習俗として残りはする。けれども、一方で神の存在等々などというのは、荒唐無稽なものとして見向きもされなくなる。まさにそういった科学の時代においては、世俗化していく社会においては、宗教は須らく消えていかざるをえないのではないかというような議論が、特に一九六〇年代ぐらいから世界的に行われるようになった。実際に、世界的な統計で、例えば教会に行く人が減る、聖職者のなり手が減るといったような顕著な傾向が統計的に確かめられるという状況があったわけです。

 けれどもそういう中にあって、人間が人間であるからには、やはり何らかの人生観だとか世界観だとか、自らの社会における、あるいは宇宙におけるアイデンティティといったようなものを、どうも人間は求めるものらしい。人間というものがその人が拠って立つ究極的な価値観なりといったものを求める存在であって、それを求めるような営みを「宗教」というならば、宗教がなくなることはない。世俗化というのは教団としての宗教から個人の宗教への変化だという解釈も出てきます。そういう個人の内面的な宗教のありようをトーマス・ルックマンという学者は「見えない宗教」というふうに名づけました。

 同じ一九六〇年代、あるいは七〇年代くらいから、例えばアメリカでは服装や音楽、政治意識や道徳が若者の間で大きく変化する。それに伴って、いわゆるカルトといわれるような新しい宗教グループが生まれる。インド系の宗教が欧米において非常にもてはやされたりするような現象も生まれてくる。キリスト教やユダヤ教の内部からもさまざまな新しい動きが出てくる。さらには原理主義、といえばイスラームを思い浮かべる方が多いとは思いますけれども、もともとキリスト教における動きの中から、この原理主義、ファンダメンタリズムという言葉は出てくるのですが、そういった動きも世界的に耳目を集めるようになってくる。つまり、一方で科学的な知見が広まっていって、社会が世俗化していく中で、宗教はある意味衰滅していくというふうに論じられていたにもかかわらず、それとは全く相反するような現象が多々見られるようになってきました。

 例えばアメリカでは、公的な学校教育において、ダーウィンの進化論と少なくとも一緒に、神様が六日間で宇宙を創り、人間を創ったということを教えなきゃいけないということを熱烈に運動する人達がいて、そういう人達が大統領選挙にもものすごい影響力を及ぼす、そうやって運動している人を親に持つ高校生が「何を馬鹿なこといっているんだ」と冷たい目でその親を見るという状況も同時にあるわけですけれども、世界的にはそういう動きがあって、今日に至っている。フランスのある学者は、それを「宗教の復讐」というふうに表現しました。

 また、先程日本人の宗教意識のところでお話ししたように、現世利益、あるいはスピリチュアリティというもの、やっぱりこれもなくならない。時に応じて増幅するという状況が、日本だけでなく、世界的にも見られたりするわけです。

 一昔前には宗教をやるようになる理由、いわゆる入信動機として、貧・病・争ということがいわれました。貧困、病気、人間関係の争いというものは、ある意味直接的に現世利益的な側面もあるわけですけれども、科学的な知見であったり、あるいは公的な世俗的な機関などによって、場合によっては解決される面もあるわけですけれども、それ自体はなくなるものではない。そういうものの解決を望むのも人間であって、さらには何よりも、自らの価値観であるとか世界観なりといったものを追求する、そういう究極的な意味を求め、究極的な解決を求める営みというものは、どうもやまないだろうということはいえそうです。

 私達一人一人がよりよく生きる、それこそがある意味究極的な意味を求め、究極的な解決を求めていくということと重なってくるのではないでしょうか。「八正道」などはまさにそういうものだと思いますが、私たち一人一人が人として今をよりよく生きていく、それこそが仏陀が語ろうとしたことではなかったかと思います。

21世紀の日本の仏教者へ

 「一つの宗教しか知らない人は、いかなる宗教も知らない。」これは、宗教学の祖といわれるマックス・ミューラーの言葉です。皆さんは既に幾らかの程度なりとも仏教を選び取っていらっしゃると思われるわけですが、このグローバライゼーションといわれるような中で、私達自身、日本国内のことだけを考えていけばよいわけではありません。少子高齢化があって、その対策として大々的に移民を受け入れるというような話も、つい最近も出てきている。既に多くの人々が日本に住み着いて、彼ら独自の宗教活動をしてきています。お隣がロシア正教で、お向かいがムスリムで、筋向いが台湾仏教徒というところに住んでいる方も既にいらっしゃるかもしれない。益々そういう状況になっていく。9.11のアメリカ同時多発テロを一つの契機として、それ以前からですけれども、宗教間対話ということも随分いわれています。既に仏教をある程度選び取っている皆さんではありますけれども、より広く、より深く、諸宗教を、あるいは諸々の宗教的な現象を見、考え、あるいはまたそういう人達と語り合いながら、自らの仏道を歩んでいって頂きたいと思います。

= 終わり =

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