渡辺浩希先生

宗教概論(第20期スクーリング講義録)

2007年6月20日 第20期スクーリング講義録

宗教とは何か

 最初に宗教の定義からお話を始めたいと思います。宗教は、百人いれば百通りの定義があるといわれたまま今日に至っており、ここでは岸本英夫先生の定義を掲げておきます。「宗教とは、人間生活の究極的な意味を明らかにし、人間の問題の究極的な解決にかかわると人々によって信じられている営みを中心とした文化現象である。ただし、宗教にはその営みとの関連において、神観念や神聖性を伴う場合が多い」。

 但書に「多い」とありますが、例えば臨済宗の祖、臨済玄義(中国)の『臨済録』の「仏に逢うては仏を殺し」と、いわゆる絶対者を否定するものも当然宗教に含まれます。この定義の中で核心となる部分はどこかというと、「人間の問題を究極的に解決してくれる」、「それを求めていく営みの中に宗教はある」ということになろうかと思います。 それでは、このような宗教は、哲学とどう違うのかといえば、これまた一筋縄ではいきません。超越的なものを「聖」、日常的な物事を「俗」というふうに分けて、聖の部分を扱うのが宗教、俗の部分を扱うのが哲学だというようないい方もあります。

 必ずしも超越的な存在を語らない原始仏教を特に意識してか、あるヨーロッパの仏教学者は、「仏教は宗教ではなく哲学である」といいました。仏教も時代を経てさまざまに展開をしていきます。日本では、鎌倉時代に法然、親鸞が出て、浄土宗系が形成されていく。そこでは「弥陀一仏」ということが強調されます。これは宗教改革で有名なルターの神と非常に似通っている、と主張する宗教学者も一方にはいたりするわけです。

 仏教には「無記」という教えがあります。例えば、世界が常住であるか否かとか、世界が有限であるかどうかとか、霊魂と身体は同一なのか別異なのかといったような疑問をある弟子が、仏教の開祖であるゴータマ・シッダールタ(釈迦)に向けて質問しました。それに対してお釈迦様は、無言をもって答えた。なぜか。それはそのようなことに拘泥することは無益であって、涅槃に導くものではないからなのです。

 この「無記」ではありませんが、宗教と哲学とはどう違うのかというような問題は、棚上げしないとそこから一歩も先へ進めないということになって、拘泥し続けても大して益のあることではないかも知れないと考えております。

宗教の類型

 次に、宗教の類型論のお話をしたいと思います。類型論にもいろいろありますが、今日おはなしするのは、文化宗教、制度宗教、組織宗教、個人宗教、会員宗教というもので、これは特に井門富二夫先生という宗教社会学の大家などが唱えられた類型論の一つです。

 まず第一の文化宗教とは、文化的な枠組みとして存在している宗教。例えば、初詣に行く。お盆にお墓参りをする。けれども、何宗か、ご本尊が何かも知らない。本来の宗教的な意味合いが脱落あるいは希薄になって、年中行事というか、イベントというか、もともとは宗教、あるいは宗教的な事柄にかかわっていたところの行動様式、こういうものをひっくるめて文化宗教というふうに名付けます。

 次の制度宗教というのは、地域あるいは家族といった制度に基づいて存在している宗教です。神社であれば氏子制度、お寺さんであれば檀家制度です。氏子区域と一体化している神社。檀家という家族制度に支えられている寺院。そういったものを制度宗教というふうに類型化します。

 続いて組織宗教。これはいってみれば比較的新しい宗教で、いわゆる教祖といった存在を中心に新たに組織された宗教をいいます。これは、例えば、いわゆる鎌倉仏教などもその当初は、この組織宗教でした。

 続いて、個人宗教。これは宗教書や文学、芸術等によって個人の内心において営まれる宗教。特にオウム真理教の事件以降、日本人全体の中に、宗教とか、宗教団体、教団といったものを忌避する傾向があって、だから既成の教団に束縛されるのは嫌だ、けれども自分なりの人生観であるとか、世界観は求めたいと考える人たちがある。冒頭の宗教の定義にある「人間の問題を究極的に解決してくれる云々」ということと関連してくることになりますが、そういうものを求めたい、でも教団にはかかわりたくないということで個人で学んでいく、そういうあり方です。これが、1人でやっていたものが2人、3人のグループになり、4人、5人となり、そこにカリスマが1人現れると、とたんに組織宗教に変貌したりもしますが。

 最後に会員宗教。個人宗教と比較的近いところから出発しますけれども、教団に入るわけでもなく、また個人でという訳でもない。カルチャーセンターの類い。あるいは寺院などが実際にさまざまな活動をする中で行っている会員制の文化講座のようなもの。教団に入るということはしたくないが、自分が参加したいときに参加する、いつでも辞められる、そういうようなありようを指して会員宗教という名前で範疇化します。

宗教的か否かの基準

 続いて、日本人の宗教意識というお話に入っていきます。

 信者の数をカウントするにあたって、その調査方法は大別すれば二つあります。一つは教団に聞く。「あなたのところの信者さんは何人ですか?」返ってきた答えを足していきます。もう一つは、個人に聞く。何らかの方法によって抽出して、一人一人に、あなたは宗教を信じてますか、何を信じてますか、ということを聞く。この二つがあります。

 この二つの方法が実際に日本で行われていて、結果を見るととんでもないことになっている。しかし、それこそが日本人の宗教意識を非常によく説明する数字なんだっていうお話をこれからしたいと思います。

 まず教団に聞く方ですけれども、私ども文化庁で、毎年教団に対して、あんたんとこの信者さん何人?と聞いてそれを集計します。すると、大雑把にいって神道系が1億、仏教系が1億、全部合わせると2億を超えます。日本の人口が1億3000万くらいです。ところが宗教の信者は日本には2億の余いるという数値になってしまいます。

 個人に聞くとどうなるか。統計数理研究所、あるいは読売新聞だとかNHKだとか、いくつかの機関が何年かに一回調査をしています。何か信仰とか信心とか持ってますかと聞くと、持っている人は29パーセント。一番直近の読売新聞の調査では、わずか22.9パーセントです。10年20年ぐらい前は、3割前後だったものが、ここ数年さらに落ちてきて2割強ぐらいになっています。個人に聞くとそういう数値になってしまいます。

 どうして教団に聞くと2億を超えて、個人に聞くと2~3割になるのか。家に帰れば同じお茶の間の空間に仏壇もあれば神棚もあります。お墓参りも行けば、初詣にも行く。本人が自覚しているか否かにかかわらず、先ほどの類型でいえば制度宗教にあたりますが、かなり多くの日本人が氏子として檀家として神社や寺院の信者名簿に載っている。教団からすれば、氏子やってて、檀家やってて、何かあれば参拝に来る、お墓参りに来る、当然うちの信者さんということになります。

 ところが、一人一人に向かって、あなたは神社にお参りに行きましたね、ではあなたは神道の信者ですね。お寺さんに墓参りに行きましたね、あなたは何々宗の信者ですね。あるいは、結婚式を教会で挙げた、あるいはクリスマスパーティーをやった、ではあなたはクリスチャンですね、と聞いてみると、「えっ、いやそうじゃないですよ」と答える人が7割がたいる。だからあらためてあなたは何か宗教を信じてますかと聞くと、2割から3割ぐらいの人しか「はい」と答えない。

 本来持っていた宗教的な意味合いを失ってなお、したがってそこは文化宗教と制度宗教とが相俟つことになりますけれども、そういった人、個人の側では信者意識は非常に低くても、教団側からすれば当然うちの信者さんということになる。これが2億と2~3割を説明する理由になります。

日本人の宗教意識

 習俗、風習、慣習といったものとして、もともとは宗教的な意味合いを持っていた行為が、その意味合いは剥落しつつ、なお残存している。個人にとってはそれらが宗教行為であるという意識は薄くても、教団側からすれば当然信者さんということになる。 お正月になれば初詣に行き、節分をやり、お盆にはお墓参り。 12月はクリスマスパーティーに興じる。世界的に見て非常に奇妙です、不思議な国民です。

 読売新聞では同時に、「あなたはこれまでに神や仏にすがりたいと思ったことがありますか」と聞いています。それに対して「ある」というのが5割を超える。宗教を信じているという人は2割強なのに、すがりたいと思った人は、53.9パーセントあるといいます。

 この読売新聞の調査のときにコメントをされている國學院大學の石井研士先生は、「兜町で株価が下がれば近くの神社に詣でる人が増えるなど、現世利益は都市文化でもしっかりと生き残った」というようなお話もされています。

 平安末期の歌人西行、この人は出家をしたお坊さんですが、こういう歌を残しています。 「何事のおはしますをば知らねども、かたじけなさの涙こぼるる。」これは、伊勢神宮に西行が訪れたときに歌った歌です。この神宮にいったいどのような神がおいでになるのかは知らない。何だ、平安のころから日本人は知らずにお参りしているのかというのも一方でありつつ、「かたじけなさの涙こぼる」。ありがたくて、かたじけなくて涙が出てくる。このあたりが現代人と違うところだと思います。 同じありがたいでも、兜町で株が下がったときに神社に詣で、あるいは合格祈願で行って、買った株が上がった、入りたい大学に受かった、「ああ、ありがたや、ありがたや」のありがたいと、この西行のかたじけなさというのは、実は質的にかなり違いがあろうかとは思いますけれども、出家をした僧である西行自身が、やっぱり何が祭られているかは知らないが、神宮に行って感動して涙を流しているのです。

 一神教的な宗教観からすると、不思議ではあるけれども、日本人らしいといえば日本人らしい。その日本人らしさを、2億そして2ないし3割という数値が実はよく説明している、どちらも貴重な数値だと思うわけです。

 もともとは、宗教的なものが世俗的な行事として定着した、というような日本人の宗教的な在り方がある一方、ご存じでしょうか、『オーラの泉』というテレビ番組があります。古くは、宜保愛子、織田無道、あるいはちょっと毛色が違うかもしれませんが細木数子、こういう人たちが本を出せば売れる、視聴率を取る。 ちょっと乱暴な言い方になりますけれども、スピリチュアリティという言葉で括ることもできると思います。そういうものを人は求めるところがある、そういった現実が一方にあるということは、皆さんにも知っておいていただきたいと思います。

宗教衰滅論と宗教不滅論

 さて次に、世界的な視点から近代以降に行われてきている議論を紹介することで、人類にとって宗教は必要かどうかというようなことに幾許かなりとも迫ってみたいと思います。

 昔、宗教というものはいろいろな分野において指導的な役割を担ってきました。教育、福祉、医療、芸術、日本に限らず世界的に大きな役割を担ってきていました。

 ところが昨今、これは政教分離とも関係してきますが、地方自治体、あるいは国、公的な機関、団体、すなわち世俗の団体によって自立的に行われるようになってきて、こういった場面から宗教が排除されるようになります。

 世界を見ればある宗教を国教としている国も勿論あるわけですが、日本を含めていわゆる先進西欧諸国においては、基本的に政教分離が是とされて、日本でも、私学の中には宗教系の学校もありますが、少なくとも公的な機関においては特定の宗派にかかわるような宗教教育は行ってはならないということが憲法で規定されています。

 また、近代化、合理化、都市化といった社会の大きな流れの中で、いわゆる科学的な知見、知識が広く、深く浸透していくと、それまでの宗教的な世界観、宇宙観が信頼を失っていき、宗教団体は権威を失っていくわけです。それで、政教分離ということとも相俟って、その活動の場が公的な場面からは次々に奪い去られていく。初詣でやお墓参りなど、儀礼的なものの一部は宗教的な意味合いを失いつつ残存するものの、神の存在などというのは、荒唐無稽なものとして見向きもされなくなる。

 実際、1960年代ぐらい、世界的な統計で宗教の衰退が顕著に数字に表れる、教会に行く人が減る、聖職者のなり手が減るといったことが見られて、結局科学的な知見が広がっていくにしたがって宗教というのはなくなっていくんだ、衰滅していかざるを得ないという議論がずいぶんされました。

 ところが一方で、次のような主張もされるようになりました。目に見える宗教活動が社会の表面からは消えていくけれども、そして近代化、世俗化ということがいくら進もうとも、人間は、人間であるからには、やはり何らかの人生観やら世界観やらといったものを持って、あるいは求めて行動する動物であるという認識です。

 それまでの宗教的価値観といったものが失われ、その権威が失墜していく中、人々は、私的に自分の頼るべき世界観、自分のアイデンティティーを求めていかざるを得なくなります。そういう営みを人によっては哲学というかも知れない、その呼び名はとりあえず棚上げした上で、そういう営みを「宗教」というならば、人間がそういう存在である限り、宗教がなくなることはないという考え方です。 世俗化というのは教団としての宗教から個人の宗教への変化だ、そういう解釈が唱えられて、ルックマンという学者が「見えない宗教」というふうに名付けたわけです。

 どちらが正しいかというと、ある意味どちらも正しい。世俗化ということでいえば、先程お話した2~3割というようなこともあるし、特にオウム真理教の事件以降、宗教であるとか、教団といったものに対する忌避的な感情というものもあります。

 日本でいえば、冠婚葬祭やら、また教育、医療、福祉について、仏教なら仏教のほうに取り戻そうという意図をもって活動している人々もいて、そこにはそういうニーズもあります。それに応えるものを提供することが一部の人々によって求められている。そういったニーズがある限り、他の誰かがそれを宗教と呼ぼうが、哲学と呼ぼうが、ボランティアと呼ぼうが、究極的な意味を求め、究極的な解決を求めるといった営みは人間本来のあるべき姿なんだという見解を踏まえるならば、宗教というものは、形やありようや、その内実を変化させながらも、存続していくに違いないという言い方もできようかと思います。
【1】文化庁(編)『宗教年鑑 平成18年版』
東京:文化庁(ぎょうせい)、2007より
神道系 107,247,522人 50.8%
仏教系 91,260,273人 43.3%
キリスト教系 2,595,397人 1.2%
諸数 9,917,555人 4.7%
211,020,747人 100.0%

【2】統計数理研所(第10次日本人の国民性調査委員会)『国民性の研究第10次全国調査−1998年全国調査−』
(統計数理研究所研究)Report83[第3刷]、東京:統計数理研究所、1999より

「宗教についておききしたいのですが。たとえば、あなたは、何か信仰とか信心とかをもっていますか?」

もっている、信じてる 29.0%
もっていない、信じていない、関心がない 71.0%

【3】『読売新聞』平成17年9月2日(朝)より

「あなたは、何か宗教を信じていますか。」

信じている 22.9%
信じていない 75.4%
答えない 1.7%

宗教の復讐

 今申し上げたように1960年代前後から世俗化ということが非常に議論されたわけですが、同時に特にアメリカで若者の服装、音楽、政治意識、道徳といったものが大きく変化していって、カルトといわれるようなさまざまな新しい宗教グループが生まれ、多くの若者がそこに参加するようになっていきました。そして 1970年代も後半になると、世界的な宗教回帰の傾向が認められるようになってきます。イスラム圏に限らず、いわゆる原理主義的な運動も目立ってくる。宗教は衰滅するんだといわれていてあるいは、「見えない宗教」という主張がある中で、宗教的なムーブメントが次から次へと起こってくるわけです。

 これをフランスのある学者は「宗教の復讐」といいました。例えばアメリカでは、大統領選挙にも影響があるくらいの勢力になっていますが、公立の学校においてなお、ダーウィンの進化論ではなくて、神が六日間で宇宙と世界を造ったんだということを教えなきゃいけないということをまじめに運動している人々がいて、そうやって運動している親を鼻で笑っている高校生がいて、という状況があるわけです。

 それから先程、幾らかも触れましたけれども、現世利益を求める気持ちはなくなるどころではなく、ますますそういうものにすがりたいと思う気持ちを持つことが増えているかも知れません。 また一方、それを宗教というかどうかは別にして、スピリチュアリティに関して、制度的な宗教には疑問を持つが、霊的なものには関心が高いという人が世界的に増えているともいわれています。

 一昔前には宗教への入信動機として「貧病争」ということがいわれました、貧困、病気、それから人間関係の争いということです。これらは直接的な現世利益的な側面もあります。科学的な知見の広まりがあり、そしてまた世俗的な機関などで貧病争というのは解決される面もあるけれども、それ自体はなくなるものではない。そういうものの解決を望むのも人間なのであって、そしてさらに何よりも自分なりの価値観を追求する、究極的な意味を求め、究極的な解決を求める営みはやまないでしょう。「八正道」などは、まさにそういうものだと思いますが、私たち一人一人が人としてよりよく生きる、場合によってはよりよく知るという歩みそのものだと思われます。それこそが釈迦が語ろうとしたことではなかったかと思います。

21世紀の日本の仏教者として

 最後に、21世紀の日本の仏教者に、私が期待することということでお話をさせていただきたいと思います。

 ドイツの文豪ゲーテの「一つの言語しか知らない人間は、一つの言語も知らない」をもじった言い方ですが、宗教学の祖といわれるマックス・ミュラーは「一つの宗教しか知らない人は、いかなる宗教も知らない」という言葉を残しています。

 今日グローバリゼイションということがいわれて、世界の動向が、私たちの日常生活のひとこま、ひとこまに直接、間接、影響を持っています。同時に私たち自身も、その行動が世界に何らかの影響を与えつつ生きています。さらにいえば近隣の東アジア等々からは勿論、特に冷戦終結後は東欧だとか、さらには南米だとか、東南アジアだとか、中東、アフリカ等々から日本にずいぶんいろいろな人が来て住み着いております。お隣さんがムスリムで、お向かいさんがロシア正教なんていう空間に住んでいる日本人も、少なからずあろうかと思います。

 21世紀を生きる日本の仏教者として、より広く、より深く、さまざまな宗教、さまざまな宗教的な事象というものを見、考え、さまざまな人々と語り合っていく中で、自分の仏道を追求していっていただければと思ってこういうお話をさせていただきました。

 仏教だけ、自分の学びたい宗派だけやればいいんだ、あるいは極端な話、きょうこのスクーリングが終わったら私は即身成仏に入るというような人はここにはいらっしゃらないと思いますけれども、そういう態度は少なくとも釈迦が唱えられた慈悲であるとか、あるいは大乗仏教の菩薩道といったものからは遠いものだと私自身考えております。

= 終わり =

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