渡辺浩希先生

宗教概論 ~現代における宗教~(第19期スクーリング)

2006年5月25日 第19期スクーリング講義録

宗教とは何か

 「宗教」という言葉には、百人学者がいれば百通りの定義があると、よく言われる話です。中で比較的よく知られている岸本英夫先生の定義は「宗教とは、人間生活の究極的な意味を明らかにし、人間の問題の究極的な解決にかかわると人々によって信じられている営みを中心とした文化現象である」というものです。神観念や神聖性といった問題、哲学あるいは倫理学との違い、あるいは分類の仕方などの面でさまざまな議論がありますが、今日は、この後の話とも関連してくる分類の仕方をご紹介しようと思います。「文化宗教」「制度宗教」「組織宗教」「個人宗教」、もう一つ「会員宗教」というものです。

 一つ目の文化宗教というのは、文化的な枠組みとして存在している宗教です。例えば初詣。初詣に行った神社にどういう神様が祭られているか。あるいはお盆のときの墓参。お寺の宗旨とかご本尊とかは知らないけれどもお墓参りには行く。言ってみれば宗教的な意味合いというものが脱落した状態で、年中行事的に人々が行う行動様式。これを文化宗教というふうに言います。

 次の制度宗教というのは、地域や家族の制度に基づいて存在している宗教。神社は氏子区域という地域という制度と一体化している。それから、寺院は檀家、すなわち家族制度に支えられている。次に組織宗教。これは、教祖と言われる人を中心に組織された比較的新しい宗教です。鎌倉時代に新しく起こった真宗とか、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗なども、江戸時代の檀家制度を経て制度宗教というふうに言っていい様相を呈していますけれども、まさに一つの新興宗教、組織宗教であったと言えます。

 次に個人宗教です。これは、制度宗教あるいは組織宗教には団体、教団というものが基本的にはつきものというか、付随しているものですけれども、そういう教団というものに束縛されたくない、束縛されるのは嫌だと。だけれども、自分なりの人生観、世界観というものは追求していきたいという人が、基本的には全く一人、宗教書であったり文学であったり、あるいは芸術等々によって、個人の内心において営まれている。そういう宗教を、個人宗教というふうに名づけました。もう一つ、組織宗教と個人宗教の中間のようなものとして会員宗教ということを言う学者もいます。これは、教団に入るわけでもない、でも全く個人というわけでもない。例えばカルチャーセンターとかお寺さんの文化講座。文化講座は聞きに行くけれども、檀家としてはかかわらない。入信して教団に入る、ある団体に属するというのではなくて、言ってみれば行きたいときに行って参加したいときに参加する、いつでも参加できる、いつでもやめたいときにやめられる、というようなものです。

 ある人の行動が宗教行為かどうかを判別する問題も出てきます。たとえばゴミ拾い、募金活動、被災地での支援活動などでは基本的には「動機と結果」によって分かれてくる。ところが法律の世界になると、またちょっと話が変わり、どちらかというと結果を重んじる。目的効果基準ということです。動機が目的、結果が効果というふうに、基本的な考え方は非常に似通っていますが、たとえばある地方自治体で建物を建てるときに、一つの習慣として地鎮祭をする。当然、形式は、伝統的な神道の形式です。それを市の財政からお金を出す。それが憲法に違反するのかどうか。また最近の事例でいえば、小泉首相の靖国参拝。これが憲法に違反するのかどうかということが随分、新聞紙上等でも、皆さん新聞、テレビ等でも見たり聞いたりされていると思いますけれども、この判断の一つの基準として、目的効果基準ということが言われています。

日本人の宗教意識

 さてそれでは現実的に日本人は宗教に対してどんな意識をもっているのかをみてみましょう。まず、信者数の問題ですが、信者数をカウントする統計のとり方に大別して二種類あります。教団から聞くのと、個人に聞くことです。これは多くの場合、サンプリング調査ですが、文化庁は毎年、教団に聞いて調査結果を出しています。これを見ると、ざっと言えば、神道系が一億、仏教系も一億、キリスト教系と諸教が数%あって、足すと二億を超えてしまいます。日本の人口が一億二千万なのに、宗教の信者は二億人以上いることになる。一方、個人に聞くとどうなるか。サンプリングをして個人に対して「あなたは何か信仰や信心をもっていますか」と聞くと、一番新しい読売新聞のデータでは、わずかに二二・九%ということになってしまいます。十年、二十年くらい前は、信じている人が三割前後あった。ところが昨今では二割強になっているということです。

 教団に聞けば二億を超え、個人に聞くと三割に満たない人しか信じていない、信者がいないという結果になる。これは、まさしく日本人らしいというか、これぞ日本人というのを表している、どちらも貴重な数字になるわけです。先ほどの話と関連しますけれども、同じ人が初詣に行き、節分をやり、お盆にはお墓参りをし、クリスマスになればパーティーを開く。お墓参りも法要もするけれども、結婚式はキリスト教式で挙げるという人がいる。しかも、仏壇と神棚の両方が家にある。信者でもないのに初詣に行き、クリスチャンでもないのにクリスマスを祝うことを特に何とも思わない人が、いずれも八割を超えます。

 さらにその二二・九%の何らか宗教を信じている人の中でも、それぞれ八〇%の人が、特に何とも思わないと答えている。これが現実なんです。宗教の類型でいえば、まさしく文化宗教の一端ということになろうと思います。

 また、これも読売新聞の調査の一項としてあるんですけれども、「あなたはこれまでに神や仏にすがりたいと思ったことがありますか」。「ある」と答えた人が五三・九%。先ほどの「宗教を信じていない」と答えた七五・四%のうちの四七%の人が、やはり「すがりたい」と答えた。この読売新聞の調査記事の中でコメントをされている大学の先生の言い方ですけれども、例えば兜町で株価が下がると神社にお参りする人がふえる。そういうことが都市文化でもしっかりと生き残っているということです。

 理性的に考えれば、荒唐無稽と言うと言い過ぎかもしれませんけれども、神様の存在を信じていない、あるいは少なくともどんな神様が祭られているか知りもしない。けれども、お参りせずにはいられない。これがまた、例えば病気で苦しんでいる人なんかになると、よりその状況というものは切実なものがもちろんあるわけですけれども、日本人の宗教意識、日本の宗教事情の一側面として、そういうことが見えるということです。

 さらに、これも後ほど改めて少し詳しくお話しすることになると思いますけれども、ご存じの方がいらっしゃるかどうかわかりませんけれども、深夜番組で最近、「オーラの泉」というものがあります。少しさかのぼれば、宜保愛子とか織田無道、最近ではその「オーラの泉」に出ている江原啓之。ちょっと毛色が違って、これを宗教と言うかどうかはかなりまた微妙な話になりますけれども、細木数子とかいう人がテレビに出る。視聴率をとる。本を出せば本が売れる。そういうものがいいとか悪いとかということをここで私が申し上げたいわけではなくて、視聴率をとる、本が売れる、すなわち、そういうものを求めている人が日本人の中に結構たくさんいるという現実、事実があるということを申し上げておきたいと思います。

 一口で言えば、スピリチュアリティーという言葉で表現します。ですから、これが宗教的なのか否か、また議論の分かれるところではあるかと思います。これが、そのスピリチュアリティーを、特に若者が求めるという傾向が指摘されて、例えばそれがオウム真理教事件のときなどには随分そういう話もされました。特にオウム真理教の事件の後、既成の宗教団体に対する嫌悪感というのは非常に広範に広がってはいますけれども、一方でそういうスピリチュアルなものを求めるという傾向は、少なくとも減じることはない、減じていないと言えると思います。

人類にとって宗教は必要か

 宗教は、いずれなくなっていく、消えていくものだという議論があります。特に一九六〇年代を中心にして、世界的に随分それは言われたわけですけれども、昔は宗教というものが、日本に限らず、いろいろな分野において指導的、あるいは支配的な役割を担っていた。教育にしてもしかり、福祉にしてもしかり、医療にしてもしかり、芸術にしてもしかり。これは世界的にそうです。

 ところが先ほども申し上げましたように、宗教改革があり、近代化があり、科学の進展があり、民主的な国家というものが生まれて、それが成熟していく過程の中で、政教分離ということもあって、例えば今言った教育であるとか福祉であるとか医療であるとかいうことは、多くの地方公共団体等々の世俗の団体が事実的に行うようになってきています。もちろん今でも、私学の中には宗教系の学校等々もたくさんあります。が、少なくとも憲法では、公的な機関においては宗教教育をしてはいけないということになっています。

 医療にしても宗教活動の一環として携わり、教育熱心に頑張るという方もいらっしゃいますけれども、昔ほどは宗教が主導的な役割を担うというような状況ではなくなってきている。近代化、合理化、都市化という社会の大きな流れの中で、いわゆる科学的な知見というものが広く人々の間に浸透している。

 ガリレオ・ガリレイは「それでも地球は回っている」と、地球中心ではなくて、太陽が中心だと唱えて宗教裁判にかけられたという時代もありましたが、いずれにしろ、科学的な知見というものの広範囲への浸透によって、それまでの宗教的な世界観、宇宙観といったものが信頼を失う。と同時に、宗教団体の権威が失墜する。法話を一生懸命されるようなお坊さんもたくさんいるんですが、全体的な流れ、兆候として、結局、純粋に宗教的なものというのは消えていかざるを得ないだろうという見方が一つあった。特に科学万能主義と言われているような時代には、そういう見方が非常に強かった。

 ところがいわゆる近代化、世俗化ということがいくら進もうとも、人間は人間であるからには、やはり何らかの人生観であれ世界観であれ、既存の教団が構築し信者に教え示してきた、あるいは場合によっては強制してきた価値観だとか宇宙観だとかいったものを、否定的な権威を失いはしても、だからといってそれにかわるものをやはり人間というものは求める。

 それは先ほどの制度宗教、組織宗教、あるいは個人宗教ということに直接かかわってくる話になるんですけれども、人々はやはりそういうものを求めないと気が済まない。個人的に、私的に、自分のよるべき世界観であるとか自分のアイデンティティーといったものを、やはり求めたいと思う。これまた冒頭の宗教の定義、岸本先生による宗教の定義にもかかわってくるわけですけれども、人がその究極的な、よって立つべき価値観にみずからのアイデンティティーを求める。そういう存在であるならば、そしてそういう営みを宗教と言うならば、宗教がなくなることはない。そういう内面的、知的な宗教のあり方をトーマス・ルックマンという学者が、「見えざる宗教」というふうに言っているわけです。

 大多数の日本人は「信じていない」と答えつつ、お墓参りもする、初詣にも行く。やはり何かにすがりたいとも思う。あるいは、スピリチュアルなものが視聴率などの数字をとる。それがいい悪いという話ではなくて、少なくとも事実として、現実の事実、実態としてニーズがある。そしてそのニーズに、既成の宗教団体を含めて、それにこたえるものが提供されるということが、ある程度なりとも求められているのではないかというふうにも思います。

 そして何より先ほど来、申し上げておりますけれども、自分なりの価値観なりアイデンティティーなりといったものを人が人として求める限り、それを周りのだれかが、他のだれかが、宗教と規定しようが哲学と呼ぼうが、それはそれとして、人が人として究極的な真理を求め、究極的な解決を求める営みというのはやまないというふうにも言われますし、言えると思います。

 そういうように、一方で宗教衰滅論、衰退論というものがあって、一方で宗教不滅論というのがある。そういう議論が並行する中にあってカルトであるとか原理主義というものが世界的に耳目を集める、そういう現象が起きています。ベトナム戦争などの影響もあって 一九六〇年代からですが、七〇年代の後半になると、世界的に今度は宗教回帰の傾向が認められるようになる。政治的にも文化的にも、宗教が世界各地で強い影響力を示すようになっていく。その状況は現在も続き、これをフランスのある宗教学者は、宗教の復讐というふうに言っています。より全般的には宗教復興現象と呼びますけれども。

 カルトの集団自殺やアメリカ同時多発テロなどを経て原理主義という表現が目立つようになりましたが、原理主義というのは何もイスラム教に限られるものではありません。ヒンズー教だとかキリスト教、あるいは仏教なんかでも原理主義的なものを指摘することは可能です。

 一昔前には宗教をやるようになるという、いわゆる入信動機として貧、病、争ということが言われました。すなわち、貧困、病気、それから人間関係の争い。これらのものはある意味直接的に、先ほど来申し上げている現世利益的な側面というのが、もちろんあります。これもある程度、科学的な知見であったり、あるいは公的な世俗的な機関などによって解決される面もあります。

 しかし仏教の、ゴーダマ・シッダールタの修行の根本にあった生老病死ということと、まさに重なるわけですけれども、それ自体は、人間にとって本質的なものとしてなくなることは決してない。(そう)であれば、そういうものの解決を望む、人間はそういう存在である。単に目の前の現象的な病気や貧しさであったり、争いであったりということだけではなくて、さらにその先にと言ってもいいかもしれませんが、何よりも自分なりの生きる指針といいますか、価値観、アイデンティティーといったものを追求していく。それはまさしく冒頭の定義の中にもその核心として含まれている、究極的な意味を求める、究極的な解決を求める営みというものはやまない。求めて最終的な答えが即効で得られるかどうかは別として、求めつつ、何らかの指針、ゴーダマ・シッダールタ、ブッダがまさに語ろうとした、四諦八正道なんかはまさにそうだと思いますけれども、いかによりよく生きるか。まあ、よりよく死ぬか、いかに死ぬかと言いかえてももしかしたらいいのかもしれませんが、それこそが、ブッダが、ゴーダマ・シッダールタが語ろうとしたことではなかったかというふうに、私は思います。

 さて、文豪ゲーテに「ひとつの言語しか知らない人間は、いかなる言語も知らない」という有名な言葉があり、ドイツ系のイギリスの宗教学の祖と言われているマックス・ミューラーは、「ひとつの宗教しか知らない人は、いかなる宗教も知らない」と言っております。

 グローバライゼーションと言われるように、世界的な事象が宗教に、また我々の生活に直接かかわってくるようになりました。たとえば中東で宗教的な争いが起きると、石油の値段が上がり、我々の世界に直接かかわってくる。私たちが今、日常生活に利用しているもので、石油にかかわらないものは一つもありません。まさにそれがグローバライゼーションの意味の一つなのですけれども、そういう世界に私たちは日々、生きている。

 さらに、宗教あるいは宗教的な事柄やそれにかかわる出来事が報道されない日はないと言ってもいい状況にもあります。また、この日本にも特に戦後、高度経済成長を経て、世界中から出稼ぎに来ている。しばらく前、例えば上野あたりにたむろするイラン人やパキスタン人などがとやかく言われたことがありますけれども、最近ではインドネシア、ソ連が崩壊してからはロシア、東欧の人々も随分日本に入っている。そういう中で私たちは生きている。

 皆さんはすでに仏教をある程度選び取って、仏教を学ばんとしていらっしゃるわけですが、二十一世紀を生きる日本の仏教徒、あるいは世界市民の一人として、ほかのこと、あるいは他人のことを極力拒絶して、自分だけが、自分だけのものを求める、それだけの生き方というのは、仏教、開祖であるゴーダマ・シッダールタの教え、あるいは大乗仏教の菩薩というものにやはり反するのではないとも思うわけです。

 いろんな宗教、いろんな宗教的な事象というもの、定義があります。いろんな人がいます。そういうものを見、考え、学び、語り合っていっていただければ、その中でご自身の道をさらに追求していっていただければと思います。

= 終わり =

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