高橋堯英先生

仏教概論(第21期スクーリング講義録 [ダイジェスト版])

2008年6月20日 第21期スクーリング講義録

 お釈迦様は一体何をわたしたちに残してくださったのかをもう一度考えながら、基礎的なところを確認してみたいと思います。なお、中村元先生の『ゴータマ・ブッダ』の中で、これが釈尊の悟りであるという定説的なものは一切ないということが紹介されております。

過去世をみる智慧

 過去世をみる智慧がすなわちお釈迦様の悟りであると表現している資料もあるのです。

「こうして太陽がまだあるうちに、偉人な人は魔軍を打ら破り、衣の上に落ちかかる赤いサンゴの若枝のような菩提樹の若芽をもって供養されながら、夜の初め、初夜に過去の生涯を思い起こす智恵を得、中夜に天眼を清め、後夜に縁起に対する智恵を得られた。」

 お釈迦様の過去世のことを知る智恵は宿命通。未来のことを予見する智恵は、天眼通。人生の苦の原因である煩悩をすべて取り除く智恵、漏尽通。世界のあらゆるものごとを聞く力が天耳通。自由に世界を変幻する力、神変通。他人の心を見通すことができる力、他心通。こういう六つの不可思議な力を悟りのプロセスで身につける、というようなことが、一部の資料で釈尊の悟りに関係して述べられています。

四禅定と三明智

 別な資料では、
「われは実につとめ励み。欲望を離れ、不善の事柄を離れ、祖なる思慮あり、微細な思慮があり、遠離から生じた喜楽である初禅を成就していた。...定生喜楽の第二禅、「平静であり、念い有り、安楽に住まっている」第三禅、不苦不楽の第四禅」
という禅定の階梯で説かれる内容を通じて、釈尊が悟りを実現していったと述べています。

 こういった禅定をマスターしていって、その結果として、まずその過去世の生涯を思い起こす智恵を得た。そして、第二の明智として天眼をもってもろもろの生存者の生死を知り、誤った見解を誤った見解と知り、正しい見解を正しい見解としてあるがままに知る。そういうふうなことができるようになって、もろもろの汚れを滅する智恵、漏尽智に心を向けて、最終的に一切が苦であると知り、第三の明智として、無明からわたしは解脱したという自覚を得た、と。

釋尊の基本メッセージ

 この他、釈尊の悟りは様々な形で説かれます。一〇人居れば一〇人、生活環境も違えば、その置かれている場所も違うわけで、その人々への心の救済策、対応策も、別個なものであるはずです。その対応策には違いがあっていいはず。その結果、これのみが真実(定説)というものを、原始仏教はつくらなかった。仏教にはドグマがなかった、と中村先生は指摘しています。

 ですから、我々には、釈尊の残してくださった基本的な教えに則って実践しつづけ、自分自身の心の改革を続けていくということが重要なのです。

三法印

 すべては「無常」の理というものをしっかり見つめるということから始まります。

 一切は無常である。一瞬一瞬、私たちの世界は変移している。私たちはほんとにこの大きな時間の流れの中に生きているのだから、その流れの中にある自分たちの一瞬一瞬をいかに充実させていけるのか、それが重要なんだということに行きつくのです。

 人生は無常だ、限りあるものであるからといって、「人生、無常だ」といっていると、刹那的になり、もう何してもしようがない、というふうに思ってしまう。

 そうじゃないのです。お釈迦様のメッセージは何かというと、無常だから常に時間を大切にして生きましょう。出来ることを出来るだけやっていこう。あとは次の生で、がんばれば良いのですから。なにせ輸廻転生が前提になっていますので。

 釈尊が活躍した時代には、人は永遠に生まれ変わり死に変わりするものと考えられていました。その生まれ変わり死に変わりするサイクルから何とか飛び出すこと、超越することが本当の幸せである「解脱」だと考えられていました。中には道徳否定論者や唯物論者なんかもいたのですが、大方の人々はながい目で人生を見ながら解脱の実現のために修行したのです。今生に解脱できぬとも、今生である程度修行すれば、それがベースとなって次の生で必ずやもう少し自分を伸ばすことができる、というように、非常に前向きな考え方をして、「今の努力」というものを皆に呼びかけたのです。どんなに苦しい状態であっても、そこで努力することによって、それが次の生で報われる可能性がある以上は、今のこの生を充実させて生きる。今の生を充実させた結果として自分の死が訪れれば、それが、すなわち自分の死の評価につながっていく、というのです。「無常」の教えとは、どんどん流れていってしまう大きな時間の、流れの中の一瞬一瞬を充実させて、実りの多い人生にしていこう、ということです。

 次に「無我」。私たちは、そういう大きな無常の流れの中にあるわけでありますから、その流れの中にあって、おれ(・・)を、あるいは、おれのもの(・・・・・)をとらえようとしても、私自身もその無常なる流れの中にあるし、私たちをめぐる環境がすべて無常なる流れの中にあるわけですから、おれ(・・)、おれのもの(・・・・・)を捉えることは出来ない。よしんば、おれ(・・)という気持ちをつくろうとしても、おれ(・・)自体がそこに存在し得ないことになる。すべての存在は、大きな流れの中にある。時間的、条件的な大きな流れの中にあるのです。

 したがって、お釈迦様は「非我」の教えを特に主張されました。後の仏教では諸法無我をいい、人を人として成立させる人の核であるアートマンを否定するという見解を展開したのですが、釈尊は、まず「非我」の教えを説かれました。我執を排斥せよ、と。そういった大きな流れの中にあって、おれのもの(・・・・・)にしよう、これはおれのものだ(・・・・・・)と囲おうとしても、それらはすべて無常なるものだから囲いたくっても本質的に囲えないのだよ。そういう世界の中にわたしたちが生きていることをしっかり見極めて。その中で、「非我」、おれが、おれが、という気持をなんとか排斥していこうというのが「無我」の教えです。お釈迦様は、我執の排斥という「非我」の教えを徹底しよう、と説かれた。

 次に「苦」の教えです。これはまさにそういう大きな流れの中にあるにもかかわらず、私たち何かを自分のものにしようという執着によって、本来自分のものにはすることができないものを自分のものにしようとして、常に求め続けている。そして、本質的に満たされることのない執着の悪循環の中に封じ込められている、というのです。

 しっかりとこの現状を認識して、なんとか自分の心を解放すべく、我執からの解放を目指していかねばならない、という。それには、まずスタートポイントに立たねばならないのでから、まさに「苦」の自覚が必要なのです。

縁 起

「修行僧らよ。私がまだ悟りを開いていないでボーディサッタ、つまり仏となるべき人であったときに、心に念じてこのように思った。実にこの世間は艱難に陥っている。生まれ、老い、衰え、没し、再生する。しかし、この苦しみからの出離を知らないと。老死からの出離を知らない。実にいつになったらこの苦しみからの出離、老死からの出離を明らかに知り得るであろうか。何がある故に老死かあり、何によって老死があるのであろうか。そのとき、私には正しい注意と智恵とから現観、悟りが起こった。生かあるが故に老死かある。生に縁って老死がある。...」

 要するに、その老死の原因は一体何であるのか考えていったら、私たちの心の中にある根源的無知、煩悩の塊である「無明」が、その根本原因であることにたどり着いた、というのです。その老死の根本原因である「無明」というものが止滅されれば、老死に象徴される私たちの苦しみは取り除くことができるのだ、というのです。

 お釈迦様の活躍した世界というのは、現在のインドで行われているヒンドゥー教の世界のことです。そんな古代インドの社会では、「神がこの世界をつくった」というような世界の開闢説とか、宇宙の開闢思想というものが説かれていました。その中にあって、〈この世界は神がつくったのではない。すべては私たち人間が原因となり、様々な要因が関わり合ってこの世界をつくり出しているのだ〉という縁起説を主張することによって、高らかに、当時の定説を真っ向から否定したわけですから、画期的なことだった思います。

 無明が老死を生起させていくというのを流転縁起といい、逆の無明の滅が老死の滅に導くというのを環滅縁起といいます。因果の関係の一つ一つを見ていくとそれぞれが相互依存の関係にある。原因があって、そしてそれが結果となり、結果がまた原因となって次のものをつくり出していく。その原因と結果がある時はある生起の条件となったりして、複雑に絡み合っている、というのが私たちの世界なのです。

 「初転法輪」の後のエピソードとして、釈尊の弟子となった五比丘の一人、アッサジ(阿説示)さんが托鉢をしていた。そのアッサジさんが托鉢している姿を見たサーリプッタ(舎利弗)は、どきっとした、と律蔵に出てくるのです。なにしろ、一挙手一投足に隙がない。歩き方にしてもやっぱり素晴らしい。「この人、ただ者ではないな。誰の弟子だろう」と思って、彼が托鉢を終えるまで待って、そのアッサジさんにお聞きしたのですね、「あなたは誰のお弟子さんでしょうか。あなたのお師匠さんは何を教えてくださるのですか」と。「私の師匠は、沙門ゴータマです。世の中には必ず原因がある、原因が結果をもたらすのだという、この因果の律を教えているのだ」という答えを得たといいます。

 いろんな原因、条件、結果というものが複雑に絡み合ったのがこの世界です。この縁起の教えというものを、しっかりと確認しておく必要があると思います。

四 諦

 お釈迦様は、苦行によって精神集中力とか忍耐力を身につけても、智恵の覚醒というものを自覚できなかった。そこで苦行を一時中断された。身を清め、スジャーターさんの乳粥を食べたとき、「あいつは堕落した」と言って釈尊に見切りをつけた五人の修行仲間がいた。彼らを訪ねていって、初めての説法(初転法輪)をしました。そこで説かれたのが四諦の教えとされています。

 「苦聖諦(苦の聖なる真理)」。生老病死の四苦プラス、愛する人と別れる苦しみ(愛別離苦)、嫌な者と会わねばならない苦しみ(怨憎会苦)、求めても得ることができない苦しみ(求不得苦)、この世を構成する五つの要素(五蘊)によってつくられたものは苦しみである、ということ(五取蘊苦又は五蘊盛苦)。この四苦八苦に象徴される苦なる人間存在の姿をしっかり認識しようというのが苦聖諦です。

 それから、「集聖諦(苦の原因の聖なる真理)」。苦には必ず原因がある。煩悩のおおもととなる根源的な無知がそれだ。それが原因となってすべての苦が生起している。だから、このことをしっかり見極めましょう。その苦の原因が取り除かれたときに、ほんとの幸せであるニルヴァーナが訪れるというのが苦滅聖諦(苦の滅の聖なる真理)です。そして、その実現のための方法論が苦滅道聖諦(苦の滅に至る道という聖なる真理)で、具体的にどうしたらその苦の滅に到達出来るかを述べたものが八正道であります。

八正道

 まず「苦」の現状をしっかりと認識して、その原因を考え、その原因が取り除かれ快癒した姿を想定し、それに向かって一定の方法論で取り組む、というシステムがここで説かれています。この八正道、八つの内容をしっかりと自分の中に確立していく、ということです。

 相応部経典に、「私は昔の城に行く道を見つけた。その道は過去の仏たち、過去の聖人たちが歩んだ道なのだ。それが八正道である」という説明かあります。法句経の中にもこの八正道の実践こそが最も優れた修行法である、すべての道で最も優れた道である、真理を見る働きを清める苦しみをなくす方法であるとか、悪魔の束縛から開放させる道であると説かれています。

 正見。正しい見解。無常、無我、苦という三法印とか縁起という教えの通りにちゃんと見ているか?私たちの普段の日常生活の中でのものの見方を、なんとか少しでも釈尊の教えに則ったものに近づけよう、という努力です。

 正思惟。柔和で慈悲深くあり、清浄の心で思惟すること。在家者は自分の立場を正しく考えて思惟すること。

 正語。言葉の抑制は必要ですね。偽り、悪口、両舌、中傷、綺語、無駄口をせず、誠実で他を愛し融和させる有益な言葉を語ること。

 正業。正しい身体的行為ですね。殺生、盗み、邪淫を離れ、生命を愛護し、施与慈善を実践し、性道を守るなどのこと。

 正命。正しい生活を、正しい職業によって正しく行うこと。睡眠、食事、業務、運動、休息について規則正しい生活をする。

 正精進。正しい努力、原語には勇気という意味がありますが、正しい努力とは難しいものです。常に良いところを開発し、悪いところを極力抑える。自分を律し、自分の良いところをどんどん伸ばし、悪いところを削っていく、そんな努力を繰り返していくこと。

 正念。正しい意識を持ち続け、理想、目的を常に忘れないこと。日常においてうっかりぼんやりしないこと。無常、無我、苦などを常に念頭に置いて忘れないこと。自分が何をしているかを意識的に常にやっていけば、その一瞬一瞬が非常に充実します。

 正定。正しい心の制御。正しい精神統一である心の制御は、出家者には四禅定の完成であります。一般の在家者には、常に何かに精神を集中しながら心を制御することを心掛けるというようなこととされ、できないことではないと思います。

熱心に聴講する受講生熱心に聴講する受講生

 『初転法輪経』の最初の説明のとき、世の中には避けなきゃならないことがある。それは、苦行主義と快楽主義の両者なのだ。したがって、「中道」の実践というものが重要なのだ。あんまり弦を張りすぎるとプツンと切れてしまう。でも、弦を張らないと音は出ない。そこのところのあんばいが重要だっていうのです。

 その「中道」に則った生き方が八正道の実践なのです。無意識のうちに自分ができるまで、このうちの一つでもなんでもいいから、自分の中に確立することができれば、他もまた、自分の中でできるようになっていく。習い性となるまではエンドレスのトレーニングが必要です。それを繰り返していく中で、何か自分の中に得るものがある。そして、必ずやそれがベースとなって更に自分を高めてくれるであろう、という考え方なのです。

釈尊の遺言

 『釈尊最後の旅』(『大般涅槃経』)の中で、ヴァイシャーリーで釈尊が大きな病にかかるという出来事が述べられています。侍者であったアーナンダ(阿難尊者)が、「お釈迦様、今まで語ってない秘密の教えをわたしたちに教えてください」とお願いをする。そうしたら、釈尊は、「今までちゃんとわたしの話を聞いていたのか?」と叱り、その後、わたしには教師の握り拳はない、という逸話を述べられるのです。

 芸事でも免許皆伝になる前にいろんなステージがあって、その都度、試験を受けたり、お金を納めたりしなければならないですね。釈尊の時代には、最後の最後というところは、自分の後継者にしか伝えないというような風習があったのです。特にバラモンたちは、自分の後継者にしか、秘密の法は教えなかった。教えを一般に公開することはなかった。

 それに対して、釈尊は、常に誰かれの差別なく、いろんな説教の中で、様々な形で自らが悟った「法」について説き、公開してきたが、その説いた内容というのは全部一緒なのだ。それに気づかなかったアーナンダに、「今まで教えた内容がすべてなのだ。わたしは、自分自身が仏教教団の長であるという意識で皆に接していたのではなく、一人の修行者として素直に自分の得たものを皆に伝えてきたのだ」と説かれた、といいます。そして、更に、「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」という教えを残された、といいます。

 釈尊は、自分の肉体的な苦しみや病を克服し、さらに北へ北へと旅を続けられるのですが、途中、鍛冶屋のチュンダが布施した食事がもとで体調を更に崩し、結果的に亡くなられてしまう。その末期に、「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく、修行を完成しなさい」という言葉を残し、般涅槃に入られたといわれます。

 お釈迦様亡き後、我々は何をよりどころにしていったら良いのか?ひとつは、釈尊の残してくださった教えであります。それを自覚して実践していく。それと同時にその法の実践者である自分自身を信じてゆかなければならない、というのです。だから、自分で歩まねばならないのです。ここが大変重要だと思います。教えをよりどころとしながら、自分の、今の人生の中にいかにその教えを反映させていくか。釈尊の教えを学ぶには、しっかりと勉強もしなければなりませんし、しっかりとその意義を理解しなければならない。また、教えを自分が実践することによって、その教えが本当に意義あるものとなる、というのです。

 そして最後に、「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい」といって、教えを自分の人生にフィードバックさせながら、「無常」を生きるべく、一瞬一瞬を、そして毎日毎日を充実させて生きていきなさい、と仰っているのです。そして、これができる者は、まさに私の弟子である、とまで仰っているのです。

 この教室にお集まりいただいた皆様は、この東京国際仏教塾でいろんな宗派の勉強をしながら、その行(・)と学(・)をバランスよく実践しながら、仏教を身につけようという熱意を持っていらっしゃる方たちですので、すぐに仏教は分かったなどと言わず、常に基本的なところを自分なりに見つめ直していただきたいと思います。

 釈尊は、成道後、菩提樹とその他三本の樹の下で、一週間ずつ悟りの余韻を楽しまれたというエピソードが律蔵に述べられています。これは、釈尊が「悟り」という自身の直感的なひらめきの体験を言葉に置き換える作業をしていたと解釈されていますが、この一週間ずつの間に様々な出来事があり、それらに対する感想がそこに添えられています。その言葉には、「自我の抑制」「慢心の制御」と「他者に対する慈悲」という教えが見られます。私は、この中に釈尊の教えの重要ポイントがあると思っています。このことを最後に紹介し、皆さんにお考えいただこうと思った次第です。

= 終わり =

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