高橋堯英先生

仏教概論(第20期スクーリング講義録)

2007年6月20日 第20期スクーリング講義録

豊かさと空虚さ

 現在非常に豊かな時代にわれわれは生きています。わたしは先日、携帯電話を買ったんですが、タイの空港に着いて、ちょっと切り替えだけで普通に日本に電話がかけられるんです。日本からもかかってきますし、メールもできます。
 まさに、宇宙をも支配しようとしている時代、人間は物質、物への欲望を追い求める存在なのかというと、そうではない。物や機械に動かされている自分自身を見出したときに、なんかやるせなさとか不安とか絶望感みたいなものを感ずるのが常です。
 常に自分が今やっていることに意義があるんだという自覚があれば、寝なくてもなんでも仕事は楽しいものですが、日ごろこんな便利な時代に生きてても、どこか、なんかこうやるせなさ、不安を覚えるわけです。恐れはなんか対象があるものだといわれますが、不安は対象がない恐れのことであるといわれます。
 こういう不安の解消法には二つあります。一つは不安を覚えるのは社会が悪いんだ、社会のシステムを変えりゃいいという合理的な考え方。要するにマルクシズムです。
もう一つのアプローチは、近代の非合理主義の代表である実存主義の説く「不安の哲学」とか、あるいは「宗教」とかというものです。
 古来人間は、こういう自己改革を果たそうとして、社会改革もしなければならないけど、まず自分の心の持ちようを変えることによって社会に対してなんらかの意義を持っていこうという、不安の解消法を行ってきました。まさにそれが第二番目のアプローチです。
 三枝充悳先生は、『比較思想序論』の中で、「宗教とは人間が自らの有限性を自覚し、しかもその自覚を徹底した有限者、人間の働きである。そしてその有限性からの解放・脱出・救済・超克・超越を希求する有限者、人間の営みである」という定義をされております。まさに宗教によって、自らの不安を人類は解決しようとしてきたわけです。
 また西洋哲学では、キルケゴールに象徴される「不安の哲学」がありまして、その中で、実存の三段階ということを述べています。特に人間は青年期に入ると、文学とかあるいはさまざまな性的目覚めもあったりしながら、ほんとの美的段階に入る。そこで青春を謳歌する。
 ただ、そうやって自分の欲望を満足させるような時期が、ずっと続いていくと、ここでまた不安にがおこるというのです。
普段から勉強してなきゃならないんだけれども、仕事が忙しくてちょっと自分の研究が疎かになってくると、このままで良いのかな?と私も思います。同じように酒ばっかりくらっていると、「なんとかしなきゃ」と、自分を一所懸命倫理的な生き方に追い込んでいく。
 そうするとそこで今度は逆に、「正しく生きられない自分」というものを見い出す。多分親鸞聖人の自覚も、まさにそれじゃないかなと思うのです。そこでキルケゴールは、人は宗教的段階に入って、神による救済に至るというのです
 この「不安」にほぼパラレルにあるものが仏教における、ゴータマ・ブッダの「苦」の思想です。人間は何かを求め、それを得ても満足できずに、さらにその求めても得ることができないジレンマみたいなものを解消するために、別な何かを求め、満足しようとし、置き換えていくというのです。
 お釈迦様の懐いた「不安」とは一体なんだったのか、お釈迦様の出家の動機はなんだったのかというと、一般的にいう老病死の自覚です。経典では三つのおごりの自覚という形で、出てまいります。
 「われもまた老いるのは免れないのに、他人が老衰したのを見ては、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪している。私がこのように考察したとき、青年時における青年の意気(若さのおごり)は全く消えうせてしまった。」
 「若さのおごり」と「健康のおごり」と「生きているというおごり」の自覚というものが、お釈迦様の中にあった。お釈迦様はそれを真っ向から、これを自分の問題として戦ったんでしょうね。
 あるいは健康のおごりというのもそうです。わたしどももやはり病気の方を見ると、なるべく見ないようにしたりとか。
 釈尊の場合、自らを人より一段高く置いて眺めるような姿勢、そんなものが自分の中にあることが耐えられなかったのだと思います。そして、最後には「生きているというおごり」とは、これは死者を見ていやだな、わたしにふさわしくない、と思う気持が自分の中にあることを指します。お釈迦様は、なんとかそれを克服していかなければいけないと思われた。自分はカピラ城の部族長の息子として、何不自由ない生活をしている。自分が身に着けている上着、内衣、下着、全部カーシー産の絹織物で輸入されたものだと経典には書いてある。そして、ほかの家の使用人はくず米にすっぱい汁をかけて食べてたのに、自分の使用人は白米に肉の入ったご飯をちゃんと食べさせていたんだと。
 そういうふうに大切に育てられていた子が自分の中にある「三つのおごり」というものを自覚し、なんとかしなきゃいけないと真剣に考えられた。それが契機になって出家をされたわけです。
この話がのちの仏伝の中では、「四門出遊」のエピソードに発展していくわけです。そしてヨーガ(瞑想)とタパス(苦行)と呼ばれる、当時行われていた伝統的修行をすることになる。
ラホール博物館蔵『苦行仏』ラホール博物館蔵『苦行仏』
(Gandhara Art in Pakistan所蔵)
 ヨーガで、はお釈迦様が到達した境地というのは、無処有処と非想非非想処という境地です。
仏教では、世界は三界から成るといいます。先ず、欲界というのは肉体(物質)と欲望がぐちゃぐちゃになってる世界、つまりわたしたちの世界です。色界というのは、肉体とか物質的なものは存在するのだけれども、精神がそれらから分離した世界。そしてさらに無色界というのは、そういう物質がなくなったほんとのピュアな精神の世界といわれてます。
 その中の色界と無色界に四つずつの禅定のステージがあるとされ、その無色界の最終段階の二つが、無処有処と非想非非想処とされます。こういう高い評価が与えられるような禅定をヨーガの先生から修得した。そのような境地にも満足できなくて、今度はバラモンたちがやってる肉体を徹底していじめつけ、精神を浄化するという、苦行の伝統に自分を追い込んで行ったといいます。
 そして断食を中心としながら、節食とか、すべての生きとし生けるものにあわれみを持つ行を行ったといいます。さまざまな苦行難行をされて、最終的には今一度瞑想を行い、今まで以上に深い「滅尽定」という境地を得て、悟りを得られたといわれております。
 釈尊の教えでありますが、わたしたちは三法印・四法印という形で基本的には知ることができます。三法印とは、無常・無我・苦。これに涅槃寂静が入って四法印。わたしがインドの大学で仏教を勉強したときには、この苦(ドゥッカ)と無常(アニッチャ)、そして無我(アナッタン)を中心に勉強いたしました。

原始仏教の根本思想

 原始仏教の基本は、すべてこの世の中は「無常」で、一瞬一瞬変化しているということ。だから変化しているものにとらわれちゃいけない、という。わたしたちはどうしても、これはおれのものだって囲いたがたる。だけど、世界は無常なるものであるから、それをわがものとすることは成り立たない。だから非我なんです。
 この理解ができなくて、人間は常に苦の状態に自分自身を追い込んでいる。だから徹底して無常観を確立しなさい、というのが原始仏教の立場です。
 そこでその無常とは具体的にどういう教えかといいますと、中部経典百三十二経によると「無常を生きよ」というのです。無常だから、ああだめだじゃない。無常だから、徹底して無常なる世界を主体的に生きよというのです。
 「過去を追うな、未来を願うな。過去はすでに捨てられ、未来はいまだ来ていない。ただ今起こっている事象をその時その時に観察し、揺らぐことなく動ずることなくよく見つめてそれを修すべきである。今日なすべきことを熱心にせよ。死は明日にも来るかもしれないのに、誰もこれを知るものはいない。」
 仏教とは何かというと、このお釈迦様の、「過去を追うな未来を願うな」、即ち、過去の呪縛に生きるんじゃなくて、今の一瞬を充実させることに徹底していこうという前向きなメッセージなのです。
 とにかく、今何をやらなきゃならないか、全体を眺めて今最善の努力をしていこう。それである程度いったらまた状況判断して、その時点での最善の努力をしていこうという生き方です。
 そのほか、お釈迦様の教えの中心になるものは縁起「縁りて起こること」です。縁起とは条件によって、起こるという道理です。すなわち、何か単一なる原因によって生起するのではなく、種々の条件が複合的に合わさって現象が起こっているという教えです。
 基本は「此あれば彼あり、此生ずるがゆえに彼生ず、此なければ彼なし、此滅するがゆえに彼滅す」という言葉に集約されます。「此」と「彼」をAとBに直していただくともっと分かりやすいと思うんですけれども。
 縁起の道理は、お互いが相依性であるということを示しています。つまり、わたしたちは自分で生きてるんじゃなくて、いろんな条件の下に自分自身が成立させて頂いているということです。
 それをもっとくだいていえば、自分を生かすためには他人を生かさなきゃいけない。だからほかの方たちがちゃんと生きることができれば、わたし自身もちゃんと生きることができるんだという、こういう教えなんです。これが釈尊の教えの根幹にあるものです。
 また、四諦八正道というのがありまして、これはこういった釈尊の教えをすべて網羅的に、一つのシステムとしてまとめたものです。
 『初転法輪経』に出てくるのですが、四苦八苦を説明し、「苦」の真理を述べた後に、「次に比丘等よ、輪廻再生に導き喜びとむさぼりを伴い、至るところで喜び楽しもうとする熱愛・欲求・渇愛・欲愛・有愛・無有愛なるものは、苦の実原因である」というのが、苦の生起の原因に関する神聖な真理である、苦集聖諦が示され、さらに苦滅聖諦、最終的に苦滅道聖諦として八正道が示されるのです。
 苦の真実がわたしたちの置かれている現実である、という。そしてその苦の原因の真実。そして苦がなくなったときの真実、つまり、苦の滅の真実が示され、。そして苦の滅に至る道の方法論がここで示されます。人間存在についての洞察がある。そして解脱に至るまでの方法論がすべて網羅されているのがこの四諦八正道の説であります。
 この八正道が重要だということを示している経典の一節が相応部経典(六十五―五)の一節です。
 ここで重要なのは、縁起の道理が説明されて、それが古の聖人たちやブッダが到達したところであったという部分です。たまたまわたしが歩いていたら古い道を見つけて、それをとことこ歩いていたら、古城のあった理想的な土地に辿りついた。そして、そこに都を造ったら非常に発展をしたという。そしてその道は、もとからあった道なんだというわけですね。
 インドでダルマと呼ばれる普遍的な真理を、古城は表しているわけです。そしてその普遍的真理とは何かというと、縁起の理法であり、その普遍的な真理を体得する方法の一つが、八正道の実践ということがはっきりと述べられているんです。
 そうすると、八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)の一つ一つについてわたしたちは自分なりの考察、深い考察をしておく必要があるのではないかというわけです。
 具体的にいえば、正しい見解、正しい思意、正しい言葉遣い、正しい身体的行為、正しい生活法、正しい努力とは、主体的で前向きな日常生活の中にこそ、実現することができる、という当たり前のことなんですけれども。

わたしたちの物さしは釈尊の教え

 そのベースにあるものは釈尊の教えである無常であり無我であり、あるいは縁起という観念です。そしてその中で正しい見解を常に維持しながら正しい考え方を常に行って行かなければならない。
 人を揶揄したり卑しめたり、あるいは大声で威嚇したりというような行為には必ず悪しき影響力があるわけです。ですからこういう行為というものは、必ず結果を招くものであるということをしっかりと認識する必要があります。言霊ではありませんけれども「おれはあいつが嫌いだ」なんていった瞬間に、それが具体的な形として表れることがあります。
 やはりお釈迦様の教えに則って、悪いところは抑える。また正念・正定というのは要するに瞑想の練習、トレーニングであります。
 私の属する日蓮宗では結跏趺坐して瞑想するということはいたしません。なぜかというと、天台の常行常坐三昧という考え方があり、一挙手一投足を自ら意識的に超えてやっているというのが瞑想であるという考え方です。毎日の生活の中に南無妙法蓮華経を意識的に生かしていくというのが瞑想なのだという考え方をします。
 ただ僧侶の生活には朝晩の読誦行があります。日蓮宗では木鉦という音の出る丸い木の板のような仏具があり、上手く叩けると、リズムにのって延々とお経を読誦することができます。ただ、その読謡行ですが、知ってるお経でも必ず経典を開いて、経典の文字を目で追い、自分が唱えながら一文字一文字押さえて読んでいきますから、心はお経の上にあるのです。
 そういう一種の瞑想状態を作る練習を僧侶は朝晩、四十分くらいは毎日やってます。だから非常にクールに過ごすことができるんです。
 こういう正念・正定という仏教の修行で重要な瞑想も、この八正道の中にしっかりと含められていて、「戒め」と「瞑想」というものが存在する。
 八正道の実践は原始仏教の行法だ、なんて片付けないで、自分なりにお考えいただきたいなと思います。こういう基本的なことの地道な繰り返しが仏道修行のすべてだと思います。

「自灯明法灯明」の精神

 さて最後にお釈迦様の遺言、「自灯明法灯明」の教えについてお話ししたいと思います。
 「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして他のものをよりどころとせずにあれ。」(大般涅槃経二―二六)
 「自らを島とし」重要なのは「自分だ」ということなんです。よりどころはお釈迦様の残してくれたこの世の真実である縁起の理法であったり、あるいは三法印という形で示される原理というものがありますけれども、それらを一つの物差しにせよ、と言っている。
 その物差しに則って生きるのは誰かというと、わたしたち一人一人なんです。まさにこの遺言の中でお釈迦様が語っている精神は、誰かに頼るんではなくて、自分自身が法の実践者としての自覚を持ってしっかりと前向きに頑張りなさい、ということです。
 われわれが頼りとするものには釈尊の言葉がある。あるいは、日蓮聖人の言葉がある。あるいは道元禅師の言葉がある。それを自分の生活の中に実現していくという精神が、まさにお釈迦様の「自灯明法灯明」ということです。
 釈尊の言葉は実践者としての自分を信ずることができなければいけないということです。 仏教の勉強、これはやらされてると思うとお経なんて読むのもかったるいものですけれども、自分で面白いなと思って読むと結構読めるものです。特に中村元先生が、岩波文庫で原始仏典の重要な経典を分かりやすく翻訳してくださっています。『テーラガーター』『テーリーガーター』にしても、読んでみると、まるで詩の形をした物語のようです。
 すべてのものは移ろいゆくものである。命あるものは必ず滅する。そういう教えに接して、はっとわれに返ることができた。何が必要なのか、今わたしは何をしなければならないのか。そういうことが分かったという、そういう話が次から次へ出てきます。
 それをやはりなんかの課題として読むと、すごく億劫になります。みなさんの世代のちょっとお古い方はご存じですが、大正時代に友松圓諦先生が『法句経講義』を出されて一大ブームになり、大正教養主義の象徴とされました。中村先生の訳がございますので、どうぞ原始仏典のお経を読んでみてください。
 でも、その前にテキストにいたしました「原始仏教」をよく読んでみてください。アートマン論のところは、非我から無我へ変わっていくというようなことが、ちょっと難解かもしれませんが。
 今日は触れませんでしたけれども、原始仏教の社会倫理について、このテキストには最後のところで、世俗に対する教えというものがよく解説されております。「六法礼経」の話で、こういったものは在俗にあってもそれを生かすことができるような、そういう観点から中村先生は解説されていらっしゃいます。
 中村先生の本には釈尊の知恵が要約された形で盛り込まれております。今回一回読んでいただいて、また後で一回読んで、また後で一回読んでと、何度も読んで下さい。そのたびにやはりなんか発見があると思います。

= 終わり =

このページの先頭へ