大洞 龍明塾長

シルクロードに鳩摩羅什(くまらじゅう)の足跡を訪ねて

2009年6月14日 第21期スクーリング講義録

草堂寺(そうどうじ)にて

草堂寺・舎利塔と羅什への熱い想いを語るガイドの周さん草堂寺・舎利塔と羅什への熱い想いを語る
ガイドの周さん
「こんなに有難いことはありません。鳩摩羅什(くまらじゅう)さまの舎利塔(しゃりとう)に直接手で触れることができるなんて・・・」感激に涙を浮かべて熱く語るのは、西安(しーあん)の外語大学をその年の春に卒業して、日本語のガイドをしている周(しゅう)さんでした。それは中国西安市の南東、青峰北麓にある草堂寺(そうどうじ)を訪れた時のことです。

 中国第一級の国宝である舎利塔を収める小御堂(しょうみどう)は平生鍵がかけられて、厳重に管理されていますが、草堂寺釋諦性(しゃくていしょう)住職の好意で、特別に開扉してもらいました。

「どうぞ塔に触って下さい。」というご住職の言葉に従い、千数百年にわたって何百万人と知れぬ人々が鳩摩羅什を慕って手で触れた為すりへっている玉(ぎょく)で造られた舎利塔を撫でた時、ガイドの周さんが言葉を続けて「今の中国は仏教を軽んじてはいますが、私たちは、心の中では仏教を信じています。仏教徒なんですよ。」と訴えました。

 草堂寺舎利塔のこの感激的なシーンがなければ、鳩摩羅什への私の理解は通り一遍のもので終わったかも知れません。ふりかえってみれば、この事が契機で、西安から河西回廊(かせいかいろう)、敦煌(とんこう)からクチャに至るシルクロードに「鳩摩羅什の足跡をたどる」私の巡礼の旅が始まったのです。

羅什の生涯

羅什生誕の地・亀茲故城趾羅什生誕の地・亀茲故城趾
 羅什(らじゅう)の伝記は梁(りょう)の『高僧伝』『出三蔵記集』、『晋書』の鳩摩羅什伝などの記述で、ほぼ尽くされているようにみえますが、今日の歴史研究や考古学的発掘によって新しい事実が次々と発見されているので、いずれ書き換えられることになりましょう。従来の定説に従えば、次のような生涯を送ったことになります。

 父は鳩摩羅炎(くまらえん)。インドの宰相の長子で父の位を継ぐ前に出家し修行の旅に出ます。噂を聞きつけたキジ国王の白純(はくじゅん)が国境まで出迎え、国師として王宮に留まることを要請しました。

 母は耆婆(じーだ)。キジ国王・白純の妹でその時二十才でした。彼女は賢く明敏で美しさは類い希(まれ)で、ひとめ惚れしたジーダの望みで炎(えん)は王命で結婚し鳩摩羅什が誕生しました。

 古代キジ国は、シルクロード天山南路の中央クチャに位置するオアシス国家の一つです。国王は白氏(はくし)と称し、トハラ語(ギリシャ語系)を話す白人種でした。

 七世紀に古代キジ国を訪れた玄奘(げんじょう)三蔵は、『大唐西域記・屈支(くっし)国』の中で、「この国は小乗教の説一切有部を信じ、寺院は百余ヵ所、僧徒は五千人」と記しており、王宮は三重の城壁に囲まれ、その壮麗さはまるで神々の神殿のごとくまばゆく美しかったと伝えられています。

 羅什の母ジーダは、七才のわが子を沙弥(しゃみ)となし、自らも出家得度して比丘尼(びくに)となります。やがて九才になった羅什を連れて、険難なパミール高原を越え、インドのカシミールに留学し、槃頭達多(ばんずだった)を師として上座仏教を極めさせます。留学三年、キジ国への帰途にパミール高原山中の北山で一人の羅漢(らかん)に会い「もし三十五才までに破戒しなければ、アショカ王を教化した優婆掘多(うばくった)と同じように仏教を興隆させるだろう」との予言を得ます。

 時にヤルカンド出身の王子須利耶蘇摩(すりやそま)が出家してカシュガルで大乗仏教を伝えていました。彼が説く大乗の教えは、羅什がキジやカシミールで修学した阿含経を中心とする上座仏教とは相容れないもので、大乗の教えを受け入れることは、羅什にとって過去の自分の全否定につながるため大変な苦悩がありました。

羅什の回心

 羅什は、スリヤソマに従って大乗仏教の教学を学びます。『高僧伝』と『百論疏(ひゃくろんそ)』にそのときの問答が書いてあります。それを少し要約してみます。
羅什は、
「眼根(げんこん)の実有に執し」
スリヤソマは、
「因縁、所生にして実有なし」と説きました。
二者は「有(う)」と「空(くう)」という立場がまったく異なっていました。「有」と「空」というのは、小乗仏教と大乗仏教の相違です。

 ある日、スリヤソマが、羅什の僧房を訪ねてきて、阿耨達(あのくだつ)経を読誦しました。これは一切皆空を説く、大乗仏教です。

羅什がそれを聞いて、
「その経典はどういう道理で、存在するものをすべて否定するのですか」と問うと、
ソマは、
「これは大乗経典であり、畢竟空を説くんだ」と答える。

また羅什は
「眼(げん)によって感覚される諸現象は実在しているのにどうして空なのか」と問うと、
ソマは、
「眼が実有ならば、何を性質とす。」と問い直す。
すると羅什は、
「見(けん)、見るということを性質としている。」と答えた。

あとはソマの独壇場になります。
「眼は見(けん)を性質としているならば、自ら眼を見ることができない。」
「眼は一つの極微から成立しているのか、多くの極微から成立しているのか。」
「もし一つの極微から成立しているのであれば、一つの極微を見ることができる。もし一つの極微を見ることができないならば、多くの極微を見ることができないはずである。」

 ソマはさらに、
「もし極微に形があれば、それは広さ、大きさを持つことになる。広さや大きさがあれば、それは極微とはいえないはずである。」
「広さや大きさがなければ、形があるとはいえないではないか。」
「眼などの感覚で知るあらゆる現象は、真に実在するものではない。」

 わたしたちが目で見る現象は実在するものじゃない。そういうことが空観なのです。極微をバラバラにすると何もないけど、それが集まってくると働きが起こってくるということです。

 このソマの説に、羅什は反論することができなかった。納得したのです。これが「有部(うぶ)」小乗と、「空観」大乗の柱の論争であり、有部の教学を正当に学んできた羅什は、眼根は有であると考えていたのに、ソマは、眼根は因縁所生のもので、実有なものでないと教えたのです。羅什は、大乗の教えに道理があるところを悟りました。

 さて、そういう問答を聞いても難しくて分からないでしょう。それもだんだんと仏教を学んでいただくうちに分かる。そして、私共が価値があると思っていたものが、何の価値もないということが分かる。そうすると物の見方がガラッと変わる。それがやがて真理に導かれるということになるのですが、それはこれからの勉強になります。

 そこで、ひとつエピソードを紹介しましょう。あるとき、元東大寺長老の清水公照氏のところへ、一人のドイツの青年が来ました。
「仏教にいう無とか、空の思想はいったいどういう意味があるのですか、どういうことなんですか」
と聞いたわけです。
どういうふうに答えたと思われますか・・・。

 それを、面白いことに清水公照氏は一言で答えております。
「腹が減ったらなんでもうまい。」
するとその青年は理解したか理解できなかったかはわかりませんが、納得したような顔をして帰っていったというお話です。

 羅什はついに大乗仏教への回心(えしん)を果たし「今まで小乗仏教を学んでいたことは、たとえば、黄金の輝きを知らないで銅の輝きが最上と考えていたことと同じだった」と述懐しています。

亀茲故城 城壁趾亀茲故城 城壁趾
 キジへ帰国して二十才の時、卑摩羅叉(ひまらしょ)を戒師として王宮で受戒し、初めて正式な僧侶となり、大乗の教えを人々に広めます。

 この頃、母ジーダは羅什と別離することを決意し、再びインドへの修行の旅に出ます。出発に当たってジーダは「中国に正しい大乗の教えを伝える人はあなただけです。それはあなたの利益とならず苦しいことでしょう。どうしますか。」と問います。

 羅什は「この大乗の教えを東方の国々に伝え、悟りに至らしめる事ができるのであれば、自分はいろり鍋で焚かれるような苦しみに遭ったとしても悔いはありません。」と答えました。

五胡十六国時代と仏教

 羅什が生きた四世紀から五世紀にかけての中国は五胡十六国の時代です。五種の異民族が次々と十六の国を建てて漢民族を支配し、華北を占拠してゆきました。

 漢民族の王たちは異国の宗教である仏教を採り入れることに消極的でしたが、異民族であるこの時代の覇王たちは仏教の受容に前向きでした。

 その中で河北をほぼ統一した前秦三代目の苻堅(ふけん)王は、当時の中国仏教界の第一人者であった釈道安の推挙で、すでに中国にまで名声が聞こえる鳩摩羅什を招き直接教えを聞きたいと考えました。

 これを機会に西域支配をも意図していた苻堅王は、呂光(ろこう)将軍に七万の兵を与えて白純王が支配するキジ国征服に向かわせます。

 白純王は周辺のオアシス国家に援軍を求め、七十万の大軍でこれを迎え撃とうとしますが、戦略にたけた呂光将軍の前にあえなく落城、白純王を始め一万人のキジ人が殺されて羅什は捕虜にされます。

生卒年時と羅什の破戒

 さて、ここで羅什の生卒年時について触れておきます。誕生は三五〇年、没年は四〇九年、六十才で長安で死を迎えているというのが従来の日本での定説となっています。これは、呂光将軍が亀茲を攻めて羅什が捕らわれの身となり、従姉に当たる亀茲国の王女を無理矢理に妻とさせられて破戒したのが三八四年で羅什三十五才だったからというのです。

 インド留学の帰途、北山で羅什の顔を観た一人の羅漢(らかん)が母ジーダに向かって「この沙弥(しゃみ)は三十五才までに破戒しなければアショカ王を教化した優婆掘多(うばくった)のような高僧になるであろう。もし破戒したなら、平凡な僧として終わることになる。」と予言したことに根拠を置いています。

 破戒を強いられた三八四年が三十五才に当たる筈だという説に従えば誕生は三五〇年になります。実際には、三四四年に生まれ、四一三年に七十才で没したというのが正しいのではないでしょうか。現在の中国ではそれが通説であり、日本でも鎌田茂雄先生がその説をとられていました。とすると没後千六百年は二〇〇九年から二〇一三年まで延び、羅什を顕彰する期間が長引くことになります。

 ところで僧の妻帯は女犯罪として中国仏教では厳しく律せられていましたが、西域の上座仏教では、ごく普通のことであって、さして騒ぎ立てるようなことではありません。羅什は呂光将軍が亀茲へ来る前から妻帯しており、姑藏においてもそうですし、長安においても後秦王・姚興(ようこう)が勧める妓女と晩年を過ごしたことが『出三蔵記集』や『晋書列伝』『高僧伝』の記述からも伺えます。

 また西域仏教の僧たちがそうであったように、羅什は有髪であったと思われます。僧の剃髪の習慣は、中国へ仏教が入って、仏教僧が他の宗教(儒教や道教)の指導者達との差別化を際だたせる為に行った一つのファッションと権威づけとして普及して来たと考えられる面があります。羅什のこうした生き方は、日本仏教の中では、浄土真宗の祖・親鸞聖人に伝承されているのではないでしょうか。

 羅什とおびただしい財宝を入手して長安への帰路、主君・苻堅王の死を知った呂光将軍は、河西回廊の中ほどに位置する姑藏城を攻め、前涼(ぜんりょう)国を亡ぼし後涼(こうりょう)国を建て、やがて自ら王位に就きました。

 羅什が姑藏城に滞在したのは、三八五年九月から四〇一年十二月までの十六年間、呂光一族に軍事顧問的立場で仕えていました。しかし、高僧伝などに言うような「仏教と無縁で徒労に時間を送っていた」のでも、「中国に大乗仏教を伝えるという使命を忘れた」訳でもありません。

 中国へもたらされる西域の文物の殆どは河西回廊を経過します。仏教が一番早く中国に根づいたのも姑藏(こぞう)や酒泉(しゅせん)・張掖(ちょうえき)・敦煌(とんこう)でした。河西回廊では張一族を始め王侯貴族には深く仏教が浸透していました。仏教経典も多く伝えられ、早くも羅什の姑藏入りを知った僧肇(そうじょう)など長安からの僧も集まって来ていました。羅什はこの地で深く漢文化を吸収し、自ら温めていた仏教経典の翻訳をも手がけていたと思われます。

長安での訳経

 四〇一年十二月二十日、後秦(こうしん)王姚興(ようこう)が派遣する六万の兵によって後涼国は亡ぼされ、羅什は永年の念願であった長安の都へ入ることになりました。

 たちまち訳経を始め、逍遙園(しょうようえん)(現草堂寺)と長安大寺で三十五部二百九十四巻の経論を翻訳しました。

 四〇九年八月二十日、羅什は長安で没します。享年六十才。(生卒年時には異論があり後に述べます)

 死にあたって彼は「私はよそ者(外国人)であったが、どういう因縁であったか、経典の漢訳に従事し三百余巻を訳出した。どうかその本旨を極めて、間違わないように。また訳した経典を広くひろめ後世に伝えて欲しい。私が翻訳し大乗仏教の真理を伝えたところが正しいことを証明する為に、死後身体は火葬に付されて灰になる訳だが、法を説いた舌だけは、焼失することなく、そのままの形を留める筈です。」という言葉を残します。

 彼の言葉通り、遺体は火葬されましたが、舌だけは原形を留め灰にならなかったと伝えられています。死後、彼の願った通り、訳出した仏典は、広く東アジア全域に伝播し、日本においても諸宗派の根本経典として、今日に至るも多くの人々を救済し続けています。

河西回廊を行く

河西回廊地図
 二〇〇七年十月十七日、甘粛省の州都・蘭州(らんしゅう)の飛行場に降り立った私は、敦煌(とんこう)研究院の王旭東(おうぎょくとう)副所長に出迎えられ、通訳の丁淑芳(ていしゅくほう)さんと運転手と共に千二百キロに及ぶ河西回廊(かせいかいろう)の旅に出発しました。河西回廊というのは黄河(こうが)の西側で、バダインジャラン砂漠とキレン山脈に挟まれた回廊のような地形で、山脈の氷河から流れ出る水利によって、肥沃な土地として知られています。

 蘭州から武威(ぶい)までは約二七〇キロ、羅什(らじゅう)が十六年間、呂光(ろこう)将軍の下で滞在した姑藏(こぞう)城とはどんな処であったのかを確かめるのが最初の目的でした。姑藏城は、呂光が前涼の張(ちょう)氏一族の居城を攻めとった上にキジ国で奪った財宝で更に堅固・豪華に築いた城です。

 その姑藏城の遺構は何処にあるのか、武威市の地図や案内書のどこを探してもでてきません。

 二十年ほど前、講談社から出された宮本輝氏の『ひとたびはポプラに臥す』の中にわずかに記載され、宮本氏は武威の市街地から南東へ約十五キロの処にあるというのです。城趾にカメラマンを同行して「姑藏城趾(こじょうじょうし)」として写真をその本に掲載されていました。

 私もその地を訪れて宮本氏が「姑藏城趾」としている城壁らしき場所で写真を撮ったりしましたが、どうも城趾とは思えません。むしろ漢時代の長城や兵の駐屯地のように思えてきました。

墓誌発見の党博士墓誌発見の
党博士
敬徳記の石板武威市博物館倉庫で発見敬徳記の石板
武威市博物館倉庫で発見
姑藏城の正確な位置の決め手となった墓誌姑藏城の正確な位置の
決め手となった墓誌
漢時代の長城の一部漢時代の長城の一部

 市街へ戻って武威市博物館の楊福(ようふく)館長にそのことを話すと、私の推定通り漢時代の長城の一部だと告げ、一人の研究者を紹介して下さいました。その方は党寿山(とうじゅざん)博士で近年姑藏城の位地を示す墓誌(ぼし)を発見されていました。

 その墓誌には「建元十二年(三七六年)十一月三十日、城の西十七里(・・・・・・)(七・五Km)楊墓の東百歩のところ深さ五丈(十二m)に梁叙(りょうじょ)太守と夫人が葬られた」とあり、この墓誌を党博士が発見されたことによって、姑藏城の正確な位地が判明しました。それを現在の武威市の地図にあてはめて見ると、丁度武威市街地の中心部にあたり、鳩摩羅什寺や大雲寺のある辺りに該当しますが、今はそれらしき跡はありません。

 日本では武威に鳩摩羅什寺があり、そこに羅什塔が建っていることは、あまり知られていません。前述の『ポプラに臥す』では、羅什塔は武威市公安局の刑務所の中に受刑者と同じように収容されている(・・・・・・・)と書いてありましたが、それは一九九五年頃のこと。一九六六年に始まる文化大革命によって鳩摩羅什寺はことごとく破壊され、境内地は市の刑務所になりましたが、中にあった羅什塔だけは、破壊されないで残っていたのです。

仏教徒の寄付によって再建されつつある鳩摩羅什寺仏教徒の寄付によって
再建されつつある鳩摩羅什寺
 現在では、鳩摩羅什寺全体の復興が計画されて、刑務所は移転し、本堂や山門、鐘楼坊舎などが仏教徒の寄附によって再建されつつあります。

 鳩摩羅什寺の羅什塔の前に立った時、私にとっては思いもよらない発見がありました。澄み切った青空を背景に立ち上がった十三層塔の正面に、「舌舎尊師(・・・・)」の扁額が掲げてあるではありませんか。

「ヒョッとしたら、長安で荼毘(だび)に付されても焼けなかった羅什の舌は、武威まで運ばれてここに葬られたのではないだろうか。」

 羅什寺の僧も、武威市博物館の人々もその通りだと言うのです。日本では、案外知られていないことです。

舌舎尊師とある羅什塔舌舎尊師とある羅什塔
 また武威市博物館の倉庫に案内してもらって調べていると「羅什地基(らじゅうじき) 四至臨街(ししりんがい) 敬徳記(けいとくき)」と刻んだ石板を発見しました。
「これは一九三〇年に塔の前から発見されてそのまま倉庫に眠っている」とのこと。敬徳(けいとく)とは、唐の太宗李世民(りせいみん)の重臣として活躍した武将で、この人が姑藏に来た時「羅什のお墓がここに在る。周辺は市街に面している」と石板に刻んで塔の前に埋めたもので、初唐の頃には既に羅什塔が、存在していたことを証明することになります。

仏塔に跪くガイドさん五体投地する丁さん・羅什塔前
 さてこの羅什塔の前でも、ちょっとした驚きのシーンがありました。蘭州からずっと通訳として付き添って下さっていた丁淑芳(ていしゅくほう)さんが突然、うやうやしく羅什塔に向かって五体投地(ごたいとうち)の拝礼をされたのです。

 雲ひとつない抜けるような青空にクッキリと立つ羅什塔は、その時なんとも美しく尊く輝いて見えたことでしょう。

敦煌・莫高窟修復

莫高窟第103窟東壁南側維摩経変莫高窟第103窟東壁南側維摩経変
 翌年二〇〇八年五月十日に、私は北京から敦煌へ入りました。二〇〇二年から敦煌莫高窟の修復事業を始めており、既に第四五窟、五七窟、二一七窟、三二〇窟の修復が終わりました。敦煌の石窟は全部で四九二窟。それを少しでも、長く保って欲しいという願いでやっております。

 今回は第一〇三窟の修復が終わった記念のセレモニーが行われ出席しました。第一〇三窟は、有名な維摩経の経変図があります。維摩に対して反対側に文殊菩薩。維摩と文殊との対話の場面が描かれた経変図です。そのほかにも阿弥陀経や、観無量寿経の経変図なども描かれています。敦煌研究院では、修復供養人の銘板を作って、永久にこの洞窟の中に掲げられます。

車師前国の王城・交河故城 トルフィン車師前国の王城・交河故城
トルフィン
高昌故城・玄奘三蔵が説法した講堂 トルフィン高昌故城・玄奘三蔵が説法した講堂
トルフィン

 そして敦煌から、烏魯木斉(うるむち)、トルファンへと進みました。

高昌(こうしょう)とアーリア族

衛星画像による地図黒海から甘粛省にかけて西安までの航空写真地図
 羅什を伴った呂光将軍が、三八四年三月にキジを発って長安へ向かう帰路、コルラ・カラシャールを経て高昌(現在のトルファン地域)に着いた時、高昌大守(こうしょうたいしゅ)の楊翰(ようかん)は、涼州刺史(りょうしゅうしし)の梁煕(りょうき)に呂光の軍を高昌に止(とと)めるべきかを問うていますが、梁煕の優柔不断によって難なく高昌を通過させています。高昌でも呂光はここに自分の王国を建てる志を懐きましたが、楊翰の策略と部下・杜進(としん)の進言で敦煌に軍を進めました。

 高昌は、前漢・元帝の時代に「高昌塁」と呼ばれる軍事基地が設けられ、漢人が住みつくようになりました。もともとこの地には、クチャやカラシャールと同様にインド・アーリア人種がオアシス国家を形成しており、「交河城(ヤルホト・現在の交河故城)」を中心に「車師(しゃし)前国」という王国をつくっていました。高昌塁と交河城は東西に約五〇キロの距離をおいて対峙・共存していました。この状態は羅什がここを通過した三八五年の時も続いています。

 やがて、四五〇年に北涼の王族・沮渠(しょきょ)氏が車師前国を亡ぼし、高昌国が成立しています。

 トルファン通過の時、羅什は自分と同じインド・アーリア人種に属する「車師前国」が、のちに漢人の手によって滅ぼされゆくことを予見していたでしょうか。それはやがて祖国・亀茲王国の運命に連なることでもありました。

クチャへ

鳩摩羅什ブロンズ像 キジル石窟前鳩摩羅什ブロンズ像
キジル石窟前
 クチャは、鳩摩羅什の生まれた故郷、古代キジ国です。

 敦煌からシルクロードは、北道と南道に分かれます。北道はまた天山山脈を境にして、天山北路と天山南路に分かれます。クチャは天山山脈の南側、タクマラカン砂漠の北側、ちょうど真ん中辺で、交通の要衝にあたるところです。昔、黒海のほとりに、アーリア人種が住んでいました。今から五千年ぐらい前に、一部のアーリア族が移動を開始し、南ロシアを通って、アルタイ山脈にたどり着いて、アルタイ山脈の南側で、ひとつの安住の地を得ていました。

 ところが四千年前に、気候の加減か、食料の為か、人口爆発が起こったのか、また大移動が始まります。この時、ヨーロッパの方へ移動したグループと、インドへ移動したグループがありました。そして、やはり前と同じように南ロシアを通ってアルタイ山脈へ行った人たちがいます。千年前に、ここに居住していた人たちは同じ民族ではありますけども、敵同士です。五千年前に、移動して生活していた人たちは、ずっと南下して、楼蘭(ろーらん)の辺りで、安住の地を得ました。

 四千年前の人たちは、トルファンあたりに住まいを持ったわけですが、天山山脈を下りてきたグループのひとつが古代キジ国人でした。今から三七〇〇年ぐらい前のさまざま遺跡が、特に青銅器の遺跡がクチャから出土しています。

 キジ人たちはアーリア人ですから、目が青く、髪の毛は赤く、肌は白く、鼻は高い。オアシス都市・古代キジ国として国家形成をしたのは、千五百年ぐらい前だろうと思われています。

羅什の容貌

 さて、鳩摩羅什の容貌はどんなふうであったか。キジル石窟の前の鳩摩羅什の銅像は一九九四年に建てられものです。羅什の父はインド人、母はキジ国の王女ということで、想像で作られたものです。しかし、私はこれを見て疑問に思いました。というのは、鳩摩羅什の頭が丸い。平べったくない。これはおかしいんじゃないかと思ったわけです。

木で頭を押さえ扁平頭にする板で頭を挟み扁平にした

現代人頭蓋  古代亀茲人頭蓋左:現代人頭蓋
右:古代亀茲人頭蓋
 なぜなら古代キジ国の人は扁平頭(へんぺいとう)でした。特に身分の高い人は、扁平頭だったのです。『大唐西域記』の屈支(くっし)国(クチャ)のところに、「亀茲国は、その習慣として、子どもを生むと木で頭を押さえ扁平にしようとしている」という記述があります。前後に板を頭を挟んで、扁平にするのです。

 そこで、私は鳩摩羅什が扁平であったということを物語る六つの証拠をそろえてみました。一つに玄奘三蔵の『大唐西域記』にあった、亀茲国の記述。それから二つ目にキジル石窟などの壁画に描かれた、キジ人の容貌です。みんな扁平なのです。ヨーロッパの学者も、日本の学者も気が付いてなかった。それから三番目に、古代亀茲人の胸像のレプリカがあります。これは、ドイツのルコックが本物をクチャから奪ってドイツへ運んだもので、近年レプリカとして帰ってきています。それを見ると、みな扁平です。さて一番大事なのは、スバシ故城出土の王女の頭蓋骨です。王女の白骨体が一九七八年にスバシ故城のショウコリ大寺の仏塔の北側から発見されました。3世紀から4世紀ころの遺蹟です。鳩摩羅什のお母さんが生まれた頃とほぼ同じです。

キジル石窟第205窟 亀茲国王(中央)・王妃・僧侶 (4人共に扁平頭、僧侶は有髪) ドイツベルリン民族学博物館キジル石窟第205窟
亀茲国王(中央)・王妃・僧侶
(4人共に扁平頭、僧侶は有髪)
ドイツベルリン民族学博物館
ル・コックがドイツに持ち帰った胸像のレプリカはどれも扁平であったル・コックがドイツに持ち帰った胸像のレプリカは
どれも扁平であった

 その白骨体が今のクチャ王府に陳列してあります。それは木の棺に入って発見されました。その中に龍の頭の彫刻があった。それで、王女だということが証明されたのです。はっきりと扁平頭になっています。そこには赤ちゃんの白骨体もありました。だから、お産をしてすぐ亡くなったのではないかと思われます。

 この王女は、一七五センチ。白骨だけで一七五センチだから、おそらく一八〇センチ近かったと思われます。現代に出してきても長身の素晴らしい美人であっただろうと思います。これが四番目の証拠。

キジル美人の扁平頭蓋キジル美人の扁平頭蓋
キジル美人と大洞塾長キジル美人と大洞塾長
王女(キジル美人)出土の仏塔北の穴を説明するオブル氏王女(キジル美人)出土の
仏塔北の穴を説明するオブル氏

 五番目に、キジル石窟研究所の特別な倉庫に、人の頭蓋骨が六体ほど格納されていて、今までは外部に絶対に見せなかったものですが、所長の王衛東氏と新疆文物局のオブル氏の特別な配慮で中に入れてもらい、写真におさめることが出来、それら全てが扁平頭であることを確認しました。 

 一番最後の六番目が面白い。活気にあふれるクチャのバザールを歩いていたときの発見です。私を案内してくれたオブルさんが、「ちょっと見てください。この子供の頭は扁平でしょう」というのです。横を向きオデコをあげてもらって写真を撮りました。どうして扁平なのかと尋ねると、
「今でもクチャの人々は、先祖からの伝承で、母親は子供が生まれたら、骨が柔らかい生後六ヶ月以内に額を手で押さえて平たくする習慣があります。そうすれば、女性は美人になり、男性は格好良くなるといいつたえられているのです」と教えてくれました。

キジ楽舞を伝えるクチャの踊り子キジ楽舞を伝える
クチャの踊り子
クチャバザールにて、少年の額が扁平クチャバザールにて、
少年の額が扁平
クチャバザール風景クチャ
バザール風景
キジル石窟研究院に保管される扁平頭蓋キジル石窟研究院
に保管される
扁平頭蓋

 亀茲人の扁平頭の一考察として、羅什の母だけでなく、羅什自身の容貌がやっとなんとなくつかめてきます。

 古代亀茲国は、九世紀にウイグル人に征服され滅亡しました。アーリア系亀茲人の殆どの男達は殺され、亀茲国人が話していたトハラ語もその文字も死語になってしまいましたが、女系の血統だけは、ウイグル人と同化して残っていきます。母親たちは板ではなく手を使って額を扁平にすることを伝承し、代々「扁平頭の文化」は千年の時を越えて伝えられていたのです。

蘇ったキジ国の菩薩たち

クムトラ新石窟GK21窟 13体の菩薩像クムトラ新石窟GK21窟 13体の菩薩像
 羅什は亀茲国の王宮に生まれ、沙弥(しゃみ)としてまた僧として、ショウコリ大寺やキジル石窟・クムトラ石窟で学び修行し説法(・・・・・・・)をしていました。

 一九七九年に中国軍がクチャの西方約二十キロにあるクムトラ石窟の近くで崩れた崖を修理していた時、偶然に穴があいて、未知の石窟が出現したのです。

 千年以上埋もれていたクムトラ新窟の発見でした。

 五世紀頃の壁画が色鮮やかに現れたのです。イスラム教徒の偶像破壊行為をまぬがれたギリシャ・ペルシア様式をもつ菩薩像十三体が偶然にも甦ったのです。長い年月埋もれて外の空気にさらされなかった為、壁画の色彩は鮮やかでした。まさに奇蹟の発見という他はありません。羅什はこのような絢爛たる古代亀茲国の芸術・文化の中に囲まれていたのです。

 晩年羅什は「天竺へ帰りたい」と長安で周囲に漏らしていたことが慧遠の書翰にしるされています。

 幼い日々を過ごしたきらびやかな王宮や、白い雪を頂く美しい天山の峰々、壮大なショウコリ大寺、そしてラピスラズリをふんだんに使った壁画が描かれた洞窟の数々、それにもまして優しかった母ジーダの面影が羅什の脳裏に去来していたのでありましょうか。

結び

鳩摩羅什座像画(草堂寺・石碑の拓本)鳩摩羅什座像画
(草堂寺・石碑の拓本)
 大乗空観を根本原理とする日本仏教の諸宗派は、動乱の中国、五胡十六国の時代に、彗星のごとく現れて去っていった羅什の存在があってはじめて、今現在成立しているといっても過言でないでしょう。

 羅什という存在がなければ、東アジアは、小乗(上座)仏教の国になっていたかもしれません。中国も朝鮮半島も日本もです。

 またインド、カシミールからの帰りに、羅什がスリヤソマに出会って、小乗から大乗への回心(えしん)を果たしたことが、その契機になったことも忘れてはなりません。

 波乱に満ちた羅什の生涯は、一時間や二時間で語りきれるものではありませんが、私が旅した河西回廊と、クチャでの新しい発見をお伝えして、羅什一六〇〇年の記念すべき年を前に、今、彼の偉大なる足跡を偲んで、威徳を讃えるものであります。

= おわり =

このページの先頭へ