現代中国の仏教事情 名女優・陳暁旭(ちんぎょうきょく)の出家
つい一ヶ月前のことであります。私は5月11日から21日までの11日間、中国ウィグル自治区のシルクロードを旅してきました。ウィグルの首都ウルムチ、熱砂のトルファンから天山南路にそってコルラ、クチャへと足を延ばす一人旅でした。
帰路ウルムチから北京に向う飛行機(CA1294)の中で、スチュワーデスが『新京報』という中国語の新聞を手渡してくれました。何となく目を通していると、「陳暁旭(ちんぎょうきょく)」という有名な女優の死を報じて数ページの特集を組んでいました。5月13日に深せんで癌のために42才で亡くなったということです。
新京報の特集記事あらすじは、長安の大貴族、賈(か)家の大邸宅に住む貴公子の宝玉と林黛玉との悲恋の物語でありまして、黛玉の恋仇、宝釵(ほうき)が宝玉と結婚することになり、その婚礼の儀式が行われている時に黛玉は悲しくも哀れに息を引き取っていくのであります。
黛玉の言葉に「この世は、あって無いようなもの、この世に別れがあるようでないような。この世はもともと実体のないもの、夢が砕けて散り、灰となって消えてなくなっていく。」とのセリフがあり、黛玉を演じた女優陳暁旭さんは、いつもこの言葉を大切にして、他の人々にも伝えていました。
連続テレビ番組が終了して暫くの後、彼女は転身して実業家になります。広告会社をつくりました。自分自身がコマーシャルに登場して成功を収めます。
左が出家前、右が得度後亡くなる前の年、長春の百国興隆寺に入寺して修行を始め、今年の2月に剃髪して尼僧になりました。法名は妙真と頂かれました。
数十億あった財産は、三分の一を陳暁旭慈善会基金として残し、三分の一を仏教会に、他を親族に分配して42才の若さで浄土へ還っていかれました。
この陳暁旭さんの出家と死は、中国社会に大きな衝撃を与えたようで、ウルムチから北京へ向かう機内で私が目にした新聞も特集記事として大きく扱わざるを得なかったのだと思います。
革命から改革開放へ
現代中国の仏教事情ということになりますと、1949年に毛沢東ひきいる中国共産党政権が樹立されて以来、「宗教はアヘンなり」という根強い考え方が支配して、仏教は日陰の存在でした。特に1966年に始まる文化大革命では、仏教寺院の堂宇は、紅衛兵によって殆ど破壊されるに任せられました。寺院に属する僧職者たちも反革命者のレッテルを貼られて、虐待され還俗する者が大多数を占めました。鄧小平氏による改革と解放路線が成果をあげるに至って、漸く仏教に対する弾圧も緩和されつつあります。破壊された寺院建物は仏教会の手によって信者の寄付で復興されるものと、政府の予算によって復興されるものがありますが、政府支配下の寺院は、形は寺院でありながら実は博物館として管理されているのが実情です。
破壊を免れた堂宇に仏像はなく、お土産売場や喫茶食堂として使用されたり、以前は牛舎として利用されるようなこともあったと聞きます。
伏流する仏教信仰
鳩摩等什舎利塔(西安)
草堂寺のご住職にお願いをして、普段は鍵がかけられている羅什堂のとびらを開けていただいて中に入り、羅什法師の遺骨を収めた2mほどの高さの玉(ぎょく)で作られた中国の特別国宝となっている舎利塔に参拝しました。
「どうぞ、その玉塔に触ってください。」
ご住職の勧めで、千年を超える歳月、いく萬という羅什を慕う人々が触ってすり減っている塔の玉肌に触れて、什師を偲びました。
ヒヤッとする玉の肌触りを通して千六百年を隔てる五胡十六国の時代に、前秦の王である苻堅の命を受けた呂光将軍によって囚われの身となり、政変で十六年にわたって姑蔵(コゾウ)(現在の武威(ブイ))に幽閉され、後秦王、姚興の尊敬を受けて国師として長安に迎えられ、大乗経典を主に三百巻の経典を翻訳し、中国のみならず東アジア全体、特に日本に最大の影響をもたらした鳩摩羅什三蔵法師の偉業を偲びました。
すると驚いたことに通訳の若いガイドさんが、玉塔に触りながら涙を流しているではありませんか。
「ああ、こんな有難いことはありません。羅什さまの玉塔に触らせてもらえるなんて、本当に有難いことです。中国は今、仏教を粗末にしていますが、私たちの心の中は仏教徒ですよ。」とその心情を語ってくれました。
トルファンでも博物館に勤務する若い漢族の男性が、「私たちの心の中は、仏教ですよ。仏教を信じています。」とハッキリ私に向かって申しました。
仏塔に跪くガイドさん中国はこれから改革解放がどんどん進み、やがて心の解放にまでいたるとすれば、昔から中国の人々の心に伏流している仏教に対する信仰が、ある時、突然わきあがるのではないかと、考える訳です。
中国の民衆のうち十分の一の人々が仏教に回帰したとすれば、日本の人口と同じ、一億二千萬人の仏教徒が誕生するのですし、その可能性は大きいと思いました。
羅什三蔵法師の生卒年考
私は、ここ数年間、シルクロードに沿って鳩摩羅什三蔵法師の足跡を尋ねて年二、三回ずつ中国各地の旅をしています。羅什の伝記は、梁の『高僧伝』『出三蔵記集』『晋書』の鳩摩羅什伝などに著されていて、ほぼ伝記としては固まっているように見えるのですが、実際にシルクロードの羅什の足跡を歩いてみると、「果たして諸伝を鵜呑みにしていいのだろうか」という疑問が湧いて来ます。
日本で定説となっている彼の誕生年と没年についてだけに絞ってみても、350年生まれとする日本説に対して「343年生まれである。」というのが中国仏教会の定説であります。
没年は409年と日本で主張する学派がありますが、413年とする人々もいます。
羅什師が35才の時に呂光将軍によって破戒を強制されたという伝説が、主流を占めていますが、実際クチャ(古代亀茲国)に足を運んで調べてみると、これは作られた伝説であって、事実は他にあるということが解ってまいりました。
姑蔵(コゾウ)(今の武威(ブイ))に幽閉された十六年間は羅什にとって無為の歳月であったと書かれていますが、それにも疑問が残ります。
日本では409年に60才で没したことになっていますが、実際は413年に70才で命終したのが正しいのかも知れません。羅什のことをよく知れば知るほど、多くの不明な点や疑問な点がでて未知の世界が拡がって来ます。
二人の美女との出逢い
さて私は、この度の旅行で、二人の美女に会いたいと思って旅をしました。一人はウルムチ(新彊自治区の首都)にいました。五年前、私はその美女に会いたくてウルムチを訪問しましたが、情報の収集が乏しかったために、ついに会えず仕舞いで、ガッカリして帰国した苦い経験があります。今回は、確かにウルムチにその美女がいることと、敦煌研究院の王旭東副院長の紹介状を携えて、訪問することが出来たので、必ず会えることになりました。
その場所は、ウルムチ市西北路にありました。五年前に来た時は、埃っぽい建設工事の真っ最中で、中に入ることもできず、口惜しい想いをしましたが、今は美しい堂々たるモダンで斬新な建物でした。
受付で名前を告げると、早速、副館長の劉氏が出迎えてくださり丁寧に案内していただきました。
目指すは、二階のメインルームにある「楼蘭(ローラン)美女」です。
2m程の長さのガラスケースの中に、今眠りから覚めたかと想うばかりの様子で、四千年の時を越えて私の目前に現れました。
生前の身長は157cm、金髪ブルーアイで血液型はO型。推定年齢は45才、頭には雁の羽根を二本飾ったフエルトの帽子をかぶり麻のマントを纏い、毛のついた衣服を着て羊の皮の靴を履いていました。さまよえる湖として知られるロプノール湖の湾の近くで1980年に発掘されました。
発掘後、暫く日本に運ばれて科学的分析が加えられ、炭素計の測定の結果、三八八〇年前の時代と推定されました。DNA分析では、アーリア人の遺伝子が70%を占めていました。かつて繁栄を極めたオアシス都市楼蘭王国の近くで発見されたので「楼蘭(ローラン)美女」と名づけられ、今はウルムチ博物館のガラスケースの中で、厳重に温度と湿度を保たれて静かに眠りについていました。発掘当初、白かった顔色もやや黒ずんで来て現代の空気にさらされて損傷したように思えましたが、三千八百年前にロブノール湖のほとりで、おだやかな生活を送ったにちがいない彼女たち。目が深く鼻が高いアーリア系一族のことに想いを馳せました。
一体、彼女らアーリア系の人々は何処からやって来たのでしょうか。
衛星画像による地図彼女らの先祖は、西方カスピ海を越えた黒海のほとりに居住していました。今から五千年ほど前にアーリア人の第一回民族移動がありました。彼らは、南ロシアを経て東へ東へと移動を重ね、遂にアルタイ山脈にたどり着いて山脈の南麓あたりに居を構えました。やがてまた千年の歳月が流れ、今から四千年ほど前に、黒海周辺にいたアーリア民族は、第二回目の大規模な民族の移動を開始しました。気候変動によるものか、或いは人口の急激な増大による理由かと思われますが、この時、一つの流れは現在のヨーロッパの方向へ、また二つ目の流れはインドへと侵入し、三つ目の流れは、千年前に彼らの祖先が辿ったと同じ南ロシアを通って、アルタイ山脈にぶつかり南下することになります。
すると、山脈の南麓で安住していた千年前のアーリア人との生存競争が起きます。同じ民族でも千年も離れていれば、互いの生存をおびやかす異民族でしかありません。
先住のアーリア人たちは、生き残りをかけてオアシスを求めて南下し、ロプノール湖のほとりにたどり着いて、豊富な水と、胡楊などの樹木が生い茂る森におおわれたオアシスの地に安住のすみかを得たのでした。
しかしやがて、さまよえる湖ロプノールは姿を消し、オアシスの地も熱砂に覆われる不毛の地と化して、「楼蘭(ローラン)美女」の墓もいつの間にか砂に埋もれて、何千年も忘れ去られていたことになります。
ウルムチ博物館に眠る「楼蘭(ローラン)美女」は、彼ら民族の遠い記憶を蘇らせるロマンに満ちたメモリーです。
熱砂の嵐の中クチャに
古代亀茲国王宮城跡ウルムチからクチャまでは、飛行機で約二時間。ところが、朝八時出発の航空機がいつまで経っても出発しそうにありません。中国南方航空が週二便ウルムチからクチャそしてカシュガルへ向かう航路を双発のプロペラ機を用いて運行しているのですが、カシュガルからウルムチへ帰って来る筈の機体が砂嵐の為に発進不能に陥り、欠航するということになりました。
クチャ・カシュガルへ向かう出発便は、三日後にしか出ないのです。
「困った。5月21日には、ウルムチから北京を経て日本に帰らなければならない。いたずらに三日間をウルムチで過ごして帰るなんてことは、無念の極みだ。」
「そうだ。今度の旅は、二人の美女に逢うことが、大きな目的だった。一人目の楼蘭美女には逢うことが出来た。しかしクチャにいるもう一人の美女に逢うことが出来なければ、この旅の意義の大半は失われてしまう。何かクチャにたどり着く別の手だては無いものだろうか。」
直ぐに、空港の受付カウンターや旅行会社のオフィス、日本語ガイドさん達と連絡をとって今日中にクチャへ到着できる方法を模索しました。鉄道では、二日後にしかクチャへ着かない。自動車でいくには、道路や天候に不安がある。ウルムチ国際旅行社の日本語ガイドをしてくれた馬媛(マーエン)さんから一つの提案がありました。
「コルラまで飛行機で飛んで、そこからタクシーを雇って砂漠を横断しクチャへ向かえば、夜にはクチャへ着くことができるでしょう。」
「よし、それは良案!」と、航空運行表を見ると小一時間後にコルラ行きの出発便があるということがわかりました。直ぐに切符を買って南方航空の受付カウンターへ急ぎ、荷物を積み込んでもらって、ようやく機上の人となりました。
小型の双発プロペラ機で、コルラ空港に降り立ったはいいが、まるでバラック小屋のような小さな待合室があるだけで、荷物は、三輪トラックで積んできたものを自分で選んで探し出すしかありません。タクシーは数台待機していましたが、いずれも中古のガタガタ車。とてもクチャまでの砂漠道を300キロ走るには不安が残ります。躊躇していると、少し離れた処に、フォルクスワーゲン製の新しそうな車が一台客待ちをしていました。
「クチャまで行きたいのですが大丈夫ですか?」筆談を交えて話しをすると450元(約8000円)で交渉が成立したのです。
コルラは昔から歴史に登場する処ですが、新しく石油が発見されて、石油基地の街として人口が増え、空港を出て市街を通ると、十階建てほどのアパートが立ち並んで街並みが整備されていました。
とにかく、暑いのです。運転手に頼んで店に寄り凍るほど冷えたペットボトルを10本買って車に持ち込みました。
コルラの街を少し離れたところで、車内が急に熱くなりました。クーラーが切られたのです。
「運転手さん、クーラーを入れてくださいよ。」
「いや、それはできません。」
「あと100元はずむから、冷房を利かせてくださいよ。」
すると車内が涼しくなってホッと息をついていると30キロほどしたら、またクーラーのスイッチが切られたらしい。
よくよく事情を聞いてみると、この車はプロパンガスを燃料にしているので、クチャまで行かないとガスの補給ができない。ガスは満タンにして来たが、クーラーをつけっぱなしにすると、着く前にガス欠になって砂漠の真ん中で、立ち往生する危険があるということでした。
「運転手さんの気持ちを疑って悪かった。それでは、覚悟しよう。」と先頃買い込んだ冷たいペットボトルを脇の下や腿に挟んで体を冷やし、ハンカチに冷水を含ませて頭や首にあてて、熱中症になるのを予防することにしました。折悪しく砂嵐が吹き付けてきて窓を開けて空気を入れることもできません。
キジル美女は、この塔の北側から発見されたそのうちに砂嵐が激しくなって20mほど先が見えなくなりました。殆ど暗闇に近いのです。対向車のヘッドライトが砂嵐の中から急に現れて、激突しそうな怖さが襲います。手は吊革をしっかり握って、体を宙づり状態で守らねばなりません。さすが運転手は土地の人だけあって平気な顔でドライブしてくれているのには、安心させられました。
夜の8時頃、ようやく車は、あこがれのクチャへ到着しました。8時といっても北京標準時間なので、34度西へ離れたクチャでは実質時差で二時間あまり早いためまだまだ明るく、ウイグル人の集落ではバザールが賑わっていました。
古代亀茲王国の盛衰
クチャは、シルクロード天山南路の中央に位置するオアシス都市です。街の北側に延々と東西に数千キロも続く天山山脈からは、氷河の雪解け水が、庫車(クチャ)川からタリム河となってタクラマカン砂漠へ流れ込み、ここには二千年以上前から歴史に登場する「古代亀茲王国」の首都が栄えていました。『晋書』および『北史・西域伝』によれば、漢の時代から続く「延城」を都とし、その城壁は三重になっていて、中に仏塔廟が千ヶ所もあり、王宮は壮麗にして、煌びやかなこと神のいます宮殿のようであったと伝えられています。
玄奘三蔵法師の『大唐西域記』にも、「屈支国(クッシコク)(古代亀茲国のこと)は、東西五〇〇キロ、南北三〇〇キロあまりの広さである。都は、ほぼ九キロの城壁に囲まれている。黍(きび)や麦の耕作に適し、米も産し、葡萄や石榴(ざくろ)のほか、梨、カラナシ、桃、杏も多い。土地は金、銅、鉄、鉛、錫(すず)を産する。気候はおだやかで、風俗は素直である。文字はインドの文字に似ている。管弦伎楽は特に諸国にすぐれていて有名である。国王は屈支族(白氏の系統)である。その習俗として子供が生まれると、木で頭を押さえ扁平にしようとする。仏塔伽藍は百余あり僧の数は約五千人で、小乗教の説一切有部を学んでいる。読んでいるのはインド文で、三種の浄肉を食べる。人々は功徳を積むことに努めている。」とその栄華の様子が記録されています。
この王国は、ただ水が豊富に流れ込んで農作に適したオアシス都市であるだけでなく、シルクロード西域北道のうち天山南路を行く商人や旅人たちは、必ずここに立ち寄らねばならない宿場でした。また、近くの山中からは、鉄、銅、鉛、錫、石炭などの資源が産出したため、タリム盆地を中心とした数十のオアシス都市に鉱物資源を提供して商いをする商工農業にわたる豊かなオアシス国家を形成していました。
後漢・班超の亀茲征服
班超(32~102)漢朝の西域都護府が、亀茲に置かれ、焉耆(カラシャール)を征服した班超は西域都護の職につき、西域は漢の支配するところとなりました。
玄奘三蔵法師が「国王は屈支種族」と記録したのは、亀茲国は白氏の一統を王にいただく誇り高い民族で、一時的に焉耆(カラシャール)や莎車人(ヤルカンド)に王位を奪われても、他国からの王をすぐ殺して白氏一族に取り戻しました。しかし亀茲国が、いかに誇り高く裕福な都市国家であっても、他のオアシス都市がそうであったように、北方の騎馬民族(匈奴、鮮卑、柔然、突厥)などの強力な軍事力の前にはいかんとも難く、その支配下にあって苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)のままに、ようやくその存続が認められたにすぎません。漢の支配下にあった前一世紀の七〇年間と一世紀末から二世紀にかけての二〇年間と七~八世紀にかけての唐の支配下にあった百年間はゆるやかな支配を受けていました。最後には、九世紀中頃、モンゴル高原にルーツをもつウイグル族にほろぼされて民族同化させられ、言語(トカラ語)も王族も民族そのものも滅んでいく運命にさらされています。
古代亀茲国の胡舞伎楽を伝えるクチャの踊り子達
古代亀茲人の名残があるクチャの住民
中央アジアのオアシス都市の民族同化は、残酷な歴史があり、1006年にカラハン朝によって、イスラム化された西域南道の大乗仏教国ホータンでは、イスラム対仏教の覇権をかけた戦争となって、少年を含めたホータンの男達は、戦いに出ていったきり皆殺しにされて、帰ることはありませんでした。今でもホータンでは「ムスリ(夫たち)は外に出ていってしまって帰らない」という言い伝えが囁かれていると話してくれた研究者がいます。古代亀茲国がウイグル化された後、さらに十一世紀半ばにカラハン朝に攻められてイスラム化された時も、同じようなことが行われたと考えられます。
キジル美女との出遇い
さて、2006年6月13日、クチャ王府(清朝時代にクチャ周辺を支配したウイグル族の王の宮殿。現在も第十三代の王がその宮殿内に居住している)を訪れた時、古代亀茲国の陳列館を見て、何となく気になりつつもそのまま見過ごしたものが気になって、帰国後いろいろな資料を取り寄せて調べているうちに、ある一つのことに気付きました。それが今回の旅の「二人目の出偶い」であるキジル美女でありました。
クチャ王府の陳列室に眠る王女の白骨体
この遺体が亀茲国の王女であることは、棺の中に木で彫られた長さ15.7cmの龍の頭が副葬されていたことで証明されました。年代は三世紀頃に生きた王女で、ローラン美女のようにミイラ化しているのではなく、この仏塔が庫車(クチャ)川のほとりに建てられていた為、湿気が多く白骨化していました。王女の白骨体は175cmの背高で、眼が深く鼻が高いアーリア系の特色をもち、その脚元に生まれたばかりと思われる嬰児の白骨も合葬されていました。王女の死亡推定年令は22才、出産まもなく何らかの原因で母子ともに死亡したと思われます。
ところで、このキジル美女の白骨体から、意外な大発見がありました。
木で頭を押さえ扁平頭にする
左・現代人 右・亀茲古国人の頭蓋骨『大唐西域記』の記述によれば、古代亀茲国王を訪問した玄奘三蔵は、「其俗、生子、以木押頭、欲其遍遞也」(亀茲国の習慣として子供が生まれると、木で以て頭を押さえ、扁平な形にしようとする)とその奇習を伝えています。
日本の学界では「それを証明する証拠や他の文書もないので、玄奘は何かの間違いで、このような記述を入れたのではないか。」というのが通説でしたが、 1978年の王女の白骨体の発見で、古代亀茲王国の習俗として頭蓋を扁平にすることが実際に行われていたことが証明されたことになります。
扁平を行う時機は、嬰児が生まれてから六ヶ月位までの頭骨がまだ柔らかい時に木の板で挟みました。
このような扁平頭の習慣は、黒海の沿岸地域やカシュガル、カラシャールなどにもあったことが、次第に判明して来たので、アーリア民族の移動と共に古代亀茲国にも持ち込まれたものと考えられます。ちなみに南米の古代インカ帝国の遺跡からもこれに似た扁平頭の頭蓋が発見されていますが、両者を結びつける民族的な一致点はありません。しかし扁平頭を行った理由については、古代人の芸術的美的意識に基づくものと思われる面があります。また他の原因としては頭蓋変形によって、身分、位置、種族の違いを現そうとしたのかも知れません。
母ジーダの容貌(ようぼう)
鳩摩羅什法師の母ジーダは、四世紀の初め頃、亀茲国の王女(公主)として生まれました。兄の名は白純といい王家白氏の血筋を引く亀茲国王でした。父王の名は判明していません。幼い頃から聡明で、一度見聞きしたものは、諳(そら)んじて覚え、その美しさは際だっていました。白い身体の脇腹には朱色のアザがあり、朱のアザをもつ女性は、必ず聡明な子供を生むという言い伝えがありました。タリム盆地のオアシス都市国家の王侯たちは競ってジーダを王妃に迎えようとしますが、ジーダはそれらの要請を全て断り続けました。
ところで、スバシ故城の仏塔に眠っていた王女は三世紀頃の人であったということですから、四世紀に生きた公主ジーダとはさほど時代を隔てている訳でもないのと、七世紀に訪れて扁平頭の習俗を記録した玄奘三蔵の時代と亀茲王朝が繋がっていることを勘案すると、次のような結論を導きだすことができるのではないでしょうか。
クチャ王女白骨体の扁平な頭蓋骨鳩摩羅什法師自身が扁平頭であったかどうかについては、史実上の記録がないので、定かではありませんが、扁平頭の習慣が古代亀茲国の習俗であったとすれば、その可能性はなきにしもあらずと言えるでしょう。
諸国からの要請を断り続けた王女ジーダは、インドから亀茲国へやってきて白純王に国師として迎えられたクマラエン法師を一目見るやいなや、たちまち虜(とりこ)になり、兄の王に頼んで、クマラエンを還俗させ、王命によって結婚することになります。鳩摩羅什を身籠もったとたんに、色々不思議なことが起こりましたが無事出産、ジーダは羅什が7才の時仏門に入ります。同じ時羅什も仏門に入り沙弥(しゃみ)となります。羅什が受戒して正式な僧となったのは20才の時、卑摩羅叉(ビマラシャ)を戒師として、亀茲王新寺でのことです。羅什9才の時、母と共に険難なパミール越えをしてインドのカシミールに留学します。ここで槃頭達多(バンズダッタ)を師として阿含経を主とした上座仏教を究めました。師は羅什を「神俊の才」と誉め、舎利佛の再来と讃えました。カシミール王は、羅什が外道の論師達を完璧なまでに論破するのを見て感嘆し多くの供養を行いました。
12才になると、母ジーダはいったん亀茲国へ帰ることに決め、途中、月氏の北山で一人の羅漢(らかん)が羅什の人相を見て「この児は35才になる迄に破戒しなければ、アショカ王を化導した優婆堀多(ウバクッタ)と同じように仏法を興隆させるだろう。若し破戒したら単なる僧で終わるだろう。」と予言しました。
羅什大乗仏教への回心
北山を去った羅什はカシュガルに留まり、仏教以外の声・工・医・因・内の五明等巾広い学問や占術、兵法などの知識を収得しましたが、心の中は満たされませんでした。時に莎車国(ヤルカンド)の王子で出家し大乗仏教に通達した須利耶蘇摩(スリヤソマ)がカシュガルに滞在していました。羅什は彼から大乗仏教の空無の思想を伝えられ、たちまち回心(えしん)して、上座仏教を捨て大乗仏教の修学に没頭していきました。
「今まで大乗仏教を知らずに、上座仏教のみが最上であると思って修行して来たのは、あたかも黄金の輝きの美しさを知らずに、銅の輝きこそが最上であると思って来たのと同じでした。」と羅什は須利耶蘇摩に述懐します。
カシュガルを離れて亀茲国へ向かう途中温宿国(アクス)で高名な道士と対論して大乗に帰依させた処へ、亀茲国王の白純が羅什を国師とするためアクスまで足を運んで出迎えに来ました。
故郷亀茲国に帰った羅什は、広く大乗仏教の経典を講義しました。それを聞いた中の一人に阿竭耶末帝(アカツヤマテイ)という亀茲国の王女がいました。彼女は深く仏教に帰依し、禅法の奥義にも通じていました。羅什の説く大乗仏教の教えに耳を傾け、羅什の為に大法会を催します。かくして羅什の名声は遠く中国(真丹)にまで知られるところとなったのです。
20才となった彼は卑摩羅叉(ビマラシャ)を戒師として王宮内で具足戒を受戒し、正式な僧侶となります。具足戒は、既に沙弥であって20才から70才までの心身ともに清浄な者がその受戒の資格をもちます。さらに卑摩羅叉(ビマラシャ)について十誦律を学び、放光経(槃若経)を王宮の中で発見し、大乗空観を深めていきました。諸国の王や貴族、僧達も羅什の講義を聴く為にわざわざ亀茲国に来るほどでした。
ジーダとの別離
時に、幼少の頃から彼を高僧に育てるために付き添ってきた母ジーダは、もはや自分の役目が終わったことを悟り、自身の仏道修行を完成するため、再び天竺へ旅立つことを決意します。母ジーダは一人天竺へ旅立つにあたって羅什に「あなたは東方の国、中国に大乗仏教を伝える使命をもっています。そのことは、あなた自身にとって何の利益になる訳ではありません。それでもあなたはそうしますか。」と問い、これに対して羅什は「たとえ、いろりの火の上で鍋で焼かれるような苦しみにあうとしても、この教えを東方の人々に伝え、悟りに至らせることができれば、悔いることはありません。」と答えました。
四世紀の中国は五胡十六国の時代で、戦乱に明け暮れていました。やがてほぼ河北を征した前秦の苻堅王は、仏教を建国の中心にすえるため、既に高名な鳩摩羅什法師を長安に迎えんとしてAC382年に呂光将軍に兵七万を与え、亀茲国の征服にあたらせました。
羅什は白純王に「呂光と戦ってはなりません。服従しなければ国が亡びます。」と進言しましたが、白純王は近隣諸国一の援軍(約七十万)を依頼し、呂光との戦いに挑んだ結果、大敗して殺されてしまいました。
羅什はとらわれの身となり、数々の虜囚の辱めを受けました。呂光は羅什の権威を貶(おとし)めようとして、亀茲国の王女の一人を同室内に閉じこめて破戒することを迫ります。(この時の王女がかつて大法会を催した阿竭耶末帝であったといわれている。)
破戒については『出三蔵記集』羅什伝などには、呂光は「羅什の父クマラエンは、僧であったのに先王の王女を妻として、あなたを生ませたではないか。何故かたくなに拒むのか。」と酒を飲ませたり、妻としなければ王女を殺すとまで脅して破戒させたといいます。
呂光将軍は長安への帰路、姑藏(コゾウ)(武威(ブイ))で前秦国の滅亡を知り、ここに後涼国を建て、王となります。羅什は、姑藏に十六年間もの間幽閉され、その間僧肇(ソウジョウ)などが来て漢文の教養を完璧なまでに習熟します。
AC401年5月、後秦の王姚興は羅什を引き渡すように後涼国に使者を出しましたが拒否され、六万の軍で後涼国を攻め、遂に9月には呂光の子、呂隆王は降伏しました。
長安での仏典漢訳
ラピスラズリをふんだんに使っている
キジル石窟第17窟釈迦説法図
眼口をイスラム教徒に破壊された
キジル石窟第175窟如来像
クムトラ石窟第22穹窿頂仏と菩薩が交互に描かれている
その中に今日の日本仏教の有力な教団が依り処としている『妙法蓮華経・阿弥陀経・涅槃経・維摩経・般若経』などの経典が含まれています。
『色即是空・空即是色』の般若経の訳語、それまで中国人には難解であった大乗空観の真髄をわずか八文字で表したことは、大乗仏教を深く解了し、空悟の心境を開いた羅什を除いてほかには成し得なかったことであります。
また『阿弥陀経』が描く、阿弥陀仏国の理想世界を「極楽国土」と表現したのは、羅什の苦渋に満ちた人生経験の中からこそ生み出された訳語でした。
409年(一説には413年)8月20日、羅什は長安で没しました。享年60才。(一説には70才)死にあたって彼は「私はよそ者(外国人)であったけれども、どういう因縁であったか、経典の翻訳に当ることになり、三百余巻を訳しました。どうかその本旨を極めて、間違わないようにして欲しいのです。願わくば、訳した経典を広くひろめて後世に伝えるように。私が翻訳し、大乗仏教の真髄を皆さんに伝えたところに誤りがなかったならば、死んだ後、身はたきぎで焼かれるわけですが、舌だけは焼かれないで形をとどめるでしょう。」という言葉を残します。彼の言葉通り、遺体は灰葬されましたが、舌だけは灰にならなかったと伝えられています。
羅什亡き後、後秦の国力は次第に衰え、姚興も死し、国も417年に滅びました。しかし羅什が願った通り、訳出した仏典は広く東アジア全域に伝播し、日本における諸宗派の根本経典として、今に至るも多くの人々を救済し続けているのです。
羅什は晩年「天竺へ旅立ちたい。」という言葉もらしていました。(慧遠の書簡に記載)生涯の最後に当たって、彼を高僧に育てようと、幼少の時から熱心に仏教教育を施し、自らも一緒にカシミールや西域諸国へ修行の旅に同行し、羅什が一人立ちできたと見届けるや、「中国への大乗仏教流布」を託して、一人天竺へ旅立った、母ジーダの面影が懐かしく去来したのでしょうか。
(時間の都合でお話しできなかった部分を加筆されたものです 編集部)
= おわり =







