日本仏教最大の影響力
鳩摩羅什(くまらじゅう)三蔵法師は、西暦四〇九年に亡くなって、一六〇〇年になります。日本の仏教にとって、玄奘(げんじょう)三蔵法師よりも鳩摩羅什三蔵法師のほうが絶大な影響を与えたと私は考えております。 それにもかかわらず、 鳩摩羅什三蔵法師のことはあまり知られていません。
亀茲故城遺址碑前の大洞塾長(鳩摩羅什はこの王宮で生まれ育った)
私は昨年、 東京国際仏教塾のOB四十五名と、 西安、 敦煌をめぐる巡礼の旅をいたしました。 そのときに、 羅什にゆかり深い草堂寺を訪れ、 住職の出迎えと案内で、 鳩摩羅什三蔵法師の舎利を納めた舎利塔にお参りをいたしました。
文化大革命のとき、 草堂寺の諸堂宇はことごとく破壊されましたが、 鳩摩羅什の舎利塔と小堂だけは辛うじて守られて残りました。 高さ三メートルほどの舎利塔はすべて玉(ぎょく)で造形されております。 千数百年の風雪に耐えた上、信仰上の理由で参拝者が手のひらでなでてさわって鳩摩羅什をしのんだため、玉(ぎょく)の彫刻はすり減っておりました。
草堂寺の伽藍は、 現在日本の法華経を信仰する人たちがお金を出して復元されつつあります。
玄奘三蔵の名は、『西遊記』などを通じて日本にも熟知されています。 しかし、鳩摩羅什三蔵法師の数奇な運命を通じて漢訳された「法華経」「阿弥陀経」「般若経」 「唯摩経」「大乗論」などの訳経がなければ、聖徳太子の 『三経義疏』も、『十七条憲法』も存在し得なかったであろうし、天台、禅、日蓮、浄土諸宗の今日的な繁栄もなかったと考えられるわけであります。
浄土諸宗で用いられる 「阿弥陀経」に出てくる 「極楽国土」の用語も、龍樹の中観思想を見事に表現した 「色即是空、空即是色」の経文も、「南無妙法蓮華経」の唱題も、存在し得なかったのであります。
「煩悩即菩提」「悪人救済」の思想も鳩摩羅什の深い、大乗空観の悟りと苦悩に満ちた人生経験の中からうまれたものといえます。 彼は単なる仏教経典の翻訳家であるにとどまらず、偉大なる思想家、哲学者であったのです。
羅什の数奇な運命
鳩摩羅什はAC三五〇年、シルクロードのオアシス都市国家、亀茲(きじ) 国の王族の一人として生まれました。父は鳩摩炎(くまえん)といいますが、インドのとある国の大臣の息子で、聡明にして節度ある人といわれていました。
鳩摩羅什の座像(ギジル石窟前)
母は耆婆(きば) 。亀茲国王の妹さんで、炎が亀茲国を訪れたとき二十歳を過ぎたばかりでありました。
彼女は賢く明敏で、一度見聞きしたものはそのまま諳(そら)んじる才能がありました。 その上、身体に赤いアザがありました。そのアザをもつ女性は必ず賢い子供を生むという言い伝えでした。
耆婆の美しさは他と比べようもなく、近隣の国の王妃にと、乞う数(かず)があまたでしたが、耆婆は鳩摩炎を一目見るや、たちまちとりこになってしまいました。このことは 『三蔵記集』に載っています。鳩摩炎は、王命によって還俗させられ、耆婆の願いがかなって結婚。鳩摩羅什を身ごもったのです。
亀茲国というのは、地理からいえば、シルクロード、天山山脈の南側を東西にのびる、天山南路の中核のオアシス国家です。
5世紀のシルクロード天山山脈からの雪どけの水で農業は豊かで、近くの山からは鉱物資源が採掘され、シルクロードの交易で栄えた裕福なオアシス都市国家です。
国王は白氏(ハクシ)と称しました。タジル語を話すインド・ヨーロピアン語族で、目が深く、鼻が高く、色白の白人種です。
インド・ヨーロピアン語族は二回にわたって民族移動をしています。
第一回は今から五千年前、カスピ海を西のほうへ行くと黒海があります。その黒海の周辺に居住していたんですが、一部の人たちがシベリアを経てアルタイ山脈のふもとに居を構えました。
第二回は四千年ほど前。インドやヨーロッパに移動し、南シベリアにも移動しました。この第二回の移動で、千年前に移動してアルタイ山脈の山麓に居住していたインド・ヨーロピアン語族の先住民は、その勢いに押されて南下し、タクラマカン砂漠のオアシスに移住して、後の樓蘭(ろーらん)に安住の地を得ます。
亀茲国の先祖は、第二回の民族移動で、天山南路を東進して、今のクチャにオアシス都市を形成し、繁栄したと考えられます。
こうした中で亀茲国の王宮は三重の城壁に囲まれ、宮殿の壮麗さはまるで神の神殿のごとくまばゆかったと伝えられています。
それゆえに、その富と地の利を得ようとする他国の圧力は繰り返し襲い、特に東方の漢がここまで攻めてきて、拠点をつくります。
それから北方の騎馬民族とのせめぎ合いの場ともなります。 お互いに取り合う。取り合うといっても滅亡させるわけではなくて、いわゆる亀茲国が生み出す豊かな富を奪い合うということです。
インドへ・修業の旅
さて、鳩摩羅什の出家、修学でありますが、三五六年、七歳のときに母の耆婆の勧めで出家し沙弥(しゃみ)となります。 母親の耆婆も同時に比丘尼(びくに)となり、出家得度をしようというわけです。ところがお父さんのほうは、もとはインドのお坊さんで亀茲国の国師に迎えられたにもかかわらず、王の命令で還俗させられて、結婚させられたでしょう。それで父は妻耆婆の出家に絶対反対したわけです。するとお母さんのほうは、七日間絶食して出家を許してくれなければ死んで...というようなハンストを実行しました。それで仕方なくお父さんのほうが許したという話が残っています。そういうように仏教に熱意のある母耆婆の影響を受けて、鳩摩羅什は、一緒に出家したわけです。
三五八年、鳩摩羅什が九歳のとき、お母さんとともにパミール高原越えという大変困難な旅へ出ます。
インドのカシミールに赴き、バンズダッタというカシミールの高僧に師事し、上座仏教をきわめます。
留学三年、外道(げどう)との対論に勝利した羅什の名は、一躍、高まりました。
ところで紀元前一世紀ごろに起った大乗仏教運動は、竜樹(りゅうじゅ)(AC 一八〇年から二四八年)と、その弟提婆(だいば)によって、ほぼ大成されていましたが、まだ亀茲国には伝えられず、カシミールの中心教学とはなっていませんでした。
羅什十二歳のとき、このカシミールを後にし、亀茲国への帰途パミール山中の北山(ほくざん)で、一人の僧が彼の顔を見て、母耆婆に次のように予言をしたのです。「いつもこの子を守ってあげなさい。もし、三十五歳までに破戒しなかったならば、正に大いに仏法を起こし、無数の人々を度する優婆堀多(うばくった)となる。もし全まっとうせねば、ただ単にああ、賢いお坊さんだなで終わる」と。
大乗仏教への回心
その後、カシュガルに至って一年滞在します。羅什は、 説法の暇を見て外道の教書を学び、天文、星算、陰陽をすべて極めつくし、文学、詩歌等の学問も習得します。時に沙車(ヤルカンド)出身の二人の王子がカシュガルにいました。 出家して沙門となり、人々に、大乗仏教を伝えていました。ここでようやく大乗仏教との出遇いが出てきます。
鳩摩羅什は、弟の方の須利耶蘇摩(すりやそま)という人に会い、大乗の教えを聞きました。ところがそれは亀茲国やカシミールで修学した阿含経を中心とする上座仏教とは相いれないものでありました。これは上座仏教の「有(う)」 の教えから、大乗の般若空観への転換でありますから、過去の自分の全否定につながるために、大変な苦悶があった訳です。しかし彼は、最終的には大乗仏教への回心を果します。
スバシ故城(羅什が住した亀茲国の寺院跡)
鳩摩羅什のこの地での大乗への転向がなければ、中国仏教や日本仏教の今日はなかったであろうと思われます。
さて、鳩摩羅什は亀茲国へ帰るに当たり、温宿 (アクス)で一人の道士に出会います。その道士は、「論じて我に勝たば、首を切りてこれに謝せん」と議論を挑んできました。
その道士を鳩摩羅什は論破して、大乗仏教に帰依させます。ここにおいて、羅什の名声はパミールの東から黄河の外、すなわち中国まで広がったと伝えられています。
亀茲国王の白純は羅什をアクスまで出迎えます。三七〇年、鳩摩羅什は二十歳のときに卑摩羅叉(ひまらしゃ)を戒師として、王宮で受戒し、『十誦律』を学び、ここで初めて正式な僧侶になったのです。
その後、 鳩摩羅什の母耆婆は亀茲国王の白純に「汝の国、減衰す。我、それを去る」と告げて去って行きます。 母は亀茲国を去るに当たって、羅什に、 「鳩摩羅什、あなたしか中国に本当の大乗の教えを伝える人はいない。しかしそれはあなた自身にとっては何の利益もない。あなたはどうしますか」と、聞きます。
鳩摩羅什は答えます。 「自分がいろり鍋で焚かれるような、そんな苦しみに遭ったとしても悔いはない。この大乗の教えを東方の国々に伝え、人々の心を洗わせて悟りに至たらせるということができるならば」と。
母はインドに去り、鳩摩羅什は亀茲国の寺院にとどまって、修学と大乗の布教に専念しました。
五胡十六国と仏教
四世紀の中国は五胡十六国の時代です。異民族が十六の国を建てて、漢民族を支配し、河北、黄河の北側を占領しました。漢民族の王たちは、本来儒教や道教を重んじ、異国の宗教である仏教を取り入れることに消極的でありましたが、異民族である五胡十六国時代の覇王たちは、 漢文化に対するこだわりはさほどなく、仏教の受容に前向きな傾向がありました。その中で前泰という国が興り第三代に苻堅(ふけん)という王が出現しました。この苻堅という人が非常に重要なのです。彼は五胡十六国時代の河北統一をほぼなし遂げ、また、仏教の摂取に熱心で朝鮮に初めて伝道僧を派遣したのも彼であります。だから、仏教が朝鮮を経て日本に渡ったのは、この人の力が大きいですね。
ここで苻堅は中国仏教界の第一人者である釈道安の推挙で鳩摩羅什を迎えようとします。名声はすでに中国にも及んでいて、道安も鳩摩羅什から直接教えを聞きたいと思っていたんですね。使者を亀茲国に送って、鳩摩羅什をぜひ中国に招きたいと要請したけれども、亀茲国の国王白純はそれを断ります。
それで三八二年九月に、呂光という将軍に七万の兵を与えて亀茲国への遠征を実行するわけです。
苻堅の次に出てくる姚興(ようこう)という王がいますが、 彼らは、仏教を本当に自分自身の救いの道として求めました。
この五胡十六国の時代と言うのは、凄惨な殺戮の時代です。苻堅も姚興も仏教こそ自分の罪深さ、心のむなしさを救ってくれる教えであるということに思い至たったんだと思います。そして、本当に真剣に鳩摩羅什を招いて仏教の真髄を聞きたいと思ったと、私は解釈します。
それで将軍呂光を七万の軍隊とともに亀茲国に派遣して、鳩摩羅什を渡すように説得しますが、白純王はこれを拒否。全面対決の中、呂光の奇襲によりあえなく落城し、 白純王は殺されました。鳩摩羅什は捕虜となって虜囚の辱めを受けます。それが『梁・高僧伝』に書いてあります。読んでみましょう。
「光ついに亀茲を破る。純を殺す。光すでに什(羅什のこと)を獲るも、いまだその知量を量らず。」
西域の要衝である亀茲国を占領することによって、西域の交易の利益を得るという目的もあったでしょうが鳩摩羅什を得ることが、一番大きな目的であったとここには書いてあります。
呂光は亀茲の中でも特別美しい王女を鳩摩羅什に与えて、一室に二人を閉じ込め女犯の罪により破戒させようとします。
ある書物によりますと、このとき羅什が何日たっても王女に手を触れない。呂光は王女を呼び出して、「おまえ、何とか鳩摩羅什を誘惑しなさい」と命令するわけです。何遍試みてもそれが成功しない。ある時、王女が部屋に戻ってシクシク泣く。「なぜ泣くんだ」と鳩摩羅什が聞くと、「三日以内にあなたが私を妻にしてくれなかったら、私は殺されてしまいます」と。それで鳩摩羅什は苦渋の選択を迫られて、ついに王女を妻にして破戒をしたという記述があります。
苻堅没し、呂光 後涼国王に
羅什とおびだだしい財宝を手に入れた呂光は、長安への帰路、クーデターによる主君苻堅王の死を知り、姑臧(こぞう)に後涼(こうりょう)国を建て、自ら王位に就きました。呂光にとって羅什は、もう必要ないわけです。なぜなら主君である苻堅王から命ぜられて連れてこいと言われ、その苻堅王が亡くなったわけですから。極端にいえば殺してもいいわけです。
ところが軍師や風水師的な才能があったために大事にされます。ただ姑臧在住十六年の鳩摩羅什は、いたずらに神異僧として呂光に仕えていたのではありませんでした。
『高僧伝』によれば、僧肇(そうじょう)という僧が長安から鳩摩羅什の高名を慕って姑臧を訪れ、肇は羅什から般若空観の教学を学びます。また羅什は、肇から中国古典の学識や教養を得ます。
この十六年間の後涼時代に漢語を完璧に自分のものとし、それまでの苦難の人生経験を仏教の教えに照らして、深く味得し、やがて長安で花を開かせるに及ぶのであります。
長かった長安への道
苻堅王の死と共に、前泰は亡びますが、やがて後泰国が建ち第二代王の姚興(ようこう)が天下を握ると、仏教を求める志がたかく、四〇一年五月、姚興王は羅什を引き渡すように後涼国に要求しますが、亀茲国の時と同じで、これを拒絶されます。姚興は六万人の軍隊を後涼に派遣して、後涼国第四代呂隆(ろりゅう)王を討たせ、 九月に隆は姚興に降伏し、鳩摩羅什を差し出すに至ったのです。
こうしてようやく羅什は長安の都に入ることになります。四〇一年十二月二十日、鳩摩羅什五十二歳でした。 姚興は鳩摩羅什に正しい経典の漢訳を期待します。
羅什の訳場は、 逍遥園(しょうようえん)(現草堂寺) です。四〇一年十二月から約五年間。四〇六年から長安大寺に移り訳経は合わせて三十五巻、二百九十四部の大部にわたりました。
訳経は次のようになされたようです。まず羅什が口訳(こうえん)をし、続いて旧訳と羅什訳を対比、質疑討論。それを弟子が筆受。訳場が即、講義の場にもなります。これでよしとなれば、羅什が美しい文章に書き直す。こんな順番であります。
日本に伝わった鳩摩羅什の訳本によって、聖徳太子の三経義疏(さんぎょうぎしょ)が生まれ、十七条憲法も生まれたのです。
玄奘三蔵は、この鳩摩羅什に遅れること二百余年です。だから、日本仏教への影響は玄奘三蔵よりも鳩摩羅什の方が大きいのです。「色即是空 空即是色」の般若経の訳語、それまで中国人に難解であった大乗空観の真髄をわずか八文字であらわしたことは、大乗仏教を深く解了し、空悟の心境を開いた羅什を除いてほかには成し得なかったことであります。
また 「阿弥陀経」が描く、阿弥陀仏国の理想世界を 「極楽」国土と表現したのは、羅什の苦渋に満ちた人生経験の中からこそ生み出された訳語であると私は思います。
羅什の遺言
鳩摩羅什舎利塔(西安・草堂寺)
鳩摩羅什亡き後、後秦の国力は次第に衰え、姚興も死し、国も四一七年に滅びます。しかし鳩摩羅什が願ったとおり、訳出した仏典は広く東アジア全域に伝播し、日本における諸宗派の根本経典として、今に至るも多くの人々を救済し続けているのであります。
まもなく、羅什没後一六〇〇年の記念すべき年です。 私共はこれを機会に彼の業績をたたえ、恩に謝すべきと思います。
= おわり =







