野坂法行先生

信仰と人生 わたしたちはなぜ仕事をするのでしょうか?

2010年4月30日

 今日は「信仰と人生」について、お話したいと思います。サブタイトルは「なぜ仕事をするのか」としましたが、「何のために生きているのか」という問いでもあるのかなと思うんです。「日々の糧を得るためである」とか、「家族を養うためである」とか。でも、実はこの仕事という言葉の中にすでに答えがあるのです。仕事という言葉は、極めて宗教的センスがあって出てきてる言葉です。「働く」なんていういい方もしますね。仕事という言葉の中に、もうすでに答えがあるということを、まず頭の隅にとどめておいてください。

日本人の精神性と仏教

(一) 宗教というのは、人間が人間として人間らしく生きるための根本の教えです。

 大本、根っことか、あるいは人生設計の基礎部門といっていいですね。

(二) 日本は仏教国と言われます。そして日本仏教の祖は聖徳太子だといわれています。

 聖徳太子が十七条の憲法というのをつくって、それに従って国の運営の根幹を定めていこうとしたわけですが、その第一条になんて書いてあるかというと、「和をもって尊しとする。」 みんな、おれが、おれがという自我を主張しないで、互いの持ち味、違いを認め合って、平和に仲良く調和して暮らしていく。このことが大事ですよっていうことを定めてるんです。すごいことだと思います。和をもって尊しとする。では、その和が保たれるためにどうしたらいいかというと、第二条に、「篤く三宝を敬え。」 三宝を篤く敬いなさいっていうことを督励してるわけです。三宝というのは、仏様と、仏様の書かれた法と、そして僧なんです。

 僧というのはお坊さんのことじゃない。仏法を求める仲間のことですね。その三つをみんなが敬いなさいっていうんです。敬うことによって、和というものが成り立つんだということです。

 聖徳太子は三経義疏というのを書きました。三つのお経を取り上げて、それに対する注釈を加えたということです。聖徳太子は、十人の人が一遍にものをいっても全部それを聞き分けたのですごいといわれてますが、もっとすごいのは、仏教はインドから中国に渡って、朝鮮半島から日本に伝わってきたとき、膨大な仏典が来てるわけですが、その中からあえて法華経、勝鬘経、維摩経の三経を選んだということです。

 法華経というのは、仏教の中心的な経典だといわれてます。これは中国の天台大師によって仏教が体系化されて、その中でも法華経が仏教の中心に据えられました。日本に伝来したとき、聖徳太子も膨大な経典の中の法華経が中心になるということを思ったんでしょう。法華経をまず取り上げた。それと、維摩居士という普通のいろんな社会の仕事をしながら仏法を求める男性のために書かれたのが維摩経。それから勝鬘夫人という、在俗の生活をしながら仏法を求めるという女性のために説かれたのが勝鬘経ですね。何千、何万という経典が入ってきた中で、聖徳太子が三つをあえて選んだという眼力ですね。三つのお経を取り上げて、なおかつ自分が注釈を加えたわけです。内容を熟知してなければ注釈を加えられないわけで、その洞察力に感服いたします。

 私たちが何かでアンケート取ると、日本人は無宗教だとみられたり、いろいろ経済事件を見てると、無宗教かなと思ってしまいたくもなるんです。高度経済成長を支えて、もうかることはいいことだだけで突っ走ってきていた方々が、今いろいろ問題起こしていると思います。皆さんもたぶん経済大国日本の基盤を若いころから支えてこられた、経済発展に貢献してきたし、会社のもうけのために一生懸命働いてきた。だけど、それでよかったかなというふうに思ってる人も結構居るみたいですね。さらに仏法をより所としたいというふうに思う人がどうも多くなってきている。それは日本民族がずっと聖徳太子以来、仏教を基軸として生活をしてきたからです。だから日本語、あるいは日本の文化から仏教的な物の見方、考え方、表現方法、これを抜いたら、たぶん日本語も日本の文化も成り立たないといっていいです。

 建物一つ取ってもそうです。五重塔などというのはまったく仏法の教えが象徴されている建物です。もうあらゆることが想定されている。誰か想定外だなんてアホなことを言った人が居ましたけどね。全部想定してるんです。何があってもいいという状況の中で、五重塔というのは建てられている。仏教は、すべてのことを想定している。人間は生まれた以上、死ぬと。いつも大地が安定してるわけではない。大きな揺れが来ることもある。それらのことを全部想定して五重塔は建設されている。

 宗教の中で仏教の教えが説かれている書物をお経といいます。そして、お経の経というのは縦糸という意味です。つまり、人生の縦糸、これを持たないと人生、一本筋が通らないということです。日本人の精神性というものを形成してきたのはまさに仏教ですよ。わたしたちは、何気ない言葉の中で、例えば仕事というのも仏教的センスがないと出てこない言葉です。あるいは人が動くと書いて働くという大和言葉も、たぶん仏教がないと出てこない。ただ人が動いて、何で働くというふうに読むのか。はた(傍)を楽にするということです。

 ともかく仏教は一神教と違って重層、多重ですから、日本人は宗教を持ってないように思われるんですがそんなことはないです。外国に行ったら一神教ですから、唯一絶対のアラーの神だの、ゴッドだの、エホバの神だの、そういうことを信じるわけです。単純明快なんですけども、日本人は、すでに物の見方、考え方の中には仏教が染み込んでるんです。お金を借りることを無心といいますね。無心ってどういう意味かと思いますか。いずれにしても目的があって、お金をためてるわけでしょう。そこを突然やって来て、「お金貸してよ」という。貸すには、一つの計画があってためてきたものですから、その計画を一回ちゃらにしないといけない。無心にならないとお金って貸せないということです。だから、仏法は無我にて候とか、無心だとかいってますけど、そういう仏教の考え方は、いつでも心をフラットにする。先入観とか、思い込みとか、こうあらねばならないとか、そんなようなものをいつでもさらっと捨てて、あるがままに生きられるというそういう状態、そういう仏教の基本的な物の見方、考え方、それがその人を本当の意味で幸せにするんです。そういうような教えがなかったら、「お金を無心する」なんて言葉も出てこない。この言葉一つ取っても、日本人の精神性を形成してきたのが仏教だと言って過言ではないと思います。

四大―私たちの命をつくるもの

(三) その仏教の教えの中からいくつか紹介したいと思いますが、一つは、脚下照顧です。禅寺などに行くと、上りはなに書いてありますね。履物をそろえて脱げよ! こういってることでもありますが、それはあくまでも表面的な話。何に支えられてわたしは今生きているのかということに気づくことが必要だということです。命の足元をよく見てみなさい。スリッパをそろえると、皆さんの心もそろう。足元に注目するのと同じように、自分の命の足元に注目してみたらどうですかということです。

 地、水、火、風、これを四大といいます。どれが一つ欠けても、命が成り立ちません。

 大地がいろいろなものを育んでくれるおかげで、わたしたちは食事ができるわけでしょう。いろんなものを育んでくれるから、母なる大地といいます。大地がなかったら、わたしたちは生きていけません。自分が息する場所がないんです。宇宙空間には生命は成り立たないんですね。この地球という生命維持装置があるおかげでわたしたちの生命が成り立っている。

 皆さんの体の約七十五パーセントから八十五パーセントは水でできている。キリスト教でも洗礼を受けるとき、水を使うでしょう。水というのは命の大本です。

 火というのは、煮炊きする火と思ってくれるとちょっとイメージが違う。太陽です。太陽の光というのがなかったら生命が成り立ちませんね。植物の炭酸同化作用というものは、光合成ですから。光がなかったら、植物が育たない。植物が育たないってことは、われわれ、動物、人間も生きられないということです。

 風というのは空気があるから、風が起きるわけでしょう。空気のない所に風はないんです。風っていった場合には、空気ということです。これもないと生命が成り立ちません。

 四つの重大なファクター、要素。どれ取ったって、少なくとも人間がつくりあげたものでないことは確かです。「おれがおれの力で生きてる」なんていうことは、ちょっと物が分かってきたら、絶対にいえない言葉です。足元を見ると、わたしたちはおれの力で生きてたと思ったのは、それはあまりにも傲慢な考えです。不思議な力に促され、いろんなものに支えられ、いろんな要素にサポートされて、わたしたちは不思議にも生かされていたんですね。

 縁起でもないとか、縁起がいいとかいいますが、縁起にはいいも悪いもないんですよ。いろんなかかわりの中で私のこの命があるということです。さっきの地、水、火、風です。両親が結婚してくれたという不思議なご縁で私たちは生まれました。その結果、両方のDNAを引き継いで、新しい生命が誕生してきたという、これもご縁。両親が本当に手塩に掛けて育ててくれた。両親がいとおしんで育ててくれた。生まれたばっかりの赤ちゃんなんか、どうすることもできないです。牛や馬はすぐ立ち上がって自力で歩きますけど、人間の赤ちゃん、一年以上駄目です。

 もうおむつを取り替えたり、お乳を与えたり、離乳食も与える。お母さんなんかはうんち見て、「ああ、きょうはきれいなうんちだ」っていうでしょう。母親はそう見るんですね。そういう、母親、父親の愛情に支えられ、さらに高校にやってくれたり、大学にやってくれたりして、教育を付けて、社会人として恥ずかしくないような内容を身に付けさせてくれたおかげで皆さんがたの今日があるっていうことです。「いや、おれは苦学しながら自力でやった」という人も中には居るかもしれませんが、苦学するようなところまで育ててくれたのは誰ですかってことになるわけですね。

 空間的には地水火風もあれば、いろんな両親も含め、あのときあの先生に会わなかったら今の自分はないだろう。あるいはあのときあの上司の下で働かなかったら、今の自分はないだろうとか、そういうご経験は、皆さん、沢山あるんじゃないでしょうか。そういう相互依存関係になっているというのが世の中です。

 会社なんかでもそうですよ。その会社が作った製品を利用してくれるカスタマー、顧客が居るから、会社って成り立つんです。あるいはサービスを提供する、サービスを提供するのを受け取ってくれる、いわゆる消費者が居るから、会社が成り立つんです。不特定多数の大勢の人たちの幸せのために商品も開発して売るし、サービスも提供するというのが本来の仕事なんでしょう。社会的な役回りというものを忘れた目先の利益を得るために消費期限の切れたものを平気で使ってコストを下げた。これを発想した人は、「おまえはなかなか賢いやつだ」と、目先だけの話ではいわれると思います。でも、待てよ。うちは何をする所だ。国民が日々健康で、それぞれが十分にその存在価値を生かしきって、元気で生活をし、仕事をしていくためのエネルギーを供給する会社だった。そういうことが根本的に分かっていれば、ああいうことはしないわけです。ほかの分野でもそれは全て同じです。

 電力会社が臨界事故を起こしました。臨界事故が起きたってことは、もう核爆発寸前だったっていうことですよ。極めて危険な状態です。核分裂を一挙にやるのが原子力爆弾。技術を用いて、じわじわ核分裂をさせて、そこから出てくる熱を利用して、蒸気を発生させタービンを回しているのが原子力発電ですよ。

 原発から出てくる放射線廃棄物を無害にすることできないから、ガラスに固化してステンレスの容器に入れて地下深くに埋設する。人間の見えるところから閉め出してしまおうということです。しかし地殻の変動が起きる可能性が大で、プルトニウムの毒性が半滅しないで二万年、ステンレスのキャスターが持ち続けるかどうかは疑問だと言われているわけです。負の遺産を今の私たちは後からくる人間に残しているっていうことです。

 命を営むもとになっている空気、それから命をはぐくむ大地、水も汚染するんです。四つの命の支えるファクターの中の三つまで、放射線廃棄物は汚染していくのです。加えて汚染されたものを、私たちが吸収していくことを考えるととても恐ろしいことです。もっと自然のエネルギー、クリーンなエネルギーが望まれます。

 ともかく、この世のすべてのものはお互いにかかわり合い、支え合い、助け合い、補い合って存在しているんです。いずれとも何のかかわりなく存在しているものはこの世の中に何もないと言い切っていいと思います。「元気ですか」って言われて「おかげさまで」と応答します。陰の様というのは、目の前には見えないけれども、見えていないところで、いろんな人が、諸々のものが、いろんな働きをしてくれているお陰でこの私が生きていられるということです。

 ここに建物があるということは、百数十年前の大工さんのおかげ。これだけの材料は山の木のおかげ。それから、これだけの建物を造るために、その当時の多くの寄付された人々のおかげ。黙ってここで座って話を聞いているだけで、百数十年前の恩恵を受けている。

 皆さんの衣類もそうです、食べ物もそうです。そして、日々、先人のいろいろな工夫とか知恵によって、私たちは、快適な生活をさせていただけるということです。感謝しなきゃいけないですね。

 こういうことを縁起の法と言っているんです。すべてのかかわりの中で、私たちは存在できているのです。いわば私たちはそれぞれ網の目の一つだと思います。網っていうものは目がいっぱいあってお互いに連携しているから網という機能を果たしているわけです。この世の中もおんなじです。四方八方につながっているわけです。皆さんが単体で存在しているわけではありません。仏法は実に科学的ですね。

 仏とか妙法は言葉を変えれば自然の摂理です。南無妙法蓮華経というのを縮めると妙法になるんです。道元禅師は万法とか言ったりしてます。同じことです。この世の中のすべてのものをそのようにあらしめている根源的な働き、パワー、これが実は仏あるいは妙法です。

 法華経の久遠の本仏というのは、すべてのものをそのものたらしめている根源的パワー、これを擬人化して仏といいます。法のほうからみたら妙法とか、万法とかっていう言い方になると思います。ともかく妙法とはこの世のすべてのものを、そのものたらしめている根源的な働きパワーです。

 私たちが生きていられるのは生命維持装置・地球のおかげです。実はこれが天体の運行とも密接に関係しています。地球は自分で三六五回転する間に、太陽のまわりを一定の距離を保ちながら、レコード盤のように一周しています。この宇宙の運行がある日突然狂ちゃった。「ばかばかしくってやってらんねえ、毎日おんなじことを繰返し、何億年という時間をおれはぐるぐる回っている。だからもういいかげんこの軌道から外れたい、もういやだ」って地球が思って、そこから外れちゃったら地球上の生命が成り立たないですよ。

 たとえば地球が金星のところまで出て行ったら地表温度が約五〇〇~六〇〇度。と、命のもとになる水が水であり得ないのです。だから、あっという間に命はなくなっちゃう。火星のところまで地球が並んでいったりすると、地表はマイナス五十度とか六十度になると言われている。水があったとしても凍り付いちゃって水の用をなさない。ともかく大地の上に、植物が繁茂できないわけです。地球の宇宙的運行とわたしたちの命とは直結しているっていうわけです。勝手に地球が回っているんだろうってことでは済まされないわけです。地球がそういうふうに気まぐれを起こさないで、同じ間隔をとって太陽の回りをめぐってくれるという、運行をしてくれているおかげで、この私の命があるということです。そういうことを含めて根源的な働き・パワー、妙法(仏)、自然の摂理というものがあると思われるのです。

(四) 仏法の側からじゃなくて、物質ができている理を明らかにする物理学者のほうからも言われています。「もの皆の奥に一つの法(のり)ありと日にけに深く思いけるかな」と湯川秀樹さんは辞世の句の中で言っています。アインシュタインも「この世界は単なる物質の機械仕掛けではなく、一つの思惟、意志のようなものによって貫かれている」と言っているんです。

(五) 秋山というTBSの宇宙特派員がいて、ソユーズに乗って、宇宙空間に行って、ソ連の宇宙船の中で一週間ぐらい滞在して、また地球に戻ってこようとする時に、アナウンサーから「秋山さん、宇宙から地球に帰ってくるにあたって、最後に地球の皆さんに何か言うことありませんか?」と聞かれたときに言ったのが「今更、神がかって言うわけではないが、人間をはるかに超えた神仏のようなものの存在を、宇宙空間に来てひしひしと感じた」と言ったのです。

 宇宙空間に行くとみんな感じるみたいです。アメリカの宇宙飛行士なんかはみんな帰ってくると、聖職につく人もいれば、環境問題研究家になったり、社会活動家になったり、平和運動家になったりするんですよ。「こんな神秘的な生命維持装置は、何らの意味なく、何らの目的もなく偶然に出来上がったなどということはとても思えない」ということを大体言っていますよ。宇宙飛行士は地球にいて当たり前だと思っていたことが、全然当たり前じゃないってことを、宇宙空間に行ってよく分かるんですね。大がかりな維持装置を着けて、やっと生命が保たれている。地球にいては何もそんなものいらないわけです。生命を維持するために必要なものは全部与えられているからです。「これはすごいな」と思います。

(六) 日蓮聖人のお言葉で、「吹く風ゆらぐ木草流れる水の音までも妙法の五字を唱えずということなし」とあります。道元禅師は「山の色、谷の響きも、みながら我が釈迦牟尼の声と姿と」と言っています。

仕事とは

(七) 生かしめられている自分に気付いたらその恩に報いたい。自分の存在を何かのために生かしていきたい、また生かさなかったら申し訳ないと思うのが自然の姿。それが仕事ですよ。仕事っていうのは仕えるってことでしょ。金もうけなんてことは仕事の言葉からなんにも出てこないです。仕事というのは自分の存在を社会のために、いろんな人のために生かしていくってことです。だから食品会社だったら、その食品をもって大勢の人のお役に立っていく。エンジニアだとか、手先が器用な人だったら、たとえば大工さんなどという仕事をとおして、いい家を建てて、そこに住む人に快適な生活をしてもらうことに貢献する。いかなる地震が来ても倒れないような家を建てることです。

(八) 自分は技術者だ、設計図が書ける、建築家だっていったら、その建築家としての技量を大勢の人の幸せのために役立てていく、仕えていくということが本当の仕事です。

 こうしたこころもちでいる時に思わず出るあいさつ言葉が「おかげさま」とか「すいません」という言葉なんです。おかげさまっていうのは自分もいろんなおかげを被っていますということです。「すいません」というのは、いろんな人からいろんな恩恵、いろんな物からいろんな恩恵うけているけれども、その恩返しが済んでいないということです。無数の恩を恵を被って生かされていますが、まだその恩に報いること、仕事がまだまだ済んでいません、申し訳ないことです、すいません、という謙虚な心境を表しているのがこの「すいません」という言葉なんです。

(九) 働くって言っていますけど、人が動くと書いて何で働くなのか。人が動く、それは自分のもうけのためじゃないんです。人が動くということは、はたらく、傍(はた)を楽にするためなんです。要するに自分の存在を何かのために、社会のために、誰かのために生かす。そのように心がけることで、自分も成仏するということになると思います。自分がおよそ、もう役立たずだと思った時に人間は生きる力がなくなるんです。自分の存在が何かのために役立っていると実感できた時に、「ああ、おれも生きていていいんだ、生まれてきてよかった、おれの人生いい人生だ」と思えるわけです。そう思えた時が仏教でいう成仏です。

 成仏ということは死ぬことではありません。「ああ、あいつもとうとう成仏しちゃったか」という言葉だけは、絶対皆さん使わないでくださいね。成仏というものは「ああ、おれの人生いい人生だったな、おれは本当に生まれてきてよかったな、おれもこの世の中に存在していていいんだな」という実感をつかめたときに、それを仏教では成仏というわけです。そういうことで、みんなのためになっているのかどうかってことが、やっぱり自分が本当に生きているかどうかということです。

 池上本門寺ではイキイキ推進運動っていうのやっているんです。イキイキするためには自分が自ら主体的に動いて、自分の存在を何かのために生かして、「ああ、あなたが居てくれたおかげでよかった」って言われた時に、「ああ、おれもなんか役に立ってるんだ」っていう実感が持てて「ああ、おれも生きていていいんだ、おれも存在していいんだ、おれも生まれてきてよかった」と思えてイキイキするわけです。

 それが人をだまくらかして、うまいことやって金もうけしている人はそういう実感は持てないはずです。一番の不利益を被るのは、実は自分自身なんです。おれが存在していてもいいんだという実感が持てない。そういう状況は極めて生きずらい状態だと思います。

(十) そういうことで一流の経済人はやっぱり同じことを思っています。平岩外四という元経団連の会長が、「共存共生の時代、一人勝ちは許されない、共に生きる喜びを持つことが大事だ」って言っているんです。その道を極めた人は違うなって思います。自分一人だけ、自分の企業だけよければということは法とかダルマ、真理に反することなのです。

 勝ち組、負け組なんて言葉は、絶対に仏教上からは出てこない言葉です。口先だけで情報を操作して投機をかけて、ほとんど働かず額に汗することなく、何億っていうお金を手にしたわけでしょう! これは捨て置けないということになったわけです。 

 仏教国日本の外交が今のままでいいのかというのも、仏教徒にとっては重要な問題です。

 世界全体が調和にして平和に生きるための戦略が描けるのは私たち日本人だと思っています。仏教思想を基盤としている日本人だからこそ、すべてのものが存在していい、すべてのものがその違いを認め合って、お互いに仲良く存在し合うことが大事だと言えるのです。聖徳太子の作った憲法第一条の「和を持って尊しとする」という考えの基盤、そのバックボーンになっているのが仏教思想です。そういう思想を伝統的に持っている日本人は、世界を平和に導く本当の戦略を立てることができると思います。仏教は非常に重層多重です。いろんな人がいていい、いろんな役割の人がいていい。それがお互いに違いを認め合って、調和していくというところに平和がある。

 武力でもって世界に平和を築くんじゃなくて、互いの違いを認め尊重するというファンダメンタルコンセプトを持って外交を行い、世界の平和を築いていこうと明確に宣言したのが憲法第九条だっていうように私は受けとめています。憲法っていうのは理想です。政治家が理想を失ったらただの政治屋です。政治家は人類の理想を求めなきゃいけない。少しでも理想に近づく努力をしなければいけないと思います。だから政治のことをほとんど宗教的な言い方で祭りごとって日本では言っているわけです。こうした摂理にもとずいてみんなが調和していくという方向性を持って政治のかじ取りをし、法案を作っていく、そういうことをしなかったら、いつまでたっても人間は欲のために戦い合う。欲のために戦うんだったら武力が強い方が勝ちですよ。勝ち組だの負け組だのってことは仏法上はないのです。

(十一) お経というのは、人間が生きていくより所です。縦糸があって横糸を通したら反物が出来上がるように、我々人間も縦糸というしっかりしたもの、つまりお経にある教えがあって、それにのっとって日々の生活を営むとき、それぞれの人生というすばらしい反物が出来上がります。また法・道理にのっとって世をおさめ、民を救うというのが、日本語の「経済」という意味です。法にのっとり、理にかなう個人、ならびに企業は大勢の人の信用を得て繁栄する。おかげの心を忘れずに日々誠実に仕事に励んでいくということが信心ある経営・生活になるんだと思います。

(十二) 仕事というのは仕えること、働くというのは傍を楽にするということ、それが本当の実は信仰者のあり方だと思います。信仰と人生ということで言えば、どういう心根を持って、どういう生き方をすることによって、本当の意味での人生、誰にも取って代わることのできないかけがえのない人生を生きたことになるかということです。

 自分がよりよい人生を過ごすためには何が大事かということを、皆様が感じていただけたら有り難いと思います。(終)

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