古 代
仏教は、西暦五百年代、朝鮮半島から伝えられます。聖徳太子は、仏教を世間に広めることを重視し、山中で修行する一人の仏教ではなく、世俗に生きる仏教を重視したと考えられてまいりました。「十七条の憲法」の第一条の「和をもって貴しとなす」というのは、非常に有名ですけれど、ほかの文も素晴らしいものであり、第十条を一部ご紹介いたします。「人、皆心あり。心おのおの執ることあり。かれ、是なれば、すなわちわれは非なり。われは必ずしもひじりにあらず。彼、必ずしも愚かにあらず。共にこれ、凡夫。ただ人のみ」。わたしが聖人というわけでもないし、相手が愚かだということでもない。皆、ただの人であるから、一方的に相手を怒ったり責めたりするな。これは、俗人として生きた、太子の声として聞くことができるかと思っております。日本仏教の原点とされる聖徳太子は、「われも人も、共にただ人のみ」といったとされ、その太子が理想とされてきたことを、押さえておきたいと思います。
次に、奈良の六宗が盛んとなります。東大寺や阿修羅像で有名な興福寺が栄えるわけです。その奈良仏教に対し、新しい新興勢力として出てまいりますのが、最澄と空海であり、日本の仏教は、それまでのインド、中国、朝鮮と伝わってきた仏教とは異なる、独自のものになりました。
仏教の戒律には大乗戒と、小乗戒という2種類がございます。もともとインド以来、僧侶は、小乗戒を守ることを基本としておりました。例えば、男性僧侶ですと二百五十戒ありまして、日常生活が細かく規定されます。例えば、午後には液体しか口に入れてはいけない、という決まりがあります。大乗戒は、それに対して精神的な心構えとしての性格が強いものです。
それに対して、最澄は僧侶の戒を大乗戒のみに致します。以後その方法が、日本仏教の基本となり、戒の上では在家と出家の区別がなくなって、出家者であれ在家者であれ、悟りを開いて、仏になる道が開かれました。これは大変なことでありまして、日本仏教の性格を大きく規定しております。日本では、僧侶は大乗戒を基本として生活し、さらにより難しい段階として、人によって小乗戒を受けて守るという、ほかの国の仏教とは完全に逆転した形になりました。
最澄の言葉を見ておきたいと思います。「国宝とは何ものぞ。その戒、広大にして、真俗一貫す。皆、これ在家の菩薩なり」。「真」というのは出家のこと、「俗」というのは俗人のことですが、法華経の思想に基づくもので、聖と俗の区別を分けようとせず、むしろ世俗の中に聖なるものを見ていこうとする思想です。分かりやすくいえば、一種の普遍主義、平等主義かといえます。
最澄は、若いころに自分のことを、「愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄」。と言っており、こういった自覚が、すべての者に仏になる道を開く思想につながったかと思われます。
後の鎌倉新仏教の祖師たちは、皆、この天台宗で学びまして、こういった平等主義、普遍主義的な態度が受け継がれます。世俗の中に入っていこうとする姿勢、これがはっきりと形になっていくわけです。しかし、僧侶として修行していく上ではどうなのか。気持ちだけでいいのであれば、現実の人間は、楽な方に流れるだけだというのは、動かしがたい真実かと思われるわけです。実際、日本仏教の歴史は、戒律という歯止めを失いまして、楽な方に流れていく歴史と見ることもできます。
戒律の問題でいえば、大乗戒のみというのを嫌い、進んで小乗戒を受け入れる、少数派のお坊さんもおりました。戒律の「律」に「僧」と書きまして、「律僧」というのですが、中世では叡尊をはじめとする真言律僧が橋を架けたり、らい病や非人の救済を行っておりますし、江戸時代でも、各宗で律僧が存在し、彼らの運動は続きました。律僧は、数は少ないんですけれども、思想的には日本仏教に大きな影響を及ぼしてまいりました。聖と俗、世俗と真理の関係が非常に近く重なっており、その間でバランスを取っていこうとするのが、日本仏教の大きな特徴です。
次に空海ですが、真言宗、真言密教の祖師として、日本に本格的な密教を入れた方であります。空海によって始まった密教は、平安時代に真言宗と天台宗の両方で、天台宗も入っていくわけですが、皇室や貴族の祈とうを行いまして、時代の主流となりました。空海の有名な言葉をご紹介します。「生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生の始めに暗く。死に、死に、死に、死んで、死の終わりに暗し」。『秘蔵宝鑰』という本の最初の部分ですけれども、何回も輪廻転生して、生まれ続け死に続けても、常にわれわれは、暗く迷い続けていくということで、われわれの存在をうがつ言葉であろうと思います。
中 世
各宗の祖師をはじめとして、多くの宗教者が活躍する時代であります。古代の天皇および貴族による摂関政治から、鎌倉幕府の中世の武家政権へと大きく移り変わる時代です。社会体制が根本的に変わる中で、仏教もまた、人々の願いに応じて、変わってまいります。没落していく貴族の間では、仏教が滅びる末世、末法であると実感され、念仏が新しい祈りの形として唱えられ、一方では新しい勢力であります武士は、実践行である禅を求めてまいります。新しい思想というのは、二つに分けられると思うんです。まずは仏教の原点に立ち返って、実践性を取り戻そうとする道。貞慶と明恵というのは奈良のお坊さんでありますが、戒律を守って、正しい仏法を回復しようとしました。栄西や道元により、中国から輸入されて確立していく、禅の方法があります。もう一つは、現実に応じて、新しいものを作っていこうとする道であり、法然や親鸞の念仏や、また日蓮の「南無妙法蓮華経」という唱題が生まれます。こうした伝統と革新の二つの流れが生まれて、絡み合って展開しつつ、日本の中世仏教が形成されていきます。
法然という人は、幼くして比叡山に入り約三十年後に、「一心に阿弥陀仏の名前を唱える」という文章に会って、宗教的な改心を得ます。あらゆる実践行、禅や戒律という困難な行に対して、ただ阿弥陀仏の名前を唱えることを選び取るということで、称名念仏を選択して、専ら修すること、誰でも念仏を唱えることにより、極楽に往生できるという信念に基づいて、法然は四十三歳で比叡山を下り、京都で念仏の布教を始めます。貴族から一文不知の尼入道まで広い支持を着々と得てまいります。
それまでの平安時代の仏教は、極楽への往生は、臨終の一念が正しくなければ、乱れたり病気でこん睡状態ではなくて、正しく阿弥陀仏にお願いしなければ、極楽には行けないとなっておりました。これに対して法然の主張、誰でもできること、口で唱える念仏によって極楽に往生できるという、法然の革新性は、革命的なものだったと思われます。法然が最後に残した文章は、「ただ、往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、疑いなく往生するぞと思い取りて、申すほかには別の子細候わず。」極楽往生するためには、南無阿弥陀仏と唱えるよりほかに別のことはない。念仏を信じる人は、ただひたすらに何も知らないものとして念仏すべきであるというものです。
法然の思想は、すべての人間が阿弥陀仏の慈悲によって、平等に救われるということと、人間はすべて罪深い凡夫であるという自覚に立っております。その点が決定的に新しく、それまでの比叡山や南都の仏教にとっては、異端でありました。例えば、世界史の近代におきまして、マルクス主義が持っておりました、革新性、革命性に似たものが、当時あったと思われます。功徳を積まなくても、密教の儀礼や何かをやらなくても誰であれ極楽に行けるというのは、非常に革新的なものでありました。こういう人間観と、念仏を唱えればいいという救済の方法は、その後の日本仏教の中心的な思想の一つになってまいります。法然教団は、社会的に非常に強いインパクトを与えまして広い支持を得ました。
法然の教えが広がっていく過程で、念仏を唱えていれば、どんな悪いことをしても、極楽に行けるんだという考える者が、生まれてまいります。専修念仏が一般化し、大衆化していく中で、阿弥陀仏以外の神仏の像を壊したり、犯罪を犯す者が出てまいります。戒律を守る僧侶を軽べつしたりするわけです。法然自身、それらの不心得な者たちへ再三注意しておりますけれども、そういった法然教団の行為が、旧仏教からの法然への批判と弾圧へつながってまいります。
旧仏教側で法然弾圧の先頭に立ちましたのは貞慶。南都、興福寺の高僧でした。貞慶は戒律復興を目指しまして、律僧になっているんですけれども、南都の興福寺から遁世した僧侶で、戒律運動を通して、社会的には念仏聖などの行者などにも影響を与えております。貞慶が法然を批判する理由は、それまでの秩序を乱すものであるということです。その結果、法然は四国に流され、八十歳になって京都に帰り亡くなりました。
貞慶の思想というのは、奈良の法相宗の唯識思想を基盤としております。貞慶のざんげする文章が残っております。「発心修行の計、内と外と共にそむけり。悲しいかな、痛ましいかな。いたずらに暮らし、いたずらに明かす」。自分には、あまりにも仏道を実践する能力がない。朝も、昼も、夜も怠けてばかりいるし、門前にこじきが来れば、慈悲の心もなく嫌だと思うし、犬や、スズメにも哀れみを感じない。とても自分には修行ができない。ここまでは、法然や、親鸞によく似ておりますが、これ以後が違います。法然や、親鸞でしたら、「わたしは凡夫であるから自力ではどうしようもない。阿弥陀仏の慈悲を信じて念仏をする」といくのだと思いますけれども、貞慶は「あくまでも修行を自分でしようとする心を、起こさせてください」というふうに神仏に祈ります。
貞慶も法然も、実際には厳しい戒律を守って、大変な学問をした人たちですので、彼らのこういった弁は、事実というよりも、当時のトップレベルの宗教者の矜持として、彼らの自己反省の弁として、受け止めなくてはいけないかと思います。その上で、他力と自力の違いといいますか、最後の踏み切りの違いが面白いところです。
自力のコースを歩もうとする貞慶の真摯さは、われわれにも、非常に共感できるものと思うのですが、鎌倉仏教の南都側、旧仏教を代表する雄であると思います。新仏教と、旧仏教の違い、さらに日本仏教における各宗の違いというのは、単なる教え、言葉の違いではございません、人間の類型の違いでもあるのです。
第二期の明恵になりますと、もっと思想的なことが前面に出てまいります。明恵は、実際の修行には、口で唱えるという、法然流の実践行の方法を取り入れて、工夫してまいります。法然や親鸞の新しい思想が、明恵に修行への内面的な影響を及ぼす段階にまで及んでいるわけです。このように新仏教の影響を受けつつ、旧仏教の側も、本格的に変化してまいります。
次に、曹洞宗を開いた道元ですが、有名な言葉で「修証一如」といわれます。「修行、座禅がそのまま悟りである」。ひたすら座禅することが求められます。悟りを目的として修行する、座禅するのではないということで、純粋な禅というふうにいわれてまいりました。「かくのごとく道を求むる志、切になりなば、あるいは只管打座のとき、もしくは知識に会わんとき、実の志を持って行ずるとき、高くとも射つべく、深くとも釣りぬべし。/誰人か初心より利なる。必ずすべからく、これ、琢磨し錬磨すべし。自ら卑下して、学道をゆるくすることなかれ」。ここに、道元の修行への姿勢が、よく出ているかと思います。
日蓮は、法華経信仰をもとに現実の社会に積極的にかかわった祖師であります。元寇の前後、北条時頼に「法華経を信仰しないから、天災が起こって、元が攻めてくるんだ」と予言をし、伊豆に流されております。日本の仏教者の中でも、社会へかかわっていこうとする、日蓮の積極性は、非常にまれなものであり、後世に大きな影響を及ぼしています。
「我れ日本の柱とならん」。日本の柱というところからとって国柱会を田中智學がつくり、石原莞爾、宮沢賢治、北原白秋も、かかわりがあったとされておりますが、現実の社会を良くしていこうとする意志と姿勢が日蓮の思想の特徴です。戦後に生まれた新宗教系でも、日蓮系は群を抜いて多いですし、日蓮の現実にかかわろうとする熱い意思は、今も生きているかと思われます。
中世後期には、室町幕府と関わりの深い臨済宗の禅が盛んとなります。戦国時代に入りまして、思想的には、あまり発展がみられないとされております。しかし、大きな地殻変動が起こります。曹洞宗や浄土真宗は、九州や関東、東北といった地方に布教し教宣を拡大しました。例えば、浄土真宗の蓮如は、寂れていた本願寺を復興し、北陸を中心に一代で大きな勢力に育て上げました。蓮如がつくった教団は、一向一揆となりまして加賀の国を支配し、織田信長と敵対するに至ります。
浄土教団も禅教団も、武士と庶民をおさえて、勢力を拡大し、旧仏教と新仏教の勢力は完全に逆転いたしました。それまでの天皇家や貴族、中央の武家政権から、地方の戦国大名へと権力が移る時代、いわゆる下克上の時代に伴う、必然的な宗教構造の変化であったと思われます。
近 世
一向一揆をはじめとする仏教勢力は、信長や家康という、権力者によって軍事的に打ち負かされ、近世の政治体制を支える役割を担っていきます。今でいう檀家制度です。今の我々は、檀家制度は特定の寺の僧侶がその寺の檀家のお葬式を行うというふうに思っておりますが、当時は、行政的な戸籍制度であり、民衆一人一人がキリスト教徒ではないことを証明する制度でありました。近世以前から、寺に民衆が葬式をやってもらうという関係は、部分的にはあったのですが、全国的な制度として、全国津々浦々にまで行きわたるのは、キリスト教禁止をきっかけとした近世の初期であります。江戸の時代は、葬式仏教が確立するに伴い、仏教が堕落した時代であったと思われています。この堕落論が出てくる背景としては、明治以降に非常に急速な近代化が求められる中で、その直前の時代である江戸時代を否定しなくてはいけないという、時代的な状況がありました。また実際に、仏教が全国に広がって大衆化し、普遍化していく中で、いわゆる堕落も出てまいります。
中世から近世への転換には、キリスト教の伝来がありました。近世の仏教は、キリスト教や儒教といった、異なる思想と対決し、交流しながら、仏教自身の独自性を模索し、形成していきます。
この時代に入ってくるキリスト教、ローマ・カトリックのイエズス会は、中国でも同時期に伝道しております。唯一絶対のキリスト教の神様への信仰と、孝の思想に基づく祖先祭祀が相いれない、キリスト教においては許されないという清朝皇帝とローマ教皇とのやりとりがあり、一七〇〇年代半ばにキリスト教の宣教師は、公的に追放されるに至ります。
日本では、いわゆる島原の乱、宗教としてのキリスト教が、政治的に現実の力を持ちます。キリスト教は一向一揆と、ほぼ同じような性格になっていきまして、徹底的に弾圧されて、絶対禁止されることになります。キリスト教の思想は、中国では儒教、日本では仏教を相手に対決することになりました。その結果、肝心の一神教は受け入れられませんでしたけれども、彼らのもたらした西洋科学、主に、鉄砲・大砲と暦が歓迎されました。中国では正確な暦がよろこばれ、宣教師が大砲の技術者として歓迎されるという皮肉な結果になっております。
西洋科学というのが、キリスト教の宣教師が持ってきたものなんですが、仏教の宇宙像、世界観というのがあります。それをめぐって、地動説、アリストテレス天文学と論争になります。

この絵が、仏教の宇宙像であります、須弥山世界といわれるものであります。平らな大地が真ん中に、想像を絶する高さの須弥山という山がそびえております。太陽と月が山の半分ぐらいの高さです。その周りを、山脈が取り囲みまして、周りの円盤上に、人間の世界と書いてありますが、その南側の大陸にわれわれが住んでいるのだというものです。
その下に、水や風の土台があることになっていますが、この須弥山世界は、インド大陸がモデルになったものです。この須弥山がヒマラヤ山脈でありまして、人間の世界があるのが、南側の三角形であり、インド亜大陸の形をしています。これが、古代インドの仏教の世界観であります。つまり、大地は平たいことになります。
日本の江戸時代におきまして、一七三〇年に、キリスト教宣教師のもたらしました西洋天文学の本が中国から輸入されて、出版されます。これによりまして、アリストテレスの天文学と大地が丸いという概念、いわゆる地球の考え方が輸入され、江戸時代を通じてベストセラーになります。儒教の学者たちが仏教を批判する中で、西洋天文学の地球説によって須弥山世界を批判しはじめます。それに対して、仏教側が応じまして、いわゆる須弥山説論争っていうのが始まり、これが近代の明治時代まで続いております。
一七〇〇年代の大阪の学者、五井蘭州や当時の大商人といった世俗の知識人にとりましては、仏教の須弥山説は、仏教側の愚かさを実証するものでありました。また彼らと同時代を生きる僧侶たちにとりまして、世俗の知識人による須弥山説への批判は、僧侶たち自身が抱く疑問でもあって、仏教の意義を問う、痛切な問いでありました。
須弥山説への批判に対して、普寂という律僧が最初に批判に答えております。律僧として、座禅や戒律を行っており、最終的には芝の浄土宗の増上寺の講師になるんですけれども、三十代に諸国を遍歴している間に、突如として、三つの疑問を抱いたというんです。「現実に須弥山が存在するのかどうか。」「大乗仏教は、本当に釈迦の説であるか。」「輪廻することは本当なのか。」というものです。
普寂は、この疑問を解くには、自分の心を悟るしかないのだとしまして、曹洞宗の修行寺、加賀の大乗寺に座禅の修行に参ります。その後、一人で悟り、疑問は解決されたといいます。この五十年後、七十歳の折に、須弥山説批判に答える本を書きます。この本『天文辨惑』が、その後、近代仏教へと影響を及ぼすものであります。
その内容は、地動説を説く西洋天文学は、非常に素晴らしい学問であると、普寂は認めるんです。しかし、天文学のような、西洋科学のような世俗の知恵では、この現実世界の真相は分からず、この苦しみの世界から出られないというふうに批判いたします。普寂は、天文学という西洋科学は、便所に落ちた者が、出ることを考えないまま、穴の大きさを測り続け、穴の広さは分かっても、決して出られないようなものだと辛辣に述べております。
仏教においては現実世界は、いわば原子・分子の集合体であり、すべて無常であって永遠不変のものはないというのが、結論です。これは、仏教において、まさに正統的な見方であります。一方で、須弥山世界は、聖者の瞑想の中に、映像として現れたものであるといたします。仏教の須弥山説及び世界像は、聖者の瞑想中に現されたものであって、彼が瞑想し、悟ったときの体験によっております。 また、仏教の世界像が瞑想中の映像であるというのは、華厳経をはじめとする経典に書いてあることでもあります。こういった、自分の体験と、経論からそういった結論に至るわけです。仏教者が現実世界について論争することは、虚空の花の形や色について言い争うようなもので、まったく無意味であるとされます。
また、富永仲基と並んで普寂の大乗仏説論は、現代の日本の大乗仏教観の直接の根拠になっております。つまり、近代から現代にかけての日本仏教は、江戸時代から延々と獲得されてまいりました思想的な水脈上にあるものです。近世の仏教は、思想的にも制度的にも、近代以後の日本仏教の土台であると同時に、現代のわたしたちの宗教と倫理の基礎を形作った思想の一つであります。日本仏教を、わたしたち自身の思想として考えるために、江戸の仏教は、欠かすことのできない歴史的位置にあり、大きな手掛かりを与えてくれるものです。
近 代
明治近代は、廃仏棄釈と神仏分離により、幕を開けました。仏教にとってみれば、これは、日本で大規模に行われた、唯一の仏教弾圧政策です。明治政府は、日本が植民地になるのを避けたい訳で、国民意識の一体化を図るためには、インド起源の仏教よりは日本を起源とする神道の方が望ましいわけです。それまでの仏教の退廃は、目に余るものがあり、幕府の高官や知識人は、仏教をほとんど憎んでおりました。そういうわけで、廃仏棄釈が起こったのですけれども、神道一本でいこうという政策にはあまりに無理がありまして、民衆に受け入れられずに、結局すぐに挫折いたします。
その端的な例が近代から始まった、肉食妻帯です。もともと戒律をさほど重視するわけではない日本仏教では、ほかの国の仏教に比べれば、妻帯をさほどタブー視はされてきませんでした。浄土真宗では、僧にあらず、俗にあらずといった親鸞から始まって、妻帯が普通でありました。とはいえ、ほかの宗派では、厳しく禁止されておりまして、江戸時代に女性と関係を持った僧侶は、見つかり次第、日本橋でさらし者になり、島流しにされております。逆にいえば、江戸時代の肉食妻帯の禁止は、世俗社会とは厳密に区別される僧侶、世俗社会の外にある身分の証明でもあったわけです。
近代に入りまして、僧侶は、兵隊にも取られる一般人と同じ身分になります。世俗社会の外にある身分ではなくなったわけです。お坊さんは、僧侶である前に、まずは国民の一人になりました。明治政府が妻帯を禁止する理由はないわけです。むしろ、僧侶には普通の人と同じになってもらわないと困ります。明治維新から五年後に、僧侶の妻帯を許可する法律が出されます。これ以後は、僧侶は肉食妻帯するのは自由であるし、袈裟や衣だけではなく、普通の服を着ていいよというわけです。
以後の日本仏教は、ご存じのように、妻帯の道を選んでおります。肉食妻帯は、よく日本仏教の堕落のようにいわれますけれども、歴史的にみると、仏教が日本で近代化していく過程の一つとして、ある意味で必然的なことでありまして、倫理的に良いか悪いかということは、また別の問題であります。
今のわれわれの考える、鎌倉新仏教や祖師のイメージというのも、明治時代になって、出てきた部分があります。例えば、有名な言葉、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という親鸞の言葉とされております『歎異抄』の一節です。この『歎異抄』は、蓮如が禁書として、読んではいけないと禁止しまして、ずっと読まれてまいりませんでした。江戸時代に、ごく一部の学僧の間で講義されたことはありますけれども、一般人が読めるものではありませんでした。明治末期のころ、清沢満之が見つけて倉田百三などを経て、広まったものです。また曹洞宗の『修証義』という、在家のための短い本ですが、道元の『正法眼蔵』の中からのダイジェスト版です。例えば、「我らが行持によりて諸仏の行持見成し、諸仏の大道通達するなり」という言葉、これは、われわれの日常生活及びその行いによって、諸仏の教えがそのまま開かれていくのだという意味になりますが、これも非常に長い『正法眼蔵』の中から、明治中期に選ばれた言葉です。
おわりに
普遍的な宗教が、現実の中で、どういうふうに人を支えて生き延びていくかというのは、非常に難しい問題であります。その中で、キリスト教、イスラム教、いろいろあるわけですけれども、日本の仏教の特徴としましては、やはり、人に寄り添う姿勢、人の生きる現実を重視して、その生活に寄り添うという、その優しさにあるように思っております。江戸時代に問題になりました、須弥山説や大乗非仏説なども、原理主義的に頑張れば頑張ってしまえることだったと思うんです。原理的な潔癖さというのは、信仰の問題としては尊いものだと思いますけれども、現実に人を幸せにするにはどうなのかと思います。日本の仏教は、江戸時代から数百年をかけて、近代的な価値観を受け入れて仏教的価値観に昇華させながら、世俗を生きる人々を支える道を選んでまいりました。そういった意味では、聖徳太子や最澄のいった、真俗一貫の道は、紆余曲折しながらも、ずっとつながって、日本人を支えてきたのではないかと思っております。
= 終わり =







