古代から現代まで、日本の仏教がどのように生まれ、続いてきたか。日本仏教の特徴を考えてみたいと思います。
聖徳太子は仏教を世間に広めることを重視し、修行者のみの仏教ではなく、世俗の生活の中に生きる仏教を重視したというふうに見られております。『十七条の憲法』、非常に素晴らしいものでありますが、第十条の一部のみご紹介したいと思います。
「人皆心あり、心おのおの執れることあり、かれ、是なれば、すなわち我は非なり。我必ずしも聖にあらず。かれ、必ずしも愚にあらず。ともにこれ凡夫...」。両方ともただの人である。だから、一方的に相手を怒ったり責めたりしてはならないというものです。この言葉は、一人俗世から離れた聖人のものではなく、世俗の中に生きた聖徳太子の声として聞くことができるかと思っております。日本仏教の原点とされる聖徳太子が、「われも人もともに是ただ人なり」といったとされること、そういう太子が日本仏教で理想とされてきたことを、まず押さえておきたいと思います。
その後南都六宗、奈良の仏教でありますが、皆さまご存じの大仏の東大寺、また興福寺が盛んになります。それに対して平安時代の新しい勢力として、最澄と空海が出てまいります。どちらも中国に留学された方です。
日本仏教の特徴、また思想史を考える上で、最澄は非常に重要であります。最澄によって日本の仏教はインド、中国、朝鮮と伝わってきました、それまでの仏教と異なった独自のものになります。仏教の戒律には、大乗戒と小乗戒の2種類があります。もともとインド以来、出家者いわゆるお坊さんは、小乗戒を守ることを基本にしています。これは僧侶の日常生活、僧団の生活を細かく規定する決まりであります。非常に具体的なものでありまして、その結果、数も多くなるのです。たとえば、男性僧侶は約二百五十戒、女性僧侶は三百四十八戒といわれます。具体的にどういう決まりかといいますと、例えば午後には物を食べてはいけない。液体のみしか口にしてはいけないなどというものです。
これに対しまして、大乗戒は、たとえば日本で一番有名な梵網戒ですと五十八戒と非常に少ない上に、細かい規則というよりは、精神的な側面が強くなってきます。もう少し言いますと、実際には実行することができない、実行不可能な決まりが入ってくるわけです。例えば、「自分の皮膚をはいで、それを紙にして、血を墨にして、骨を折って筆にして、お経を書き写せ」と本当に書いてあるのです。歴史的には実際にこれをやった方もおられるのですが、現実には、普通の人間にはまず不可能であるというものです。つまり大乗戒の中には、精神的な心構えとして受け止めざるを得ないものがあります。
最澄は出家者の戒を精神的な理念、大乗戒のみにいたします。そして以後、その方法が日本仏教の基本になります。つまり得度するときには、大乗戒のみを受けることになるわけです。それまで基本的には具体的な小乗戒を守っていたのが、逆に精神性のみを重視する大乗戒のみを守るということになります。それが日本における出家の姿になります。このことによって、理念的には戒の上では在家と出家の区別がなくなりまして、出家者であれ在家者であれ、悟りを開いて仏になる道が開かれたことになります。これは大変なことでありまして、日本仏教の性格を大きく規定するものの一つです。
「国宝とは何者ぞ、宝とは道心なり、道心ある人を名づけて国宝となす。その戒広大にして真俗一貫す」。法華経の思想に基づく最澄の言葉ですが、聖と俗、出家と在家の区別を峻別しようとせず、むしろ世俗の中に聖なるものを見ていこうとする思想につながっていきます。これは、いってみれば一種の普遍主義、あるいは平等主義といえるかと思います。
こういうことを、なぜ最澄が考えたかということですが、最澄の言葉ですけれども、一番若いころに書いたとされるもので、「愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄」。こういった宗教的な内省、自覚がこういった真俗一貫という思想を開くことにつながったというふうに考えております。この平等主義、普遍主義というものは、鎌倉新仏教のうちの各宗の祖師につながっていきます。各宗の祖師は、皆比叡山の天台宗で学んだことがありますので、どこかでやはりつながるわけです。
こう聞きますと、この平等主義は大変よろしいように聞こえるのですけれども、いいことづくめではありません。現実に人間が生活していく際を考えた場合、精神的な決まりだけでいいのか。現実にはわれわれ自身の日常的な細かい規定、具体的な倫理を実行する積み重ね以外に何があるのかという考え方が当然あるわけです。まして僧侶として修行していく上ではどうなのか。気持ちだけでいいのであれば、現実の人間は楽な方に流れるだけではないか。私は自分のことでそう思うんですけども、動かしがたい真実だと思います。
実際、日本仏教の歴史は戒律という歯止めが薄れまして、楽な方に流れていく歴史でもありました。研究者の中には、「本来の仏教から見れば、妥協の積み重ねである」とおっしゃる方もいるぐらいです。その意見が妥当なものかどうかというのは、皆さんがご自身でお考えになることかと思います。
戒律の問題でいえば、歴史的には、大乗戒のみというのを嫌いまして進んで小乗戒、二百五十戒を受けるお坊さんもおりました。戒律の「律」の僧と書きまして「律僧」というのですけども、中世、江戸時代、明治時代にも少数派ながら常におりました。彼らは社会活動や慈善事業を行い、思想的にも非常に大きな影響を及ぼしております。律僧は少数ですが常に存在しており、これ自体聖と俗、真理と世俗の関係のバランスを取っていこうとする日本仏教の特徴の一つであります。
空海は、真言密教の祖師として日本に密教を入れた方であります。空海によって始まった密教は、平安時代に真言宗と天台宗の両方で、貴族や天皇家の祈祷を行いまして、時代の主流となりました。天台宗は最澄の段階で密教があまり入ってきませんでしたので、平安時代を通して真言宗に追い付こうとして、何回も中国で勉強してまいります。それが円珍と円仁であります。空海の有名な言葉を紹介しておきます。「生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く 死に死に死に死んで死の終りに冥し」(限りなく輪廻転生し、生まれ続け死に続けても、われわれ生物は暗く迷い続けていく)。
没落していく平安貴族たちの間では、今が仏教が滅びる末世、末法であると実感されます。念仏が新しい仏教として出てきまして、新しい勢力である武士は実践行である禅を求めるわけです。中世に関しましては、伝統と革新の二つの流れがあると思います。
まず伝統というのは、それまでの仏教が役に立たなくなってくる。平安時代の密教の儀礼、非常に煩雑なものですけども、お金もかかるし、時間もかかる。とにかく貴族でないと、その財力がないわけです。新しく出てきた武士、庶民はとても無理ですので、どうすればいいか。まず、仏教の原点に立ち返ろうという動きがあります。これは南都の旧仏教、高野山、比叡山ですが、そちらでの戒律を復興しようという動きが出てきます。また、栄西、道元の禅、中国から輸入されてくる禅です。戒律や禅というインド以来の伝統にもう一回立ち返って、われわれの実践行を探していこうという流れが出てまいります。
こういう伝統に対して革新派といいますか、これまでのものが役に立たないのであれば新しいものをつくっていこうではないかという流れも生まれます。
浄土宗の開祖、法然は、幼くして最澄の天台宗比叡山に入り約三十年後、一心専念弥陀名号、念仏を口で唱えるだけで、人は極楽に往生できるのだということを主張するに至ります。あらゆる実践行の中で、ただ阿弥陀仏の名前を唱えるだけでよい、という易しい行を選択しました。すべての人間が誰でも念仏を唱えることで極楽に行けるという信念に基づき、法然は四十三歳で比叡山を下りた後、京都で念仏布教を始めます。貴族の摂関家から、一文不知の尼入道まで広い支持を着々と得ていきます。
誰でも口で唱えるだけでいいという革新性は、革命的なものだったと思われます。法然が最期に残した言葉、一枚起請文、彼の遺言ですけれども、ご紹介しておきましょう。「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候わず」。
法然の思想は、世界の近代史におきましても、大変なことでありました。この人間観と救済の方法は、その後の日本仏教の中心的な思想の一つになってまいります。浄土系の仏教、真宗も合わせますと、浄土系の宗派は日本でもちろん最大であります。
こういった法然の教えが広がっていく過程で、専修念仏の主張が一般化して、大衆化していく中でどうなっていったか。念仏を唱えてさえいれば、どんな悪いことをしても極楽往生できるのだという楽な方に流れて、都合のいい解釈が生まれるわけです。阿弥陀仏以外の仏像を壊したり、戒律を守る僧侶を軽蔑して襲ったとか、あるいは犯罪を犯す者が出てまいります。悪いことをしても極楽に行けるなら、罪を犯した方が得ではないか、というわけですね。法然自身は不心得な者たちに再三注意しておりますけれども、なかなか行き届かない面がある。そういうことも含めて、旧仏教からの法然門下への弾圧へつながってまいります。旧仏教側で法然を弾圧したのは南都、奈良の高僧では、たとえば貞慶です。
貞慶は、戒律の復興を目指した人で、南都の法相宗、唯識思想を基盤としております。この貞慶が自分のことを反省する文章を読みますと、彼が批判する法然側の思想、専修念仏をする人たちの思想に非常によく似ている部分があるのです。貞慶の言葉ですが、「自分にはあまりにも仏道を実践する能力がない。朝も昼も夜も怠けてばかりいるし、門前にこじきが来れば、それに対して哀れみの心もなく嫌だと思う。また、犬やスズメにさえ哀れみを感じない。とても自分ではどうしようもない。自分は罪障、罪が非常に深い凡夫である。...我進んで道心を請ふ...。」凡夫の自覚以降が、法然や親鸞と決定的に違ってきます。
次に曹洞宗を開いた道元。その主張は修証一如といわれまして、修行、坐禅がそのまま悟りであるというふうにいわれます。悟りを目的として修行するのではない、坐禅すること自体が目的なんだというふうにいわれまして、純粋禅だというふうにいわれております。道元の修行に対する姿勢は、「初心のものでも決して自ら卑下して学を緩くすることなかれ。」という言葉によくあらわれておりましょう。
日蓮はやはり天台宗に学びまして、法華経信仰を元にして、現実な社会に積極的にかかわっていた祖師であります。前の執権でありました北条時頼に法華経信仰を行わないから天災が起こって、元が攻めてくるんだと予言をして、伊豆に流されました。日本の仏教者の中でもこうした積極性、社会的にかかわっていこうという実践の在り方は非常にまれであります。後世に大きな影響を及ぼしております。
日本近代に入り、日蓮主義運動というのが起こります。国の柱の会、国柱会というのは、「我、日本の柱とならん」という日蓮の有名な言葉から取られております。田中智學、石原莞爾、宮沢賢治、北原白秋らが参加しています。現実にかかわろうとする意思と姿勢が日蓮および日蓮宗の特徴であり、戦後に生まれた新宗教系でも日連系は群を抜いて多く、日蓮の現実にかかわろうとする熱い意志は脈々と生きています。
中世後期
中世の後期には室町幕府と結びまして、臨済宗の禅が盛んになります。あとは戦国時代で、思想的にはあまり発展が見られません。しかし、この時期の日本仏教には大きな地殻変動が起こります。具体的には曹洞宗、浄土宗、浄土真宗は、九州、関東、東北といった、地方に布教して、教線を拡大いたします。
浄土教や禅宗、それらが新しく起こってきた庶民、また武士を押さえて勢力を拡大し、新仏教の勢力はそれまでの旧仏教と完全に逆転いたしました。これを政治構造、あるいは政治史的にいえば、それまでの天皇家、貴族、また鎌倉幕府といった勢力から、地方の戦国大名へと権力が移る時代、いわゆる下克上の時代に伴う必然的な宗教の変化であったと思われます。
そのときに、一人一人から証明書を取る。「わたしは仏教徒であって、キリシタンではない」という証明書を取るわけです。その証明書が後に一般化しまして、庶民は結婚する場合、また引っ越しする場合、とにかく自分の土地を離れる場合には寺が発行する証明書が必要になりました。
ここで、寺は行政的に戸籍事務を扱う役割を持つことになります。それが江戸時代の最初の、ほぼ一〇〇年間で、全国的に確立してまいります。お寺の半数以上がこの時期にできています。 これだけ大きな制度、全国的に、国民一人一人、民衆一人一人の支配を行う。証明を取る。幕府権力という上からの押し付けだけでは到底できませんし、また定着するのは無理ですね。実際問題として、幕府がなくなった明治以後、今もって寺檀制度はございます。残っているからには、みんなにとって寺檀制度には何らかに積極的な意味、残すだけの価値があったんだろうと思うわけです。
もともと中世の後期から寺の僧侶に葬式をしてもらうことは広がりつつありました。低い身分の庶民にとって、死んだ後に野原に投げ打たれる、あるいは墓にしても一般人が埋めるということではなくて、個人として死後に供養を受けることは、望ましいことでした。また、僧侶によってその霊魂の浄土への往生が保証されるわけですので、死後の安心が得られるということも、それがなかった状況と比べれば、非常に画期的なことでした。
一方、寺や僧侶にとっても、中世後期辺りには民衆と寺、僧侶の相互の必要によって、寺と檀家の関係が地方によってはある程度成り立っていたものだろうことが、明らかになっております。
近世の初めに、幕府はある程度あった寺檀関係の上に乗って、庶民の把握を行うわけです。寺の側としても、その制度によってお寺の数は増え、その存続は制度的に保証されますので歓迎されることでした。民衆一人一人にとっても、死後の安心と日々の心の支えに加えて、お寺にみんなで行くことが娯楽でもあったわけです。行きつけのお寺と行きつけのお坊さんというのが求められるものでありました。
こうして幕府と寺、僧侶、民衆のそれぞれの必要が三位一体になりまして、江戸時代に仏教は全国に広がり、国民宗教となっていきます。江戸時代と同時期の中国や朝鮮では、仏教は社会的・思想的力をほとんど失っています。同じ東アジア文化圏で、日本になぜ仏教が残ることができたのかというのは、やはりその寺檀制度に代表される仏教の国教化と、それに伴う普遍化にありましょう。いいかえれば、仏教は江戸時代に名実ともにみんなのものになった、ということかと思います。
では、彼らは何を信じていたのか、本居宣長や平田篤胤によって始められた国学神道が大きな比重を占めています。古代の素朴な心情が日本人の一番目指すべきものであって、仏教や儒教といった外から来た思想が、日本人の心を汚してきたんだという主張につながってまいります。
その結果、明治近代は、廃仏毀釈と神仏分離によって幕を開けます。これは日本の歴史上大規模に行われた唯一の仏教弾圧策です。明治政府としては、日本が植民地になるのだけはとにかく回避しなくてはいけない。これから国民全体として、欧米列挙の諸国に追い付こうとするのが課題であります。そのとき、国民としての意識の一体化を図るためには、日本を起源とする国家神道の方が望ましいわけでした。
とはいいましても、神道一本でいこうという政策はあまりにも無理がありまして、民衆に受け入れられず、結局、すぐに挫折いたします。その中で仏教は、何とか国家の近代化に付いていこうとして国家と宗教、仏教の関係を模索してまいります。そのあらわれの一つが、肉食妻帯です。近代に入りまして、僧侶は兵隊にも取られるようになります。お坊さんは一人の僧侶である前に、まずは明治国家、日本国家の国民の一人になりました。江戸幕府が禁止していたように、僧侶の妻帯を政府として禁止する理由はないわけです。明治5年、僧侶の妻帯を許可する法律が出されました。
古 代
今から約一五〇〇年前、中国から朝鮮半島を通って、日本に仏教が伝来いたします。古代の仏教でご紹介しておきたいことは、何といっても聖徳太子です。聖徳太子につきましては、今のところ信用がおける歴史的な資料、ないし遺跡といいますか、木簡であれ何であれ、ほとんどありません。何らかのかたちでそういう方が居たとは思うんですが、聖徳太子が何をいったか、彼の思想が何であったかというのはほとんど分からない。しかし聖徳太子が古代から今に至るまで、日本人の信仰と尊敬を集めてきたこと、日本仏教の象徴として信仰されてきたのは、歴史的事実であります。私たちが聖徳太子に何を託してきたか、太子にどういう理想を見てきたかということが大事だと思うのです。聖徳太子は仏教を世間に広めることを重視し、修行者のみの仏教ではなく、世俗の生活の中に生きる仏教を重視したというふうに見られております。『十七条の憲法』、非常に素晴らしいものでありますが、第十条の一部のみご紹介したいと思います。
「人皆心あり、心おのおの執れることあり、かれ、是なれば、すなわち我は非なり。我必ずしも聖にあらず。かれ、必ずしも愚にあらず。ともにこれ凡夫...」。両方ともただの人である。だから、一方的に相手を怒ったり責めたりしてはならないというものです。この言葉は、一人俗世から離れた聖人のものではなく、世俗の中に生きた聖徳太子の声として聞くことができるかと思っております。日本仏教の原点とされる聖徳太子が、「われも人もともに是ただ人なり」といったとされること、そういう太子が日本仏教で理想とされてきたことを、まず押さえておきたいと思います。
その後南都六宗、奈良の仏教でありますが、皆さまご存じの大仏の東大寺、また興福寺が盛んになります。それに対して平安時代の新しい勢力として、最澄と空海が出てまいります。どちらも中国に留学された方です。
日本仏教の特徴、また思想史を考える上で、最澄は非常に重要であります。最澄によって日本の仏教はインド、中国、朝鮮と伝わってきました、それまでの仏教と異なった独自のものになります。仏教の戒律には、大乗戒と小乗戒の2種類があります。もともとインド以来、出家者いわゆるお坊さんは、小乗戒を守ることを基本にしています。これは僧侶の日常生活、僧団の生活を細かく規定する決まりであります。非常に具体的なものでありまして、その結果、数も多くなるのです。たとえば、男性僧侶は約二百五十戒、女性僧侶は三百四十八戒といわれます。具体的にどういう決まりかといいますと、例えば午後には物を食べてはいけない。液体のみしか口にしてはいけないなどというものです。
これに対しまして、大乗戒は、たとえば日本で一番有名な梵網戒ですと五十八戒と非常に少ない上に、細かい規則というよりは、精神的な側面が強くなってきます。もう少し言いますと、実際には実行することができない、実行不可能な決まりが入ってくるわけです。例えば、「自分の皮膚をはいで、それを紙にして、血を墨にして、骨を折って筆にして、お経を書き写せ」と本当に書いてあるのです。歴史的には実際にこれをやった方もおられるのですが、現実には、普通の人間にはまず不可能であるというものです。つまり大乗戒の中には、精神的な心構えとして受け止めざるを得ないものがあります。
最澄は出家者の戒を精神的な理念、大乗戒のみにいたします。そして以後、その方法が日本仏教の基本になります。つまり得度するときには、大乗戒のみを受けることになるわけです。それまで基本的には具体的な小乗戒を守っていたのが、逆に精神性のみを重視する大乗戒のみを守るということになります。それが日本における出家の姿になります。このことによって、理念的には戒の上では在家と出家の区別がなくなりまして、出家者であれ在家者であれ、悟りを開いて仏になる道が開かれたことになります。これは大変なことでありまして、日本仏教の性格を大きく規定するものの一つです。
「国宝とは何者ぞ、宝とは道心なり、道心ある人を名づけて国宝となす。その戒広大にして真俗一貫す」。法華経の思想に基づく最澄の言葉ですが、聖と俗、出家と在家の区別を峻別しようとせず、むしろ世俗の中に聖なるものを見ていこうとする思想につながっていきます。これは、いってみれば一種の普遍主義、あるいは平等主義といえるかと思います。
こういうことを、なぜ最澄が考えたかということですが、最澄の言葉ですけれども、一番若いころに書いたとされるもので、「愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄」。こういった宗教的な内省、自覚がこういった真俗一貫という思想を開くことにつながったというふうに考えております。この平等主義、普遍主義というものは、鎌倉新仏教のうちの各宗の祖師につながっていきます。各宗の祖師は、皆比叡山の天台宗で学んだことがありますので、どこかでやはりつながるわけです。
こう聞きますと、この平等主義は大変よろしいように聞こえるのですけれども、いいことづくめではありません。現実に人間が生活していく際を考えた場合、精神的な決まりだけでいいのか。現実にはわれわれ自身の日常的な細かい規定、具体的な倫理を実行する積み重ね以外に何があるのかという考え方が当然あるわけです。まして僧侶として修行していく上ではどうなのか。気持ちだけでいいのであれば、現実の人間は楽な方に流れるだけではないか。私は自分のことでそう思うんですけども、動かしがたい真実だと思います。
実際、日本仏教の歴史は戒律という歯止めが薄れまして、楽な方に流れていく歴史でもありました。研究者の中には、「本来の仏教から見れば、妥協の積み重ねである」とおっしゃる方もいるぐらいです。その意見が妥当なものかどうかというのは、皆さんがご自身でお考えになることかと思います。
戒律の問題でいえば、歴史的には、大乗戒のみというのを嫌いまして進んで小乗戒、二百五十戒を受けるお坊さんもおりました。戒律の「律」の僧と書きまして「律僧」というのですけども、中世、江戸時代、明治時代にも少数派ながら常におりました。彼らは社会活動や慈善事業を行い、思想的にも非常に大きな影響を及ぼしております。律僧は少数ですが常に存在しており、これ自体聖と俗、真理と世俗の関係のバランスを取っていこうとする日本仏教の特徴の一つであります。
空海は、真言密教の祖師として日本に密教を入れた方であります。空海によって始まった密教は、平安時代に真言宗と天台宗の両方で、貴族や天皇家の祈祷を行いまして、時代の主流となりました。天台宗は最澄の段階で密教があまり入ってきませんでしたので、平安時代を通して真言宗に追い付こうとして、何回も中国で勉強してまいります。それが円珍と円仁であります。空海の有名な言葉を紹介しておきます。「生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く 死に死に死に死んで死の終りに冥し」(限りなく輪廻転生し、生まれ続け死に続けても、われわれ生物は暗く迷い続けていく)。
中世-変革の時代
古代から中世にかけまして、各宗の祖師をはじめとして、多くの宗教者が出ます。古代の貴族政治、摂関政治から鎌倉の武家政権に移り変わる時代ですので、社会体制自体が非常に変わってまいります。例えば貴族が持っていた荘園が変わりまして、武家がその荘園主になっていくわけです。社会体制が根本的に変わる中で、仏教もまた人々の願いに応じて変わります。没落していく平安貴族たちの間では、今が仏教が滅びる末世、末法であると実感されます。念仏が新しい仏教として出てきまして、新しい勢力である武士は実践行である禅を求めるわけです。中世に関しましては、伝統と革新の二つの流れがあると思います。
まず伝統というのは、それまでの仏教が役に立たなくなってくる。平安時代の密教の儀礼、非常に煩雑なものですけども、お金もかかるし、時間もかかる。とにかく貴族でないと、その財力がないわけです。新しく出てきた武士、庶民はとても無理ですので、どうすればいいか。まず、仏教の原点に立ち返ろうという動きがあります。これは南都の旧仏教、高野山、比叡山ですが、そちらでの戒律を復興しようという動きが出てきます。また、栄西、道元の禅、中国から輸入されてくる禅です。戒律や禅というインド以来の伝統にもう一回立ち返って、われわれの実践行を探していこうという流れが出てまいります。
こういう伝統に対して革新派といいますか、これまでのものが役に立たないのであれば新しいものをつくっていこうではないかという流れも生まれます。
浄土宗の開祖、法然は、幼くして最澄の天台宗比叡山に入り約三十年後、一心専念弥陀名号、念仏を口で唱えるだけで、人は極楽に往生できるのだということを主張するに至ります。あらゆる実践行の中で、ただ阿弥陀仏の名前を唱えるだけでよい、という易しい行を選択しました。すべての人間が誰でも念仏を唱えることで極楽に行けるという信念に基づき、法然は四十三歳で比叡山を下りた後、京都で念仏布教を始めます。貴族の摂関家から、一文不知の尼入道まで広い支持を着々と得ていきます。
誰でも口で唱えるだけでいいという革新性は、革命的なものだったと思われます。法然が最期に残した言葉、一枚起請文、彼の遺言ですけれども、ご紹介しておきましょう。「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候わず」。
法然の思想は、世界の近代史におきましても、大変なことでありました。この人間観と救済の方法は、その後の日本仏教の中心的な思想の一つになってまいります。浄土系の仏教、真宗も合わせますと、浄土系の宗派は日本でもちろん最大であります。
こういった法然の教えが広がっていく過程で、専修念仏の主張が一般化して、大衆化していく中でどうなっていったか。念仏を唱えてさえいれば、どんな悪いことをしても極楽往生できるのだという楽な方に流れて、都合のいい解釈が生まれるわけです。阿弥陀仏以外の仏像を壊したり、戒律を守る僧侶を軽蔑して襲ったとか、あるいは犯罪を犯す者が出てまいります。悪いことをしても極楽に行けるなら、罪を犯した方が得ではないか、というわけですね。法然自身は不心得な者たちに再三注意しておりますけれども、なかなか行き届かない面がある。そういうことも含めて、旧仏教からの法然門下への弾圧へつながってまいります。旧仏教側で法然を弾圧したのは南都、奈良の高僧では、たとえば貞慶です。

次に曹洞宗を開いた道元。その主張は修証一如といわれまして、修行、坐禅がそのまま悟りであるというふうにいわれます。悟りを目的として修行するのではない、坐禅すること自体が目的なんだというふうにいわれまして、純粋禅だというふうにいわれております。道元の修行に対する姿勢は、「初心のものでも決して自ら卑下して学を緩くすることなかれ。」という言葉によくあらわれておりましょう。
日蓮はやはり天台宗に学びまして、法華経信仰を元にして、現実な社会に積極的にかかわっていた祖師であります。前の執権でありました北条時頼に法華経信仰を行わないから天災が起こって、元が攻めてくるんだと予言をして、伊豆に流されました。日本の仏教者の中でもこうした積極性、社会的にかかわっていこうという実践の在り方は非常にまれであります。後世に大きな影響を及ぼしております。
日本近代に入り、日蓮主義運動というのが起こります。国の柱の会、国柱会というのは、「我、日本の柱とならん」という日蓮の有名な言葉から取られております。田中智學、石原莞爾、宮沢賢治、北原白秋らが参加しています。現実にかかわろうとする意思と姿勢が日蓮および日蓮宗の特徴であり、戦後に生まれた新宗教系でも日連系は群を抜いて多く、日蓮の現実にかかわろうとする熱い意志は脈々と生きています。
中世後期
中世の後期には室町幕府と結びまして、臨済宗の禅が盛んになります。あとは戦国時代で、思想的にはあまり発展が見られません。しかし、この時期の日本仏教には大きな地殻変動が起こります。具体的には曹洞宗、浄土宗、浄土真宗は、九州、関東、東北といった、地方に布教して、教線を拡大いたします。
浄土教や禅宗、それらが新しく起こってきた庶民、また武士を押さえて勢力を拡大し、新仏教の勢力はそれまでの旧仏教と完全に逆転いたしました。これを政治構造、あるいは政治史的にいえば、それまでの天皇家、貴族、また鎌倉幕府といった勢力から、地方の戦国大名へと権力が移る時代、いわゆる下克上の時代に伴う必然的な宗教の変化であったと思われます。
近 世
中世から近世、江戸時代に移ってきますと、最初にキリスト教が伝来いたします。島原の乱という大規模なキリシタン一揆の後に、幕府は宗門改め、一人一人がキリスト教信徒であるかどうかという検査を行うようになりました。もし、万が一キリシタンであった場合には、仏教のお寺に仏教徒として改宗させられるわけです。そのときに、一人一人から証明書を取る。「わたしは仏教徒であって、キリシタンではない」という証明書を取るわけです。その証明書が後に一般化しまして、庶民は結婚する場合、また引っ越しする場合、とにかく自分の土地を離れる場合には寺が発行する証明書が必要になりました。
ここで、寺は行政的に戸籍事務を扱う役割を持つことになります。それが江戸時代の最初の、ほぼ一〇〇年間で、全国的に確立してまいります。お寺の半数以上がこの時期にできています。 これだけ大きな制度、全国的に、国民一人一人、民衆一人一人の支配を行う。証明を取る。幕府権力という上からの押し付けだけでは到底できませんし、また定着するのは無理ですね。実際問題として、幕府がなくなった明治以後、今もって寺檀制度はございます。残っているからには、みんなにとって寺檀制度には何らかに積極的な意味、残すだけの価値があったんだろうと思うわけです。
もともと中世の後期から寺の僧侶に葬式をしてもらうことは広がりつつありました。低い身分の庶民にとって、死んだ後に野原に投げ打たれる、あるいは墓にしても一般人が埋めるということではなくて、個人として死後に供養を受けることは、望ましいことでした。また、僧侶によってその霊魂の浄土への往生が保証されるわけですので、死後の安心が得られるということも、それがなかった状況と比べれば、非常に画期的なことでした。
一方、寺や僧侶にとっても、中世後期辺りには民衆と寺、僧侶の相互の必要によって、寺と檀家の関係が地方によってはある程度成り立っていたものだろうことが、明らかになっております。
近世の初めに、幕府はある程度あった寺檀関係の上に乗って、庶民の把握を行うわけです。寺の側としても、その制度によってお寺の数は増え、その存続は制度的に保証されますので歓迎されることでした。民衆一人一人にとっても、死後の安心と日々の心の支えに加えて、お寺にみんなで行くことが娯楽でもあったわけです。行きつけのお寺と行きつけのお坊さんというのが求められるものでありました。
こうして幕府と寺、僧侶、民衆のそれぞれの必要が三位一体になりまして、江戸時代に仏教は全国に広がり、国民宗教となっていきます。江戸時代と同時期の中国や朝鮮では、仏教は社会的・思想的力をほとんど失っています。同じ東アジア文化圏で、日本になぜ仏教が残ることができたのかというのは、やはりその寺檀制度に代表される仏教の国教化と、それに伴う普遍化にありましょう。いいかえれば、仏教は江戸時代に名実ともにみんなのものになった、ということかと思います。
近 代
近世後半の知識人、具体的には幕府や各藩の武士、高官の多くが、仏教に対して魅力を感じなくなっており、仏教は無知蒙昧な愚民だけがだまされるものだと、言い切っております。では、彼らは何を信じていたのか、本居宣長や平田篤胤によって始められた国学神道が大きな比重を占めています。古代の素朴な心情が日本人の一番目指すべきものであって、仏教や儒教といった外から来た思想が、日本人の心を汚してきたんだという主張につながってまいります。
その結果、明治近代は、廃仏毀釈と神仏分離によって幕を開けます。これは日本の歴史上大規模に行われた唯一の仏教弾圧策です。明治政府としては、日本が植民地になるのだけはとにかく回避しなくてはいけない。これから国民全体として、欧米列挙の諸国に追い付こうとするのが課題であります。そのとき、国民としての意識の一体化を図るためには、日本を起源とする国家神道の方が望ましいわけでした。
とはいいましても、神道一本でいこうという政策はあまりにも無理がありまして、民衆に受け入れられず、結局、すぐに挫折いたします。その中で仏教は、何とか国家の近代化に付いていこうとして国家と宗教、仏教の関係を模索してまいります。そのあらわれの一つが、肉食妻帯です。近代に入りまして、僧侶は兵隊にも取られるようになります。お坊さんは一人の僧侶である前に、まずは明治国家、日本国家の国民の一人になりました。江戸幕府が禁止していたように、僧侶の妻帯を政府として禁止する理由はないわけです。明治5年、僧侶の妻帯を許可する法律が出されました。
おわりに
仏教であれキリスト教であれ、イスラム教であれ、普遍的な真実を説く宗教というものが、実際の個別具体的な現実、日本でしたら日本の中で、どのように人を支えて世俗の中で生きていくか、ということは難しい問題です。身びいきかもしれないんですが、いろいろ好条件も重なって、日本の仏教は比較的、聖と俗のバランスをうまく取ってやってきた方ではないかと思っております。その特徴としては、やはり人の生きる現実を重視して人に寄り添う姿勢、現実の中で人を支えるという優しさであるように思います。いってみれば、一番最初にいいました聖徳太子、また最澄の真俗一貫の道は、紆余曲折しながらも今にずっとつながって、人を支えてきたのではないかと思われるのです。= 終わり =







