
今日は、与えるということ 布施 を中心にお話したいと思います。インドで生活し、いろんな出来事にぶつかっている間に、仏教の教理学はひとつの枠組みとして、とても大切なんですけれども、反面に教理学だけですと、現実の社会に生きていくときに、習った仏教の世界観、教えというものがどういう意味があるのか、考えざるをえない体験もありました。仏教というのは生きる道でなけりゃならないとずっと考えて来ていますが、そうした総合テーマの中で、布施 与えるということを、お話したいと思います。
両面通行の布施
インドの言葉でダーナというのは与えること、あるいは与える物ですね。このダーナという言葉が中国の仏典で翻訳されれば布施なんですけれども、音写されたのが檀那(だんな)という言葉です。
ダーナや布施というのは、何でもいいから人さまに与えること、与える行為です。ご法事のときにお寺さんに差し上げるものも確かに布施には違いありませんけれども、それだけではありません。与える行為そのもの。仏教は、二本の柱がありまして、知恵と慈悲ですね。他者に対して及ぼすものが慈悲ですから、何か物を与えるにしても、お金を与えるにしても、優しい心遣いを与えるにしても、慈悲というのは与える行為そのものにかかわってくるわけです。
いまから五十年ぐらい前、インドのカルカッタ大学に留学をして、三年半過ごしていたんですけれども、いまだに忘れない出来事があります。インドは貧しい国でした。いまではかなり豊かになりましたけど。こじき(おこもさん)がたくさんおりました。子どもから老人までいる。インドの暑い夏の午後、大学で授業を受けまして、下宿へ帰ってくるとき、年を取ったおこもさんがそばに寄ってきて、一ルピー恵んでくれといいました。留学生でお金もありませんでしたし、ことわりました。
「あげないからね」と言って、私は背中を向けて歩きだしました。暇なおこもさんなんですね。黙って後ろをついてくるんです。単についてくるだけじゃありません。手を差し伸べながらついてくる。おまけに皮のスリッパを履いてて、コンクリートの歩道を引きずるように歩くんです。ぜんそく気味なんですかね。のどがヒュー、ゼーって鳴るんです。後ろを見ますと、年取った、やせたおこもさんが手を差し伸べながらついてくる。ヒュー、ゼーってのどの鳴る音とスリッパをひきづるペタッという音がして、これがリズムをつくるのですね。ヒュー、ゼー、ペタッ。ヒュー、ゼー、ペタッっていうのがずっとついてくる。後ろ見るとそっぽ向きながら、手を出して歩いている。
さすがにちょっとやりきれなくなって、後ろを振り向いて、私としては珍しく強い声で、「やらんって言ったらやらん」っていったんです。びっくりしたような顔をして手を引っ込めましたけれども、そのときつぶやくように言ったんです。「一ルピーぐらい出せないわけないじゃないか。私も助かるが、あなた自身の功徳が増すってこともあるだろうに」っていう言葉でした。大変ショックを受けたんです。
インドでは他人さまに何か物を与えること、つまり布施ですが、ダーナといいます。これは単に与えっぱなしで一方通行的にくれてやるよとか、かわいそうだから恵んでやろうとか、いわば自らを高いところにおいて、相手を低く見て、くれてやるという姿勢は、与える姿勢ではないのですね。両面通行なのでして、与えるということは、必ず自分も何かを受け取っているんだという考え方が大昔から現代にいたるまで不変の考え方です。それじゃあ、何かを与えて、与えた人が何を受け取るか。今日は果物一つお返ししますって、そういう意味じゃない。物を与えるということ、貧しい人、困ってる人に物を与える布施ということは、その行為によって功徳を積むことができる。恵むことによって、功徳を与えられるんだという。いうなれば、布施と功徳の交換です。
それじゃあ、功徳を積んでどうなるんだといいますと、現代インドにまで人々の間に信じられている輪廻転生の考え方がありまして、仏教では六道輪廻などといいます。
社会というものは、常に不条理、不合理なものです。しかし、今世で布施をし、功徳を積むと、来世にいい所に生まれるからというのですね。生まれ変わり死に変わりすることが実体的に、物理的に信じられている世界においては、いま栄耀栄華を誇ってる人は前世にいいことをしたんだ。いま私はつらい生活なんだけれども、いま、努力をすれば来世にいい所に生まれる。いい所っていうのは天の世界であり、あるいは人間の世界のお金持ちの家に生まれることだというのです。
功徳を積んで、良き後生を願うという考え方が、インドでは非常に強い。そうしたことから、布施をするということは、同時に自分の功徳を積ませてもらうのだという考え方が強いのです。その考え方が仏教にも入り、信者さん方は仏教教団の比丘たち、出家たちに喜んで食事を布施し、衣を布施いたします。
なんでお布施をするのかというと、宗教修行者に対する敬意は無論あります。しかし、もう一つ奥には、お布施をすることによって、自分の功徳が積めます。功徳は銀行のバランスシートみたいなもので功徳の蓄積が多いほどいい所に生まれる。悪いことばかりしてると地獄に落ちることになります。
ですから、仏教教団に対する布施というのは、信者さんにとっては、功徳を積ませてもらう行為なんですね。そして、同時に仏教教団は、そこにお布施をすれば、功徳、福徳が積めるからそれを福田思想といいます。功徳を生み、くみ取ることができる田んぼということで、それを福田(ふくでん)と申します。そうした考え方が、中国から日本にも来て、禅宗のほうでは衣のことを福田衣(ふくでんえ)というんです。衣を着てることが、自ら功徳を積み、そして、その方と接触し話を聞くことが功徳を積む行為になるんだという。
あるいは、禅宗には福田会(ふくでんかい)という会がある。そこでは、お坊さんが身に付けるおけさを一生懸命、自分で針を持って縫って、それをお寺さん方に差し上げる。大きな功徳を積む行為であると同時に修養の会でもあるので、そうした形で日本にも伝わっています。
現在でも東南アジア、あるいはインドでもそうなんですけど、宗教者に何か布施をする、与えるということは、くれてやるんじゃなくて、功徳を積ませていただきますという感覚が強いんです。ですから、現在の東南アジアへ行っても、きのうまで総理大臣やってたなんていう白髪の立派なおじいさんが、そこに五~六人、比丘の方がいらっしゃると、そこの前へ行って、いちいち食事を盛ったお盆を、これをあなたに差し上げます、というジェスチャーをする。あなたに差し上げるんですよという意思表示を明らかにするんです。意思表示しないと差し上げたことにならない。
日本ですと、どなたかから何かいただくと、どうもありがとうってお礼を言うし、合掌するじゃないですか。むこうではそれを、やっちゃけいけないんです。向こうのお坊さんは、偉い人が何かくださる。十六~十七の小僧さんが、ふんっていうような顔で平然とそれを見てるんです。端で見てるわたしのほうがおかしくなっちゃって、偉い方が布施します、というジェスチャーをすると、その若いお坊さんのかわりにわたしが頭さげちゃったりね。そんな雰囲気になってしまう。サンキューの一言ぐらいいったらいいじゃないかって聞いたら、とんでもないと。せっかくこのお布施によって、十の功徳が積めるはずなのに、サンキューなんていったら、それが七つ、六つに減っちゃうと、そういう考え方が与えるという行為の基本にあるんです。
ですから、「1ルピーぐらいおまえさん、出せないわけないじゃないか。それで、私も助かるが、同時に、おまえさん自身も功徳が積めるじゃないか」と生活の場において、おこもさんから、いわば、たしなめられたいうことが、大変なショックで、いろいろと考えさせられました。
与えなければならない
仏典からそういう思想に裏付けられた言葉をご紹介しましよう。人は収入に応じて、布施をしなくてはならない。いくらとはいわない。でも、収入に応じてなすべきだと釈尊は教えています。 「正しい方法で稼ぎ、よく働いて富を得たなら、請う者に飲食物を与えて喜ばせよ」。(インド原始仏典「イテイヴッタカ」)人の物を取ったり、詐欺をしたりということではなく、正しく稼いで、そのお金を人に布施せよ、というのです。
「蓄えが少しならそれに応じて少しの物を、中程度なら中くらいを、たくさんあるなら多くの物を与えよ。与えないということがあってはならない」 (インド原始仏典「ジャータカ」)という言葉もあります。現在でもインドではっきりと自覚され、実行されております。インドには私は学生時代に三年半いましたし、その後も向こうで仕事したりして、インドの滞在は五年半を超えるんですけど、商社、外交官、ジャーナリストの方々は、アメリカやヨーロッパへ派遣された人は喜んで赴任するんです。しかし、インドへ赴任された方は、なんでおれはインドに飛ばされたんだって考える方が少なくないんです。暑いですしね、インドを知ろう、インドの文化を学ぼうなどという気をおこす方はあまりいません。
ですから、インド人とのお付き合いにしても、表面的なところしか見ない。例えば、自分の家でベアラーと呼ばれている人を使っています。いろいろな雑用をさせる人です。そういう人に比較的安い給料で仕事をしてもらっているのですが、その人たちが金に汚いとか悪口をいうんです。しかし、日本の方は安い給料で働いているベアラーという人たちが、より貧しい人たちにかなりのパーセンテージで、何らかのかたちでお金や物を与えていることをご存じない。
また、インドにはカースト制度があって、トイレなどを掃除する人は階級が下の人になります。その人たちの給料は非常に低いんです。その掃除をしてる人が、さらに貧しい人にまたそれなりに与えています。
みんながそういうかたちで与えてるから、飢え死にする者もなく、みんなが生きていられると、こういう面もある。イスラムの世界に行きますと、ザカートという一種の税金みたいなものを、やはり収入に応じて出しますし、それでもって貧しい人を救うという相互扶助のシステムがあるんです。
こうして布施は両面通行でなければならないということなんですけれども、この両面通行というインドのその考え方は、幾分かたちを変えまして、中国、日本にも入っておりまして、それが、「おかげさまで」という言葉にかかわってるということを申し上げたい。
おかげさまで
布施のインド語は、先ほどいいましたとおりダーナ(dana)です。それを中国で布施と訳し、檀那と音写しました。檀那とは布施、そして布施をする人の意味に用いられます。檀家(だんか)というのは、お寺を布施によって保持していく檀那の仕事をする家という意味で檀家でありますし、檀那寺なんていう言葉もご存じのとおりです。旦那とも書きます。
昔の大きなお店のご主人などは、旦那って呼ばれました。給料与える人ですから、旦那でいいわけです。奥さん方は、ご主人を旦那様って呼ぶ習慣があったことはご承知の通りです。外へ行って稼いできて、奥さんに給料を渡しますから与える人なんで、旦那でいいんです。
最近、共稼ぎの方が多いですから、二人でもって一緒に稼いで、家庭を支えている。すると、どっちが旦那だ、なんていうことになる。二人で一生懸命働いて、両方が稼いで、それで一家を保っているのですから、夫が妻を旦那さんと呼び、妻も夫を旦那さんと呼んだら、和やかな雰囲気になるんじゃないですかね。
ずいぶん前ですが、日本語を勉強してるアメリカ人に聞かれたことがある。先生、日本語はとても優しくて美しい言葉です。だから、とても好きなんですけども、時々、非論理的なことがあると言うのですね。何故?と聞いたら、「おかげさまで」という言葉を出しました。
「こういうことなんです。私が、例えば鈴木さんなら鈴木さんという方に、この国際仏教塾で会います。三日後に、御茶ノ水かどこかの駅で会いました。「ようやく暖かくなりましたね。おばあちゃんはお元気ですか」。と声をかけます。そういうふうにいわれた鈴木さん、つまり皆さんは、どうお答えになりますか。「どうもありがとう。おかげさまで丈夫にしております」と答えるじゃありませんか。日常の会話として、おばあちゃまがいると聞いてたから、お元気でやってますかと、社交辞令として、声を掛けました。それに対して、気を遣ってもらったもんだから、どうもありがとうというのは論理的である。
しかし、「おかげさまで」とはなんだというのですね。「会ったこともない、おせんべい一つあげたことのない人に、おかげさまっていわれる道理はない」っていうんですよ。皆さん、そういう質問を受けたら、お答えになれますか。おかげさまでって、英語にならない言葉なんです。英語で、favorとか、ごひいきにという意味の言葉はありますけど、これは、商売かなにかで具体的に物やお金の取引があって、商売が成り立ってるから、おかげさまでという用法です。しかし会ったこともない人におかげさまでっていう用法はない。だから、英語にならないんです。
例えば、私が大工さんにお願いして、塀をつくってもらいます。大工さんは私のところに来て、「旦那、おはようございます。」って言います。私はお金を与えるんですから旦那です。それじゃあ大工さんは、私に何もくださらないのかっていうとそんなことはない。ちゃんと塀をたててくださるでしょ。なんでもいいからくださる方が旦那なんだから、わたしはお金を与える旦那だし、大工さんは塀を下さるんだから、やはり旦那でいい道理じゃありませんか。つまり、両方旦那なんです。
そして、これは職人さんだけじゃなくて、商売人であれ、サラリーマンであれ、一家の主婦であり、社会というのはみんなそれぞれに分業してるわけでしょ。それぞれ仕事を分担しながら、一生懸命生きてるわけです。大工さんが、一生懸命大工の仕事をするということは、それも社会に与えてるわけでしょ。パン屋さんだって与えている。パンをつくって売っているんですから。金を払うからパンをくれるのは当たり前だって、これは理屈です。お金を与えればすぐ出来上がったパンがスーともらえるような一つの流通のシステムというのができていて、そうしたときに、金をやったからパンをよこせじゃあなくて、お金を与えるのも布施ならば、パンを与えるのも布施じゃないですか。分業しているこの社会で、すべての人が一生懸命仕事をやっている。それは、すなわち、布施をしている行為だと受け止めるべきなんです。
これは同時に、社会のすべての人の布施をうけて、私どもも生きていけるのですから、それに対して感謝しなければならないのではないのか。お金と物の交換じゃなくて、布施と布施の交換なんです。お互いに一生懸命生きているんですね。「おかげさまで、私も生活が成り立っているんですよ」という考え方が出てきてもおかしくない道理なんです。これは昔からの日本人の考え方と仏教の考え方が出会って出来てきた用法で、おそらく江戸の中期から後期ぐらいじゃないかといわれるているんです。その辺から「おかげさまで」という言葉が出てきてるんです。
道元禅師の『正法眼蔵 菩提薩捶四摂法』の中に、 「船を置き橋を渡すも布施の壇度なり、治生産業、もとより布施に非ざること無し」という言葉があります。川があります。橋も何にもありません。そこへ橋を架けました。社会事業ですね。偉大なる布施行じゃありませんか。この船を置く、渡し船のシステムをつくりました。これも布施行です。
しかし、それだけじゃない。治生産業というのが、簡単にいえば私たちが日常を生きていること。なりわいを行っていくこと。つまり、私どもの社会でいろいろの仕事をしながら生きていくということ自体が、実は、布施にほかならない。
こういったように同じ社会にみんなで共に生きていく。それぞれに仕事をしているということは何か社会に与えてる道理である。したがって私どもは常に社会のすべての人の布施を受け取っているから、「おかげさまで」と感謝しなくちゃいけないし、同時に自分のやってる仕事というものは社会に対する布施行だという自覚があってしかるべきだろう。こういうのが道元禅師のいわんとする意味なんですね。仏教の布施ということの考え方は、そうした相互互恵の関係というものが基本的になっています。
四摂法(慈悲行としての布施)
ここで、
「仏教はあんまり社会的に何かをしないではないですか」などといわれるのですけど、この四摂法は、はっきりと社会に布施をする、社会に何かを与えていく際の基準となる教えを述べたものです。衆生をすくい取る四つの手だてというほどの意味です。布施、愛語、利行、同事という内容です。
布施は、先ほどからのダーナ、愛語というのは人さまのためになる言葉を語るという意味です。ですから、いろいろな愛語があるんです。あくまでもその人のためになる意味で、いわば慈悲の心で相手に語る言葉が愛語です。何か仕事をさせる。寒い所を帰ってきて、「ご苦労さんだったね、寒かったろう」という言葉をかけるのも愛語です。反面に、嫌われるのは承知の上で、上司が後輩に、「おまえさんのやってることはよろしくない。こういうことでは経営にも差し支える。人さんの心をも傷つける。その辺のことをよく反省して、自分の行為を考え直してご覧なさい」と、いわば、叱る言葉も愛語です。
ただし、相手をやっつけちまえっていう叱り方は愛語にはなりません。あくまでも慈悲が基本にある言葉だとご理解ください。
利行というのは人さまのためになる行為という文字通りの意味です。だから、相手をいたわる行為も、人さんのためになる行為はすべて利行です。
同事という最後の言葉ですが、「同じ事」と書きます。自分を他人と同じ立場に立たせるということです。両面通行でありますから、両方が同じ立場に立つのは当然でしょう。慈悲というのは、他人さまを自分の身にひきあてて、なんとかその人のためになるようにという温かい心を及ぼすことです。布施であれ、愛語であれ、利行であれ、具体的な布施には違いないんですが、それを行う基本的な考え方として同事が説かれます。つまり、自分と他人を同じ立場におくということです。
これが、一番典型的に経典に説かれてるのは観音経なんです。法華経の中の、観音経の散文の部分に、 「婆羅門を救うには婆羅門となり、王様を救うには王様となり、商人を救うには商人となり」というような言葉がずっと並んでいます。これも仏・菩薩が人を救うときに、仏様がでんと座っていて、おまえさん、それじゃあ駄目だよって口先だけで言ったんじゃ、これは救うことにならない。自分が同じ婆羅門となって、慈悲の心にあふれて、その中で人を救っていくということです。
法身仏と化身仏
同事というのは仏様の「はたらき」です。大乗仏教になるとブッダという考え方が、お釈迦さまの原始仏教の時代のブッダと変わってきています。お釈迦さまの時代にブッダというのはお釈迦さましかいませんでした。ブッダとは目覚めた人ということです。何に目覚めたのかというと法に目覚めた。真実に目覚めたのです。一言でいえば、縁起とか、無常とか、空とか、そういう言葉でいおうとする、この宇宙の大きなはたらき。それを仏教では真実、法としてお釈迦さまがとらえてくれました。
真実、法に目覚めたのがブッダなんです。そうすると仏教とはみんながブッダになろうという教えですし、私が法を実践しなきゃいけない。私がどうやって正しく生きたらいいんだというと真実、法を実践することです。だから、これは皆さまご承知の自燈明、法燈明という教えがあるわけですね。自らをともしびとし、よりどころとして、法、真実をともしびとし、よりどころとして生きていく。
つまり、自分が法を実践する。法は私が実践することによって、具体的にはたらきだす。大乗仏教になってくると、悟った人間もさることながら、法、真実そのものが重視されるようになりました。そして法そのものをブッダと見る考え方が出てきました。これを法というものを身体とする仏という意味で法身仏というようになりました。『法華経』の久遠実成の仏というのは法身仏とみてよろしい。
ですから、『法華経』を説いた「仏陀」というのは、インドで亡くなったお釈迦さま、「ブッダ」とは違う。はるかかなた、未来永劫にわたって、永遠に法を説きぬいているのが久遠実成の仏。そういう仏陀を中心に大乗仏教の思想的、そして宗教的発展があったのです。
そうすると八十歳で亡くなったお釈迦さまは何なのでしょう。法というものを基本とする法身仏が具体的なかたちをとって、西暦前5世紀に釈迦族の王子として生まれて法を説いたのがお釈迦さまで、応身仏または化身仏といいます。この考え方は、ヒンドゥ教でも同じ考え方があって、それをアバターラ(権化)といいます。
つまり、お釈迦さんは、法身仏から具体的な釈迦族の王子として修行して、悟りを開いて、法を説いた化身仏だ。いろんな仏様が大乗仏教では出てまいりました。永遠の仏というのは、相手に応じて、相手と同じに立場に立って救ってくださるという同事の考え方があるからこそ、お釈迦さんは人間として生まれて、人間を救ってくださったじゃあないかということなんです。王様を救うには王様の立場に立って。つまり、常に相手と同じ立場に立って、目線を相手と同じ所において、人に物を与える、与えられのだということです。
欧米社会におけるphilanthropy博愛とは明らかに視点が違います。常に相手と同じ立場に立つんです。
無私の布施は可能か
菩提樹そういう立場に立ったときに、仏教のほうでは極端と思われるような布施行が説かれます。ジャータカはお釈迦さまが前生に菩薩として、こんなに素晴らしい行いをしたんですよ。その功徳によって、釈迦族の王子として生まれ、出家、修行し、悟りをひらかれたのだ、と説かれています。私どもにはなかなか悟りは開けない。一生懸命やっても悟りは開けない。お釈迦さまを見てみろ。お釈迦さまは、二十九歳で出家して、三十五歳でお悟りを開いたじゃないか。いや、そう言われても困る。たしかにお釈迦さまは偉い方だけど、お釈迦さまもこの世で修行しただけじゃないんだ。前世にも菩薩として良い行いを積んで、功徳を積んで、積んで、積んできたから、そのおかげでこの人生の中で悟りが開けたんだよって、俗にいえば、そういう考えがあります。
当時のインドにいろいろな説話もたくさんありました。その説話を仏教徒が取り上げて、その中の素晴らしい行いをした人を前世のお釈迦さまだと説いたのが前生物語、ジャータカという一群の作品です。
その中でシビ(Sibi)ジャータカという有名なジャータカがあります。シビ王という方がおりまして、庭を歩いていたら、タカに追われてハトがやってきて、王様の懐に入りました。タカがおれの獲物だから返してくれと要求します。王様は、懐に入ったハトをおまえに渡して、殺させるわけにはいかん。森へ行けば、死んだ鳥がたくさんいるから、それを食べたらよかろう。いや死んだ動物の肉は駄目なんだ。このハトを食べないと、私は飢え死にしてしまう。王様は仕方がないから、それじゃあ私の肉を与えるから、このハトの命を救え、といった会話がつづきます。
タカはオーケーして、このハトと同じ重さのあなたの肉をくださいといいます。はかりを持ってきました。肉をそぎ取っても、なかなかハトの重さにならない。片足を切って、乗せてもバランスがとれない。最後に思い付いた王様が、自らがはかりの上にのったらバランスがとれた。よし、分かった。それじゃあ、私を殺して、わたしの肉を食べよ。こういうストーリーなんです。
実は、そこでほんとに王様がタカに食い殺されたんじゃ、ちょっと話が陰惨すぎるんでありまして、このタカというのは実は帝釈天の化身である。そこで本身が示されて、王様の徹底した無心、私心のない布施行というものが称賛されたというストーリーです。人を救うために自分の命を捨てるというモチーフです。
捨身飼虎物語も同じです。三人の王子が飢えたトラの親子を救うために、三男坊が自ら竹ぐしで首を刺して、トラの親子の前に身を投げたというテーマです。
雪山童子物語というのもあります。ヒマラヤ(雪山)地方で、少年が仏法を求めて修行していました。すると、どこからか諸行無常、是生滅法、「諸行は無常なり、これ生滅の法なり」という詩の前半がきこえました。素晴らしい言葉だなあ。あとの半分を聞きたいと願うのですが、それを説いたのが、夜叉でありました。おまえの体を食わしてくれれば、あとの言葉を教えてやろう。そこで約束をして、あとの法の生滅滅已、寂滅爲樂と教えてくれました。雪山偈と普通いわれるんですけれども、その若者は、その辺にこの言葉を書き付けて、夜叉の前に身を投げるんです。これも救われるというストーリーになるんです。モチーフとすれば、他を救うために命を捨てるというのと、法のために命を捨てるというのです。
『法華経』にも焼身供養の例が出てまいります。『法華経』の薬王菩薩本事品第二十三。一切衆生憙見菩薩という長い名前の菩薩がおりまして、この人が、法を敬え、仏を敬うために自らの身を焼くという焼身の行をおこないます。これは、決して焼身自殺というべきものではなくて、焼身供養という言葉で普通いわれています。
1963年6月11日、ベトナムのティック・クアン・ドックというお坊さんが、旧サイゴンの目抜き通りで「焼身供養」を行いました。周りにお坊さんがたくさん控えていました。
焼身供養をする決心は、仏教会の人は、みんな知っていました。ベトナム戦争の前の時代で、ゴ・ディン・ジエム政権は、仏教徒を迫害し、虐待していました。一月ほど前に、仏様の誕生を祝う会で、軍隊が出てまいりまして、子ども七人、女性一人を射殺してるんです。それに対する抗議集会を開くことになったんですけれども、そのときにクアン・ドックさんは、そうした為政者の過ちを自覚させるために、そして、事態を改善するために、私は焼身供養をしたいと仏教会に届け出ています。仏教会は認めなかったんですが、とうとう最後に認めました。
軍隊が介入して、途中で妨害されないようにとお坊さんが周りを取り囲んだりしながら、外国の報道関係者も含む衆人環視の中、目抜き通りでケロシンオイルをかぶって、焼身供養をいたしました。
つまり、焼身供養ということが現実に行われたこともあるんです。これは極端な例です。仏教は焼身供養を勧めているとは思わないでください。勧められません。こんな事件はめったにおきません。命の尊重とは、対極にあります。ただ、身命を賭して法を求める、人のためになるものを与える。仏教における布施の重さと多面性の例として申し上げたかったんです。
三輪清浄
大乗仏教になって、三輪清浄ということが説かれるようになりました。空(くう)の思想に裏付けられた思想ということになっています。施す人、お布施をうける人、与える物、この三つが何のわだかまりもなく、ためにするところがない。それが清浄なる布施というものです。私はこの三輪清浄という言葉を、あまりしゃべったことがないんです。与える人も、もらう人も、施物も、何のわだかまりもなく与えられ受け取られるって、そんなことあるのかと思ってましたから。自分で納得できないことは人に説けません。
しかし、最近、少し考え方が変わってきて、角膜移植などというのはそれに近いかなと思ったりしています。自分が亡くなったら、アイバンクに角膜を寄付するよう遺言しておく。これも布施ですが、もらうほうの人もありがとうございますいいながら、誰からもらったかは分からない。三輪清浄の例にあたるかなと思いました。
また、みんなが納得する布施っていうふうに言い換えたらどうかなとも思うようになりました。あんまり理屈っぽく、すべてが清浄とはなにか、などといわずに、みんなが納得する布施ということでいいんじゃないのかと考えています。
そうしたことから、最近は無財の七施という言葉を、しきりに考え直しているんです。無財の七施というのは、お金や物がなくても与えられる七種類の布施ということで、これは『雑宝蔵経』という、中国の漢訳仏典に載っているんです。眼施、和顔悦色施、言辞施、身施、心施、牀座施、房舎施といいます。
優しい目つきでほほ笑んであげるというのが眼施です。和顔悦色施というのは、にこやかな顔で人に接する布施です。私のよく存じ上げ大変敬愛しているカトリックのシスターであられる、渡辺和子先生、最近、新聞にお説法集の広告が大きく出ていますが、先生に会ったら、「奈良さん、仏教の和顔悦色施っていうのはいいわよ。不機嫌な顔をしてるっていうのは、環境破壊じゃありませんか」ですって。
言辞施というのは、優しい、いたわりの言葉をかける。厳しくてもためになる言葉をかける。心を施す。これ思いやりです。心遣い。牀座施というのは、席を譲ることです。房舎施というのは、泊めてあげることです。
なるほど、これならば何にも持ってなくても、人さまに与えることができますよね。何にもなくても出来る布施というところにポイントを置いて、考えていたんですけれども、そうか、三輪清浄もこれと結び付けていいんじゃないのかなと思っています。
私たちに慈悲の心というものがあるならば、おのづと人さまに良かれと願う。にっこりと、優しい言葉をかける。特に代償を求めることもなければ、代償を払ってるわけでもない。そういう布施が、無財の七施の具体的な例として、三輪清浄につらなるんではないでしょうか。
そして同時に、最近は自分のことばかり考え、エゴがはびこっている世の中になっています。人間は自分なりに納得して、生きていかなければいけない。それが幸せだと思うのですが、それにはやはり他人に対して与えていくことがなければならない。
人間とは「人の間」ということで、自分一人で生きているわけではない。自も他も共に幸せにということは、自は他に与えなければならない。あまりに他者に与えることが少ない社会だからこそ、バラバラ社会になっている。
そういう関係はお釈迦さまの教える布施に大きくかかわっています。お互いに身近なところから考えていかないと、自分なりに納得する人生もできないし、他も良くならない。そんなことをしきりに考えているわけでございます。(終)








