奈良康明先生

生きる道としての仏教~縁起を生きる~(第20期開講記念講演)

2007年4月27日 第20期開講記念講演

一人称で考える仏教

 仏教にはいろいろな学び方があると思います。例えば「仏教の教理を学びたい」と考える人もいるでしょう。教理学というのは、非常に論理的にできており、ある意味では数学みたいにぴちっと結論が出るので、面白さがあります。
 だんだん死が近くなって「おれはあんまり死にたくないんだけども、あたふたするのも嫌だ。仏教を学ぶと安心して死ねるのかな?」なんて気持ちの方も、いらっしゃるかもしれませんね。
 現代はエゴがはびこり、家庭教育、学校教育も崩壊しかけています。そうした現代をどう改善していったらいいか。「その道を仏教の法で学んでみたい」そんなお考えの方も、いらっしゃるでしょう。
 さらには「生命倫理、環境問題、平和問題などに仏教がどう役立っていくか。そんな問題を考えるのに勉強してみたいんだ」という方もいるかと思います。
 あるいは「どうやったら自分なりに納得できる人生が開かれるんだろうか」、そういう関心をお持ちの方もいらっしゃると思います。今、最後に申し上げたのが「生(しょう)と死を超える」といういい方につながってくると思うんです。
 今日、私は決して仏教教理を申し上げるつもりでも生命倫理とか環境問題そのものを論じるつもりでもございません。「自分がどうやって生きていったらいんだ?」という視点から仏教を考えてみたいと思うんです。
 私が教理として仏教を受け取るんではなくて、生きる道として仏教を考えるようになったのは、もう五十年前になります。インドへ留学をいたしました。そのときにヒンドゥー教の行者さんと出会いました。すばらしい容貌と雰囲気を備えた方でした。その行者さんをみているうちに、私の中ではいつの間にか、お釈迦さんとだぶりました。
 それからというもの、経典を読んでいて、「釈尊曰く」なんて出てくると、その行者さんの顔が出てまいります。
 今までと違って、目の前にその顔が出てくるもんですから、どうしても「お釈迦さん、あなたこんなことをいってるけど難しくて分かんないよね」とか、「おかしいんじゃないの?」って問い掛けてみたり、「ああ、それはお釈迦さん分かるよね」なんて自問自答してると、いつの間にか私が教理として学んでいた仏教は所詮、骨組みでしかないんじゃないのか、という気がしてきました。「お釈迦さん、これ分かりますよ、分かりませんよ」といっていると、どうしても「自分がどうやって生きていったらいいんだ」という問題に関って来ざるを得なくなるんです。
 やがて、教理学そのものよりも、それを現実の、自分
の「生きる」ということのうえに充てはめていったらどうなるんだろう、と思うようになりました。
 仏教の基本的な真理に、万物無常というテーマがございます。それをどう受け止めていくか。「全てのものは」という三人称の主語を「私は」という一人称に変えていかないと、お釈迦さんの教えに近づいていくことにはならない、と私は思いました。
「私は無常の現実に出会ってるんです」というと、身内に死なれちゃったとか失敗しちゃったとか。あたふたしながら、「いったい、おれはどうしたらいいんだろう?」と悩む。つまり生きるということに戻ってくる。そういう意味で、私は仏教とは一人称で考えていくべき問題だろう、と思ってるんです。今回は「縁起を生きる」ということで、この一人称の仏教について、考えていることを申し上げたいと思います。

仏教と臓器移植

 これは一つの例ですが、臓器移植の問題が現代の問題となっております。ある人から聞かれました。「先生、仏教では臓器移植を認めるんですか、認めないんですか。心臓を移植することは是ですか非ですか」仏教で認めるか認めないかっていわれたら、「答えようがありません」と答えます。しかし「仏教徒としての私はこう考えます」ということなら答えられます。
 お釈迦さんの時代に生命倫理だの臓器移植だの、そんな問題があるはずがありません。
 いくら古い経典を見ていっても、「臓器移植、是か非か」に答えが出ているはずがないんです。私どもとすれば、応用問題として考えていくよりしょうがないわけです。
 ところが「仏教では」っていいますと、「臓器移植可」という答えが出てくる可能性がある。「駄目だ」という可能性も出てくるのです。
 例えば、「仏教は今日生きる中に死を読み込んで生きることである。生と死を超えた生き方である。生死一如である。そのうえで生(しょう)は生、死は死として受け止めるのが正しい仏教信仰のありようですから、他人様の臓器をもらってまで生きることは許されない。「臓器移植反対」という声がある。
 しかし仏教信仰を持っている年配者の方が、「そういうわけで私は臓器移植をしない」ていうなら分かるんですけども、それじゃ臓器移植しなかったら生きられない子供さんに「生死一如」などと説いて、「移植しなくていい」っていえますか。だから生死一如を主張するなら、病気になる以前の普段の生き方の中においてこそ、仏教的な生き方を教えて徹底させておくべきです。いつ死が来てもいいような死への教育、仏教でも「どう死を受け止めるべきか」ということを考えておかなければなりませんでしょう。
 ところが一方において、「臓器移植は偉大なるお布施である」という考え方もあります。仏典を見ましても自分の目をお布施した王様の話だとか、生命までお布施をした話なんていうのは沢山ございます。そうすると「イエス」という答えもあり得るわけで、「仏教ではこうだ」などと答えようがないんです。
 現にタイとか韓国の仏教徒の間には「布施行」という考え方が強くて、それを認めていくという考え方が強いんです。しかし仏典で教えている本当に壮絶な布施行とは信仰に裏付けられた慈悲の行為です。今私どもが社会で議論しているのは、社会の制度としての脳死、臓器移植なんです。この点を忘れますと、布施行という行為が臓器移植を社会的に認める前提として利用されてしまいます。
 しかしもう一つ翻って考えれば、仏教を「生きる道である」として受け止めていくならば教理は教理として学んでいく必要はあるんですが、その教理を教理として学んだだけではあまり意味がないので、やはり「私はそれをこう受け止めます」というかたちでなかったら仏教にならないだろう。私は仏教をそういうかたちで生きる道として考えているんです。  

縁起を生きる

 「縁起」というのは仏教の最も基本的な、そして重要な真実を示す言葉であります。送り仮名を振りますと「縁りて起こる」と読みます。どんな現象も、どんな物事も何か他者、他の者との関わりの中で生じていくのだという考えです。したがって、こういい出した途端に、すでにキリスト教の独立自尊の絶対者、神というものは仏教では認め難いということになってしまいます。
 じゃあ「縁起って何だ?」私は「因縁」という言葉を使ったほうがわかりいいと思っています。
 「因」というのは原因であり、「縁」というのは、その原因が結果を生ずるのを手助けする条件であります。手助けする条件ですから「助縁」などという言葉もございます。
 私が手に一本の稲を持っていると仮定してください。お米がふさふさとなっています。ではその原因とは何か。稲ですから、原因というと、種というふうに考えられるでしょう。じゃ種が、つまり一つの米粒があったらそれが稲になるかというわけではありません。それを農家の方が持ってきて地面に植えて苗を作って、それから田植えをする。成長していって一本の苗になってくる。 一つの原因だけじゃ稲になりません。水だとか土地だとか太陽だとか、そうした稲に育っていくことを助ける条件となるものをひっくるめて「縁」といいます。ですから「因と縁が和合して」という表現になります。
 この原因というのもそれぞれが一つの種だけかっていうと必ずしもそうじゃないんで、確かに直接の原因は米粒かもしれないけれども、農業をやっている方が「さあ、もうそろそろ苗代をつくらなきゃいかん」って思ったことが原因だともいえるじゃありませんか。つまり原因っていうのは、複数なんですね。条件もいろいろあるんです。じゃあどれが原因でどれが条件かっていうのは、とてもいい切れるものじゃないんです。
 それを今度は人間の生命に置き換えて考えてみてください。精子と卵子の結合なんていうのはひとつの説明形式なんで、私どもの両親が結婚したのが原因だっていうこともいえるでしょう。
 私の両親は見合い結婚でした。その二人を引き合わせた人がいろいろ考えて「どうだ?」って動き出してくれた。仲人さんの仕事をしてくれたのが私が生まれる原因だったかもしれない。つまりいろいろな原因があってよく分からないんですよね。だから仏典はいうんです。「因縁の中身を詮索するのは無駄だ」と。つまり複数の原因があって、いろいろな複数の条件が重なって、今、ここに、私がこういう形でいる。
 もう少し具体的にいったら「因縁和合によってすべてのものは移り変わっていく。そういう宇宙の真実のはたらきが仏教の基本として立つ考え方」です。
 この縁起をさらに発展して考えると、複数の原因、複数の条件が互いに関わってはたらいている。こうなると何が原因で何が条件だから分からなくなる。すべてのものがお互いに関わり合って、原因となり条件となり、結果となるという関わり合いの世界、これを縁起というようになりました。
 ものごとには新しい原因、新しい条件が常に加わっていますから、ものごとは常に変化しています。一つとして同じ条件でとどまることはございません。これを「無常」といいます。
 大乗仏教になりますと「縁起」と「空」は、ほぼ同義語であります。「すべてのものは関わり合っていて、独立自存しているものではない。すべて関わり合いの中で生じたり滅したりしていく。そこに実体的なものはない」というのが、「空」の考え方になっております。
 さまざまな原因と条件が合して、私は「おぎゃ~」と生まれ育ち、大学の教員をやったり何かしながらここまで生きてきました。縁起によって私は生まれるべくして生まれ、育ってきました。どんどん変りながら私が今まで生きてきたんですが、その中で一番本物の時間、本物の時はいつだったんでしょう。
 もう一回稲を出します。稲がこうあります。種から稲になって育ってきました。いつが本当の稲なんでしょう。もしも「こうやってふさふさと実をならしたときが本当の稲ですよ」っていったら、「それじゃここまで育ってくるのは本物の稲じゃないんですね」っていうことになりませんか。
 無常なるものとして変化しつつある、その一瞬一瞬が実は常に本物の時間なんです。

今、の大切さ

 ですからこの因縁とか縁起ということから出てくる一つの生き方として重要なことは、「今」というものを重要視する生き方です。「一期一会」などという言葉もございます。「あなたは何ですか」と聞かれたら、因と縁が和合したことによって、今私はこんな格好で皆さんの前でしゃべっている。明日になったら、死んでるかも知れない。どっちが本物かって。今も本物なら、死んだときもやっぱり本物でしょうね。
 そして特に人生を生きるということを考える時に、もちろん過去は大切です。そして未来もなければなりません。しかし常に「今」を大事にしながら生きていくのが本当の仏教的な生き方、「縁起を生きることにつながるんだ」というのが重要な考え方となります。

道元禅師観月像(宝慶寺所蔵)道元禅師観月像(宝慶寺所蔵)
 そこで、ひとつ例をご紹介したいと思うんです。これは道元禅師の『正法眼蔵』の有名な「現成公案の巻」の中に、「薪は燃えて灰になる」という話があります。仏陀に基づいて書いた文章に「薪(たきぎ)は灰となる。灰は後、薪は前と見なすべからず。前あり後あり」薪がありますね。火をつけて燃やします。灰になります。時間的にいったら、薪が先で灰は後ですよ、明らかに。つまり時間というのはこういうふうに、一方に流れている。だから薪は先、灰は後「先あり後あり」。それは否定しないよというのです。
 だけども「仏法の考え方からいったらそれは違う」っていうんです。つまり薪であるときには薪、今いろいろな原因いろいろな条件がなして薪というかたちです。ところがこれに火をつけて、半焼けになって燃えています。これは今ここにさまざまな原因、さまざまな条件を満たして、こういう状況であるのが本当の姿じゃないか。嘘の姿ってどうしていえるんですか。
 そして全部燃えて灰になっちゃいました。灰になったら灰になったというかたちで、これはまたかけがえのない本当の姿じゃありませんか。灰になったらこんなのは要らないから捨てちゃえというのは世俗的な価値観に過ぎません。
 縁起というものの考えを理解しようと思ったら、薪のときは薪として絶対な本物の世界。ぼうぼう燃えているときはぼうぼう燃えているときで本物の世界。灰になったときは灰になったときで本物の世界。常に「今」が本物で、大切なんです。
 今、次の今、またその次の今、と前後際断しながら、つながって行くという時間です。ですから道元禅師の「今」という時間の受け止め方は存在そのものに直接響いてきます。
 「いつ」が人間の本物の姿かっていうんで、私はちょっと会話をしたことがある。幼稚園に呼ばれました。話が終わりまして、世話役のお母さん方にコーヒーをごちそうになりながら話していた。その幼稚園に入るのに予備校があるという有名幼稚園です。
 そのお母さん方に聞きました。「何でこの幼稚園にお子さんを入れたんですか」。「有名な幼稚園だし、いい小学校に入れそうだから」。「いい小学校に入りたいというのはどうして?」って聞いたら、「いい小学校に入れば、いい中学校に行けるでしょう」。「なんでいい中学校に行かなきゃいけないんですか」、「いい高校に入るため」とおっしゃる。「じゃあ何でいい高校に行かなきゃいけないの?」っていったら、「いい大学に入るため」って。「いい大学に入るのは何のため」って聞いたら、だんだんトーンが落ちてきて、「そりゃ一部上場の会社に入れるでしょう」、「お役所に入れるでしょう」。「じゃなんでお役所に入り、いい会社に入らなきゃいけないんですか」っていったら、「それは安定してるし、給料もいいし」。「それがいいと何でいいんですか」と、だんだん「うるさいわね」っていうような顔をされて、「社長になる」とか「お役人になると、途中で辞めて政治家になる」とか、そんな話まで出てきましたよ。お母さん方は野心家なんですから、本当に。だんだん私も意固地になりまして、「じゃあ会社の社長になったり大臣になったりするのは何のため?」って聞いたら、みんな黙っちゃった。
 そのうちの一人のお母さんが「そうね、この間私の先輩のところがそうだったけど、あの会社の社長さんとしてのお葬式、立派だったわね」という答えが出てきた。私は手をたたきましたね。「そうですか、それじゃ皆さん方、お子さんをこの有名幼稚園に一生懸命入れたのは、いい弔いを出すためなんだ」。さすがに嫌な顔をされて、それからもうその幼稚園には呼んでもらえません。
 こう考えてきますと結論ははっきりしています。中学校は中学生のためのもので、充実した中学生としての生活がなされなきゃならん道理じゃないですか。高校も、大学も同じ。
 社会に出て生きていくことも同じなんです。「お掃除するときには一生懸命お掃除をいたしましょう。働くときは一生懸命働きましょう。昼寝をするときには一生懸命昼寝をいたしましょう」。この「一期一会」という教えはさかのぼっていくならば縁起という仏教の世界観、仏教の人間の見方というものに直結したとても重要な生き方になっていくわけです。

つながっている自他

 さあ、そこで縁起という考え方をもう一つ展開して考えてみましょう。
 縁起の世界では、というものがさまざまな条件、さまざまな原因が錯綜していていて、何が条件で何が原因だか分かりません。すべての人や物が関わり合っていて、それぞれが別個のものでありながら、同じ真実の中で生かされている。それを、もう一つ底にあって支えるのは、お釈迦さんのお悟りの体験なんです。お釈迦さんは悟りによって宇宙、世界が縁起しつつある、という真実を見いだし、確かめられました。その宇宙の大きな生命のなかに、私も皆さんもお互いに全部生かされている。「生命共同体」としてつながってる。そうすると自分と他人というものを考えたときに、それは本質的に一つにつながっている世界なんだことをお釈迦さんは実感されました。
 お釈迦さんは自と他の関係をいろいろなかたちで説かれています。
 その一つに、「どの方向に心を向けて探しても、自分よりいとしいものはみいだせない。そのように他人にとってもそれぞれの自己は愛しい。だから自分を愛しむために他人を害してはならない」。
 この教えにはストーリーがあるんです。
 コーサラという国に王様とお后がおりました。王様もお后もお釈迦さんの信者です。仏典は、「王様とお后が誰もいない楼台の上で、二人で話をしていた」と書き出しています。
 王様が聞くんです。「あなたにとってこの世で一番愛しいものは何か」。お后の答えが誠にドライで、「はい、王様。私にとってこの世で一番愛しいものは私自身でございます」。王様は黙ってしまいます。なかなか鋭いお后で、「王様、あなたはいかが?」って聞いてきます。王様はしばらく考えて、「うん、やっぱり一番愛しくて大切なのは自分自身かな」と答えざるを得なかった。
 でも王様は自分の期待した答えではなかったことに幾分不満だったんですね。釈尊が首府の舎衛城の近くにある祇園精舎に来られた時に、早速王様が出かけていって、この話をするんですね。
 釈尊は「それはそうだ。お后のいったことはそのとおり」と認めます。そこで説かれた教えがこういう言葉でした。
「どの方向に心で捜し求めてみても、自分よりさらに愛しいものはどこにも見いだされない。そのように、他人にとってもそれぞれの自己は愛しい。だから、(自分を愛するために)他人を傷つけてはならない。
 つまり仏教では「自分を大切にしろ」とまずいうのです。私みたいに戦争中に小中学校の時代を終えた人間は、「滅私奉公」なんていう言葉がいまだに頭から離れないのですが、少なくとも仏教では使いにくい言葉です。自分を大切にしなさい」っていうのが、まず出てくるんですよ。
 では、どのように自分を大事にするのか、と聞かれたら、「自分にとって自分が一番大切な、愛しいものなら、他人さまにとっても他人さまの自分はその人にとってかけが
えのない大切なものなのだから、その他人様の自分というものを傷つけてはならない」という考え方なんです。
 同じことを、他の仏典はこう教えます。
「彼らも私と同じであり、私も彼らと同じである。こう考えてわが身に引き当てて生き物を殺してはならない、他人に命じて殺させてはならない」。
 これは単なる倫理ではありません。お悟りの体験を通じて、釈尊は自分も他人も同じ真実に生かされ、つながっている存在であることに頷きました。自他一如であることの自覚がこの教えの根底にあるのです。
 実践的には「他を自分の身に引き当てて」ということになりますが、これは単純な言葉ですが、慈悲の原点です。釈尊の教えの中で非暴力と不戦を明らかな言葉で示している非常に重要な言葉です。
 だからこそ、「自己を守る人は他人の自己をも守る。だから自己を守れ。そのような人が常に害を受けることなく賢者である」「ここに自己、つまり自らの己に対して「他の自己」という言葉が出てきました。「自己」に対して「他己」といいます。
 実をいうと、この「自己」に対する「他己」、他人の己というのはその後の仏典の中にはあまり出てこないんですが、道元禅師は非常にこの言葉を好みましてね。よく使われています。つまり「自己」と「他己」とは、自分は自分だし他人は他人なんだけれども、その自分と他人が「己」を通じて通底している。自分は他によって生かされているし、自己が生きることは「他己」を生かすことでなければならない。
 そして仏教の慈悲というのは、この「自即他」、あるいは「自他一如」、こうしたものの考え方の中から説かれてまいります。それが一つには釈尊やお祖師さん方が宗教体験の中から「それ以外ないよ」と確信があっていわれていると同時に、それを今度は少し理論的に説明しようと思うならば、そこに縁起というすべてのものは関わり合っているという世界観の中でもそれは保証されていきます。
 そう考えて、縁起の中に生かされているからこそ、私たちは「今を大切にして生きる」と同時に、縁起の世界だからこそ、自己と他己が慈悲を通じてつながる実践を大切にしなければならないことになるのです。

帝釈の網

 「帝釈の網」という比喩をご紹介いたします。帝釈天、これはインドラというインドの神様なんですが。仏教の外護神になっています。日本では柴又の帝釈天が有名になっています。
 この帝釈天が地球に網をかけたんです。大きな網なんですね。私どもの、この部屋にも網が降りてきています。網ですから編み目がありますが、私どもの一人一人が編み目の一つだというんです。編み目だけじゃなくて、一つの編み目にきらきら光る宝珠がぶらさがっていると経典はいいます。ミラーボールと思ってください。皆さんも私も一つの編み目でミラーボール。比喩としてそれだけなんです。
 何をいいたいのか、というと、まず、すべてのものは「関わり合っている」ことをいいたいのですね。この比喩を説いている「梵網経」には八角形の天井も床も壁も鏡張りの部屋に入ったらどうなるか、などと書いてあります。私の影は八方の鏡に映ってそれがまた映って、無数の私の映像がうつしだされますよね。
 私がちょっと右に九十度体を向けますと、その動きは皆さんのミラーボールに映ります。その映像はまたほかに映っていきます。理論的には地球の裏側にいる人まで、私がわずかに体を動かした動きは伝わっていく。
 もう一つのポイントは、「個」と「全体」の関係です。全体があるから個があります。つまり網があるから編み目があります。これはあたり前ですよね。逆に個が集まって全体になるように思うのですが、そうではない、とこの比喩はいいたいのです。
 一つ一つの編み目が集まって網になるんだけれども、単に編み目が集まっただけではないのだ、というのです。その意味を私なりの喩えでいえばこういうことになります。
 お盆の上に五〇個のビー玉を並べます。五〇個のビー玉が集まって全体になってます。ビー玉はお互いに接触しながら一緒になってます。でもピンセットを持ってきて抜きますと、一個一個抜けちゃいます。「五〇個のビー玉が集まっても全体にはならない」というんです。
「じゃあどうすればいいんだ?」っていったら、ビー玉の代わりにビーズ玉にしてください。ビーズ玉は穴があって、そこに糸を通して女の子さんたちが遊んでいます。
 五〇個六〇個のビーズ玉をかがったものがここにあって、ピンセットを持ってきても、一個一個のビーズ玉は抜けません。糸でつながっているのですから。 糸でかがったビーズ玉というのは網じゃありませんか。
 つまりいいたいことはこういうことです。
 個と全体の関係を考えるときに、個が単に集合して全体となるのではない。一つ一つの個同士が複雑に関わりあっている。その関わりの総体が全体だというのです。これがこの比喩のいわんとする眼目です。
 これは現代の社会において組織というものを考えたときに、とても重要な教えです。
 私たちの身体で考えてみますが、身体は一つ一つの細胞からできてます。そして個々別々の細胞が単に集合して私の身体、つまり生命ができているのかというとそうではない。個々の細胞がそれぞれの働きをしながら、同時に全体の身体、生命を持続していくという大きな目的のために力を合わせている。協力している。
 これは逆に言うなら、身体、つまり私たちの生命は個々の細胞がそれぞれの個性を発揮しつつ、全体として生命を保っという共通の目的のために共にはらかせている場だといってもいい。そのときに生命を保っていくという本来の目的に反した働きを持っているものが出てくると困るんですね。ガン細胞なんていうのはそれでしょう。
 家庭とか会社、その他の社会的組織も同様です。構成メンバーのすべてが一つになれ、同じはたらきをしろ、というのは暴論です。個々人がそれぞれの独自性を発揮しながら、全体として大きな共通の目的に向かって関わり合う。組織体を共に創っていく、といってもいい。そうでないと、組織はもちません。
 仏教の場合、そうした同じ一つの目的を共有するというのは平和社会ということですが、個々のものを共にはたらかせる根拠となるのが智慧と慈悲なんです。そういう意味では現代の社会はみんなが正しい形で「関わり合って、いい社会を創ろう」という状況にはない。お互いが横の関わりをもっていない。人間としての連帯感がほとんど失われてる。私はビー玉社会になっちゃってると思うんです。

慈悲が熟する

 どうしたらいいのか、と一生懸命考えておりましたら、私はショックを受けた言葉に出会いました。「愛の反対は憎しみではない。無関心だ」。マザー・テレサの言葉だと聞きました。カトリックの方ですから「愛」といいました。私どもでしたら「慈悲」です。「慈悲の反対は憎悪ではない。無関心だ」。たしかに辞書を引きますと、愛とか慈悲の反対語は憎悪です。だけど現実に生きているということからいったら、愛とか慈悲の反対は憎しみ
じゃない。「おまえがどうなろうと私は関心がない。おれはおれでやっていく」という無関心でしょう。
 そう考えてきますと、現代の青少年の問題にしても、それから教育の荒廃に関しても、お互いが縁起の世界に生きているならば、もっとお互いが、自分も立ち、他人をも立たせる方向で「関わりあう」必要がある。もっとお互いに関心を持ち合うことが慈悲の実践に連なる。
 関心を持つということは、決してお節介をやくことじゃありません。私どもの身近なところから、お互いに関心を持ち合う。他者の痛みを痛みとしてこちらが受け取っていく。喜びは喜びとして、一緒に喜び合えればいいし、悲しみ・苦しみ・つらいことは「大変だよね」っていって分かち合っていく。そういう姿勢が実は慈悲というものの働きにほかなりません。自分も他人も大切にしない生き方で幸せになるわけがないと、私は考えています。
 「そんな難しいことをいったって、私はきょう東京国際仏教塾に入塾したばっかりだ。慈悲なんてろくにない。もう少し仏教を学んで自分が立派になったら慈悲を実践しましょう」なんていわないでください。
 鈴木大拙さんがいいました。「慈悲というものは誰にでもある。しかしそれは育てるものだ」。道元禅師も、「知恵、慈悲なき人も、習えば身につく」といわれています。つまり慈悲というのは最初から百点満点の慈悲なんてないんです。
 身近な周りからでも、他者の悲しさや苦しさに関心を持ち、自分の心を痛め、何が出来るかを考える。「何をしろ」ということではありません。これは強制になってしまう。しかし、私たち至らないものでも、及ばずながらでも、関心を持ち、何とかして他者のために良かれ、と念じる気持ちが慈悲でしょう。
 身近なところから、それをやっていくことが実は慈悲の発露であり、慈悲行の実践であり、それを繰り返していくことによって次第に慈悲を実践することの意味がわかってくる。以前はかなり意識してやっていたことがスムースに出来るようになる。すると慈悲の範囲が自ずと広がってくる。慈悲は実践することによって次第に熟してくるのです。
 慈悲は僅かなところからでも実践しなければ育ちません。慈悲を常に実践していくことが大切であることを、道元禅師は「行持道環」という言葉で示しました。行持というのは宗教的に生きる生活のことです。具体的な仏道の実践です。慈悲なら慈悲を、出来るところから実践していく。それによって慈悲が熟し、環になった道のように終わりのない道を歩き続けることが、仏教者の歩き方です。どこまで出来るか、が問題なのではありません。歩き出し、歩き続けることが、「生死をこえ」て生きるプロセスそのものなのです。
 「私に慈悲なんかないよ」なんておっしゃらずに、少しでも身近なところから関心を持って下さい。慈悲のない人なんていないんですから。
 自分で出来る範囲は限られています。しかし、何時も私は松原泰道先生のすばらしい言葉を思い出しています。
 「一人では何もできない。しかしその一人が始めなければ何もできない」。
 縁起を生きるということで考えてきましたが、仏道は自分が歩くものです。どこまで出来るか、ではありません。私は「及ばずながら」という言葉が好きなのですが、出来る範囲で、しかし、真摯に仏法を行じていく。それが禅的にいえば、「悟りを行じゆく」ことですし、そうした仏教者の力が集まってきたときに、社会を動かす大きな力になっていくに違いありません。

(文責編集部)

= 終わり =

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