中山清田先生

本覚思想からみた仏教史

1999年6月20日 第12期スクーリング講義録

「本覚」とは

 中山でございます。
 本日は本覚思想を中心にして、日本仏教史を見てみようかなと思っております。
 実はごく最近、『天台教学と本覚思想』という本が出ております。著者は大久保良順という人です。早稲田大学の先生です。法蔵館から出ております。天台本覚思想といいますのは、明治まではそんなに言われなかった思想です。どうしてかといいますと、これは口伝法門といいまして、つまりお師匠さんがお弟子さんに口伝えで教えていた思想ですが、この『天台教学と本覚思想』 は天台宗の本覚思想を理解するに非常に役に立つ本だと思います。
 さて、本覚とは何ぞやということ、本より覚(さと)るということはどういうふうに影響があろうかというふうな問題がございますので、権現説という天海僧正の思想を一つの例にとってお話し申し上げたいと思います。
 神と仏と人という字を三つ書きましたけれども、天海は徳川家康公にこう言ったんじゃないかと思いますね。家康公、あなたは非常にすぐれた人です。仏の世界ではこういう現世に強い人を薬師如来と申します。お薬師様ですね。薬師如来は東方にいらっしゃる、お浄土を持つ仏様でして、現世で非常に力の強いことを得意としていらっしゃる。ですから、あなたはお薬師様なんです。ですけれども、仮に今あなたがもしあの世へ行かれたとすると、すぐ仏にはなれない。だけれども、仮に神として葬られることができるでしょう。人・神・仏のこの三つの区別は全くございません。同じなんですというようなことが、権現説の根本だろうというふうに思います。
 さて、その三つが一緒だ、神と仏と人間が一緒だという思想は、何も天海僧正が発明したわけではないですね。天台宗の本覚思想の考えといいますのは、こういうことなんですね。我々ものを考える場合に、空・仮の二つがあるという、インドの昔からの考えがあるわけですね。空か仮か。つまり、空というのは最初から物がないというふうに仮定していく、仮というのは物があると仮定して、仮なんだというふうな仮定をしていくという。つまり、空と有とでもいいましょうか、その二つは全く違っている。

「不二」との関係

 中国には不二という思想がございます。つまり、結局は一つなんだと。皆さんにお目にかけている私のこの汚い手、指紋があるんじゃないかと思いますけれども、この手も様相が違います。違うんだけれども、両方なければこの手ではないわけですね。つまり、これもこれもあって一つのものを形成していくというような考え方。よく女の人を口説くとき、私らの学生時代は不二の関係だといって一生懸命口説いていた時期がありますけれども、やっぱりお互いに切磋琢磨して大きく伸びていくような状態を不二といいます。
 それから、結婚式なんかの祝辞にはもってこいの題材でございますね。不二の話なんかして、お祝い言葉に代えるときがあるんですけれども、そういう意味です。つまり、二つということですね。善と悪というふうな二つの相反することがあるとすると、果たしてどこまでが善でどこまでが悪かというのはなかなか難しいような気がいたします。
 私は川越少年刑務所の教誨師もやりましたが、刑務所の中にいますと本当にわからなくなるんですよ、実際。悪いことをしたから収監されて刑務所にいるわけですから、悪いことをやったことには間違いない。だけれども、どうも収監されないでもっと悪いことをやっている人が、まあ殺人とか何かはしていないでしょうけれども、いっぱいいらっしゃるような気も時々するんですね。そうすると、刑務所の中でお前よくやったと言うわけにいきませんけれども、でもある程度わかるようなときもあるんですね。だから、どこまでが善でどこまでが悪なんだろうかというような、時々考えさせられるときがあるんですけれども。ですから、そのときそのときに応じてこの不二の考えなんかも違ってくるんじゃなかろうかと思っております。

「中道」とは

 さて、 中国にインドの不二の思想が入りまして少したちますと、 中道という思想が起きます。 空・仮・中の中道。 これを三諦といいまして、 空諦、 中道、 仮諦ということですね。
 中道といいますのは、 センターロードという意味じゃないですね。 物理的に真ん中という意味じゃございません。 右にも寄らず左にも寄らずということで、 自由自在に進む思想を中道といいます。
 天台ではこの中道を非常に重要視いたします。 何でもかんでも中道の考えでいけというふうな教えがございます。 つまり、 善悪だったら、 善にも寄らず悪にも寄らずということなんでしょうね。 善というのは果たしてどこまでが善かというふうに、 ちょっと申しましたけれども、 わからないですよね。 いいことを仮に私がしたとしても、 あのときは何となくいい気分になりたかったからしたんだよなというようなこともあるかもしれません。 こっちはこうすればああくるだろうかと考えてそういう行動をとるわけですから、 人様には善に見えるかもしれないけれども、 実は悪というのもあり得ることだろうと思うんですね。
 ですから、 そういうことじゃなくて、 本当に善にも寄らず悪にも寄らず、 その人、 その人、 そのとき、 そのときに応じて、 真実というものは変化していくわけですので、 そういうものを考えていくんじゃないかなという気がしております。 本当に真実というのは中道なんだと。 つまり、 瞬間瞬間に動くものだろうと思っております。

「三即一」「多即一」

 この空・仮・中の三諦を、 実は神道でいいますと、 もちろん修験道もそうですけれども、 山という字がございます。 だけれども、 横1本がなければ山という字は成り立ちません。 下に伏という字を書きました。 これを上から読むと山伏という形になります。 『山伏二字義』 という修験道の本の中にはっきり書かれております。 天台でいう空・仮・中という3つの思想があるけれども、 横1本がなければ山という字にはならない。 つまり、 どれを欠いてもだめだということです。 これを私は三即一ということを論文や何かに書いております。 3つ、 すなわち一つなり。
 真言宗のお師匠さんに、 金岡秀友という先生がいらっしゃいます。 私も教えをいただいている先生ですけれども、 この先生は真言の場合は真ん中というのは多即一なんだというようなことをおっしゃっておられました。 三即一も同じことです。 一応空・仮・中という3つがありますけれども、 これは仮の話でございまして、 結局は多でも三でも同じことだろうというふうに思っております。
 それから、 伏という字ですが、 人偏は人を表し、 犬というのは畜生、 動物を表す。 これを法性と無明というふうに分けます。 法性というのは覚りですね。 人は覚っているんだ、 法性にあって、 それから犬は無明、 覚っていないという、 無明というのにあっている。 法性と無明、 相反することですね。
 ところが、 この法性と無明というものがあるんだけれども、 伏という字を成り立たせるためには、 2つとも必要なんですね。 犬も必要ですし、 人偏も必要。 どっちかが欠ければ漢字の意味は、 犬は立ちますけれども、 あとは人偏だけというようなことにもならない。 だから、 法性と無明というようなのが不二でなければいかん。 ですから、 山伏の場合は、 上のほうは三即一の思想をあらわし、 下のほうは不二の思想をあらわすというふうに書いてございます。

「煩悩即菩提」
 さて、 今までお話し申し上げた事柄を少しお考えいただきたいんですが、 我々平気で使っております言葉の中に、 煩悩即菩提という言葉がございます。 皆様はどういうふうな宗派のことを中心にしてお話しになっていらっしゃるか存じませんけれども、 煩悩即菩提という言葉、 それから生死即涅槃、 生きる、 死ぬ、 すなわち涅槃、 生死涅槃という言葉もあろうと思います。 源流はどういうことなんだろうかと考えてみますと、 実はこの本覚思想にぶち当たるんじゃなかろうかと思っております。

道元禅師の疑問

 私は心というものをこのように分けて考えております。 我々衆生の心には、 「心真如」 と 「心生滅」 がある。 この心生滅の中に覚と不覚がある。 つまり、 覚 (さと) る覚 (さと) らないというものがある。 それから、 その覚の中に 「始覚」 があって 「本覚」 があるということです。
 さて、 この始覚というのはどういうことかといいますと、 最初は覚っていないんですが、 いろいろな縁を経て、 先生だったり、 自分のやる気だったり、 友達だったり、 いろいろな縁を経て徐々に本覚に近づいていく。 ですから、 修行をしなくてはだめですね。 要するに修行して徐々に本覚に近づくんだという考えが始覚です。 本覚はもう最終の結果を覚っているということになるわけです。
 あるとき、 鎌倉時代に、 天台宗には本覚という思想がある。 本来覚っているのに、 なぜ坐禅をするのかと、 疑問を抱いた方がいらっしゃいます。 天台宗のお坊さんでしたので、 いろいろな修行者に尋ねたんだそうです。 「何で仏さんなのに行をやらなくちゃいけないの」 ということですね。 その疑問に、 その当時だれも答えることができなかった。
 それで、 比叡山を下りまして中国に行った方がございます。 道元禅師です。 道元禅師は中国に行かれまして、 天童山とかいろいろなところで修行をされますけれども、 あるとき、 自分が座っているときに、 わきで同じ修行者が居眠りをし始めます。 当然、 お師匠さんが怒りますね。 「何でおまえ、 寝ているんだ」 と。 そのとき道元禅師ははっと覚ったというんですね。
 どういうことを覚ったかといいますと、 坐禅というのは、 修行の道具だと思っておったけれども、 いやそうじゃないんだ、 仏様の座る姿が坐禅なんだということに気がつかれたとおっしゃっておられます。
 ですから、 只管打坐という言葉もございますけれども、 とにかく座れと言う、 理屈を言うなというふうな教え方をしておりますけれども、 そういうことで、 仏なんだから徐々に仏以外のようなことは止しましょうよ、 というふうな思想に持っていったのじゃなかろうかなという気がしているんです。 仏だから何をやってもいいんだ、 悪いことをやってもいいんだというふうには、 実はならないんですね。
 ですから、 私は至らないやつだ、 もう少し勉強して修行してもっともっと仏様の種を大きく育てていかなくてはいかんというようなのが、 煩悩即菩提のあるいは基本になっているんじゃないかなというような気がしております。

神道との関連性

 そういう話が道元禅師のときにはもうすでにあるわけですから、 本覚思想というのは天台宗の中でもかなり古くからあったのではないか。 どうも日本に仏教が入ってくるころ、 蘇我と物部の戦いの後、 正式に入ってくるわけですけれども、 日本には神道というものがあって、 仏教は神道と融和していく。 天台なんかはその典型ですが......。
 日吉大権現という神社が今も坂本にあります。 そこへ行きますと、 山王様がいらっしゃる。 この山王にも実は修験道でお話しした思想が出てくるんです。
 山というのは縦ですね。 ここで言うならば空・仮・中でもいいし、 人・仏・神でもいいですけれども、 この三つというのはやはり一つなんだと。 それから、 王様の王といいますのも横三本に縦一本ですね。 全く同じ思想で、 人・仏・神というふうに分けて、 だけれども、 縦一本でつながっているんだというふうな思想です。 これを山王一実神道というわけです。 これを江戸時代に入って利用したのが天海僧正という方なんですね、 それで権現説ということを出す。
 この山王一実神道のもとは、 実は本覚思想ですし、 ですから以前からあった考え方が仏教と出合って形を成すようになったのが本覚思想とも言える。
 いずれにしろ我々衆生にとって覚るということは、 本覚か始覚なんだ、 修行をするか、 しないかなんだというようなことになっておりまして、 結局それが鎌倉時代に入りますと、 法華経の日蓮上人、 阿弥陀経を重要視なされた法然上人、 親鸞聖人というふうに、 みんな分かれていくんです。

横川中心に発展

 同じ天台宗の比叡山延暦寺でも、山にある谷谷によって考え方が違い、それぞれのグループになっている。大きく分けて東塔、西塔、横川というふうに三つに分けられますけれども、どこに所属していたかによってかなり思想が違ってくるだろうと思っております。
 特に、現在の思想で流れの強いのは、横川関係なんですね。例えば曹洞宗の道元禅師がそうですし、浄土宗の法然さん、真宗の親鸞さんもそうです。そういう関係で、横川のほうに行きますと、道元禅師得度の場所を曹洞宗さんがいま比叡山から借りて使っていらっしゃいます。下のほうを見ると、日蓮宗さんが境内地を借りて建物をつくっていらっしゃるところもあります。ですから、鎌倉時代の思想を発展させていった場所というのは、横川が中心だったのかなというような気がしております。
 その横川の中に十八代の座主で、良源という方がいらっしゃいます。正月三日に亡くなったので、元三大師と言われているのですが、非常に霊験あらたかだったということで厄除けなどのご本尊にしているお寺がたくさんございます。佐野厄除大師、川越の喜多院さんなんかもそうですし、天台宗で厄除けといえばこの良源さんに決まっているんです。
 これを持ち出したのは、実は天海僧正なんです。天海が自分はこういうお坊さんになりたいと思ったのかもしれませんけれども、非常に信仰しまして。現在の比叡山延暦寺の根本中堂なんかはこの人がつくっているんですね。徳川三代将軍家光によって再建されておりますけれども、そのきっかけをつくっております。ですから、天海に慈眼大師という大師号が贈られております。
 一説によりますと、百八歳まで生きられたということです。初代家康から三代家光まで、しかも家康公には子供のころから教えたという伝説がございまして、非常に長生きし過ぎているので、明智光秀の生まれ変わりなんじゃないかという歴史学者もいらっしゃるくらいで、非常に謎の多い方には間違いないような気がいたします。
 元三大師と慈眼大師と、二人の大師を祀っているお寺が「両大師」といって、上野の寛永寺の国立科学博物館の真向かいにあります。ここは、東叡山というぐらいですから、東の叡山の力を持って、思想的にもずいぶん天台宗、あるいはほかの宗派に対しても影響を及ぼしたのではないかというふうに考えております。

教学の中興へ

 それでは本覚思想を書いた本はなかったのかと言いますと、実はたくさんの本があるんです。本覚讃というふうなお経が天台宗の中に伝わっております。慈眼大師がとりわけ影響を与えたわけですが、非常に短いんですけれども天台宗ではこのお経を重要視しており、大概のお坊さんがお葬式とか法事とかでお唱えしているんじゃないかなという気がしております。
 これは、『大乗起信論』というインドで一~二世紀につくられたものが根本だと言われております。本覚思想というのは考え方によると非常に危険なんです。我々はもうすでに覚(さと)って仏なんだ、何やってもいいんだという考え方も、天台宗のお坊さんの中に出てきます。何やってもいい、もう仏なんだからということですね。
 これは江戸中期になって非常に戒められます。どういうふうに戒めるかといいますと、中興天台、つまり天台教学の中興として四明天台学をやり、その律を重要視していくべきであるということで、安楽律というふうな宗、天台宗の中でも集団が起きます。いま現在も天台宗の中に安楽律派という流派がございます。
 比叡山に行って行者さんの信者さんになるという方は、大概安楽律のお坊さんを特に慕っていらっしゃるような気がいたします。その人たちはよく回峰行、千日回峰行とか何かをやっていらっしゃいますが、それは奥さんに先立たれたとか、独身とかでないと務まらないものがある。そこで安楽律を踏襲することになるわけですが、そこがまた人をひきつけるもととなるのではないでしょうか。

『本覚讃』 にみる考え方

 本覚思想というものを誤解しないようにと、 江戸時代になって安楽律が中心になってブレーキをかけますが、 これに対して、 絶対肯定の論理というものが実は恐らく 『法華経』 の中にあるんだというふうなことを言う人が出てきます。 恵心流と檀那流でこれらの流派と比叡山との間で本覚論法法門の二大流派が出てくる。
 それでこの本覚という思想は、 一体もともとどういうものかとなるわけですが、 『本覚讃』 と言われるお経があり、 「帰命本覚心法身」 と出ている。 心法身、 心の中の仏、 本来覚 (さと) っている心の中の仏に帰命し奉る、 ということでしょうか。
 もう少し詳しくみますと、 「三身」 といった言葉も登場します。 三身というのは、 法身、 報身、 応身、 ですね。 法身は絶対変わりっこないものというふうに一応考えますので、 天台宗で言うならばお釈迦様。 報身は報ずる身ですね。 これは修行した結果によって仏になった人。 ですから天台大師、 伝教大師等の方々、 信仰している人にとっては酒井雄哉さんなんかも入ると思います。 応身は、 自分が苦しんでいるのに応じて現れてくれる仏様。 人によって、 不動明王だ、 阿弥陀様だ、 いや私は観音様だという方も大勢いらっしゃると思います。
 その三身の徳を具足したものが三十七尊。 ちょっと密教に触れますけれども、 『大日経』 を中心にした胎蔵界、 『金剛頂経』 を中心にした金剛界というのがございます。 この金剛界九会の曼荼羅、 成身会に配せられた大日如来、 阿シュク如来、 宝生如来、 阿弥陀如来、 不空の五仏とその眷属、 一族ですね、 眷属の四波羅蜜菩薩、 十六大菩薩、 八供の菩薩、 四摂の菩薩、 これを全部合わせて三十七になるわけです。 つまり、 金剛界に描かれている三十七の仏たちということになると思います。
 これらを含むお経を少し日本語的に訳させていただきますと、 『本覚讃、 本来覚 (さと) られていることをたたえる』、 「本来既に覚っている、 みずからの内なる仏、 法身に命を捧げて信仰いたします。 本来もとより仏の法身、 報身、 応身という三つの形で説明されて、 あらゆる人間的無相表現が既に過去からこの身に備わっているものですから、 三十七の仏、 諸尊がみずから心身に住している。 諸仏や諸尊の限りない自内証 (覚り方) は、 世間的な因果生死の流転のあり方を超越して、 仏法のまにまに備わっており、 大海のような辺際のない諸仏諸尊の無量の仏徳が本来完全にしみわたっている。 それらを具足している我が身ながら、 改めて我が心身に内在している諸仏諸尊にこうべを垂れて礼拝いたします」 とでも訳しましょうか。
 なかなか自分の心の中に仏さんがいるということは、 気がつかないですね。 自分を自分で礼拝するなんていうことはまずしませんものね。 ですけれども、 この教えといいますのは、 例えば天台宗の中にも密教がありますので、 潅頂という儀礼がございます。 大きく分けて四つ、 胎蔵界、 金剛界、 入壇潅頂と開壇潅頂というふうに分けられておりますけれども、 入壇、 開壇の潅頂のときも、 必ず三昧耶潅頂が行われます。 これはどういうことかといいますと、 自分自身で潅頂するんです。 潅頂といいますのは、 当然阿闍梨がいるわけですけれども、 自分自身で潅頂をやるということ。
 例えば、 投華という儀礼があります。 これは目を覆面で隠されまして、 曼荼羅の中の 「針印」 に、 シキビを投げる。 空海は何度やっても大日如来だったという有名な話がありますけれども、 あの儀礼をやるわけですね。 そのときに、 三昧耶潅頂の場合は自身潅頂といいまして、 自分自身でこうやって、 もちろん目をつぶったままこうやって、 ポンと音がするんですけれども、 自分自身で仏になっていく、 曼荼羅にも何も頼らないというふうな儀礼がございます。 人によって違いますけれども、 実はこの三昧耶潅頂が潅頂の中で一番重要なんだとおっしゃる方もいらっしゃるくらいですね。
 自分の心の中にいる仏と、 理屈を言えば縁を結んだということになるんでしょうね。 ですから、 それをどういうふうに処していくか、 考えていくかというものが一つの大きな問題であるんじゃないかなという気がしています。

懺悔 (さんげ) の功徳力

 学生時代私は東洋大学に行きながら三年間大正大学へ聴講生として参りました。 そのころ、 平良良松先生とか、 多田厚隆先生とか、 いろいろな先生がおいでになりました。 ほとんどの方が逝去されましたけれども、 ご健在なのは大久保良純先生。
 大久保先生に私は、 今考えると恥ずかしくなるような質問をしているんですね。 「人間は生きている間に覚れるのでしょうか」。 本当にあの当時は真剣だったんですよ。 そのときに大久保先生はちょっと考えていらしたんですね。 「いや、 生きている間はだめだな」 とかおっしゃったんですね。 確かにそのことは名答というふうに私は思っております。
 といいますのは、 我々仏道を目指す者には、 当然のことながら 「戒」 があるわけで、 その中に、 ものの命をとることなかれという殺生戒がありますね。 私はけさはパンとご飯とおみおつけと納豆とで済ませてきましたけれども、 全部命なんですね。 納豆だって、 加工しない場合は、 そのままにしておけば芽が出てきますものね。 おみそだってそうです。 ご飯だってそうです。 何も肉や魚を食わなくたって殺生戒を犯しているんですね。 ではどうすればいいのか。 それをとらなくていい事態、 それはもう死ぬしかないんですね。
 その問題を天台宗あたりではどういうふうに教えているのかといいますと、 キリスト教でいう 「ざんげ」。 仏教では 「さんげ」 です。 同じ字を書きます。 懺悔をしなさいということを一応天台宗では教えています。 天台宗では、 朝題目の夕念仏といいまして、 朝は法華経を中心とした法華懺法というお経を上げ、 夕方には阿弥陀経を中心にした例時作法というお経をあげます。 一冊の本になっております。 『例時作法と法華懺法』 という本ですね。
 これを見ますと、 全部懺悔のものなんです。 眼・耳・鼻・舌・身・意という六根から、 私は悪いことしました、 もう朝から悪いことしているんですから、 朝の勤めから悪いことしました悪いことしましたと懺悔をしている。 夕方のお勤めにももちろんそうです。 ということは、 生かされているということはもう既に悪いことのしっ放しなんですね、 仏さんから見れば。 でもまあ、 それでも少し許してやろうか、 懺悔すればというようなのが天台の考えだろうと思っております。
 これも余談ですけれども、 亡くなりました天台の座主で山田恵諦という方がいらっしゃいました。 その山田お座主が私どもと一緒に食事をする機会がございまして、 山田座主はお酒は熱かんがいいということで、 まあ熱かんにしてアルコール分飛ばすというような感じですけれども、 お酒を召し上がりました。
 私どもにも当然おちょうしがあったわけですけれども、 座主猊下がおっしゃったことは、 実は天台でも不飲酒戒というのは認めていないんです。 真言宗さんですと十善戒という戒律がありまして、 その中に不飲酒戒が入っていないんですよね。 ですから、 真言宗さんは大いばりで召し上がれるんですけれども。 天台の場合は最澄が、 酒飲みは 「山から擯出 (ひんずい) す」、 追い出すということをはっきりおっしゃっておられる。 ですから、 なかなか飲みにくいですけれどもね。
 でも、 お座主さんがこうおっしゃったんですね。 きょうはお酒をいただくわけだけれども、 このお酒を飲んで地方に帰ったらよく懺悔するように、 懺悔しなきゃだめだよということを笑っておっしゃっておられましたけれども。 懺悔するから悪いことやっていいということではないんでしょうけれども、 でも臨機応変にある程度は緩やかに山田座主なんかは考えておられたようですね。
 ですから、 あとどういうふうに懺悔していくかという問題が、 天台宗では逆に言うとメーンテーマだったのかなという気がしております。 本覚思想のとらえ方もその辺が一つのキーワードかなというふうな気がしますね。 そういう目でご自身の信仰をなされる、 あるいは進もうとしていらっしゃる宗派の教義なんかも見ていただくと、 そういう意味ではおもしろいんじゃなかろうかなと思っております。

= おわり =

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