中野東禅先生

悲嘆の癒し対象喪失と知恵慈悲の支え(第22期スクーリング)

2009年6月20日 第22期スクーリング特別講義

死別によって起きる悲嘆の現象

 わたしたちは愛する者と死別したときに、どういう症状が起きるのか。愛する者に死に別れたときの、現代の日本の大きなテーマは千の風。「わたしのお墓の前で泣かないでください。そこにわたしはいません。朝は、小鳥のさえずりとなる、夕べは星の瞬きとなってあなたを見ています」。「インディアンの詩にあった」という説と、「ドイツから亡命したユダヤ人の娘さんが、残してきたお母さんの死んだのを知って、書いた詩だ」という説とありますが、それを新井満さんが訳して、東京目黒の浄土宗の坊さんのところで新井満さんが自分でギター弾いて、仲間がピアノなんかやって、CDを五十枚作って、仲間に配ったのは五年ぐらい前。そのときの一枚をわたしはもらって、すごくいい詩だなと思ったんですけど、その三年後ぐらいに、家内が突然死して、それで新井満さんのあれを聞いたら、えらい感動しました。あれで救われた。

 秋川さんが歌った後はたちまち百万枚以上。「わたしのお墓の前で泣かないでください」っていうのは癒やしの問題なんです。あなたが思い出してくれたらいつでもそばにいますよっていう詩です。お墓を否定してるんじゃない。あなたが思い出してくれたら、わたしはいつでもあなたのそばにいますというメッセージなんです。

 死別の次どんな症状が起きるか。一番、「怒り」。運命に対する怒り。あるいは事情に対する、医者がどうだった、救急車があの時こうだったとか、そういう怒り。

 二番目が「不信感」。何かこうふわふわして、確信を持てない。自分もすぐ死ぬような気がする。わたしも家内が地下鉄の駅で倒れたときに、真っ先に思ったのが「なぜだ」ですね。そのときに気が付いたのは、本人が一番疑問に思ってるんだから、「なぜだ」っていう問いは本人を苦しめることではないか。「なぜだ」っていう問いをやめようと腹を決めた。若い女の刑事さんがそれを賛成してくれましたね。

 三番目に「自責の念」。「あのときこうすれば」「あのとき、わたしがこうなったもんだから」っていうことで自分を責める。これが多くの場合、かなりの方が背負います。ところががんであるとか、何かの手違い、交通事故。これは自責の念が出てくるんです。

 四番目が「不安」。自分も同じように死ぬっていう不安です。これはほとんどの研究書には書いてあります。わたしもそうでした。最初のころは特にそうでした。

 五番目が「孤独感」。それはもうほとんど、孤独感って家族がいても孤独になるんです。しゃべりたくない。だからお葬式のときだとか、お葬式の前後に若い子供たちや孫たちがワーワーしててもおばあちゃん、自分の部屋から出てこないとか。孤独感なんです。「来たらいいのに」とかって言っちゃいけないんです。そっとしておいてあげなきゃいけない。

 それから「疲労感」。とにかく疲れます。やたらだるいんです。唐突な悲しみっていうことはよく言われます。突然「うっ」とこうなるんですね。頭では分かってて、普通にみんなと話ししていても、何かのきっかけで涙が止められないとか。

 それから「無力感」。何もしてやれなかったというようなことですね。それから「開放感」。ほっとするというのがあるんですよ。特に長患いをした人、覚悟した人はほっとします。ほっとすると自分を責めるんです。きのうも手紙が来まして、その方は手紙の中で、ご主人ががんが見つかって本人に言わないで半年ぐらい、お亡くなりになるんだけど、結局そこで最後は自宅療養、在宅ホスピスにしよう。開業医が中心になってくれて。自宅でも何日もいられなかったらしいんですけどもね、とにかく自宅に来てから、用事がない限り、ベッドのところに座って、夫婦で、たくさん話したそうですよ。そういう中ですっと亡くなったらしいんですけど、その日から自分は悲しみが感じられなくて、やるべきことやって、お父さんいいとこ行ったに違いないっていうそういう安心感を得た。わたしは悪い女ですって書いてあるんですよ。それが開放感と負い目なんです。開放感持つと同時にやるべきことやったっていう、看護すべきことはやったっていう開放感と同時にほっとすると。わたしは悪い女かしらって、負い目と両方持ってたりするんですが、そこで「安堵感」。その安堵感がまた負い目を作ってる。

 それから「無感覚」。これは非常に大事なことです。「空腹感」。やたらおなかがすきます。それからストレスですね。これでやたらお菓子食べたりしますね。胸が苦しい。心臓がやっぱりストレスを受けてるんだと思いますね。「のどが硬くなった」ような感じをする。だからよくせきをします。死別悲嘆の人はせきをする。お葬式なんか行ってね、よく遺族がせきをしたりするのはその一つの症状かもしれません。

 「音に敏感」になる。夜中に何かさーっと音がしたりすると、お父さん帰ってきたのかしらとかね。

 それから「呼吸が弱く」、息苦しい。腹筋に力が入らないから、腹式呼吸ができなくなるんですよ。緊張しちゃってますからね。そのために呼吸が浅くなるんです。

 「力が入らない」。さっきの疲労感がありますからね。

 「元気が出ない」。やる気が出てこないっていうことですよ。目的意識を持てないんです。だから買い物なんかに行っても何となくふらふらしだした感じがするんです。自分が自分でないような、何となくふわふわしてて、ちょっと集中力がないっていうことです。

 「のどが渇く」。のどっていうのはすごくストレスを受けるらしいんです。

 月日がたつと、今度は悲しみから「亡くなった人を慕う」ような感情になってくるという意味です。ここまで来ると、もう悲嘆がかなり薄れたというふうに言うんです。

 こういうようなことは、死別悲嘆の症状として言われるので、これだけ知ってるだけでも、家族や友達にこういうことが起こったときにサポートできる、目線ができますから。ですから仏教でいう大事なことは、慈悲ということ言うでしょ。他人の気持ちに対する思いやりのことが慈です。悲っていうのは他人の痛みに共感する力です。その慈悲っていうのは死別悲嘆の人にとってはとっても大事なんです。相手が分かって、見ていてくれる。黙って見ていてくれて、必要なときに必要なことと言ってくれるけど、それ以上のことは言わない。ですから慈悲の実践っていうのはこういうときにはすごく重要なことですね。

 一番大事なことは、死者はどこにいるのかっていう問題です。死者の居場所というものをちゃんと作ること。柏木哲夫、大阪の淀川キリスト教病院ホスピスを作った人です。その人と対談したとき、アメリカで日本人の女性がアメリカ人の男性と結婚した人。そういう日本人社会で付き合っていて、配偶者などに死なれた後の態度にどうもいくつかの違いがあると。そのキーワードは「写真」であるということに気が付いた。亡き人の写真を飾ってる人と飾っていない人がいる。日本人は飾る文化、皆さんご自宅にあるでしょ。あの文化があるから日本人は亡くなった人の写真をどっかに飾り窓に置いてあったり、いろんな形でやってますよ。ところが、アメリカ人の文化に合わせて、亡くなった人の写真を置かない日本人女性がいる。写真を飾ってる人にはうつが少ない。写真を飾らない人のほうがうつが多いという結論が出ている、ということを柏木先生が教えてくれたのです。死者の居場所は心でしかないでしょ。だから家内はいつもわたしの背広の内ポケットにいますって写真出す人もいるし、お墓にいるとも言うし、交通事故で亡くなったら、亡くなった場所。

 その死者の居場所っていうことが悲しみの悲嘆の上で非常に大事なんです。あなたが思い出してくれたらいつでもあなたのそばにいますっていうのは死者の居場所を言ってるんです。癒やしの中でとても重要な死者の居場所を持つこと。

死別体験者の対処行動(A・デーケンより)

 [1]「亡くなった人について話すことを避ける」。これは、かなり続きます。聞いてほしい、話したい。特に家族は話したい。ところが他人から聞かれると自分の気持ちが整理ついてないから、触れてほしくない。気にはしてほしいけど、具体的に聞いてほしくないっていう部分があるんですよ。

 [2]「仕事や学業にまい進する。」 つまり気を紛らわすんですよ。だから危ないんです。

 [3]「現実を忘れる手段として薬物、飲酒、飲食。やたら食べる人。」 女性はこれが結構あるんですよ。ストレスがたまると食べる人。

 [4]「死亡の細部にこだわる。」 だから人には話したくないんだけど、もし聞いてくれたときに、あの時こういうふうで、こうだったから、それでもって救急車が遅れてとかね、その細かいことにこだわるんです、当事者は。「親切にお亡くなりになったそうで大変でしたね」って、こう親切に声をかけてくれると細かいこと言い出すんですよ。すると相手嫌になっちゃうね。細部にこだわる。自分の家族の死別の時に起こるんですよ。やたら細かいことにこだわっちゃうんです。

 [5]「家を売るとか引っ越す、あるいは新たな関係に加わるなどといった重大な決断を下す」。これが危ないんですよ。家族に死なれたときに、思い切っちまうんですよ。だからローンを組むようなことはとにかく避けなさい、死別悲嘆のときとがんになったとき。とにかくがん告知が必要だってことは、事業をやってる人なんかにローンを組むな、借金するなってことを言うためにがん告知は必要なんです。ところが人間、開き直ってしまうんですよ、家族に死なれたりすると。そのとき非常に危ない。

 [6]「罪責感ないしはその救済のためのはけ口として祈りを志す」、というのは霊感商法に引っ掛かるんです。

 [7]「孤独と絶望からの救いのために他の人々との接触を求める」。だから変な人のところへ友達ができちゃったり、変な彼氏や彼女ができちゃったりということが起こったりするんです。
 このような対処行動は慎重に用いられ、極端でなければ適応的なものであるが、過剰に用いられると、混乱と病的悲嘆に陥ることがある。

死別体験者の情緒的症状

 キューブラー・ロスというアメリカの女性の心理学者が、がん患者数百人見取ったノートから発見したのが死を受け入れる「五段階」というものを発表したのは、今から四十年近く前。これが近代ホスピスができた後、発表されたんで、がんの死に直面した人や、こういう問題を臨床的に把握することが可能になったんです。

 (一)「否認」というのは、うそだってことです。事実を認めたくないっていう意味なんですよ。

 (二)「悲しみと抑うつ感」。うつのことですね。愛する人を失って悲しむことは誰でも予想できるし、おそらく抑圧的になることも予想できると。典型的な悲しみと臨床的うつ病とを区別するのは難しい。心底悲しいのと、うつになってるのは、そこのところはあいまいになるから判断が難しいんです。根強い死への願望。遺族の中に自殺願望が出てくるとそういうことです。

 (三)「罪責感と怒り」。これは死別体験者が亡くなった人に対して矛盾した関係を持っていた。つまりトラブルがあったんです。夫婦が離婚しようとか、亭主に女ができてとか、遺産相続でどうだとかいうような問題があって、そういう中で死別した。配偶者と死別したとかという。罪意識とは、日本人では負い目と言いますけれども。この負い目は大きな問題になるんです。ですから負い目の少ない死に方をすることが非常に大事です。だから日常の努力が非常に大事なんです。夫婦の関係とか看護とかですね。そこに負い目があると後々うつなどの病気のもとになる。

 (四)「安堵の感情」。やれやれと。特に長患いした人の場合、この問題があります。

 (五)「亡くなった人の思いに取り付かれる」。町の中で見知らぬ人を亡くなった人と見間違える。これは必ず起こると言います。それからまた夢枕とかそういうこと起こる。これは異常ではないってことです。ごく普通の悲嘆の症状。

死別による悲嘆プロセス四つの課題

 [1]「喪失」。対象喪失と言います。「対象喪失」という本があります。中央公論新書。対象というのは愛の対象。妻とか夫とか。もう一つ、自分の体を失う。例えばがんで乳房を取る、ぼうこうを取る、抗がん剤で髪の毛が抜ける、これみんな対象喪失です。ペットに死なれるのも対象喪失です。それから受験で失敗するのも。失恋も愛の対象喪失です。つまり失った経験はすべて対象喪失と言います。その世界中の研究を素人に分かりやすいようにした新書なんです。小此木啓吾、慶応大学の先生。日本人で最初に対象喪失を研究した人です。お医者さん、看護婦さん、医療に関係する人、それから坊さん、葬儀屋さん、そういう人たちはぜひ読んでほしい本なんです。

 この喪失っていうのは対象喪失のことを言ってます。喪失の現実を否定したい気持ちになる。喪失の現実を受け入れるには時間が必要だ。葬儀のような儀式は遺族が喪失の現実を徐々に受け入れる助けになる。儀礼というのはすごく大事なんです。ごく原則的な儀礼は必要です。「おくりびと」、まさに死者をどのように大事にしてあの世に送っていくかという一つの場面ですけども、それをとおして遺族が安心して納得し、喪失を受け入れるという問題なんです。

 [2]「悲嘆の悲しみを乗り切ること」。そこで、例えば、涙を見してはいけないとかなんとかっていうけど、泣くときには泣かなきゃいけない。

 (避けたい言葉)「すべて忘れてしまいなさい。」「いずれにしても、お子さんは異常だったんですねえ。」「お子さんは、天使になって天国にいるから大丈夫です。」「早く元気になってください。」「またお子さんができますよ。」「頑張ってください。」「あなたが助かって良かった。」「くよくよしないしないで。」「これで良かったんです。」これらは絶対言ってほしくない言葉。忘れないってことは、とても大事な言葉です。

 (励みになる言葉)「誰か必要な人を呼びましょうか。」「私にできることはありませんか。」「ほんとに大変でしたね。」「お気の毒なことでした。」こういう言葉が、すごく遺族を励まし、安心させてくれるということなのです。

 [3]「死者のいなくなった環境に適応すること」。親せきの女性が「大丈夫よ、一人暮らしって、すぐ慣れるから。一人暮らしってこんなにいいものか、っていう時が来るから、それまで辛抱しなさい」。ほんとにそうでした。ですけどね、この死者のいなくなった環境に適応することね、慣れてくると、罪意識持つんですよ。でも、結局、一生懸命生きてきてやることは、家内に対する供養でもあるんですね。

 [4]「死者に向けていた感情を他に向け直し、新たな生活へ踏み出すこと」。自分が自分の役割をすることは、亡くなった人に対する恩返し。こういう視点を持つことが、このスピリチュアル・ケア、霊的介護っていうんですけども、重要なことです。だから、役割を果たすってことです。孫たちのためとか子どもたちのためとか、その「ため」というのは、非常に死別を癒す。

死別に関し、人々が信じやすい(間違った)神話

 [1]「時間がすべて癒やす」。それはあり得ない。時間によって、立ち直っていきます。けれど、一生涯覚えていたい。悲しみはずっと続くんです、記念日症候群といって、命日、結婚記念日、相手の誕生日、それから、夫婦で旅行した日とかね、そういう日に落ち込むんです。とても大事なこと。落ち込んでいいんです。そういうときにね、花一つ上げるとか、好きだった甘いもの、供えてみるとか。そういうこと、すごく大事なんです、時間がすべてを癒やすというのは、間違った神話です。一生覚えているのが一番大事なこと。

 [2]「悲嘆は、半年から一年くらい続くものである」っていうことはない。一生続くんです。形は変わるんですよ、悲しみの形が変わる。

 [3]「喪失について考えないようにするほど、苦しみは少ない」。それはあり得ない。それは、考え、賢くなんなきゃいけないんです。自問自答してる。だけどね、悲しいからといってね、若い人はほとんど聞く耳持ってないからね。本当に体験者は分かってくれるから、言葉は少なくても、こちらが、満足するんです。人に分かってもらおうなんて、思わん方がいいみたいですね。

 [4]「喪失に触れない方が、死別体験者を助ける」などということはない。やっぱり、聞いてほしいんです。そうやってだんだん賢くなっていくんだから、聞いてほしいんです。

 [5]「怒りと罪責感は、異常な悲嘆反応の中でのみ生じる」。つまり、怒りや罪意識、負い目は異常だという言うんですが、それは間違ってる。罪意識や負い目、怒りというのは、普通のことなんです。
 重要な仏教的視点では、がんの病名、告知を受けた病人とか、死別したとかは、仏教の場合は「如実知見」とう言葉がキーワードです。「事実を事実のままに受け入れる力」ということです。「如実」ってのは「事実のまま」。事実を見るしかない。これが非常に重要な問題解決方法です。

 そして同時に、仏教の大事なところは「知性」。「知」ということは、非常に大事です。知を支えるのは愛です。愛や信頼が無いと、知性は維持できない。トラブルがあったら、知性は維持できないんです。知恵のもとは情報です。だから、どういう病気で、どういう治療法があって、がんならがんについて。だから、患者は自分で一生懸命、家族に内緒で医学事典なんて調べるでしょ。ああいうのって、知性を維持するんですよ、自立するんです。こういう問題に対応する仏教の大事な点は、「如実知見」と「知」ってことです。知を支えるものに「愛」があるっていうことね。

 [6]「泣いたり悲嘆について話すのは、感情を表出せずに、けして悲嘆を口にしたりしない人よりも、ずうっと苦しい時を過ごしている」。つまり、黙っている人よりも、大げさに泣いたり、騒ぐ人の方が苦しいと思うのは間違いだ。黙ってる人はもっと苦しいかもしれない。

 [7]「悲嘆は家族をお互いに親密にする」。それはうそですね。家族、ばらばらになるかもしれないし、お互いにしゃべらない、しゃべりたくない。特に何かあった場合にはね。そういう意味で、必ずしも悲しみが家族を結束させるとは限らない。

 [8]「子どもたちは幼過ぎるので、死を理解できないから、あんまり死を説明する必要がない」っていうのは、大きな間違いだ。ゴーラーというイギリス人の論文です。三百五十人の遺族を五年間調べた報告書の中にですね、幼稚園児から小学校低学年の幼児に対して。

 「おばあちゃんは眠ったのよ」と言う人は、教会にほとんど行かない人に多い。「おばあちゃんは天国へ行ったのよ」って言うのは、教会にやや行く人に多い。「おばあちゃんは死んだのよ」って言うのは、よく行く人に多い。

 本当に宗教的な人は、幼い子どもに「おばあちゃん、死んだのよ」という事実を言う。私たちは、事実を受け入れるしかないじゃないですか、命については。自分の顔だって、髪の色だって、背丈だって、事実でしょ。説明つかないんです。あたしはおかめだなんたってね、説明つかないでやってる、そうなんだから。背が低かろうと高かろうと。死ぬのも同じです。自分じゃ選べない。それをはっきりと幼い子どもに言えるのが、やっぱりお説教を聞いてるから、それが言えるってことを言ってる、ここでは。そうでないと、人間は逃げるんです。比喩によって逃げようとする。

 [9]「愛する人の遺体を見ないで済ます方がいい」っていうのは違っている。はっきり見なさい。残酷なご遺体は、幼い人やなんかに見せたらいけませんが。普通のご遺体は見るべき、見なきゃ駄目です。そうしないと、人間は納得しないから。百聞は一見に如かず。別れをちゃんとしなきゃいけない。別れをするって、とても大事なことです。

 [10]「薬物やアルコールは、悲嘆の痛みを緩和する」。それはうそだ。それはちょっとね、忘れようとする逃げだけです。逃げはかえってマイナスになる。

 [11]「悲嘆し過ぎると、健全な精神を失う」。そんなことはない。悲嘆というのは健康な精神の一つの表現だ、って言ってるんです。

 [12]「悲嘆が前もって予想される人は楽だ」。これ、先取り悲嘆といいます。先取りした方が楽だっていう。そんなことはない。誰だっておんなじだ。悲しみは同じなんです。死別の後の悲嘆も人それぞれであって、どっちがいいとかなんとかっていうことはない。

 [13]「死別を体験している家族は、あまりにも気が動転しているので、病理解剖や臓器移植の求めに応じて話し合うことはできない」。そんなことはありません。日本で臓器提供第一号は、四国の五十四歳の主婦です。真言宗の信者さんですね、お母さんに死んでほしくないっていう気持ちと、如実知見して事実を受け入れていったときに、お母さんは臓器提供という生き方をしたかった、っていうのと両立するんです。「にもかかわらず」、悲しみと臓器提供は成り立つっていうのは、そういうふうに人間を見ないと、人間ていうのは見えてこない、ということなんですね。

 [14]「怒りは悲嘆の正常な情緒反応ではなくて、その表出を奨励すべきではない」。それは間違っている。怒り、運命に対する怒り。なぜ、あの時......。とても怒りは大事だ。特に死別のときのね。それはそれで大事です。

 [15]「愛する人の喪失を、迅速かつ短時間に受容することは、その人が成熟して、強い意志を持って、悲嘆のプロセスを、うまくやりこなしていることの表れである」。そんなことはない。喪失を早く卒業するっていうのは、けして健康とはいえないっていうことです。表向きは早く元気になってるけど、じゃ、心の中もほんとに怒りが無くなってるかっていうと、そんなことはないし。隠してるかもしれない。

 (ゆがんだ悲しみ) ーバークスワイスー あつれきの高い夫婦っていうのは、仲の悪い夫婦です。あつれきの低い夫婦っていうのは、仲のいい夫婦です。で、死別直後、仲の悪い夫婦は、結構外出するんです。つまりね、外出度が高いんですね、パーセントが高い。仲のいい夫婦は低い、ってことは、外出しなくなる。つまり、仲の悪かった夫婦は、相手が死ぬとショックが少ないんです。仲のいい夫婦の方がショックは大きいんです、っていうことを言ってるんです。だから、死別悲嘆が激しくていいんです。激しいのは当たり前。死別悲嘆が激しくないのは、賢いよと思ったら、それは案外ね、トラブルがあって、ということがある。で、四~五年後を見ると、うつ状態を見ると、あつれきの高い夫婦・仲の悪かった夫婦は、死別直後は結構平気だったけど、四~五年たつと、うつが高いんです。で、仲のいい夫婦はショックが大きい。けれど、四~五年たつと、うつが低いんです。つまり、回復してる。つまり、仲のいいほど、ショックが多くて当たり前だっていうことです。ショックの少ない人の方がいい、ってことじゃないっていうことです。死別悲嘆っていうのは、ショックが大きくて当たり前っていうことです。

 [16]「亡くなった夫とコミュニケーションを続ける妻は、病理的規制で処理している」。つまり、しゃべるんですよ、写真に向かって。それが健康なんです。亡くなった人としゃべってるのは、それは、健康であるってことを言ってるんです。

 [17]「自殺者の遺族と話す際には、自殺について話題を持ち出してはならない」。これはね、不必要に持ち出してはいけない。けれど、相手に必要性があるときは、語るべきだっていうことです。

遺族心理と葬儀

 これは石井千賀子さんっていう人がまとめてくれたものですが、

一、葬儀が遺族心理に与える影響
 「[1]家族が末期になったので、家族で葬儀について話し合っていたので、心の準備ができた。[2]幼児突然死で子どもを亡くしたアメリカ人の妻は、親族が葬儀や中陰を丁寧にしてくれたことを通して、死の受容ができた。」

二、遺族心理が葬儀に与える影響
 「[3]母の突然死に、夫が妻を責めた。多くの日本人は、おまえに任しておいたのにってね、おまえに看護させて、自分は逃げて無責任です。それを、夫に責められて、悲しむことができなかった。これ、結構あるんですって。[4]長患いでの死に、家族はホッとした。やれやれと思ったけど、孫がとても悲しんだので、家族は本来の悲しみに戻った。」なかなかいい話。

三、遺族の家族関係が葬儀に与える影響
 「[5]家出をし、勝手に結婚した画家が事故死をした。お葬式の時に、奥さんが、その画家の友人に弔辞を頼んだんです。そうしたら、夫の父親が、その弔辞を拒否したんです。家出をして勝手に結婚した息子を、認めないってわけです。それで、妻の悲嘆はゆがんでしまった」という事例。「[6]父に反対して職業選択して、キリスト教になっている。ところが、年をとった父親が病気になって、仏式葬儀を希望した。息子と父親は和解して、お父さんのお葬式はちゃんと仏式でやりますと言って、とてもお父さんは安心している」、という事例。

四、家族の信念が葬儀に与える影響
 「[7]痴呆の母を長いこと看護した。福祉からお世話になったから、福祉への感謝として献体をして、お葬式が終わった後、妻の慰労のために休養旅行をした」。それはとても大事なことですね。それから「[8]中年で夫ががんで死んだ。子どもが無い。夫の家族と交渉が無くて、妻は、この際、家族を確認するために仏式葬儀をやった」。たくさん家族に来てもらって、家族の一員になったという事例。

五、地域の人々と葬儀
 「[9]地域ケアサポートの人たちが看護を手伝ってくれた。その人たちが不仲の子どもたちとの調整をしてくれた。それで、子どもは愛を回復して、親の葬儀に戻ってきてうまくいった」という事例。葬儀にとって一番大事なことは、人間関係です。

葬儀の意義

 お葬式とは何か...。これは私が考えたものです。

一、遺族の状況
 (一)「不条理な事実を受け入れられない混乱」。なぜだ、って。
 (二)「感情の不安定」。孤独とか空虚とか、人間関係とか。
 (三)「愛の確認欲求」。死んだ人のことを認めてほしい。特に、死んだ人や、死んだ人の配偶者であるおばあちゃんを、子どもたちが排除するようなときは、非常に良くないです。
 (四)「負い目とか恐れ」。こういうものも非常に良くない。
 (五)「欲望」。息を引き取る前から、遺産相続で争っている。そういうのは非常に良くない。

二、葬儀の機能
 そうして、その上でお葬式を考えると、

 (一)儀礼の機能

 [1]「宗教儀礼」。法名をもらったりとかお経本とか、これが安心を形成する。つまり、私たちは無条件に生まれてきて、無条件に死んでいくんです。自分の都合でない。そこのところを確認するのが宗教儀礼。神とか仏の重要性です。
 [2]「儀礼に参加することで、心の転換を促す。」参加とは、例えば、喪章を付ける、喪服を着るのも儀礼参加ですね。お焼香するのも、お悔やみを申し上げる、お香典を包んでいく、こういうの、みんな儀礼への参加です。
 [3]「各人に儀礼的役割を与える」ことで、死者への愛を行動化させる。「お母さん、喪主なんだから、座っててあいさつしなきゃ駄目よ」とかね、「子どもたち、ちゃんとしてね。皆さんみえたら、ちゃんとあいさつしなさい」とか、いろいろな形で役割を持たせること。それは死者との関係を、良くするために非常に大事なことなんです。

 (二)慰めの機能

 [1]「無条件に泣いてくれること。」来てくれる人や親族も、損得抜きに、今までの、遺産相続なんか抜きに泣いてくれるとか。[2]「慰めによる感情の沈静。」 [3]お悔やみの言葉によって、ご愁傷さまですとか、そういうふうに、きちっと定型句を言うことが大事です。決まり切った言葉でいいんです。そこが大事。

 (三)祈りの機能

 [1]「祈りの方向を明示する」。あしたお葬式が穏やかにできますように、とか、特に、お坊さんはそれを言うことが大事なんです。つまり、葬式の間は遺産相続の争いをやめとけ、って意味なんですよ。そういうような機能がある。
 [2]「祈りの行動を習慣化させる」。お仏壇に線香上げるとか、そういうのを身に付けさせることが、とても大事。
 [3]「不安定要因を、祈りによって自覚化させる」。トラブルがあったりするのをね、お葬式が安らかに行われますように、という言葉によって、それを後回しにしようっていうふうに、意識化させること。

(四)意味づけの機能

 [1]「無常」、人はお互いに死ぬべきもの。理屈じゃなくて、それは生命の宿命ですから。それを納得する機能がある。
 それから[2]「神、仏の命に包まれていることの意味付け。」
 [3]「神や仏にお任せする。」こういう機能がある。

死者の祭りと安らぎ

 一、「あなたのことは忘れない」。死者の存在の尊厳は無視されない。

 二、「人間的損得を超えた、無条件の存在」。それが、神とか仏とか、自然です。そういうふうに扱うというのは、法名をもらうとか、戒名をもらうとか、儀礼だとわかっていうのは、そういう人間を超えた自然の摂理、神の命、仏の世界の者として扱われることです。

 三、「死者を祭ることは、怨念を超えて命の正義に帰らせること」。それは、恐怖を超えること。そういう機能がある。

 四、「悟りで飾ること」。お釈迦様は「亡き人への供養は、遠き人に餉するがごとし」と言ってる。餉っていうのは、保存食とかお弁当っていう意味です。向こうの人に、わたしたち、海外に行ってる家族に、名産品送ったりするでしょ。あれと同じように、あの世にいる人に、安らぎというお弁当を送ろうと言ってるんです。あの世の人に対して供養できるのは、安らぎしかないと、お釈迦さんは言っているのですね。

 こういうふうにしてわれわれは、人生の意味を、良かったと言って、語るようにする。それが「死別悲嘆が仏教の人生修行の場である」といえる理由でございます。

= 終わり =

このページの先頭へ