「死」は自我超越(自我相対化)の場
ホスピスの問題。死の臨床研究会に参加し、お医者さん・看護婦さん・牧師さんと勉強会を始めて25年ぐらい経ちますが、その運動の中で、いろんなことを発見しました。その一つの発見が、死は自我超越の場ということでありまして、ある大学の学生に「死」という一文字で作文を書いてもらうということをやり、七百人分の作文がたまったときに分類しました。
(1)そこで、死を考え感じたきっかけを、直接的体験と間接的体験というふうに独断で分類しました。
直接的体験というのは、人格が変わるほどショックを受けたと見られるもの。(A)は、自分の接近したニアレス体験。例えば、心臓の手術をした。あるいは、自動車にはねられた。(B)家族との死別。若い人でも結構居るんです。(C)それから、知人、友人。本当に親しい人との死別。(D)自己の生存の危機体験。本人は覚えてないけども、あんた生きてるの不思議だいう人、結構居るんです。わたしの授業を聞いて、うちへ帰って、「きょう、授業でこういう話を聞いた」っていったら、お母さんが「本当は、あんたはこの世に居ない人だ。医者が生んではいけないといったけど、どうしても一人だけほしい、やっとあなただけ妊娠することができた。」
それから、間接的体験と名前をつけましたが、人格が変わるほどのショックとは思えないもの。例えば、バイクに乗ってるから時々事故を見る、それからスポーツや恋のときに死の不安を感じる。人間、幸せなときに死ぬ不安を感じるんです。生の意味の喪失っていうのは、五月病のようなものですね。孤独、いじめられたとき。第三者の自殺というのは、有名人が自殺すると、後追い自殺する人が出てくるでしょう? 文学や何かで、あるいは、生存の必要を感じなくなること。宗教団体で教育を受ける。神の国がすぐそばにあるといういい方をする。そうすると、すっと死ねる、あの世に行けるような錯覚になっていくというのもあります。ペットの死。手相見に「あなた、長生きしない」っていわれたとか、結構、あるんです。
(2)問題は次なんです。死というのをどう説明するか、間接的体験の人は、いろんなこと書くんです。死ぬのはこわくないとか、おれは悪いことをしてるから地獄へ行くだろうとか、いろんなこというんですが、全部観念です。
ところが、直接的体験の人は、ほとんど書かないんです。死ぬって何だって説明しない。驚いたのは、「死とはあっけないものだ」と書いた人が居るんです。仏教でいうと、これは「如実知見」といいます。事実を事実のままに見る力です。われわれは、なかなか事実は事実のままに見られないんです。観念から見る。自分のものさし、コンプレックス、習慣、そういうもので見てるわけでしょう? だから、みんな、空想でしか、もの書けないんです、死ぬって。ところが、家族に死なれたり、自分が死にそこなった人は、死ぬっていうのは、説明なんかできないっていうことです。空想でも観念でも説明できない事実だ。例えば、小さい妹が、かぜの菌が頭が入って、一週間ぐらいで、死んでしまったというような体験を持っている人なんかは、死とはどうしようもないということになってしまう。
間接的体験の人は、われわれの既成のものさし、概念でものごとを説明しようとする。ところが、大事な人に死なれた人は、そんな人間のご都合のものさしで説明できない、事実そのものということを、体験で知っちゃった。事実を事実のままに純粋に見られる。ということは、われわれの概念が壊れるということなんです。今まで考えていたものさしが壊れる体験です。これが、この調査の大変な発見なんです。
「無常を観ずる時、吾我の心生ぜず」と。道元禅師が学道用心集の最初の行に書いてあるんです。人間が無常を知るというのは人が死ぬ、それにぶつかったら、エゴが壊れるっていうことです。仏教がなぜいつでも無常、人は死ぬっていうことを最初にいうのかというと、それによって、わたしたちは概念や観念が壊れて、純粋になるからです。これが、重要な点です。
(3)そして、死の前をどう生きるかということですが、間接的体験の人は、「人間はいつ死ぬか分からない、だから、あれをしたい、これをしたい」と書くんです。ところが、直接的体験の人は、「人間はいつ死ぬか分からない」って、同じスタイルで書くんです。ところが、あとが違うんです。だから、部活の友人を大事にしたい、家族を大事にしたい、恋人を大事にしたい、こういうふうになってくる。つまり、自己中になるか、自分を支えてくれている家族とか、恋人とか、友人とかになるかの違いなんです。ほんのわずかな違いのようだけど、大変な違いです。自分がおかげをこうむっている周りの人を中心に見るのか、自分を中心に見るかの違い。人間は死に直面したときに、自我が壊れると道元禅師がいっているのです。エゴが壊れたら、何が見えるか。仏教というのは、そういうようなことを通して、人間がどうやってエゴから開放されていくのか。本当に自由な知恵になっていくのかということが、理屈で勉強することよりも、人生の事実の中で学ぶことができるわけです。
また、わたしは、ここ20年ぐらい、日本にもデスエデュケーションを広げようという運動をやっているんだけど、なかなか広がらないんです。死から学ぶ教育といったらいいでしょうかね。
別れの手紙。これは、あなたが死ぬ立場になった。ついては、病名を自分で決めなさい。そして余命、あと三カ月とか決めます。病名は、多くの場合、ガンとか白血病とか、そういうのを自分で決めます。それで、大切な人を一人だけ選んで、別れの手紙を書きましょうと、こういう授業を、もう三千人以上やっています。
ある女子学生、お母さんに手紙を書くんです。「お母さん、お医者さんに呼ばれて、わたしの病気はこうこう、だけど、わたしは自分が死ぬのは怖くないから、心配しないでほしい。だけど、わたしがこの年で、学校まで入れてもらいながら、何もしないで先に死ななきゃならないということが、いいことだとはどうしても思えない。なぜならば、自分は親を見送っていかなきゃならない立場なのに、やってないし、第一、わたしはやりたいことがあった」といって、それからやりたいことを延々と書くんです、わら半紙一枚で、横に罫が引いてある。これに、十何行って。恋愛から始まって、部活からテニスのことやら、もうあらゆることを延々と書いていくんです。書いていくうちに、でも、今となって考えてみたら、こういうことは大したことないような気がします。それはなぜかというと、だって、自分で、白血病、余命三カ月なんて書いてみて、それでもって、あれもしたい、これもしたい、恋愛から子育てからずうっと書いていくうちに、無意味だってことが分かったわけです。そうすると、残り時間三カ月しかなかったら、何をすべきかっていうのが、書いていくうちに分かってくるわけです。こういうことはもうどうでもいいことだということに変わっていく。自分で発見していく。
五つの自我
こういう研究をしているときに、わたしが直腸から出血をしまして、気づいて、五つの自我という名前をつけました。人間は死に直面したとき、五つの側面で混乱する。ところが、その混乱、症状の分野には、必ず解消の分野があるというのが、わたしの発見です。(1)まず最初は、生理的自我と名前をつけました。体から来る自我の混乱という意味です。苦痛への恐怖、「ガンだ」なんていわれると、きっと苦しむだろうと。ところが、苦痛に対しては、ペインクリニック、鎮痛医療というものがあって、有名なのは、このすぐそばに順天堂医院ってあるでしょう? 外来で鎮痛、痛み外来というのをやっております。日本は、ずうっとWHOの勧告を無視して、麻酔科医を育ててこなかった。鎮痛を無視してきた。日本人は、鎮痛、モルヒネをやると人間はだめになる、そういう観念からいっている。そうじゃなくて、クオリティ・オブ・ライフ。痛みをとめなきゃいけないというのが世界の潮流で、ようやく厚生労働省が腰を上げ始めたんです。鎮痛医療というものは、あるということを知るだけで、恐怖からかなり開放されます。この苦痛への恐怖に対して解消の分野はあるということです。知識や情報を知ったら、平常心を取り戻す、落ち着くんです。
仏教の大事な点は、智慧の宗教ですから、智慧を取り戻す。智慧を取り戻すためには、平常心でなきゃいけない。さらに恐怖心を解消するためには、愛が必要ですね。それによって、知性、智慧というものが自立する。
次は身体機能を失う恐怖。胃をとられる、あるいは直腸がなくなる、抗ガン剤で髪の毛が抜ける恐怖。それに対し解消の分野は目的意識です。今、自分はそれに対応して手術しなきゃだめなんだという目的意識を持てば、われわれは、耐えられるんです。自分のメンツにこだわっている人は、手遅れになるんです。
もう一つ大事なことは、喪失体験に照らす。家族に死なれたり、試験に失敗したり、失恋をしたり、退職したことがあるとか、という失う体験のある人は耐えられる。一度も挫折したことがない人間が一番だめだっていうのは、慶応大学の小此木啓吾先生の有名な『対象喪失』っていう本に出てくるんですね。だから、高校受験も、大学受験も、就職も、とんとん拍子で、一度も挫折したことがない人が、ある日突然、「奥さん、ガンです」なんていわれたら、ご主人、病院に来なくなっちゃうなんていうのは、出てくるねえ、テレビのサスペンスに。あれは、挫折経験のない人が、対応策ないんです、頭の中に。
その次は、体に痛みやだるさが出てくると、もう死ぬんじゃないかって、ほとんどの方がそういう体験、一回や二回、持っていると思います。ところが、病名がはっきりすると、けろっとするんですよね。正しい知識を持つと、知恵を回復するってことです。だから、知性の回復。反対に、知性を回復できない場合、どうかというと、慢性病。あっちの医者と、こっちの医者がいうことが違う。いくら医者のいうとおりに薬を飲んでも治らないというと、どういうとこへ出るかというと、民間医学、霊感商法。あいまいな病気のときに、人は迷うんです。だから、知性の維持ってことが、非常に大事なんです。知性の維持は、家族の協力や、自分の考える力や、情報によって維持できます。
(2)社会的自我、仕事と経済と家族の問題です。仕事を失う恐怖、経済を失う恐怖。
そこで、人生の意味の回復、つまりゼロからの発想というのは、おかげさまということです。おかげさまと思ったら、そこで百万使うこと、可能なんですよ。ですから、ゼロからの発想、おかげさまがないと、これはとても対応できない。
それから、家族。家族は孤独の問題。患者は、自分の気持ちが混乱してて、言葉にならない。患者自身が苦しんでるのに、全然それを推測してくれないようなことでは、患者は苦しんで死ぬしかないんです。娘も学校で部活やらないで、すぐ帰ってきて手伝うとか、そういうことをしてくれると、患者はすごく安心する。その役割によって、相手のことを慮んばかって、問題を解消していけます。
借金、引っ越し、裁判、人事異動。この四つは、死ぬに死ねないそうです。だから、死にそうな患者でこの四つがあったら、すぐに解決するか、先送りにしなさい。そうしないと、患者が自分の病気に純粋になれないと医者はいうんです。
在宅医療をすすめる会というのがあって、市民法話で話をしてくれというので行きまして、話をして、終わりましたら、反省会をやるっていうんですよ。乾杯が終わりましたら、相当な年配の老人が立ち上がって、わたしは、今年八十になりますけども、家内が六年間寝たきりで、わたしが看護して数年前に見送りました。この家内が、息を引き取る三時間ほど前に突然、「あんた、愛してる?」っていったんですって。「それはね、ほれた、はれたじゃなくて、結婚して良かったか? という意味じゃないんでしょうか」っていったら、女性たちが「そうだ、そうだ」。「ところで、おじさん、どうしたのよ」。「いや、僕はもう本当に困って、それで、小一時間考えた」って。それでやっと腹が決まって、家内の枕元へ行って、「わし、おまえと一緒になれて良かったよ」っていったら、もう声が出ませんでした。口をもぐもぐするのが精いっぱいで、それから一時間ちょっとして息を引き取りましたと。ある女性が、「おじさん、間に合って良かったね」。
シェイクスピアがいうとおり、終わりよければすべて良し。人生の苦労もみんな、良かったになるわけですよ。「人生ありがとう、良かった」といって死ねたら、あの世も良かったになるんです。ありがとうといって死ねること、これが最大の人生修行でしょうね。
「お墓の前で泣かないでください、そこにわたしは居ませんって。」ということは、あなたが呼んでくれたら、いつでもそこに居ますよ。すばらしい詩なんですよ。「千の風になって大空を吹き渡っています」っていうのは。
わたしたちは、死後良かったといえるようにすること、それが残されたものにとっても、死にゆくものにとっても、人生の清算、けじめのつけかた。それがいえないで死んだら、どうなるか知ってますか。化けて出るんです。だから化けて出ないようにね。が、愛する家族が死んだばっかりのときは、おばけでも会いたいですよ。
(3)生命的自我というのは、自分が断絶する恐怖です。その断絶する恐怖が、死後とか、それから未知への恐怖という形と連動するんです。それで、地獄観念なんかをつくります。断絶という言葉がキーワードです。断絶感を超えるのは、連続感です。だから、あの世に連続感があったら、わたしたちは、死ぬのは怖くなくなるんです。その代表が、ホスピス関係の医者のいうのが、倶会一処という墓。関西は多いんですけどね。倶に一処で会いましょう。一処というのは、阿弥陀様のハスのうてな。つまり、阿弥陀様のお浄土のところで待ってるからねって。時間の約束はないけれどということなんです。ということは、死後と悟りがだぶってるんです。自分の死んだ後と阿弥陀様の悟りと愛する亡き人の居場所とが、だぶっているところが魅力なんです。ヨーロッパやアメリカの人たちも、ガン関係の人も、日本にはこういう墓があるって、知ってるんです。すばらしいんです。自分が死んだ後は、連続感。しかも、そこにはともにですから、親父もおふくろも友達も居る。特に連続感を象徴する非常に大事なお墓として有名なんです。
死の恐怖とは断絶感の恐怖。それを乗り越えるのは、連続感を回復すること。だから、医者にいわせると、墓参りしたら、連続感が回復する。懐かしい人があの世に居たら、あの世は怖くないんです。ところが、それを忘れてるから断絶感になって、死ぬというと恐怖になるんですね。ですから、ハードルをずうっと下げる。連続感があったら、ハードルが下がる。だから、わたしたちは墓参りすると。末期患者が墓参りすると、人間が変わるというんです。
(4)哲学的自我というのは、人は死ぬという原理原則、ところが、みんな、人ごとです。人ごとのことを、三人称の死というんです。家族の死は、二人称の死、自分の死は、一人称の死というんです。原理は人ごと。ところが、その原理が突然自分のことになる。あるお寺にお説教に行ったら、住職が、膀胱ガンでとっちゃった。「最初のときの気持ちはどうですか」って。「ああ、おれの人生、終わったと思ったね」というんですよ。今はストーマというビニール袋つけていますけどね。それが自分のことになると、物すごいショックです。
わたしたちは、自分の命の生まれてくるのも、生きてるのも、死ぬのも、不条理。人間のご都合に関係ない。それが仏教の基本的な視点で、仏教もキリスト教も、そういうのを神の御心、ご縁と言うんです。だって、皆さん、自分で計算して、自分で計画どおりに生まれてきた人居たら、手を挙げてほしい。気がついたら人間だったんですよ。あるものは、生まれてきて気がついたら、ゴキブリだったんですよ。誰も選べない。不条理でしょう。無条件でしょう。死ぬのも不条理であり、無条件。これが仏教でいうご縁ということの一番基本です。キリスト教では、神の愛、神の摂理ともいいます。同じことです。
そして、自分を問われる。おまえの人生、どうだったんだ。自分の人生にけじめをつけなきゃと思ったときに出てきたのは結婚。わたしは東京に弟子にきて、結婚して、ずうっと研究員で十数年。夫婦で食事に行ったなんてこともなかった。それが、自分が死ぬ立場になったときに、けじめつけようと思って、夫婦らしいことをしてないことに気がついたとき、ものすごくこわくなったのです。それで、友達の医者のとこへ電話したんです。そうしたら、医者に即座にいわれた。人間は、夫婦に後悔がなかったら、死を受け入れられます。これはショックでしたね。夫婦に後悔っていうのは、要するに、一番重大なのは、やっぱり夫婦なんですね。そこに負い目があったら、死ねない。こういわれましたね。まさにそうだった。そのときに、自分を問われる。おまえの人生、どうだったんだと、つきつけられる。これが恐ろしいということが分かった。
それから、体と心が一致しないために、考える力が混乱する。体が衰弱してくる、痛みが出る、だるさが出る。ところが、だんだん衰弱してくると、頭のほうもおとろえてくるから、いらいらして、怒りっぽくなって、看護人は疲れてるからますます怒りっぽくなって、夫婦げんかになるんですよ。だから、体の事実と心がうまく一致しないと、考える力が衰えて、それで、結局人生の最後をだめにしちゃうことがある。だから、考える力を維持するというのはとても難しい。それが大事なんです。
(5)それから、宗教的自我というのは、奇跡の期待。これはもう、ほとんどの人がやります。キューブラ・ロスという人が、取り引きといってます。病気治してくれたら、鳥居を寄付するなんてね。神様、仏様と取り引きする。ほとんど患者がやるそうです。それから、罪や罰の恐怖。それは、自分の負い目。人にいわない、女房にもいわない、亭主にいわないような恥ずかしかったこと、嫌なこと、あるでしょう。そういうものは自分の心の中で。
ある大学の先生が、報告を書いている。初老の女性がガンの末期で、それで、話を聞いてあげるボランティア、第一回目の対応のときに、「わたしはもう何もできない。だから死にたい。宗教嫌い」。現在にとらわれている。現状にとらわれている。それで頭がいっぱいだから、何もできないと死にたい。人さまの世話になりたくない、なれないという状況。この人は、過去とか未来を、見えなくなっている。だから、過去と未来を思い考えるきっかけをつくらせたらどうか。第二回目に行きました。そうしましたら、母さんという言葉が出た。そこで、ボランティアは「母さんってどういう人?」と質問をするんです。お料理の上手な人だったって思い出話をたくさん聞いてあげる。
それで、第三回目のボランティアに行ったときに、「わたし、水子が居るのよ。南無阿弥陀仏っていうんですかね」。つまり、人の世話になりたくない。人の世話になれない運命の人だったんですよね。突っ張って生きている。それが、母さんを思い出すことによって、いろいろおかげ、人のおかげ、そういうように柔らかくなって、そのふたがとれた。だから、南無阿弥陀仏っていうんです。つまり謝罪をしているんです。第三者に向かって。死に直面したときに、起こってくるんですよ。それを評価して、それを宗教的にこの人が清算をして死んでいく、そういう準備が可能なんだということが、ここで分かるわけです。
痛みに共感する徳
患者や何かの痛みに共感する徳を、四無量心とお釈迦さんはいいました。慈悲喜捨。ともに喜ぶ心、ともに泣く心、喜びの心、許しの心。人を許す、運命を許す。
これが、行動になると四摂法というものになります。これもお釈迦さんのいっていることです。四摂法というのは、布施。自分の持ってるものを人のために役立てることです。愛語、それから利行。人を助ける行い。同事。行動を相手に合わせるということで、医者が患者の立場になる、役人が市民の立場になる、先生が生徒の立場になる、親が子の立場になるというふうに、弱者の立場に合わせながら、専門家は導かなきゃいけない。非常に現代的な問題なんです。
仏教の宇宙観、死生観
仏教の宇宙観・死生観
(知恵による死の相対化。そこで修行する)
| A.真理 | B.悟りの立場 | C.迷いの立場 (問題発生) |
|---|---|---|
| a.縁起 (存在は条件の調和) |
1.智恵 (aとイを悟る) |
イ.妄縁起 (自我に汚れて縁起) |
| b.無常 (条件に因って変化) |
2.無常を悟る | ロ.常 (変わらないという錯覚) |
| c.無我 (自分の都合でない) |
3.無我になる | ハ.我 (自我ありと錯覚) |
| d.無為 (人間的目的でない) |
4.無為になる | ニ.有無 (損得でしか行動しない) |
| e.如実 (現実はあるが侭) |
5.如実知見 | ホ.苦 (現実と意志と逆らう) |
| f.真如 (存在の真理は仏の命) |
6.解脱する | ヘ..輪廻 (苦と愚かさを繰り返す) |
| g.空 (こだわり様がない) |
7.空になる | ト.こだわり |
| 仏教の死生観 | ||
| h.真理としての生死 (生死即涅槃) |
8.悟りとしての生死 (生死異類) |
チ.迷いとしての生死 (分断生死) |
| i.無条件な生死 | 9.無条件な愛・信頼の支え | リ.納得できない生死 |
| j.仏の命・自然の摂理の命 | 10.人事を尽くして天命を待つ | ヌ.人間の悪意のある生死 |
| k.正しい生死 | 11.運命を許す | ル.許せない生き死に |
| l.尊厳としての生死 | 12.患者を大切に | ヲ.尊厳を傷つけられた生き死に |
そこで、仏教の宇宙観、死生観を簡単にいうと、まず左の、真理と書いてあるところ。縁起。太陽系も、銀河系も、地球も、皆さんの命も、心の動きも、ヒステリーを起こすのも、好きになるのも、嫌いになるのも、条件の調和。そして無常。どんどん変わる。皆さんの肉体だって変わるし、夫婦の気持ちだって、ずいぶん変わったろうしね。本当に会社だって、どんどん変わる。最近、サブプライムローンで損失が出て、わたしの知り合いの会社も幾つかね。法律だって、どんどん変わる。無常ですよ。
それから無我。実体なんかない。固定的でない。そういうのを空という。こだわりようがない、こだわることができないという心理。だから、自由に変わるということは、わたしの主体性によって変わるという意味でもあります。
そうすると、生き死に問題は、A、真理としての生き死に。つまり、命も、病気になるのも、さまざまなこの生き死に、人生は、全部これ、縁起、無常、無我という真理をわたしのこの体という形でやっている。はげるのも、白髪になるのも、目が悪くなるのも、耳が遠くなるのも、メタボになるのも、わたしたちの命は、この縁起をやっている。
そして、C、迷いの立場。現実は、妄縁起。エゴに汚れて縁起してるんですよ。コンプレックスとか、欲望とか、それが、条件がある。条件が集まって、夫婦になって、それで生まれた子どもは、こんなできの悪いせがれなんてね。かと思うと、せがれのほうは、こんなできの悪い飲んだくれた親父なんてね。汚れた縁起でございましてね。感謝になれば、汚れでないんですけどね。憎しみになったら、汚れた縁起になっちゃう。縁起というのは、条件の集合ですから。
そして、そこから常、変わらないという錯覚。結婚したら夫婦は変わらないと、男は大体、そう錯覚するそうです。結婚したら、夫婦は変わらない。奥さんはすぐ気がつくそうです、この亭主、だめかしらって。だから、常という錯覚。健康は変わらない、課長や部長のいすが変わらない、みんな変わらないという錯覚を持つ、それが常。そして、それは自分を中心に見てるから、自我なんです、自分のものさしが変わらないと思ってるから。
ところが、有為。有為は損得でなきゃ、行動しない。その結果、苦。苦とは、意思にさからう。自分の思ってることと、自分の髪の毛が食い違うから、白髪になって苦しむ。老いるショック。苦しみというのは、意思に逆らう。髪の毛が意思にさからうわけですね。
そうすると、迷いとしての生き死に。わたしたちは、自分のこの生き死にを苦しみにしちゃって、こんなはずじゃなかったとか、何だかんだやっているわけですよ。ところが、B、悟りの立場を見ると、わたしたちは、妄縁起で苦しむ、夫婦喧嘩したり、そうやって苦しんだり、あるいは、自分の定年退職なんかで苦しんで、気づくわけですよ、縁起に。つまり、A、Cの両方の働きかけがあって、[1]の知恵になるんです。これではいけないとか、じゃあ、仏教でも勉強してみようか、教会に聖書の勉強会にでも行ってみようか、山にでも登ろうか。
「でも」、はとても大事なことなんです。「でも」といったとき、山へ登ったり、映画見たり、音楽でもきいたらいいのに、忙しい中、電車まで使って、何で仏教の勉強に来るの? 仏教「でも」と思った。それは、もう共鳴したってことでしょう? 自分の中にある何かと共鳴したから、仏教を勉強に来た。だから、「でも」といったとき、皆さんはもう、本物が動いているという意味なんです。
そして、無常を悟る。無我になる、自己主張がやめられる。無為になる。損得でなく行動できる。如実知見ができる。そうすると、解脱、心が自由になる、束縛から自由になる。で、空になって、悟りとしての生き死に。つまり、この現実の、病気になったり、さまざまなことが起こるこの生き死にを、悟りを実現する場所、人生修行の場所にすることができるというのが、仏教の大事な点です。悟りという一つの状態があるんじゃありません。悟りは修行する場所で働くのです。そう考えると、人それぞれ、ガンになったら、ガンというところで修行ができるじゃないですか。子どもを苦しめないようにしよう。女房を苦しめないようにしよう。さまざまな修行ができるでしょう? これが、Bの悟りの立場としての生き死に、こういうことになります。これで仏教の基本的なものは、みんな入ってしまいます。
「大聖は生死を心に任す、生死を身に任す、生死を道に任す、生死を生死にまかす」、道元禅師の言葉ですが、大聖ってお釈迦さんです。お釈迦さんは、生き死にを空の心に任せる。生き死にそのものを、仏教的生き方、仏教的人生修行に任せるんだ。任せるっていうのは、すごい大変なことですよ、決断がいりますから。それが人生修行の場所だって、こういうことなのです。
= 終わり =







