現実の人生論として、仏教をどういうふうに学べるか。今日は「死に方学」の問題をお話ししてみたいと思います。
「死の臨床研究会」というお医者さんや牧師さんや看護師さんたちとやっております研究会が今年で31年を迎えます。日本で最初の死に方学の臨床的研究の会ですけれども、その頃私は直腸から出血しました。そのときに考えたのが「五つの自我」です。
まず最初に、「生理的自我」。体から来る自我の混乱という意味です。それには症状の分野と、解消の分野というのがあるということが分かりました。
痛み、だるさ。これが最初に出てきます。痛みやだるさを感じると恐怖心が起きます。理由が分からないのに死ぬんじゃないかとか。ところがお医者さんに行って、「これは、こういう病気で、こういう治療法があって」と病名が分かって治療法の正しい知識を持つと、けろっとするんです。
これは知識ということなんです。知識がないことが恐怖を増幅する。仏教というのは知恵の宗教です。人間が煩悩や愚かさに苦しむのは、知恵を失っている状態。そこから知恵を回復する。知恵のもとは愛ですよ。愛がないと知性は維持できないんです。 愛や知恵を回復すると、人間は困難から立ち直る。
ところがペインクリニック、鎮痛医療というものがある。日本は遅れており、やっと去年から厚生労働省が「ペインクリニックに力を入れなきゃいれなきゃいけない」、「麻酔科の医者をもっとちゃんとしなきゃいけない」といい出したんです。
WHOは「もっとモルヒネを上手に使って、患者のquality of lifeを高めなさい」。といっています。生命、生活の質ということです。痛みをとめて、自分でトイレに行って、家族と手を握ったり話をしたり、自分でご飯を食べられればquality が高いわけですね。 日本政府は、それにこたえてこなかった。ようやく去年からいい出したんです。
胃袋が痛んでいたら、胃袋の神経はどこから脊髄に入るかって分かっているわけですから。その脊髄のところに鎮痛剤を打てば、痛みがどんなに進んでも本人はさわやかにいられるわけです。それを神経ブロック療法といいます。
インターネットで調べたら、今どこにいい医者がいるかって分かりますから。これもやっぱり知識で平常心を取り戻す。だから家族は努力する必要があるわけです。
それから「身体機能を失う恐怖」。乳房を取られる、抗ガン剤で髪の毛が抜ける。 それが身体機能を失う恐怖ですね。これに対する解消の分野は、目的意識です。こういう治療をやらなきゃいけない、という知恵です。
次は「喪失体験に照らす」といいます。日本でそれを研究したのは小此木啓吾という慶應大学の先生です。
『対象喪失』という本があります。これはお葬式関係、坊さん、看護関係の人は必ず読んだ方がいいものです。
失った経験のない人はここで手術しなきゃいけない、乳房切らなきゃいけない、子宮取らなきゃいけないって耐えられない。人生で痛い思いをした人の方がこういうときに開き直れるわけですよ。
まだ経験してない人にはなるべく話しておいた方がいいんです。しかし経験してる人にとっては、それはまた自分の嫌な思い出に触られるっていうこともあるわけですが、話しておくことは人のためになるのです。その思い切る力、これはやっぱり仏教的心の態度です。
次に「社会的自我」というのが「仕事」と「経済」と「家族」です。仕事を失う恐怖、経済を失う恐怖。
会社の管理職をやってる人がガンやなんかになったら大変ですよ。これが自営業の人、退職しなければ入院、手術できない人。仕事を失う恐怖。それはやっぱり目的意識です。今、ここでちゃんと手術をやらなきゃいけないこと。
経済。ものすごくお金がかかります。高額医療じゃなくたって相当かかりますし、差額ベッドもあるしね。
そして「家族」の問題、普段ばらばらな家族がますます悪くなっていきます。そういうときに、例えば娘や息子が早く学校から帰ってきて手伝ってくれる。病院へおばあちゃんを乗せていくとか、そういうことをやってくれると患者はすごく安心します。愛も回復するんです。それが「おかげさま」なんですよね。 結局「おかげさま」っていうのはゼロからの発想、自分が生かされてるっていうことです。
医者がいうんです。次の四つは、死ぬに死ねないそうです。「借金、引っ越し、裁判、人事」。ですから「なるべく早く解決するか、先送りにしなさい」と。
死ぬに死ねないほど心配で、それでも死んじゃうわけです。そしたらどうなるかって。化けて出るんです。怨念っていうことですよね。だから化けて出るっていうことはいいことです。それほど思いがあるんだからね。愛と思って見てあげなきゃいかんですよね。
何でお化けが怖いか知ってますか。憎しみの対象だったり、他人だからです。愛する身内のお化けだったら怖くありません。愛してる人だったらお化けでも会いたい。
それから「生命的自我」というのは、自分の生命が断絶する恐怖。キーワードは何だっていうと、「断絶」という言葉です。「断絶」の反対は「連続」です。だったら連続感を回復すればよろしい。あの世に愛する人、尊敬する人がいたら、それを思い出したら、人間は連続感の回復です。
そうしたらあの世は怖くない。ところがあの世に会いたい人がいたら、これ連続感ですから恐怖心はずっと軽くなる。だから愛する家族を失った人は、それは感覚的に分かると思うんですね。ところがそうでない人は、何であの世が怖いのか。知らないから怖いのです。知ってれば怖くない。
南米でもインドでもアフリカでも知ってるつもりで行っちゃう。だったらあの世だって知ってるつもりになりゃいいじゃないですか。あの世のことになると突然知らないと思う。
だからあの世で母さん父さん、愛する人がいたら知ってるつもりになるじゃないですか。だからあの世について「知っているつもり」っていうのは非常に重要なんです。
浄土真宗のお墓に「倶会一処(ぐえいっしょ)」と彫られているのがあります。 「倶(とも)に一処で会いましょう」っていうんですね。「一処」というのは阿弥陀様のいらっしゃるところ。はすの台(うてな)。父さん母さんのいるところと自分の行くところは全部、阿弥陀様のところに集約されてるんです。 だから仏にあこがれていたら、そこで父さんも母さんも私もとなったら、連続感で生命の安心感です。
だから、実はこの言葉を誰が一番重要視するか知ってます? 医者です。しかもこれ、アメリカ人やヨーロッパ人の医者でもガン関係の人は、日本にはこういう墓があるって知ってるんです。「素晴らしい墓だ」って。
生命の断絶に対してそれを超えるのは墓参りです。墓参りというのは同時にあの世にいる人と連続すること、仏と連続すること、悟りと連続することという意味なんですね。
「哲学的自我」っていうのは、哲学っていうのは意味を考えるっていう意味ですから、私の生きた意味、人生の意味を考える私。テレビで死に方学を一生懸命宣伝してくれた人に、柳田邦男さんがいるでしょう。民俗学者の柳田国男じゃありません。ガン関係ではこういうふうにいうんです。「一人称の死、二人称の死、三人称の死」。
「一人称の死」。これは自分が死ぬこと。「二人称の死」は家族の死です。「三人称の死」っていうのは、これは他人の死。原理なんです。
人が死ぬっていう原理原則。それがある日突然自分のことになるんです。これはショックです。
本当に自分を問われるっていうのは、ガンや何かに直面したとき。そのときに体は衰えてくるんですよ。衰えるし痛みは出るし、混乱してます。ところが体の方は痛みがすると、体と心が一致しない状態が起こってくるんです。そうすると考える力がうまくいかない。考える力がないから恐怖心や混乱が起きる。
そこで結局問題解決はやっぱり知恵とご縁ですね。特に自分を問われるところではご縁や「おかげさま」です。
例えば柏木哲夫っていう人は今名古屋で、金城大学の学長をやってます。日本にホスピスっていうものを持ち込んだ人です。この柏木哲夫先生と対談をしたときに「ニュージーランドでは、ガン患者が出たときに、その人の人生史を小説風にまとめてあげるボランティアをやってる人がいる」んですって。希望があった人のところへテープレコーダを持っていって、ずっと人生を聞いて。まだその人が亡くならないうちに急いで小冊子にまとめてあげるんだそうです。
人生を語らせる。そうすると異口同音に最後に、「自分は人のためにやった、会社のためにやったことよりも、人のおかげを被った、人からしてもらったことの方がよっぽど多い」ってほとんどの患者がいうそうです。それは「おかげ」ということをいってるんでしょう。そのおかげというのが問題を解消する非常に重要な知恵だと思います。
「宗教的自我」というのは奇跡の期待、罪や罰の恐怖、運命を憎む。こういうことになると思います。事例でいえば、一昨年に、東海大学の先生がリスナー(話を聞いてあげるボランティア)の事例報告を『緩和ケア』っていう雑誌に書いております。
初老の女性に第一回のリスナーのときに会ったら、その人は、「もう何にもできない。何もできないから死にたい」。「宗教嫌い」という。そこで研究会でこれを報告したんです、そうしたら皆さんがいうには、「この人は、もう何もできないということは、現在にこだわっている。現在だけしか見えない。過去や未来は見えないということではないか」という結論になった。そこで第二回目のリスナーのときに話を聞いた。「母さん」という言葉が出た。そこで「お母さんってどういう人だったの?」と聞く。そうするとお母さんについて思い出話をした。「お料理が上手で・・・。」
そうして第三回目のリスナーに行きましたら、その人は、「あのね、私ね、水子があるのよね」といった。つまりこの人は母さんっていう過去を思い出すことによって、自分が生かされていたおかげが見えてきた。
ところがここでは何もできない。つまり現在の私しか見えてない。それは何かというと、恐らく突っ張らなければ生きてこれなかった人かもしれない。人の世話になっては生きてこれなかった。その中に、実は水子を隠している。で、過去について振り返ったときに、お母さんやなんかのおかげを思い出していたら、現在突っ張っている必要がなくなってきた。
宗教的痛みはこういうかたちで、人間の深い部分の負い目、それを謝罪する。これが宗教的な痛みの重要な問題です。
「神仏自然の摂理に任せる」、「人生に責任ある態度」、「自己存在の矛盾に謙虚になる」。そういうようなものが回復すると、人間は問題を解消していけることがここで分かります。
そうすると、空とか無我とか無心とかいうようなのが、臨床的にいうと平常心であったり、あるいは「おかげさま」であったりというかたちで見えてきます。
ですから仏教の学び方というのは、きちんと学術的に学ぶことは大事です。そうしないと論理的に考える力がつきません。
ところがその論理的な言葉で空回りしていると、今度は人生の、自分が仏教を学んでみたいと思った最初の疑問点にうまく結び付いてこない。その次に論理的に考える力がついて理論が身に付いてきたら、今度は「おかげさまということはこういうことだったんだ」という、もう一度現場に戻ってきて、自分を柔らかくしてくれる。そういう学びをしていくということが、仏教の学び方の重要点だと思うのです。
だから今、申し上げた「五つの自我」は、患者の現実と仏教でお釈迦様がおっしゃっている空とか無我とか縁起とか無常とかという言葉は、実は問題解決学としてあるんだというふうに受け止めていただいたらいいと思います。
直接体験というのは人格が変わるほどのショック。自動車にぶつかった、心臓の手術をした、一緒に住んでいる家族が死んだ。それから親しい友人が死んだ。間接的体験は、いじめられたりとか、ペットの死。手相見に「あんた、長生きしない」といわれたとか。いろいろあります。
スクーリング会場で
死をどう説明するかを見ると、間接的体験の人は「丹波哲郎の映画のような世界」とか、「おれは霊魂を信じてるから死ぬのは怖くない」なんて偉そうなことをいっているのもいれば、「おれは悪いことをしていくから地獄へ行くだろう」とか、これって全部空想です。観念じゃないですか。
ところが、直接的体験の人は「死」っていうのを説明しないということが分かったんです。
中には「死とはあっけないものである」。これは家族に死なれた人です。その事実を仏教で何というかというと、「如実知見」といいます。仏教の知恵の中の非常に重要なものです。現実をありのままに見る。そういう知恵です。
そうすると家族に死なれた人は、人間なら病気や事故で死ぬっていうのは事実だと。だから、家族がご遺体に別れるっていうことはすごく大事です。ご遺体になって別れる。見たら納得するでしょう。見たら如実知見が成立するんです。見ていないと、これは頭で説明しようとしても説明できないから、混乱するのですね。
ですからこの「如実知見」っていうのは仏教の知恵の中で非常に大事なのです。直接的体験の人は如実知見なんです。間接的体験の人は観念で説明するわけです。
じゃ死の前をどう生きるか。間接的体験の人は、「人間はいつ死ぬか分からない。だから」といって、その後に自分のしたいことをやたら書くのです。つまり自己中なのです。
ところが直接的体験の人は「人間はいつ死ぬか分からない。だから」といった後で、「恋人を大事にしたい」、「家族を大事にしたい」、「部活の友人を大事にしたい」という言葉が圧倒的になるのです。要するにいざとなったときに自己中になるか、自分が支えられている他者の方に重きを置くかです。直接的体験の人はみんな「おかげさま」なのです。
「災難」にあふときは あふがよく候。
(良寛さん)
ところが間接的体験の人は自己中ですから、自分のことしか考えない。じゃそれはどういうことかというと、「無常を観ずるとき吾我の心生ぜず」。(道元『学道用心集』)といいます。人は死ぬっていうことに直面したらエゴが壊れる。吾我というのはエゴのことです。死に直面したらエゴが壊れる。だから間接的体験の人はエゴが壊れてないんです。直接的体験の人はエゴが壊れた体験を持っている。あれよあれよという間に家族が死んでいくことです。それはまさにエゴが通用しない。それを体験しちゃったのですね。それを「如実知見」というのです。
そうすると道元さんのいっている無常を観ずるとき、お釈迦様がいっている無常、人が死ぬっていうことをこういうふうに見ていくと、死ぬというものを主体的に受け止めたら人間は簡単にエゴを超えることができる。そうでないと、結局われわれは、自分のエゴのために学んでしまうのです。
皆さん、「縁起がいい」、「縁起が悪い」とお使いになるけど、いい条件が集まってきそうだから「縁起がいい」、悪い条件が集まってきそうだから「縁起が悪い」というんです。縁起というのは条件の集合っていう意味ですから。皆さんの使っているのは間違いじゃないんです。しかし、どこが間違っているか。その目的が間違っているんです。恐怖心で使っているから。
縁起というのは条件の調和だから無常。常とは変わらないということです。無常というのは「変わる」ということです。
それから「無我」というのは実体がない。自分の都合ではない。「無為」は人間的な損得ではない。つまり「この生命は真理としての生命である」。縁起無常という真理を生命でやっているのでしょう、われわれは。禿げるのも白髪になるのも、ガンになるのも心臓悪くなるのも、生長するのも自然の摂理です。
迷いの立場。「妄縁起」、煩悩損得において縁起している。そして「常」、、変わらないという錯覚。自分中心に見るから「我あり」という錯覚。「有為」は損得じゃなきゃ行動しない。「苦」というのは、現実と意思と逆らうこと。自分の意思と一致しないことを「苦」というのです。だから酒飲みが酒を飲むのは楽です。自動車で来たのに酒を勧められたら苦になるのです。それを繰り返すのが「輪廻」。迷いとしての生き死。つまり私たちの現実の生命は迷いの生命になってしまっている。損か得か、好きか嫌いか。
それに気が付く。愚かな自分とものの道理の両方が働いて気付くのを「知恵」といいます。そうすると無常を悟る。無我になる、自己主張がやめられるということです。無為になる、損得でなく行動できる。そうすると「悟りとしての生き死」。白髪になったりガンになったり心臓が悪かったりする、その生命そのものが実は悟りの場になる。そうするとここで仏教の存在論が全部入っています。つまり発心修行するのです。真理の中にいるから悉有仏性(しつうぶっしょう)。大乗仏教はすべてこの真理の中にいる教理です。その中で私たちはお互いに好きだ嫌いだ。そういう迷いをやめて、「これではいけない」と気付く。夫婦げんかをやって「おかしい」と気付く。気付くのは悟りの立場。これが修行であり発心であり信じるということなんですね。
「大聖は生死を心に任す、生死を身に任す、生死を道に任す、生死を生死に任す」。道元禅師の言葉です。大聖はお釈迦様です。「お釈迦様は生き死にを無我の心に任す、生き死にをいのちに任す、生き死にを仏教的な生き方、道に任す、生き死にを生き死にそのものに任す。」任すというのはすごい勇気がいることでしょう。これが仏教的な生き死に方になります。
そうすると、生き死にというわれわれの人生の一番根底のところから仏教を学ぶと、お釈迦様が言っている縁起とか無常とか無我ということが、血肉の通ったものとして見えてきます。そういうふうに仏教を学んでいただくことが大事だと思います。
そうすると今度看護者側も自立心やいたわりの心に生きる。そういうかたちで問題解決していく。そうするとお釈迦様の最初の説教の「苦集滅道」という四聖諦は、実はセルフコントロールじゃないか。今、心理療法では「認知療法」と言います。病状を自分で認知する。
ベックという人が1960年に考えた心理治療法です。自分で自覚するという意味です。
その認知療法学会から頼まれたとき、私は講演で、「お釈迦様のお説教は認知療法である」と話しました。この四聖諦を見ると、自分の混乱している状態や、自分の欲望、恐怖心、そういうものを自覚して、「じゃどうしたらいいのか」というふうに見ていく。そうするとこれはまさにセルフコントロールであり認知療法である。仏教の学び方というのは、きょう私が申し上げたような現実の人間の悩み、苦しみ、迷い、そういうものと重ね合わせながら受け取っていただくことが必要です。
「...死ぬる時節は死ぬがよく候。」
(良寛さん)
時間はかかるかも知れません。すぐには納得しなくても、この「苦集滅道」のようなかたちでも論理化、哲学化されてしまっているように見える言葉の中身というものが見えてきます。
そうすると「自分の問題解決なんだ」というふうに読めるようになる。これが仏教の学び方です。自分の人生問題の解消として読んでいただくということが非常に大事だと思うのですね。
そして、もう一つ。「死を受容するための仏教的要件」というのがあります。いくつか思い付くところに重ねて、「運命は自分で気付く」。「もしかしたらガンかもしれない」って自分で気付かなきゃいけない。自分で気付かないし、気付こうとしない人がいます。「考えたくない」、そういう人が危ないのです。
あるとき、看護婦さんがバトンタッチしてきて、「あら、薬飲まないの?」、「だってこの薬気持ち悪いんだよ」、「駄目じゃない、抗ガン剤だからちゃんと飲まなきゃ」、「えっ、僕ガンだったの?」。自分が心の準備ができないのに事実を知ったとき、後はうまくいかないでしょう。
運命は自分で気付いていく、疑うこと。疑ってくれたらいえるんです。それから「考える力を回復させる」。これはさっきからいってきたとおりです。「慈悲、痛みの共感」。分かってくれる。やっぱり同病相憐れむで分かってくれる人っていうのはすごく大事です。
皆さん、近所や友人で病気した人や家族に死なれた人の話があったら、少していねいに話を聞く方がいいですよ。聞いてあげるのは相手のために救いです。同時に私の人生修行です。聞くのは怖いから人はすぐ「お大事ね」と逃げるんです。それは自分にとってマイナスです。重病の人とがんの話っていうのは怖くて聞きたくないでしょう。そこを勇気を出して聞いてあげる。それは自分のためです。 病人は自分の病気に没頭できるようにしてあげることです。
それから「無条件の愛や信頼」。「死者への愛と尊敬」。インフォームドコンセントで患者が「自分で決める」でなきゃいけないんです。家族のアドバイスは必要です。しかし最終的に、「じゃ、私も手術しようかと思う」。患者がいわなければ。それをお嫁さんや息子が、「親戚の手前もあるんだから手術をしてくれなきゃ困るんだ」っていうとおばあちゃんは反対できない。「もういやだ」と思っても反対できない。そうすると後がうまくいかないそうです。患者は自己決定しなきゃいけない。感謝をすること。それから静寂な心にあこがれること。安心にあこがることです。こんなようなことが考えられます。
「死の臨床研究会」というお医者さんや牧師さんや看護師さんたちとやっております研究会が今年で31年を迎えます。日本で最初の死に方学の臨床的研究の会ですけれども、その頃私は直腸から出血しました。そのときに考えたのが「五つの自我」です。
五つの自我
人間は死に直面したときに混乱する自我を、五つの側面から分類するのがいい。さらに、仏教的視点から問題を解消するというようなことを考えたのです。まず最初に、「生理的自我」。体から来る自我の混乱という意味です。それには症状の分野と、解消の分野というのがあるということが分かりました。
痛み、だるさ。これが最初に出てきます。痛みやだるさを感じると恐怖心が起きます。理由が分からないのに死ぬんじゃないかとか。ところがお医者さんに行って、「これは、こういう病気で、こういう治療法があって」と病名が分かって治療法の正しい知識を持つと、けろっとするんです。
これは知識ということなんです。知識がないことが恐怖を増幅する。仏教というのは知恵の宗教です。人間が煩悩や愚かさに苦しむのは、知恵を失っている状態。そこから知恵を回復する。知恵のもとは愛ですよ。愛がないと知性は維持できないんです。 愛や知恵を回復すると、人間は困難から立ち直る。
ところがペインクリニック、鎮痛医療というものがある。日本は遅れており、やっと去年から厚生労働省が「ペインクリニックに力を入れなきゃいれなきゃいけない」、「麻酔科の医者をもっとちゃんとしなきゃいけない」といい出したんです。
WHOは「もっとモルヒネを上手に使って、患者のquality of lifeを高めなさい」。といっています。生命、生活の質ということです。痛みをとめて、自分でトイレに行って、家族と手を握ったり話をしたり、自分でご飯を食べられればquality が高いわけですね。 日本政府は、それにこたえてこなかった。ようやく去年からいい出したんです。
胃袋が痛んでいたら、胃袋の神経はどこから脊髄に入るかって分かっているわけですから。その脊髄のところに鎮痛剤を打てば、痛みがどんなに進んでも本人はさわやかにいられるわけです。それを神経ブロック療法といいます。
インターネットで調べたら、今どこにいい医者がいるかって分かりますから。これもやっぱり知識で平常心を取り戻す。だから家族は努力する必要があるわけです。
それから「身体機能を失う恐怖」。乳房を取られる、抗ガン剤で髪の毛が抜ける。 それが身体機能を失う恐怖ですね。これに対する解消の分野は、目的意識です。こういう治療をやらなきゃいけない、という知恵です。
次は「喪失体験に照らす」といいます。日本でそれを研究したのは小此木啓吾という慶應大学の先生です。
『対象喪失』という本があります。これはお葬式関係、坊さん、看護関係の人は必ず読んだ方がいいものです。
失った経験のない人はここで手術しなきゃいけない、乳房切らなきゃいけない、子宮取らなきゃいけないって耐えられない。人生で痛い思いをした人の方がこういうときに開き直れるわけですよ。
まだ経験してない人にはなるべく話しておいた方がいいんです。しかし経験してる人にとっては、それはまた自分の嫌な思い出に触られるっていうこともあるわけですが、話しておくことは人のためになるのです。その思い切る力、これはやっぱり仏教的心の態度です。
次に「社会的自我」というのが「仕事」と「経済」と「家族」です。仕事を失う恐怖、経済を失う恐怖。
会社の管理職をやってる人がガンやなんかになったら大変ですよ。これが自営業の人、退職しなければ入院、手術できない人。仕事を失う恐怖。それはやっぱり目的意識です。今、ここでちゃんと手術をやらなきゃいけないこと。
経済。ものすごくお金がかかります。高額医療じゃなくたって相当かかりますし、差額ベッドもあるしね。
生死における精神的症状と解消の視点
| 五つの自我 | 症状の分野 | 解消の分野 | 仏教的視点 |
|---|---|---|---|
| 生理的自我 | 苦痛への恐怖 身体機能を失う恐怖 痛み、だるさ |
鎮痛医療の知識 大目的・医師への信頼 病名・知識を持つ |
平常心の力 喪失体験に照らす 知の回復 |
| 社会的自我 | 仕事を失う恐怖 経済を失う恐怖 借金、引っ越し、裁判、人事異動 家族、引っ越し、孤独 |
大目的を持つ 人生の意味の回復 解決・先送り 愛・信頼の回復。役割の発見 |
お陰様 ゼロからの発想 純粋になる 共に泣く人 |
| 生命的自我 | 自己生命断絶の恐怖 死後・未知への恐怖 |
断絶感を超える、永正への希望 あの世に尊敬・愛する人がいる |
仏へ帰依 あこがれ |
| 哲学的自我 | 原理が自分の事になる 自分を問われる 体の事実と心が一致しない |
自己存在の不条理に気付く 掛け替えのない人生に感謝 考える力の回復 |
空の心 ご縁 智恵 |
| 宗教的自我 | 奇跡の期待 罪・罰の恐怖...負い目 運命を憎む |
神仏自然の摂理に任せる 人生に責任ある程度 自己存在の矛盾に謙虚になる |
お任せ 生也全機現 感謝 |
そして「家族」の問題、普段ばらばらな家族がますます悪くなっていきます。そういうときに、例えば娘や息子が早く学校から帰ってきて手伝ってくれる。病院へおばあちゃんを乗せていくとか、そういうことをやってくれると患者はすごく安心します。愛も回復するんです。それが「おかげさま」なんですよね。 結局「おかげさま」っていうのはゼロからの発想、自分が生かされてるっていうことです。
医者がいうんです。次の四つは、死ぬに死ねないそうです。「借金、引っ越し、裁判、人事」。ですから「なるべく早く解決するか、先送りにしなさい」と。
死ぬに死ねないほど心配で、それでも死んじゃうわけです。そしたらどうなるかって。化けて出るんです。怨念っていうことですよね。だから化けて出るっていうことはいいことです。それほど思いがあるんだからね。愛と思って見てあげなきゃいかんですよね。
何でお化けが怖いか知ってますか。憎しみの対象だったり、他人だからです。愛する身内のお化けだったら怖くありません。愛してる人だったらお化けでも会いたい。
それから「生命的自我」というのは、自分の生命が断絶する恐怖。キーワードは何だっていうと、「断絶」という言葉です。「断絶」の反対は「連続」です。だったら連続感を回復すればよろしい。あの世に愛する人、尊敬する人がいたら、それを思い出したら、人間は連続感の回復です。
そうしたらあの世は怖くない。ところがあの世に会いたい人がいたら、これ連続感ですから恐怖心はずっと軽くなる。だから愛する家族を失った人は、それは感覚的に分かると思うんですね。ところがそうでない人は、何であの世が怖いのか。知らないから怖いのです。知ってれば怖くない。
南米でもインドでもアフリカでも知ってるつもりで行っちゃう。だったらあの世だって知ってるつもりになりゃいいじゃないですか。あの世のことになると突然知らないと思う。
だからあの世で母さん父さん、愛する人がいたら知ってるつもりになるじゃないですか。だからあの世について「知っているつもり」っていうのは非常に重要なんです。
浄土真宗のお墓に「倶会一処(ぐえいっしょ)」と彫られているのがあります。 「倶(とも)に一処で会いましょう」っていうんですね。「一処」というのは阿弥陀様のいらっしゃるところ。はすの台(うてな)。父さん母さんのいるところと自分の行くところは全部、阿弥陀様のところに集約されてるんです。 だから仏にあこがれていたら、そこで父さんも母さんも私もとなったら、連続感で生命の安心感です。
だから、実はこの言葉を誰が一番重要視するか知ってます? 医者です。しかもこれ、アメリカ人やヨーロッパ人の医者でもガン関係の人は、日本にはこういう墓があるって知ってるんです。「素晴らしい墓だ」って。
生命の断絶に対してそれを超えるのは墓参りです。墓参りというのは同時にあの世にいる人と連続すること、仏と連続すること、悟りと連続することという意味なんですね。
「哲学的自我」っていうのは、哲学っていうのは意味を考えるっていう意味ですから、私の生きた意味、人生の意味を考える私。テレビで死に方学を一生懸命宣伝してくれた人に、柳田邦男さんがいるでしょう。民俗学者の柳田国男じゃありません。ガン関係ではこういうふうにいうんです。「一人称の死、二人称の死、三人称の死」。
「一人称の死」。これは自分が死ぬこと。「二人称の死」は家族の死です。「三人称の死」っていうのは、これは他人の死。原理なんです。
人が死ぬっていう原理原則。それがある日突然自分のことになるんです。これはショックです。
本当に自分を問われるっていうのは、ガンや何かに直面したとき。そのときに体は衰えてくるんですよ。衰えるし痛みは出るし、混乱してます。ところが体の方は痛みがすると、体と心が一致しない状態が起こってくるんです。そうすると考える力がうまくいかない。考える力がないから恐怖心や混乱が起きる。
そこで結局問題解決はやっぱり知恵とご縁ですね。特に自分を問われるところではご縁や「おかげさま」です。
例えば柏木哲夫っていう人は今名古屋で、金城大学の学長をやってます。日本にホスピスっていうものを持ち込んだ人です。この柏木哲夫先生と対談をしたときに「ニュージーランドでは、ガン患者が出たときに、その人の人生史を小説風にまとめてあげるボランティアをやってる人がいる」んですって。希望があった人のところへテープレコーダを持っていって、ずっと人生を聞いて。まだその人が亡くならないうちに急いで小冊子にまとめてあげるんだそうです。
人生を語らせる。そうすると異口同音に最後に、「自分は人のためにやった、会社のためにやったことよりも、人のおかげを被った、人からしてもらったことの方がよっぽど多い」ってほとんどの患者がいうそうです。それは「おかげ」ということをいってるんでしょう。そのおかげというのが問題を解消する非常に重要な知恵だと思います。
「宗教的自我」というのは奇跡の期待、罪や罰の恐怖、運命を憎む。こういうことになると思います。事例でいえば、一昨年に、東海大学の先生がリスナー(話を聞いてあげるボランティア)の事例報告を『緩和ケア』っていう雑誌に書いております。
初老の女性に第一回のリスナーのときに会ったら、その人は、「もう何にもできない。何もできないから死にたい」。「宗教嫌い」という。そこで研究会でこれを報告したんです、そうしたら皆さんがいうには、「この人は、もう何もできないということは、現在にこだわっている。現在だけしか見えない。過去や未来は見えないということではないか」という結論になった。そこで第二回目のリスナーのときに話を聞いた。「母さん」という言葉が出た。そこで「お母さんってどういう人だったの?」と聞く。そうするとお母さんについて思い出話をした。「お料理が上手で・・・。」
そうして第三回目のリスナーに行きましたら、その人は、「あのね、私ね、水子があるのよね」といった。つまりこの人は母さんっていう過去を思い出すことによって、自分が生かされていたおかげが見えてきた。
ところがここでは何もできない。つまり現在の私しか見えてない。それは何かというと、恐らく突っ張らなければ生きてこれなかった人かもしれない。人の世話になっては生きてこれなかった。その中に、実は水子を隠している。で、過去について振り返ったときに、お母さんやなんかのおかげを思い出していたら、現在突っ張っている必要がなくなってきた。
宗教的痛みはこういうかたちで、人間の深い部分の負い目、それを謝罪する。これが宗教的な痛みの重要な問題です。
「神仏自然の摂理に任せる」、「人生に責任ある態度」、「自己存在の矛盾に謙虚になる」。そういうようなものが回復すると、人間は問題を解消していけることがここで分かります。
そうすると、空とか無我とか無心とかいうようなのが、臨床的にいうと平常心であったり、あるいは「おかげさま」であったりというかたちで見えてきます。
ですから仏教の学び方というのは、きちんと学術的に学ぶことは大事です。そうしないと論理的に考える力がつきません。
ところがその論理的な言葉で空回りしていると、今度は人生の、自分が仏教を学んでみたいと思った最初の疑問点にうまく結び付いてこない。その次に論理的に考える力がついて理論が身に付いてきたら、今度は「おかげさまということはこういうことだったんだ」という、もう一度現場に戻ってきて、自分を柔らかくしてくれる。そういう学びをしていくということが、仏教の学び方の重要点だと思うのです。
だから今、申し上げた「五つの自我」は、患者の現実と仏教でお釈迦様がおっしゃっている空とか無我とか縁起とか無常とかという言葉は、実は問題解決学としてあるんだというふうに受け止めていただいたらいいと思います。
「死」は自我超越の場
駒澤大学の経済学部の学生に、「死ぬ」という一文字で作文を書いてもらいました。七百人分たまったときに分類したわけです。それで発見したのですが。学生は、「a、死を考えたきっかけ」、「b、死をどう説明するか」、「c、死の前はどういう生きるか」の三つのことを書く。そこで死を考えるきっかけを直接的体験と間接的体験に独断と偏見で分けました。直接体験というのは人格が変わるほどのショック。自動車にぶつかった、心臓の手術をした、一緒に住んでいる家族が死んだ。それから親しい友人が死んだ。間接的体験は、いじめられたりとか、ペットの死。手相見に「あんた、長生きしない」といわれたとか。いろいろあります。
スクーリング会場でところが、直接的体験の人は「死」っていうのを説明しないということが分かったんです。
中には「死とはあっけないものである」。これは家族に死なれた人です。その事実を仏教で何というかというと、「如実知見」といいます。仏教の知恵の中の非常に重要なものです。現実をありのままに見る。そういう知恵です。
そうすると家族に死なれた人は、人間なら病気や事故で死ぬっていうのは事実だと。だから、家族がご遺体に別れるっていうことはすごく大事です。ご遺体になって別れる。見たら納得するでしょう。見たら如実知見が成立するんです。見ていないと、これは頭で説明しようとしても説明できないから、混乱するのですね。
ですからこの「如実知見」っていうのは仏教の知恵の中で非常に大事なのです。直接的体験の人は如実知見なんです。間接的体験の人は観念で説明するわけです。
じゃ死の前をどう生きるか。間接的体験の人は、「人間はいつ死ぬか分からない。だから」といって、その後に自分のしたいことをやたら書くのです。つまり自己中なのです。
ところが直接的体験の人は「人間はいつ死ぬか分からない。だから」といった後で、「恋人を大事にしたい」、「家族を大事にしたい」、「部活の友人を大事にしたい」という言葉が圧倒的になるのです。要するにいざとなったときに自己中になるか、自分が支えられている他者の方に重きを置くかです。直接的体験の人はみんな「おかげさま」なのです。
「災難」にあふときは あふがよく候。(良寛さん)
そうすると道元さんのいっている無常を観ずるとき、お釈迦様がいっている無常、人が死ぬっていうことをこういうふうに見ていくと、死ぬというものを主体的に受け止めたら人間は簡単にエゴを超えることができる。そうでないと、結局われわれは、自分のエゴのために学んでしまうのです。
仏教の宇宙観・死生観
では仏教で生き死にというものをどういうふうに見るか。仏教では「真如」といいますけれど「真理」の立場は、縁起、無常、無我、無為。縁起というのは「存在とは条件の集合である」。太陽系、銀河系。地球、不思議な条件の調和でしょう。人間の命、三十何億年からタンパク質の歴史、条件の調和。その上、人間関係、心も。好きになったり嫌いになったり、あるいはヒステリーを起こしたり。全部条件の集合。これを「縁起」といいます。皆さん、「縁起がいい」、「縁起が悪い」とお使いになるけど、いい条件が集まってきそうだから「縁起がいい」、悪い条件が集まってきそうだから「縁起が悪い」というんです。縁起というのは条件の集合っていう意味ですから。皆さんの使っているのは間違いじゃないんです。しかし、どこが間違っているか。その目的が間違っているんです。恐怖心で使っているから。
縁起というのは条件の調和だから無常。常とは変わらないということです。無常というのは「変わる」ということです。
それから「無我」というのは実体がない。自分の都合ではない。「無為」は人間的な損得ではない。つまり「この生命は真理としての生命である」。縁起無常という真理を生命でやっているのでしょう、われわれは。禿げるのも白髪になるのも、ガンになるのも心臓悪くなるのも、生長するのも自然の摂理です。
迷いの立場。「妄縁起」、煩悩損得において縁起している。そして「常」、、変わらないという錯覚。自分中心に見るから「我あり」という錯覚。「有為」は損得じゃなきゃ行動しない。「苦」というのは、現実と意思と逆らうこと。自分の意思と一致しないことを「苦」というのです。だから酒飲みが酒を飲むのは楽です。自動車で来たのに酒を勧められたら苦になるのです。それを繰り返すのが「輪廻」。迷いとしての生き死。つまり私たちの現実の生命は迷いの生命になってしまっている。損か得か、好きか嫌いか。
それに気が付く。愚かな自分とものの道理の両方が働いて気付くのを「知恵」といいます。そうすると無常を悟る。無我になる、自己主張がやめられるということです。無為になる、損得でなく行動できる。そうすると「悟りとしての生き死」。白髪になったりガンになったり心臓が悪かったりする、その生命そのものが実は悟りの場になる。そうするとここで仏教の存在論が全部入っています。つまり発心修行するのです。真理の中にいるから悉有仏性(しつうぶっしょう)。大乗仏教はすべてこの真理の中にいる教理です。その中で私たちはお互いに好きだ嫌いだ。そういう迷いをやめて、「これではいけない」と気付く。夫婦げんかをやって「おかしい」と気付く。気付くのは悟りの立場。これが修行であり発心であり信じるということなんですね。
「大聖は生死を心に任す、生死を身に任す、生死を道に任す、生死を生死に任す」。道元禅師の言葉です。大聖はお釈迦様です。「お釈迦様は生き死にを無我の心に任す、生き死にをいのちに任す、生き死にを仏教的な生き方、道に任す、生き死にを生き死にそのものに任す。」任すというのはすごい勇気がいることでしょう。これが仏教的な生き死に方になります。
そうすると、生き死にというわれわれの人生の一番根底のところから仏教を学ぶと、お釈迦様が言っている縁起とか無常とか無我ということが、血肉の通ったものとして見えてきます。そういうふうに仏教を学んでいただくことが大事だと思います。
仏教の宇宙観・死生観
| 真理 | 悟りの立場 | 迷いの立場(問題の発生) |
|---|---|---|
| a 縁起 (存在は条件の調和) b 無常 (条件に因って変化) c 無我 (自分の都合でない) d 無為 (人間的目的でない) e 如実 (現実はあるが儘) f 真如 (存在の真理は仏の命) g 空 (こだわり様がない) |
1 智恵 (aとイを悟る) 2 無常を悟る 3 無我になる 4 無為になる 5 如実知見 6 解脱する 7 空になる |
イ 妄縁起 (自我に汚れて縁起) ロ 常 (変わらないという錯覚) ハ 我(自我ありと錯覚) ニ 有無 (損得でしか行動しない) ホ苦(現実と意志と逆らう) ヘ 輪廻 (苦と愚かさを繰り返す) ト こだわり |
| 仏教の死生観 | ||
| h 真理としての生死 (生死即涅槃) i 無条件な生死 j 仏の命・自然の摂理の命 k 正しい生死 l 尊厳としての生死 |
8 悟りとしての生死 (生死異類) 9 無条件な愛・信頼の支え 10 人事を尽くし天命を待つ 11 運命を許す 12 患者を大切に |
チ 迷いとしての生死 (分断生死) リ 納得できない生死 ヌ 人間の悪意ある生死 ル 許せない生き死に ヲ 尊厳を傷つけられた生き死に |
仏教的セルフコントロールによる対応
お釈迦様の最初の説教を「四聖諦」と言います。苦諦(くたい)、集諦(じったい)。滅諦(めったい)、道諦(どうたい)。これがお釈迦様の最初の説教の中身です。諦は真理。苦の真理というのは現状の自覚です。集諦は原因です。滅諦は解決の目標です。道諦はそのための努力の方法です。これを患者、家族の立場に合わせると、まず苦の現状は混乱。自分が混乱していることに気が付く。あるいは家族が混乱してるっていうことに気が付く。そしたらその原因は何だ、混乱の原因は恐怖だっていうことに気が付く。じゃどうしたらいいのか。安心を見つけるっていうことだ。じゃ道諦の患者の努力は何をしたらいいか。「やっぱり私は患者だけども、夫であり父親である」。あるいは「私は妻であり母親である」。そういう役割意識がある。そうすると今度看護者側も自立心やいたわりの心に生きる。そういうかたちで問題解決していく。そうするとお釈迦様の最初の説教の「苦集滅道」という四聖諦は、実はセルフコントロールじゃないか。今、心理療法では「認知療法」と言います。病状を自分で認知する。
ベックという人が1960年に考えた心理治療法です。自分で自覚するという意味です。
その認知療法学会から頼まれたとき、私は講演で、「お釈迦様のお説教は認知療法である」と話しました。この四聖諦を見ると、自分の混乱している状態や、自分の欲望、恐怖心、そういうものを自覚して、「じゃどうしたらいいのか」というふうに見ていく。そうするとこれはまさにセルフコントロールであり認知療法である。仏教の学び方というのは、きょう私が申し上げたような現実の人間の悩み、苦しみ、迷い、そういうものと重ね合わせながら受け取っていただくことが必要です。
「...死ぬる時節は死ぬがよく候。」(良寛さん)
そうすると「自分の問題解決なんだ」というふうに読めるようになる。これが仏教の学び方です。自分の人生問題の解消として読んでいただくということが非常に大事だと思うのですね。
そして、もう一つ。「死を受容するための仏教的要件」というのがあります。いくつか思い付くところに重ねて、「運命は自分で気付く」。「もしかしたらガンかもしれない」って自分で気付かなきゃいけない。自分で気付かないし、気付こうとしない人がいます。「考えたくない」、そういう人が危ないのです。
あるとき、看護婦さんがバトンタッチしてきて、「あら、薬飲まないの?」、「だってこの薬気持ち悪いんだよ」、「駄目じゃない、抗ガン剤だからちゃんと飲まなきゃ」、「えっ、僕ガンだったの?」。自分が心の準備ができないのに事実を知ったとき、後はうまくいかないでしょう。
運命は自分で気付いていく、疑うこと。疑ってくれたらいえるんです。それから「考える力を回復させる」。これはさっきからいってきたとおりです。「慈悲、痛みの共感」。分かってくれる。やっぱり同病相憐れむで分かってくれる人っていうのはすごく大事です。
皆さん、近所や友人で病気した人や家族に死なれた人の話があったら、少していねいに話を聞く方がいいですよ。聞いてあげるのは相手のために救いです。同時に私の人生修行です。聞くのは怖いから人はすぐ「お大事ね」と逃げるんです。それは自分にとってマイナスです。重病の人とがんの話っていうのは怖くて聞きたくないでしょう。そこを勇気を出して聞いてあげる。それは自分のためです。 病人は自分の病気に没頭できるようにしてあげることです。
それから「無条件の愛や信頼」。「死者への愛と尊敬」。インフォームドコンセントで患者が「自分で決める」でなきゃいけないんです。家族のアドバイスは必要です。しかし最終的に、「じゃ、私も手術しようかと思う」。患者がいわなければ。それをお嫁さんや息子が、「親戚の手前もあるんだから手術をしてくれなきゃ困るんだ」っていうとおばあちゃんは反対できない。「もういやだ」と思っても反対できない。そうすると後がうまくいかないそうです。患者は自己決定しなきゃいけない。感謝をすること。それから静寂な心にあこがれること。安心にあこがることです。こんなようなことが考えられます。
= 終わり =







