五つの自我とは?
今日は仏教を皆さんの人生論に役立つような話として申し上げます。「仏教の死生論」と題していますが裏をかえせば生き方論として仏教に近づいていくといってよいと考えています。人間の生き死にと仏教が考える「生死(しょうじ)」とを一致させてくれる研究はそうたくさんないんですね。そういうことを踏まえて私は死の臨床研究に携わってまいりました。神戸を中心にお医者さんと看護師さんが集まって三十年前 (1977年)にできました。人間の生き死ににおいてはどんな問題があって、どのように解消してくれるのかということについて私はこれまでの勉強から「五つの自我」ということで整理することができたんです。
一番最初は「生理的自我」と名前をつけました。体から来る自我の混乱です。そして、それは「症状の分野」と「解消の分野」があるということがわかりました。最初に出てくる自我の混乱は、痛みとかだるさです。ところが、 医者へ行ったらこれこれこういう病気で、こういうふうに治療をしてと言うと、ケロッとします。つまり、病名がわかると知識を持つ。そうやって新しい知識をお持ちになると人間は知性を回復するわけですよね。これが 「知の回復」ということです。仏教というのは 「智慧」の宗教です。智慧のもとは知性です。知性のもとは情報です。正しい情報を得られたら人間の混乱は解消する。それから 「苦痛への恐怖」。これも、鎮痛医療、ペインクリニックというものがあるんだということを知れば随分違う。 ところが日本の医療では、 鎮痛をきちんとしてくれる大病院は50%。それから先へ伸びないんです。なぜか。鎮痛というのは麻酔科です。麻酔科に金をかけても患者は来ないんですよね。ですから外科には金をかける。CTスキャンだとかMRIにはすぐに金をかける。金をかけたら補助金も来る。ところが保険のほうでは、リハビリは六ヵ月で打ち切りだそうです。政府はいいかげんな金の使い方をしてきて、薄情な国になりました。
神経ブロック療法。胃袋の神経はどこから背骨に入っているかわかっていますから、そこへ麻酔薬を打てば、胃がんがどんなに進もうと、本人はさわやかに生きることができる。しかし、外科の医者はそういうことを認めない。 外科は土建屋みたいなものだそうでして、患者の精神生活、クオリティー・オブ・ライフ(QOL)というものを無視しているんです。だからとにかく治療治療と。痛みを取って、残された時間を人間らしく過ごしたいと。こういう方向へ行くのは、座薬も今は進んでいますし、鎮痛がまず一番重要なんです。
挫折の重要性を考える
次に「身体機能を失う恐怖」。乳房を失う、髪の毛が抜ける、膀胱を取る、直腸を取る、卵巣を取る、これに打ち克つのは目的意識です。今、自分は何をすべきなんだ、という。ところが、それに対する対処法のもう一つの大事な点が、「仏教的視点」にあります、喪失体験。
小此木啓吾さんの『対象喪失』という本があります。 何かというと、愛の対象を失うこと。失恋、受験の失敗、 家族に死なれる、乳房を取る、ペットに死なれる、特に配偶者に死なれることですね。
喪失体験を持っている人は、乳房を失う、子宮を失う、 卵巣を取るということに耐えられる。プライドを失うことなんです。ですから、既に経験しているとそこでもって逃げないわけですね。昔の年寄りなんかは平然と死んでいった。
だから、一度も挫折した経験のない人が危ない。リストラ、定年退職。私は失業体験は十七歳の一回、それから、今から七年ぐらい前に研究室主任を引退したとき。引退したあと、四月に行ってみたら自分のデスクがないわけですよね。お客さん用のテーブルがあるだけ。その三、四ヵ月はほんとに落ちつかなかったですね。
そうした経験のない人が、ある日突然、奥さんはがんです、余命あと何ヵ月だと言われたら、病院に見舞いに来なくなっちゃうという亭主がいるそうですね。これは対象喪失の経験がないから対応策がない。それで逃げちゃうんです。
次に「社会的自我」ですが、これは、仕事と、経済と、 家族です。「仕事を失う恐怖」。仕事は自尊心ですから。 これも、いま自分は何をすべきかという目的意識をはっきり持つこと。そのためには「おかげさま」。「おかげさま」というやわらかい心が出てこないと......。自分は今、 何かを失うわけですからね、立場なり何なり。そういうものに打ち克つのは、「おかげさま」がないと打ち克てない。
目的意識の大切さ
それから 「経済を失う恐怖」。そのときも、やっぱり「人生の意味の回復」、つまり 「おかげさま」という発想が大切です。
それから、「家族を失う恐怖」。家族の問題は孤独の問題です。わかってくれない。何を言いたいかはよくわからないけども、悩んでいるということがわかるというのが 「わかる」ということの出発点。これが病気のとき必要だと私は思うんですね。
それに対して「解消の分野」は、家族が、部活をやらないですぐ帰ってくるとか、会社が終わったらすぐ飲み会を断って帰ってきて、台所を手伝うとか、洗濯物を手伝ったり、病院に物を運んだりとかいうふうに子供やなんかがやってくれる。つまり子供が自分の役割を発見するわけです。そうすると非常に病人は安心する。と同時に、病人は 「病人の役割」に気づく。
病気になっても、役割を持つほど復活できる。これが 「ともに泣く」ということの中に私は入っていると思うんです。
医者が言うんですけど、経済、仕事、家族に関するトラブルに対し、借金、引っ越し、裁判、人事異動、この四つがあると病人は死ぬに死ねないそうです。
死にそうな病人がいるときにこういう四つの問題があったら、すぐ解決するか、先送りしなさい。そして、病人が自分の病気に没頭できるようにしなさいと。
ところが、じゃあ、そんな心配事があって死ぬに死ねないのに死んだらどうなると思いますか。化けて出るしかないんです。
ですから皆さんね、仏教的死生観というのは単純だと私は思っています。成仏ということも単純だと思っています。人生よかったというだけでいいんです。 そうしたら輪廻しないんです。インド人は輪廻したくなかったんですからね。
それを一歩進めたのがお釈迦さまで、「解脱」と言った。そういう問題から解放されている。そういう意味では、輪廻、天、解脱と、進歩していきます。
三つ目の「生命的自我」というのは、自己の生命が断絶する恐怖。キーワードは何だというと「断絶」という言葉です。
断絶の反対は「連続」です。これを覚えておいてください。
私たちが死ぬというときに恐怖を持つのは、あの世とか、そういうものに恐怖を持つ。ところが、あの世に尊敬する人がいたら私たちは連続感があります。だから医者は、がん患者が末期になって墓参りしたいと言ったら、極力実現させてください。墓参りをすると非常に落ちつくそうです。なぜか。連続感を回復する。
あの世には大切な人がいるじゃないですか。それで浄土真宗のお墓にこういうお墓がありまして、倶会一処(くえいっしょ)と彫られている。一処って、阿弥陀様のお浄土の蓮(はす)のうてな。あの蓮のうてなのところがハチ公前ですよというんですよ。いいですねえ。待ち合わせ場所。
断絶感を超えるということが恐怖を超える方法なんです。怖いのは人間ですよね。生きている人間が一番怖い。 まして他人であることが怖い。墓地がすごく温かく感じたのは、連続感があるからです。
つまり、あの世とか、そういうものとの断絶観というのは恐怖なんですね。
人はいつか死ぬという原則
それから、四番目が「哲学的自我」。これは何かというと、「原理が自分のことになる」死ぬということです。 「人は死ぬ」という原理原則。これは大体、小学校四年生、十歳からわかるそうです。ところが、ある日突然、 その原理が自分のことになるからうろたえる。原理が自分のことになる。同時にそれは自分を問われる。おまえはどうだと。それから、「体の事実と心が一致しない」。体が衰えてくると気力がなくなります。ですから脳のほうも気力がなくなって、おのれをコントロールできない。つまり、「哲学的自我」を維持できなくなるわけです。
そして、「宗教的自我」というのが五番目ですけども、 奇跡への期待、罪や罰、負い目、運命を憎んだりする形で、一番中心は負い目です。日本人的にいうと、負い目が宗教的には一番土台にあります。最近はスピリチュアル・ペインなんて言いますね。宗教的痛み、精神的痛み。
つまり、宗教的な痛み、負い目というものが、人間をゆがめている。ほかの条件とつながっている。それをどういうふうに解消するのかということですよね。そうすると、 ここでもって負い目というものに対して、それを吐き出したり精算したりする何らかのきっかけがあることが重要になってくるわけです。
こういうことが、私が考えた「五つの自我」。そうすると、仏教で考える死生論というのは、現場の患者、家族の混乱と歯車が合う形で提示ができるというのが私の主張であります。
= 終わり =







