中野東禅先生

宗派、宗教のいろいろ(第17期スクーリング講義録)

2004年6月20日 第17期スクーリング講義録

お経の歴史

 日本の仏教宗派を知るための基礎資料として、 まず、 インド仏教の歴史を見てみましょう。 お釈迦様はキリスト紀元の四百六十三年前に生まれて、 三百八十三年前に亡くなった。 お釈迦様が亡くなるとすぐ、 第一回の仏教徒会議、 すなわち結集 (けつじゅう) が行われて、 みんなが記憶を述べあった。 そのとき、 私はこのように聞きましたというので 「如是我聞」 という言葉から始まるお経のスタイルができたわけですが、 各自が聞いたところを調整した上、 お経と戒律がきちっと確認されました。 お釈迦様は四十五年もお説教をし、 何万人という人が聞いたんです。 人によっては内容も違っていたためにみんなで調整作業をしたんです。
 その五十年後に、 アレキサンダーという人がインドへ行きました。 これが後に仏教に大きな影響を与える。 すなわちギリシャ人の文化がインド文化圏にできることになりますが、 さらにその五十年後、 つまりお釈迦様から百年後に第二回の仏教徒会議が行われました。 主催者はアショカ王という人です。 この人はあんまりひどい戦争をしたことを反省し、 仏教で平和をつくろうとしたわけです。 そしてインドにいろんな福祉活動や、 お釈迦様の記念碑を建てて、 それが後に歴史上非常に重要な証拠になるのですが、 この第二回結集を経て仏教教団は上座部と大衆部の二つに分裂します。 上座部は長老派でお釈迦様の言ったとおりに守ろうとした。 これに対して大衆部は時代や社会が変わり職業も変われば、 お釈迦様の教えも応用して考えるべきだという姿勢です。 この大衆部が後に小乗と大乗に分かれるわけです。
 一方でストーパ信仰がおこってきます。 お釈迦様のご遺骨は全体で十カ所に祭られましたが、 ご遺骨を祭ってあるストーパのところへ来る人たちから、 さきほどのギリシャ人の影響で仏像も生まれるようになった。 そういうストーパや仏像を信仰する人たち、 すなわち民衆に近い人たちの中から大乗仏教が出てくるようになった。 紀元前一世紀のころで、 これに対して学問するお坊さんたちのほうは小乗仏教になっていった。
 大乗仏教と言われる人たちは、 お釈迦様の教えの中の 「縁起」 という考え方を 「空」 というように言って、 『般若経』 という形に再編集する。 つまり、 大乗経典というのは再編集運動だと思ってください。 そして 「空」 を実践面から述べたのが 『維摩経』。 さらに、 宇宙は無限縁起であるというような思想の 『華厳経』 が編集され、 日本では奈良の東大寺に伝わる。 それから天台宗や日蓮宗の 『法華経』。 すべては仏の御命であるというようなものが編集される。 『勝鬘経』 『涅槃経』 『如来蔵経』 には、 仏性と言って、 人は仏心を持っているというような思想が再編集される。 これらは全部、 お釈迦様がしゃべっているもとがあり、 それをもっと強調していく。 だから全く新しいものではないんけれど、 お釈迦様がしゃべったとおりのものでもない。 これが大乗経典の特徴なんですね。
 その次に 『無量寿経』 『阿弥陀経』 などが編集されてくる。 その主人公の阿弥陀様は光の神様というんですが、 幾つかの説があって、 仏教よりもキリスト教よりも古いのは、 ゾロアスター教という中近東に古くからある宗教で、 その中にアフラ・マツダという光の神様がいまして、 それが阿弥陀様になったという説と、 インドに光の神様がいて、 それが阿弥陀様になったという説があるそうです。
 次は 『解深密経』。 これが唯識思想といって、 法隆寺、 薬師寺、 興福寺、 京都の清水寺などの心の学問です。 この唯識思想というのは、 ヨーガと仏教の関係で成立し、 次に 「禅」 が出てくる。 これもヨーガですね。 ヨーガというのは四千年ぐらい前のインダス文明のころからもともとインドにあったもので、 安らぎによって神と一体化するという宗教です。 ですから坐禅は本来的に苦行ではないのです
 そしてその後、 仏教はヒンズー教とくっついて密教というものになります。 仏と人間の出会いは、 概念や、 合理主義や、 理念、 認識では把握できない。 仏と人間の一体化というのは概念を超えている、 というような意味が密教ということでしょうか。 これが弘法大師の系統となります。 以上がまず大ざっぱなお経の成立史です。

日本仏教の姿

 仏教はインドから中国、 朝鮮を経て日本に伝わったわけですが、 その 「日本仏教」 を見ていきますと、 まず奈良仏教といわれるものがあります。 よく南都六宗と言ったりしますが、 現在生き残っている奈良仏教は、 心の研究をした唯識思想の系統の、 玄奘三蔵が研究したもので、 日本では法相宗と言います。 法隆寺、 興福寺、 薬師寺、 京都の清水寺。 法隆寺は、 今は聖徳太子の聖徳宗と言っておりますが、 学問的には法相宗と言われています。
 それから、 奈良・東大寺の華厳宗。 宇宙は無限縁起であるというのが基本の教えで、 だから大仏様は大きいんです。 それから、 空の実践は戒律ととらえたのが 「戒律宗 (律宗)」 で、 井上靖の小説 『天平の甍』 で書かれた鑑真和上の唐招提寺。 この三つが現在も生きている奈良仏教です。
 次は時代の変化とともに平安仏教になりますが、 中心となるのは、 インド仏教の最後のほう、 西暦六世紀以降から十世紀にかけて、 ヒンズー教と一体化して出てきた密教と言われるもの。 仏と人間がどうしたら一体化できるかということを重要視したので 「真言宗」 と言います。 弘法大師が中国からもたらした教えで、 宗派をみると、 まず高野山派で全国に六千カ寺あります。 関西が中心ですが、 関東には東京の高野山別院とか群馬の高崎観音などです。 ほかに豊山派は二千六百カ寺で、 奈良の長谷寺、 東京の護国寺など。 智山派は二千八百カ寺で、 智積院、 成田山。 川崎大師などお大師様といって非常に大勢お客さんが集まるところは大体智山派です。
 それから東寺派は、 京都駅のすぐ南に日本一大きな五重塔のお寺がある東寺が中心。 弘法大師がつくった最初のお寺です。 東寺は日本で一番古い大学を持っているんです。 弘法大師がつくった綜藝種智院大学というもので、 今は引っ越して名前も種智院大学になりましたが、 歴史的には日本で一番古い大学です。 真言宗にはほかに御室派、 大覚寺派などを含め、 全部で十六派。
 それから天台宗があります。 伝教大師最澄が密教のお経と 『法華経』 と禅と戒律の四つをまとめて伝えたものです。 三代目のお方が浄土教を伝えたので、 天台宗は五つの総合仏教になりました。 全国に三千三百カ寺で本山は比叡山延暦寺で、 東京には寛永寺などがあります。 平安仏教はこの二つの宗派です。
 平安末期から鎌倉にかけて、 天台宗の中から念仏だけ、 浄土教だけがだんだん自立していきまして、 その代表格が法然上人の浄土宗で、 七千カ寺。 京都の智恩院、 東京でいえば増上寺などです。 法然上人の弟子の親鸞聖人が始めたのが浄土真宗。 通称 「お西」 といわれる浄土真宗本願寺派の一万五百カ寺と、 「お東」 の真宗大谷派八千九百カ寺をはじめ、 全部で十一派といわれます。
 浄土宗と浄土真宗の違いは、 浄土宗は別時念仏で木魚をつけて南無阿弥陀仏を唱える。 ナームアーミダブ、 ナームアーミダブと唱える。 ところが親鸞聖人のほうは 「ナンマンダブ」 と唱えます。
 次にやはり天台宗で勉強して、 禅を求めて中国に渡った栄西禅師の臨済宗があります。 栄西はお茶も持ってきて 『喫茶養生記』 というお茶の健康法の本を書いた。 京都の建仁寺、 博多の聖福寺などが有名ですが、 三千四百カ寺の妙心寺派をはじめ南禅寺派、 建長寺派、 円覚寺派など全部で十八派、 六千カ寺近くになります。
 それから、 同じく比叡山で勉強して栄西禅師につき、 さらに中国へ行って曹洞派の禅を伝えたのが道元禅師。 曹洞宗は永平寺、 横浜の総持寺など一万五千カ寺。
 そして、 比叡山で勉強し、 真言も勉強して、 『法華経』 だけ独立させていった日蓮上人の日蓮宗。 身延山久遠寺、 池上の本門寺など五千カ寺です。
 時代は下がって江戸時代に中国からやってきた隠元が伝えたのが黄檗宗。 これは臨済宗なんですけども、 四百年時代がずれた黄檗形式の臨済宗になっており、 日本の臨済宗とは全く違うんです。 念仏禅だし、 儀式も読み方も発音も違うんですね。 臨済宗と黄檗宗は教えは同じなんですけども、 少しずつずれている。 黄檗宗は京都の南のほうの万福寺を本山にして四百六十カ寺あります。

大乗仏教の構造

 日本の仏教宗派はインドの大乗経典に対応したような姿になっていますので、 やはり大乗仏教そのものにも触れなければなりません。
 人は 「凡夫」 といって煩悩に汚れています。 ですから仏様とは断絶していると思って、 努力して悟りを求めようとします。 そうすると努力した人は救われるでしょう。 頭のいい人、 お金のある人は努力できます。 行だって、 体の丈夫な人ならできますよ。 反対に努力の出来ない人、 頭の良くない人、 お金のない人、 体力のない人救われないことになります。 こういう努力主義の矛盾、 論理の不完全性に気づいたのが 「大乗」 なんです。
 では大乗仏教はどんな構造になっているのか。 まず、 真理というお釈迦様の教えの基本は 「縁起」 です。 縁起の 「起」 という字は存在、 「縁」 は条件の集合という意味ですから 「縁起」 というのは、 存在は条件の集合であるという意味になります。 太陽系も銀河系も地球も、 不思議な条件の調和のもとにありますから、 みんな縁起です。 条件というのは常に変わります。 条件が変わる以上、 その集合体である存在も同じ状態ではあり得ない。 つまり 「無常」 である。
 それに 「無我」 の教えもあります。 皆さん自分で設計して生まれてきた人いますか。 命について何の自己主張もできない。 存在の本質は自己主張ができないということですね。 「無為」 というのは、 損得ではない。 「為」 は損得ですから、 無為は損得ではない。 「空」 というのは、 こだわりようがないもの、 変化するもの。 そんなような命の根源は 「涅槃」、 完璧な静寂という意味です。 以上がお釈迦さまによって説かれた仏教の真理というものです。
 これに対して、 私たち凡夫は 「妄縁起」 の存在です。 損得という煩悩に汚れた縁起ですね。 煩悩の基本は自我です。 自我中心でものを見ると 「常」 にとらわれる。 変わらない、 ということですね。 自分の命は変わらない、 結婚したら夫婦は変わらない、 会社は変わらない、 自分の地位は変わらないと錯覚するわけです。 特に健康なんかは、 お互いに健康は変わらないと思っているけど、 ある日突然、 まさか、 まさかという事態に見舞われる。
  「有為」 というのは、 損得でしか行動しない。 ご寄付なんか見たらわかりますよ。 皆さん、 損得でなきゃご寄付しないものね。 人に物をあげるのだって、 お土産を買ってくるのだって、 損得でしかおつき合いをしない。 全く人間は有為でございます。 そういうのを 「有」 というんです。 私 (わたくし) がある、 存在しているという錯覚。 そこからものを見るから 「輪廻」。 愚かさを繰り返す。 夫婦げんかとか人の悪口とか、 そういう形でもって繰り返してしまう。
 ところがここに 「菩薩」 という存在が出てきます。 まず自分が人の悪口を言ったり、 夫婦げんかをしたり、 病気になったり、 亭主や女房に死なれたりというときに 「なぜだ」 と疑問を持つ。 何で私は人を裏切り、 人の悪口を言ってしまったんだろうと、 自我というものに疑問を持つ。
 その持たせる力が、 右の縁起、 無常、 無我という 「真理」。 真理が自分に目覚めさせるんですね。 愚かな現実がおかしいと気づかせる。 それが 「智慧」 「自覚」 です。 そして 「無常を悟る」。 人は死ぬ。 「無我になる」。 損得ではない。 「無為になる」。 損得を超えられる。 「空になる」。 心が自由になる。 そして 「輪廻を解脱する」。 夫婦げんかや、 親戚との遺産相続の争いなんかから自由になる。
 以上のように 「凡夫」、 「菩薩」、 「真理」 という三つの言葉で基本構造が全部わかる。 これが大乗仏教ということになります。 縁起、 無常、 無我、 無為、 空というのが存在の本質。 それに対して現実。 つまり凡夫のところが現実。 現実は妄縁起で、 常で、 我で、 輪廻である。 それに気づいていくのが菩薩の段階で、 無常を悟る、 無我になる。
 インド哲学の重要な点は、 「知るということはなることだ」 と言うそうです。 知るということは、 なるということだ、 と。 愛を知るというのは愛になることだ。 愛にならないで愛の説明はできない。 ですから、 知るということはなることだ。 だから、 まさに菩薩のところは 「なる」 ことなんです。 空になる。 こういうことなんですね。

「初発心時便成正覚」

 凡夫がなぜ、 お経でも勉強しようか、 写経でも勉強しようか、 坐禅でもしてみようか、 お念仏でも唱えてみようか、 という気になるのでしょうか。 私はそうしたことを 「でも坐禅」 「でも念仏」 と言うのです。 念仏でもしようか、 写経でもしようか。 皆さんの中には、 国際仏教塾でも入ってみようかってね (笑)。 昔、 「でもしか先生」 っていたでしょう。 学校の先生にしかなれない、 学校の先生にでもなろうかってね。 今、 お寺の住職にも 「でもしか坊さん」 は多いですよ。  だけど、 坊さんにでも、 写経でも、 坐禅でもしてみようかなどと、 「でも」 と思ったときに、 実はそれは真実の呼びかけであるというのが仏教の立場です。 つまり、 そのときに何かしら心が動いているのです。 仏からの呼びかけがあった。 凡夫だからといって仏と断絶しているわけではないのです。 断絶していないから、 私たちの命の根源が清らかだから、 その清らかさが呼びかけて、 夫婦げんかやなんかしたときにおかしいと気づく力がある。 おかしいと気づいたから、 坐禅でもしてみようか、 写経でもしてみようかというのですから、 「でも」 というのは実はもう仏の呼びかけだったと見るべきです。 これを 「初発心時便成正覚」 と言います。
 お釈迦様の悟りの内容は 「真理」 ですが、 縁起、 無常、 無我、 空であり、 その根底は涅槃、 完全な静寂です。 損だ得だ、 好きだ嫌いだというふうに染まる以前の涅槃がすべての命の共通項ではないか。 坐禅なり修行によって涅槃に至る、 と考えるからおかしくなるのであって、 あらゆる命の根底は涅槃ではないか。 そうしたら、 涅槃のほうが先ですから、 涅槃が土台です。 分母です。 だから分母に戻る。 分母がもともとあるのだから、 戻ればいいのですよ。 そうしたら、 だれでも成仏することが可能でしょう。 ないものを獲得するのだったら、 これは 「だれでも成仏」 と言われません。 ところがもともとあるものに戻るのだったら、 すべての人は救われると言えるでしょう。 だから大乗と言うのです。
 小乗は努力主義で、 努力した人だけ救われるのだから小さな乗り物。 大乗というのは、 すべての人の命はもともと静寂である、 清らかである。 それが染まって動いているのだから、 自分がおかしいと気づいたら、 本来の静寂というものが働き出した。 そこから努力する。 そこから勉強する。 だったらすべての人はその可能性があるから大乗だと。 すべての人が乗っかっている。 これが小乗と大乗という論理の立て方の違いなのです。
 その静寂を仏性といいます。 仏の命、 仏の心、 それが土台にあって、 それがすべてを包んでいて、 これではいけないと気づいたとき、 すでに悟りの自覚は始まっている。 そこで智慧・慈悲という仏の徳性となって私の中で働き出して、 仏の行為、 つまり仏が私たちに呼びかけ、 私たちはそこから努力をするのです。
 菩薩というのは、 仏からの呼びかけを受けて、 私たちはその促しによって、 写経でもしてみようか、 念仏でもしてみようか、 写仏でもやってみようかというふうに働き出して、 「発心」 になるのですね。 つまり、 そういうものを何となく信じられるから、 足は痛いけども、 ズボンはしわになるけれど足を運んで、 会費も納めなきゃならないし、 テレビを見ていればいいのに、 テレビも見ないで坐禅会に来るのだから発心と言うわけです。 そして、 「修行」 は、 これを妙修といいます。 仏の本願に呼びかけられて修行するから妙修というのです。 そして 「菩提」 という悟りに落ち着く。 信仰に落ち着いていきます。 そして 「菩薩行」 と言って人のために働く菩薩になるのです。
 こういう順序で行きます。 つまり堂々めぐりをしているわけです。 これが大乗というものの教えで、 『般若経』 から 『法華経』、 密教まで含む大乗経典の基本構造は全部この論理なのです。
 そうしてお釈迦様は人間の姿であらわれて、 結婚して、 八十歳で死んだから、 「相の仏」 と言います。 お釈迦様の説いた真理を 「法」 (ダルマ)。 仏の教えに従って修行する人が 「僧」。 これが仏・法・僧の三宝になるわけです。

三種類の仏と宗派

 仏・法・僧の三宝のうち 「仏」 には三つの種類があり、 一つは 「相の仏」 といわれる歴史上、 実際に存在しておられたお釈迦様です。 二つめは 「本体の仏」。 お釈迦様の涅槃寂静の智慧・慈悲を象徴して阿弥陀様とか大日様とか毘盧遮那仏という、 お釈迦様以外で如来の名前のつく仏はこの悟りの本体をあらわしているんです。 三つめ が 「用の仏」。 用事の用の字は 「ゆう」 と発音します。 用というのは、 出会いの働きという意味です。 出会いのことです。 悟りは人間には見えない。 人間は病気をしたら、 やっぱり病気の中でしか真実と出会えない。 だから、 病気をすると看護婦さんが観音様に見えて、 看護婦さんに恋愛しちゃうでしょう。 子育てしているときは子供が仏さんに見えるでしょう。 大日如来や阿弥陀様の智慧・慈悲なんて見えないんです。 そこで、 見えるためにはやっぱり出会いという契機が必要ですね。 観音とか地蔵とか、 菩薩と言われる仏さんは全部、 この出会いをあらわします。 観音様は阿弥陀様の代理人です。 阿弥陀様の本体はなかなか人間に見えないから、 出会いとしてつなぐのが観音の働きなんですね。 痛みに共鳴して真実と出会うというのが観音という意味です。
 そうするとここで、 仏様というのは、 人間のお釈迦様と、 阿弥陀様や大日如来のように悟りをあらわした仏さんと、 出会いの仏である観音様やお地蔵様という仏さん、 この三種類に分かれるということがわかりますね。 これを頭に入れておいていただくと、 本を読んでいくときにかなりわかりやすくなります。
 さて日本の宗派になりますが、 現在も生きている宗派の中から平安時代と鎌倉時代に誕生したものを中心に見ると、 まず真言宗があります。 弘法大師空海を開祖とする宗派で、 この身のままで成仏できるという 「即身成仏」 を説きますが、 仏の悟りと一体化するということです。 具体的方法は心に曼荼羅の仏を思い、 口に真言を唱え、 手で印契を結ぶという 「三密加持」 です。 その時口で唱えるのが真言であり、 大日如来の言葉とされています。
 次に天台宗の教えがあります。 中国の天台大師が高祖、 最澄・伝教大師が宗祖です。 天台宗の中でわからないのが、 蔵・通・別・円という四教というものです。 天台大師が釈尊の一生涯の説教を内容や形式によって分類したものです。 「蔵」 は蔵経といって 「小乗」 の教えということです。 「通」 というのは、 大乗仏教の初歩で 「空」 というのを理論的に説く。 「別」 は小乗には通じない大乗特有の教えです、 「円」 というのは完全な教えということで、 具体的には華厳の教えを指します。
 問題はこうした教えが実際の人生とどう関わるかということです。 『般若心経』 は 「空」 の神髄を二百六十二文字にまとめ、 写経などを通して最もなじみの深いお経ですが、 理解するのはなかなか大変です。 ともかく大乗仏教の基本は 「縁起」 であり、 「空」 ですから、 初心者にはこれがまず大事なんですが、 理解するだけでも容易ではない。 たとえば 「空」 になるということは、 ニヒルになることではありません。 空になるということは、 理論から一歩進んで自由になるということです。 ということは現実を大切に生きるということなんです。 がんになったらがんというところで、 そこにこだわりなく生きる。 病気になったら病気のところで、 死ぬときには死というものをどう大切に生きて、 人を苦しめず、 みずからも苦しめず、 よかったと言えるように生きるか。 大切に生きるというんだったら、 仏教というのは難しいものではないということがわかるでしょう。 肝心なのは現実をどう大切に生きて、 お互いよかったと言えるように死ねるかということなんですからね。
 次に阿弥陀仏の極楽浄土に往生して成仏することを説く浄土教があり、 日本ではまず浄土宗。 法然が宗祖で、 「正定の業といふはすなはちこれ仏の名を称するなり」 と口称念仏を唱えました。 お弟子の親鸞が開いたのが浄土真宗。 インドから中国にきた達磨によって始まった禅宗は、 その後臨済宗、 曹洞宗、 黄檗宗として日本にも伝わり今に続いているわけです。 比叡山で学んだ教えの中から法華経だけを取り出したのが日蓮で、 唯一人物の名をとって日蓮宗となっております。

葬式は大乗仏教の表れ

 最後に日本の新興宗教に触れておきますと、 天理教、 大本教、 世界救世教、 それから分裂する真光教、 パーフェクトリバティ教団のPLなどは全部、 神様、 つまり神道の系統です。
 キリスト教系は、 ものみの塔聖書冊子教会、 これがエホバの証人です。 それから末日聖徒イエス・キリスト教会がモルモン教。 ソルトレークシティーのオリンピックのときに、 一番お金を出して会場になったソルトレーク市。 日本でもかなり広がっており、 世界中に広がっています。 いずれも霊魂信仰です。 それから世界基督教統一神霊協会の統一教会。 韓国の文鮮明という不動産屋を中心に、 「お父様、 お母様」 と集団結婚式をやっていますね。
 仏教系では、 まず本門仏立講がありますね。 長松日扇という人が明治維新前後につくったもので、 その影響を受けたのが霊友会です。 霊友会から独立したものが立正佼成会。 横浜の孝道教団。 仏所護念会教団とか。 創価学会は日蓮正宗の信者団体です。 それから真言密教系に解脱会、 真如苑、 阿含宗、 オウム、 辨天宗。 その他臨済系もあり、 さらに戦後になってヒンズー教系がやってきました。
 こういうような新興宗教があって、 伝統仏教の奈良仏教、 平安仏教、 鎌倉仏教が同時に活動しているということで、 これらを知っておいていただくと、 現実の宗教の姿と伝統仏教の教義というもののイメージが整理できるのではないでしょうか。
 さあそこで話をもとに戻しますと、 日本仏教のすべては仏の御命の中である。 その中で我々は努力をするんだ、 発心修行をするんだ、 というのが大乗仏教だと先ほど申し上げました。 そういうものの一つの事例をお話しいたします。
 新幹線が仙台の駅に入っていきますと、 左側の下のほうにお寺がたくさん見えます。 その中に泰心院というお寺があるんです。 江戸時代の僧録所、 お寺の役所みたいなものですが、 そこにいたのが損翁宗益というお坊さんです。 この人の弟子が、 面山瑞芳という曹洞宗では当時一番の学者です。 道元禅師の 『正法眼蔵』 なんかを日本じゅう歩いて集めた。 この面山さんが、 損翁宗益というお師匠さんのもとに三年間しか一緒にいなかったんですけども、 逸話を百八集めて書いているんです。 その中にこういう話が一つあります。
 このお寺の檀家に刀鍛治がいて、 Bというよそのお寺で坐禅をしていた。 相当長いこと坐禅していたらしい。 この刀鍛治が亡くなりましたら、 Bというお寺から若いお坊さんが使いに来まして、 「刀鍛治のお葬式は菩提寺の泰心院でなさるわけですが、 住職が申しますには、 あの刀鍛治はB寺で長いこと坐禅をしてきましたから、 もう十分悟りを開いている人です。 ですから、 悟っていない、 迷っている凡夫をあの世に送るような葬式はしないでほしいと住職が申しますので、 伝言に参りました」 と言った。  皆さん普通、 葬式ってそう思うでしょう。 葬式は迷っている人をあの世に送ると思っていますよね。 そう言いに来た。 そうしたら損翁さんが 「ああ、 おまえさんところの住職さんは、 迷っている人をあの世に送る葬式をするのかね。 私はいまだかつて、 迷っている人をあの世に送るような葬式はしたことがないんだよね」。 さっき言った大乗と小乗のことです。
 本来、 仏の御命です。 現実には、 煩悩があるために、 損だ得だ、 人殺しなんかをするけども、 根底は仏の御命じゃないですか。 だから葬式が可能なんです。 だから仏の弟子になることが可能で、 仏の弟子としてお葬式をして、 「あの世はよかった」 と言えるところに送るわけでしょう。 あの世は安心だよというところに行くから、 化けて出ないんだからね。
 それが葬式の意味なんです。 大乗仏教の根底は、 日本でやっているお葬式もすべてそうなんです。 あなたは仏の弟子です。 仏の御命を持っているから、 いま仏教で南無阿弥陀仏、 あるいは南無妙法蓮華経でお葬式をしますから、 あなたはもう往生間違いなし。 だから迷って出るんじゃないよ。 あなたの人生はよかった、 あなたの人生は真実だった、 というふうに飾ってあげるのがお葬式なんです、 と見事に大乗仏教というものの考え方がお葬式の上にも出ているわけです。

= 終わり =

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