三友健容先生

お釈迦様の教え(第13期スクーリング)

2000年6月20日 第13期スクーリング講義録

思想的背景

 仏教というものは一般的に、在家とか、出家とか二つの範疇で見られるわけですが、大乗の空で考えますと、あらゆるものは空であって、固定的な価値観というものはない。姿形よりも本質をとらえていて、なおかつそれにとらわれない世界。そのようなおおらかな世界、すばらしいなあと思うんです。そういう世界の一端を皆さんと一緒に味わって、お話ができればというふうに考えております。
 お釈迦様は大体紀元前四六三年から三八三年ごろに活躍をされたということになっております。八十年の生涯です。当時のインド社会を見ますと、ヴェーダだとか、ウパニシャッドだとかという、非常に哲学的、同時に宗教的な思索というものが行われておりまして、その中にすでに輪廻転生の問題が論及されております。
 後に先住民を征服してインドアーリヤ人と呼ばれるようになる人たちは遊牧民族でした。死後については非常に楽天的に考えておりまして、死ねば皆、理想世界に行かれるのだと考えていたようです。理想世界というのはどこにあるのかというと、この世ではないところ、あの月の世界が理想世界であろうと考えた。やがて定住生活を営み始めますと、人を殺したり、侵略したり、盗んだりということを認めますと、社会が崩壊してしまいます。そこで道徳観念が芽生えてくるんです。
 そのような道徳観念の中で考えられてきたことは、悪人か善人かということを区別をしようというふうな考え方です。それに応じて理想世界にいつまでもいられるようにするにはどうしたらいいのか。そこで多くの人たちに施しをしたり、あるいは宗教行事を行ったりして、日常生活の中で、より向上したものを求めるようになってきたんです。

輪廻転生説

 さて、極悪人のほう、いわばそうでなくても長くいられない者、死んだ者はどうなるのか。そこで出てきたのが輪廻転生説です。
 人間は死にますと、荼毘にふされ、煙となって月の世界へ行くのだと考えていたわけです。逆の、空から降ってくるという現象を、最も身近に感じますのは雨です。魂が理想世界から雨となって地上に降りてまいります。地上に降りてまいりますと、それが食物、いわゆる果物だとか野菜だとかに吸われます。それが食べ物になるわけです。たとえば後に家畜に生まれてくるようなものは、家畜に食べられますし、次に人間に生まれてくるようなものは人間に食べられるようになる。それが今度は体の中に入りますと男性の精子となって、母体に着床し、子供が再び生まれてくる。こういうふうに五段階でこの世に舞い戻ってくるんだという考え方です。これに対して、先祖ないしは神々の道というものに従った者は、輪廻転生から解脱することができるというふうに考えたわけです。
 お釈迦様は紀元前五世紀の生まれですから、当然、当時のインド社会のものの考え方というのは反映されてくるわけです。しかし、お釈迦様は特に輪廻転生ということに強くは言いませんでした。
 死後に存在するのかどうか、宇宙の果てはあるのかどうかという問いに対しても、お釈迦様は、お答えにならなかったのです。これを「不記」と言いますが、仏教以外の方が、お釈迦様は一切智、あらゆる智慧を持っておられるというけれども、答えられないじゃないか。答えられないということは、お釈迦様の智慧というものはまだ不完全なんだという言い方をいたしますけれども、お釈迦様は無用な議論というものを避けられまして、答えなくてよろしいもの、答えることによってかえって誤解を生ずるものについては、黙して語らずという態度を取っておられます。
 そうしたことをあれこれ考えたり議論したりするよりも、まずこの世で何をするのかということが大事だと。過去について思い迷うことなく、また未来について、これから来ることについて、いろいろくよくよしたり、あるいは期待をすることもなく、ただ現実に対してしっかりとした歩みを進めよというのが、お釈迦様の基本的な立場です。

死後の問題も

 教団が大きくなるにしたがっていろいろな問題が出てまいります。若い人がお釈迦様の弟子になって修行をして悟りを開ける。これは幸せです。じゃあお年寄りで教団に入ってきて修行途中で死んでしまった人、あるいは、若くして入っても健康上の理由だとか、何かの事故で亡くなってしまった者、この人たちはまた輪廻転生を繰り返してしまうのか。こういう問題が起こってまいります。
 お釈迦様が地方にまいりましたときに、村の青年が、ぜひとも自分はブッダのもとで出家をして解脱をしたいと、ブッダのいる方角のほうへ歩いてまいりました。夜がとっぷりと暮れてしまいまして、洞窟で一夜を明かそうとするんですが、その中に一人の修行者がすでにとどまっているんです。朝、夜が明けてまいりますと、その修行者がただならぬ威容にあふれているのを見まして、その青年は、ことによったらあなたはブッダじゃありませんかと聞いたところ、そう、我こそがブッダであると。青年は非常に喜び、ぜひとも弟子にしてくれと頼むんです。そうするとお釈迦様は、三つの衣と托鉢用の鉢をそろえてきたならば弟子にしてあげましょうと言います。
 喜び勇んだ青年が村で衣と鉢を求めてくるんですが、途中で象に襲われ、命を落としてしまうわけです。それを後に知ったお弟子さんたちから、あの青年は亡くなってから先どうなるんでしょうかという質問をされます。お釈迦様は、あの者はすでに真理の流れの中に入ったのだ、だからこの世で長くとどまって輪廻転生を繰り返すことはないということを言いまして、次第次第に死後の問題についてもお話をするようになるんです。
 そういうものを整理してまいりますと、阿羅漢という最後の悟りを得る前段階にもう一歩のところで亡くなってしまった者、最後の仕上げをこの神々の世界で行えばもう悟りが開ける者、あるいはもうひと度この世に戻ってきて悟りを開くことができる。あるいは、真理の流れに入った者など、それぞれの人々に適した教えを説かれるようになるんです。

修行についての考え

 あるとき、アヌルッダというお弟子が説法の途中で居眠りをしてしまいます。お釈迦さまに叱られたそのお弟子は、柳の枝で目のまぶたを押さえてしまうんです。まぶたが閉じないようにしてしまいます。まぶたが閉じなければ目が乾いてしまいますから失明してしまいます。それでお釈迦様が心配して聞きますと、自分は説法の座で居眠りをしてしまった。以後居眠りはしまいという誓いを立てたんですと。お釈迦様はやめなさいと言うんですが、やめないんです。とうとう目をつぶしてしまいますが、目をつぶしたときに悟りを開くことができた。天の眼、天眼を得たと言います。
 そういうお弟子さんのように、中には極端に苦行主義に徹する方もいるんです。お釈迦様は自分自身が苦行をして、一日に一つの麦と一つの種を口にするだけで一切食べないで坐禅をして、という苦行を積んだ結果、苦行主義というものは決して人間に幸いをもたらすものではない。ほどほどというところが一番大事なんだということを悟ったわけですが、お弟子の中には、せっかく仏教に会えたのだから、何とかして悟りを開きたいと一心不乱になります。
 そのときにお釈迦様が言うには、琴の音というものを聞いたときに、弦は強く張り過ぎてもいい音がしない、かといって弱くてもまたいい音がしない。微妙なところで非常にいい音が出る。修行というものも、苦行主義というのは努力することが尊いのだけれども、度を越してしまうと張り詰めた弦のようになってしまう。かといって、怠惰な生活では、これもまただめなんだということです。
 日常生活の中で一つのリズムをつけて行うということ、これが継続して行われると、初めのうちは苦しいように見えますが、身についてしまいますと、それをやらないとかえって体の具合が悪いです。そういうふうにして、仏道修行というのは毎日の積み重ねのうえで行われてくるんですが、お釈迦様もそれを言いたかったのだろうと思います。

正見と邪見

 さて、お釈迦様は一体全体何を悟られたかということです。テキスト(NHKブックス・中村元著『原始仏教-その思想と生活』)の四十六ページあたりに、原始仏教の基本的な立場としてお釈迦様のものの考え方が明確に出てまいりますが、仏教では物事を正しく見る、これを正見と言います。これに対して誤ったものの見方というものを、邪見と言います。我々はものの考え方が、どこか狂ってしまったり偏ったりしているがために、正確な判断というものができなくなってしまうわけです。
 正見を知るためにはまず邪見を知る必要がありますが、お釈迦様が否定される邪見の最たるものは、宿命論。例えば不幸に遭いますと、あなたは前世にこういう悪いことをしたからこうなったのよ、だからだめなのよと言って、すべてが過去の業が原因だというふうにして見るのを宿命論と言うんです。仏教は、「人間は業によって」と言いますが、正しい行いをすることによって、あらゆる人間環境というものも変えられると見ているのでありまして、宿命論というのは、いかに努力をしても皆、過去に決まってしまっているんだというふうに考えている。人間の努力というものが、宿命論からは出てきません。
 次に「一神論」ないしは「一因論」。すべてこの世は神様がつくったんだと。あなたが不幸なのも私が幸せなのも、神様が決めたことだからいかんともしがたい。不公平に見えるけれども、神様は公平なのだから、私は幸せになれた、でもあなたはだめだと。こういうのもだめなんです。神様が全知全能で、本当に愛情あるならば、なぜみんな平等に幸せにしないんだろうか。キリスト教もこれに似たような考え方で、天地創造から始まり、すべては神、唯一絶対なる一つの神様がつくり出すということになっています。
 一つの原因によってということもあり得ないと言うんです。川はなぜ流れるのか。第一原因はそれは引力でも何でもない。神様がそうするからなんだということに行き着いてしまうんですが、これもちょっとおかしいではないか。三番目は、すべては偶然で、原因もなければ結果もないという考え方。これも邪見です。

縁起の教え

 正しい考え方、すなわち「正見」は「縁起論」なんです。縁起論というのは、あらゆる現象というのは直接的な原因、間接的な条件、これが縁ですが、原因と条件、因と縁というものがあって初めて結果というものが生まれてくる。例えば花が咲くのに、種があれば花が咲くかというと、種を密封しておけば発芽しません。それには水分が必要ですし、太陽が必要ですし、酸素も必要なわけです。そういう条件があれば初めて原因となる種が発芽をして花が開いてくるわけです。あらゆるものは必ず原因があるし、諸条件というものが、重なり合わないとできない。
 我々の現実世界には、生・老・病・死という四つの苦しみと、愛別離苦。愛する者と離別する苦しみ。あるいは怨憎会苦、嫌だなと思う人とも一緒に過ごさなければならない苦しみ。求不得苦、求めても得られない苦しみ。五陰盛苦、我々の肉体があって、それがもとによっていろいろな過ちを起こしてしまったりして苦しみを繰り返してしまう。これが四苦八苦です。苦しみを起こす源は何かと言うと、これは「無明」という煩悩なんだと。そういう煩悩というものを滅ぼしてしまえば、ここに涅槃というものが得られる。理想的な心の安らぎが得られる。それに至る方法論というのは、八正道と呼ばれる正しい生活というものが基本なんだと。これを繰り返していれば必ず悟りに至る。ここにはある特定の神様がいて、不可思議な力を出したり、あるいは何か特定なことをすれば得られるということではなくて、自分自身が努力することによって、必ず得られるという論理が働いているわけです。
 これが本当の意味の「自業自得」です。お釈迦様の仏教、インド仏教は原始仏教を通じまして、自業自得ということ、悟りを得るためには、自分自身がそのためのものの見方というものをはっきりつかんだうえで、自分が行動を起こさなくてはならない。そうすると必ずそこに悟りというものが見えてくるということです。

仏教の発展

 前号はお釈迦様の悟りの内容でしたが、では次に、それがどう発展したかということです。仏教は通常、八万四千の法門と言われるように膨大なものに膨れ上がってまいります。
 お釈迦様の当時も文字はあったと言われていますが、お釈迦様自身は文字活動を行っていません。弟子たちもそうで、文字として残されるようになったのは、お釈迦様が亡くなって三、四百年たってからです。はじめはお釈迦様から教わったことはすべて口から耳元へと、暗記で伝えられました。
 最初は五人の比丘たちに教えを説かれます。そこで仏教教団の最少単位のものができ上がりました。それから、三人の迦葉という兄弟が、さらに外道の弟子だった舎利弗、目蓮という人たちも自分の弟子とともに加わる。こうして仏教教団は一千人、二千人、三千人という大所帯になって生活の維持が非常に難しくなってまいります。仏教教団は耕作や商いをせずに托鉢で生活するわけですが、小さく貧しい村にとっては、施しも大変なことです。
 それでお釈迦様は、当時の経済状況、教団の維持ということと同時に、弟子たちの生活という問題も含めて、「犀の角のようにありなさい」と教えます。二人、三人と寄るとどうしてもむだ話をしてしまう。むだ話からは、心の安らぎ、精神統一というものは得られない。だから基本的なことを理解した後は、良き友が得られない場合には、犀の角のように一人で行きなさいというふうにお教えになった。
 弟子たちは、地方に散らばり、森の中で坐禅をしたり、林の中で深く瞑想したり、といろいろな生活をするわけです。ただ、年に一回だけ、夏安居といって、雨期の三カ月間だけは、一カ所に集まり、お釈迦様の教えを聞いて瞑想するという生活ができたわけです。それ以外は皆、バラバラで生活するわけですから、自分はお釈迦様からこう聞いた、あの人はこう聞いたと、いろんな人間の能力、性格に応じて聞いたこと、受け取り方も違ってまいります。

結集の開催

 そこでお釈迦様が亡くなりますとすぐに、結集というものが開かれて確認するわけですが、三千人の人がいて別々に聞いていれば三千種類の法門があるわけですし、「八万四千」というのは、日本で八百万の神々というのと同じで、非常に多くの教えがあるというふうな意味になろうかと思います。
 お釈迦様がなくなってから仏教運動は大乗仏教運動ということになっておりますから、直接の説法というわけにはいかないんですが、ただ、お釈迦様自身が、自分は真理を悟った、つまり自分がこの世に出ようと出まいと、真理というものは存在するのだという立場を取っておられるわけです。真理を発明したという立場ではなくて、だれでもがこの道を行けば皆、山の頂上に行くことができるのだというふうな態度で一貫しているんです。ですから、仏教では、悟りを開いた人の教えというものは全部共通性があるという見方をしております。
 後に、龍樹という人が『大智度論』という書物をあらわし、その中で仏説、いわゆる仏教とは何かということで、五つの定義づけをしたわけです。まず、書物が説いたもの、これは仏様の説いたものですから、お釈迦様以前の仏陀が説いたものも仏教になる。それから仏弟子が説いたこと。三番目には、天人、神々の説いたもので仏教に合うもの。四番目に仙人、いわゆる仏陀に出会わなくても世の中の無常を感じて、すべてのものは因と縁とによって成り立つということを悟った人たちが説かれたもの。五番目には化人と言って、まだこの世に生まれなくて中有というところにいて、次に生まれてくるべき場所を待っている、その化人の聖者たちが悟りを開いて説かれたもの、これも仏教と呼んでよろしいというふうに考えているわけです。
 後代になって中国から日本に伝わったものが、『大正新脩大蔵経』という、膨大なものにまとめられていますが、基本的には真理というものを悟った人が説かれたものは皆仏教と見なしてよろしいという態度を取っています。このあたりがキリスト教と大いに異なるところであろうと思います。

仏教の定義

 仏教というのは何なのか。いろんな定義の仕方がありますが、必ず共通性がある。「三法印」、あるいは「四法印」と言われるものです。まず、諸行は無常であるという「諸行無常」、次にあらゆる存在には自分の思いどおりになるということはないという「諸法無我」、三番目には一切の変遷無常極まりない世界を通り越したうえに悟りがあるという「涅槃寂静」、四番目に、あらゆるものは皆苦であるという「一切皆苦」、この三つないし四つを基本的に持っていて、なおかつ悟りを開いたものであれば、これは仏説であり、仏教であるというふうに見られています。
 「毒矢の喩(たと)え」という教えがあります。毒矢に当たったときにはまず毒矢を抜かないと命を落としてしまう。ところが毒矢に当たった人が、自分を射った矢が王族が射った矢なのか、だれが自分を殺そうとしたのか、毒矢を射った弦は何によってできたものであるか、あるいは射った人は背の高かったか低かったのか。そうしたことが分からない限り、毒矢を抜いてはいけない。そういうことを言っていたら、毒はたちまち体中に回ってしまうだろう。そうではなくて、我々が今なすべきことは、この現実の世界に生まれてたまたま苦しみというものがあれば、その苦しみの原因を取り除くということが大事なことだ。それ以上の無用の議論をしていると、人生というものは非常に短いから、あっという間に死を迎えてしまうんだというふうにお釈迦様は言うわけです。
 また「群盲、象を撫でる」という喩えのように、自分が見たもの、自分が読んだもの、自分が体験したことだから間違いないと思っていても、実際上は一部分であるということが非常に多いわけです。そのようなこだわりというものを持っていると、せっかくの知識というものが身につかなくなってしまいます。皆さんは『般若心経』で色即是空、空即是色と読みますと、空ということが仏教なのかなと分かりますが、じゃあ一体全体、空というのは何だと言われると、分からない。皆さん、手をにぎってみてください。それは自分のものの考え方なんです。今、私あるいは藤井先生なり諸先生もいろんな良いことを言います。それを自分のものにしようとしたら、自分の持っているものを手放さないといけない。ところが私たちは欲張りですから、自分のものを持っていて、さらに別のものも取ろうとして、結局何も取れなくなってしまう。
 空というのは、持っている固定的な価値観というものを全部捨ててみるんです。捨ててみればもっともっと大きな世界が自分のものになるんです。
 仏教は戒定慧の三学と言いまして、悟りを得るためにはどうするかというと、まずは一定のリズムに合った生活をするということが大事だということです。そのために戒が必要になります。秋風が吹いてきて笹の葉がさらさらと鳴る。詩心のある人がそれによって、俳句の一句でもひねり出すかもしれません。ところが心にやましいものがある人は、せっかくの風流な風が吹いても、だれか人が近づいてきて自分に悪さをするのではなかろうか、あるいは何か不吉なことが起こるのではなかろうか、などと心が騒ぎます。またお盆の上に水があって、そこにあなたの顔が十分に見えますかというと、たぶん心臓がガクガクして手が震え、お盆の水も波打って、自分の顔がそのまま映らない。心が落ち着いていれば、わずかな水でありましても、鏡のようになって、天地万物がそのまま見れる。こんな簡単な道理も、我々の心が揺れ動いているということでは、正確な判断をしたつもりが、正確な判断をしていなくて、とらわれを起こして誤解を生んだり、先入観でものをはかったりしてしまうことがあるわけです。これでは悟りに到達できないんです。
 そこで、日常の生活で戒を守り、二番目の定、心の安らぎというもの、精神統一というものが得られますと、これはもう第三番目の智慧というのがすぐに出てきます。それは先ほどの水の表に天地万物がそっくりそのまま映るように智慧が出てくるんです。戒定慧の三学をおさめてまいりますと、「群盲、象を撫でる」ようなむだな戯論で人生を費やすようなこともなくなってくるわけです。

煩悩即菩提

 さて、お釈迦様が三十五歳で悟りを開かれ、いろいろ教えられて八十歳の生涯を終えられますと、第一結集というものが開かれます。お釈迦様の教えは聞き方によって、とらえ方によっていろいろあったものですから、阿難を司会者として、それぞれが聞いたものを全部確認し、暗記をして、経典の編纂が行われたわけです。こうしてお釈迦様の教えが散逸しないようにするんですが、お釈迦様が亡くなって百年を経ますと、だんだんとものの考え方が変わってきてしまいます。そこでお釈迦様が亡くな
って二百年後、改めて第二結集というものが行われ、さらに六十年ほどたったアショーカ王の時代には、第三結集というものも行われたであろうと言われています。
 いわゆる小乗仏教の時代という、いろいろな部派が活躍する時代になりますが、紀元前後あたりに、従来の哲学的な仏教に対抗して大乗仏教運動というものが出てきます。
 お釈迦様は、悟りを開くにしても自業自得を前提としております。「四諦八正道」と言いまして、それを自分自身が行わなければ悟りは開けないという立場にいるわけです。そうすると、力の弱い人、頭の働きが聡明でない人、そういう人たちはどうしたら救われるのか、という問題が出てきます。そこでお釈迦様の基本的な教えとして「慈悲」が強調され、利他行が説かれます。またお釈迦様は悟りを開かれる前、菩薩として生きとし生けるものを救済したから、我々も同じ道を歩むことによって大勢のものを救う仏になれるんだと説かれます。
 さらに「空」が強調され、画期的なこととして「煩悩即菩提」と
いうことが言われだします。お釈迦様は煩悩をなくそうということ
を教えた。小乗仏教の人たちも、煩悩をなくすために非常に精力を費やしたのですが、大乗仏教では、煩悩という実体があるのかどうか。煩悩も悟りも、本来は空なのではないか、と考えた。実際の人生に照らせば、煩悩だからといってそれを滅してしまえばどうなるのかと言うと、生きる活力そのものも消えてしまうんじゃないか、と考えるわけです。
 要は、むさぼりにしても、悪い意味で使っていくとむさぼりにな
るし、怒りにもなるし、愚痴にもなるけれども、しかし、これを自
分が向上をしたい、さらに自分が研究をしたいと考えると、その意欲というものは社会に大きく貢献することになるだろうし、また、不正に対して怒りを持つ、こうであってはいけないんだというふうにして正しいほうに是正せしめる、これも一つの人間の活力、大きな行動力になってあらわれるだろう。このように煩悩はすなわち菩提なのだというふうにして、煩悩以外に何か特別な悟りというものがあるのだ、とは考えなくなってくるんです。これが大乗仏教のすぐれた特色であると思います。
 人間の誕生にしても、小乗仏教が、人間は煩悩と業によって生まれてくる、輪廻転生の業障と考えた。それに対しまして大乗仏教は、そうではない、我々がこの世に生まれてくるのは、仏教によって大勢のものを救いたいという「誓願」によって生まれてくるんだととらえています。否定的なものの見方でなくて、肯定的に人生を見ようというふうに変わってまいります。
 形だけ見れば、まさに百八十度の転換ということになりますが、しかし、初めに申し上げましたように、仏教というのはお釈迦様が語られたことだけが仏教ではないのです。真理というものはお釈迦様がこの世に出ようと出まいと、真理はあった。お釈迦様はそれを悟ったから仏陀となったのです。
 山の頂に登るにはいろいろな道筋がある。ストレートに行く人もあるし、迂回して行く人もいる。しかしまじめに努力をしている限りにおいては、必ずいつかは山の頂上にまで行けるわけです。仏教では「聞思修の三慧」と言いまして、聞いたことをよくよく自分で考えて、そして実行していく。この三つが戒定慧の三学の慧にあたります。それを身に付け、実践していけば悟りに近づくことが出来ることになっております。皆さんもせっかく仏門をたたかれたわけですから、これからの勉強、精進で、できるだけ多くを聞いて知識をふやし、そして知識にとらわれない柔らかさ、これを持って進んでいただければと願いながら講義を終えたいと思います。

= おわり =

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