日本仏教の特徴
日本の仏教の特徴というのは、インドから中国それから朝鮮半島、それを経由して入ってきた教義を中心に捉えようとしたことであろうと思います。日本に入ったのは公式には百済の聖明王が、日本に仏像とか幡蓋若干を送ったときです。『日本書紀』の中に出てくる記述ですけども、百済の聖明王の上表文というのが存在しています。「この法はもろもろの法の中に最も殊勝たり。解り難く入り難し。この法は能く量りもなく、辺もなき、福徳果報を生じ、ないしすぐれた菩提を成辨す」。 曇無讖訳の『金光明経』という経典の中に出てくる、「仏教を信じるととてもいいことがありますよ、ご利益がありますよ。」という、その記述を基にした上表文というのが作られております。
中国・朝鮮半島を経由して日本に入ってきた仏教は、どんな受け止められ方をしたのか。この上表文の中に見られるように、それを信じればよい結果が得られますよ、そういうものとして仏教が紹介されたわけです。
日本の古代において入ってきた仏教というのは、福徳果報を生じる一つの手段だという位置づけをされ、お坊さんたちは、それに添った営みをしていたのです。
一つは願い事をかなえるための技術として仏教をとらえていたようです。それともう一つ大事な点が、仏教を講じる、経典にどういうことが書かれているかを説法することでした。
これは建物の名称等にも表れています。仏教建築の中に、古代寺院の場合には仏様専用の建物とお坊さんたちが勉強するための専門のお堂が造られます。それは講堂という名前で呼ばれます。
東南アジアの仏教寺院とかに行かれますと、真ん中にお堂が一個あればそれでもう十分。ところが東アジア世界に入ってきますと、なぜか伽藍の中に金堂という仏様を入れる建物と、講堂という、説法専門の堂ができてしまうのです。
東アジア世界では、お坊さんたちが経典を講じる。そのときに、さまざまな作法を伴って経典を講じるというのができ上がってまいります。
儒教の国、中国では人倫の道を大切にしました。中でも、最も大事なものは孝です。親子関係が一番重要な社会の価値観だと考えたのが、中国世界で、その孝を表現するためにさまざまなきちんとした行為を行わなければいけないというので、でき上がってくるのが儀礼の世界なんです。
その延長線上に、作法をしっかりと伴った「講経」という営みが、東アジアの世界では、南北朝のころから始まって、隋・唐のころに非常に盛んになります。
この講経の営みが、日本に紹介された仏教の中でも重要なものとして位置づけられていくのです。 実際に、日本の天皇が仏教に帰依するようになりますと、除災紹福のために経典を講じてもらうことによって、それがかなうと考えていた天皇も現れます。
講経以外はどうだったのか。仏教を見る視点というのがインドの世界の場合には、実は戒・定・慧という三学からとらえていくというのが、一番の基本ラインだと思います。
在家の信者さんたちを含めて、お坊さんたちの一番重要なものである戒めを守り、瞑想を行い、そしてそこから得られる知恵を身につけていく。これが仏の教えの中で一番重要なもの、と考えていたように思います。
しかし、日本の仏教界の、例えば飛鳥・奈良朝の仏教者たちが、経典を講ずることだけに力を費やしていたかというとそうでもありません。月の半分は山間にこもって行をし、修行=瞑想をやっていたようなのです。
法会・法要の始まり
一方、経典を講じるというのは、とても大切なこととして位置づけられました。これが行われる場というのが、法会、法要というふうに呼び習わされています。奈良時代からの大寺院は、法会を営むのが重要な勤めにされてまいります。みなさんも、日本の仏教に接するときに一番最初に接したのは、多分法会だと思うんです。基本的にわたしたちは仏教に、法会を介して接しています。これ実は日本の仏教の一つの特徴だろうと思います。
この法会のときに古代には、約束が決められました。まず最初に「聴衆」というのが決められます。それから経典を講説する方は「講師」という名前で呼ばれますが、講師も決められました。
今聴衆といいますと誰でも聞けると思ってしまいますが、この時代は法会の席に与れるのは選ばれた優秀な人たちだけでした。維摩会とか最勝会とか御斎会という三つの法会が奈良朝期の末から大体平安時代の初期にかけて、しっかりとした形ができ上がったと考えられています。そこに与れる人は大体10人あるいは 20人ぐらいです。
経典を講じて、講師が説明をします。法会は、ある時期から講師の説明が終わると、問答が定められるようになってきます。
講師と聴衆の中の誰か一人が決められて問答をします。そういう独特な法会も存在しています。また、問答をする一人の僧が決められ、お坊さんたちの登竜門として試験を兼ねるものもあります。
ここで選ばれた人のことを「竪義」と呼びます。その場に出席してる講師の人たちが順番に質問をし、その質問に対して答えます。
その答えがしっかりした答えであるかどうかを判定する役割の人も居ます。「証義」といいます。
竪義を経ますと、この人はしっかりと仏教の勉強をしている立派なお坊さんだから、以後、幹部候補生にしようということになります。こういうシステムができあがってくるのであります。彼らはやがて日本の仏教界の幹部になります。
法会では奈良の時代の興福寺の維摩会が重要でした。藤原氏の氏寺ですので、非常に重要な法会の一つにされます。これは十月に行われます。次に、冬正月、宮中の御斎会というのが行われます。一週間にわたり『金光明最勝王経』を講説する法会です。それを経ますと三月に、源家の菩提寺、薬師寺で行われる最勝会というものも有りました。
その法会において講師を勤めますと、「已講」という名前で呼ばれました。やがては、その人たちにお坊さんたちの政治的な支配、監督をやってもらうということを始めたのであります。
朝廷の中には、玄蕃寮が治部省の中に設けられまして、玄蕃寮の下にお坊さんたちの代表として「僧綱」というのがつくられるのです。僧綱ができたのは意外に早く、670年代ぐらいなんです。天武天皇のころに最初の僧綱が置かれています。
この僧綱の中でトップが「僧正」と呼ばれ、二番目が「僧都」です。三番目が「律師」。この下に「威従」と呼ばれる威儀師と従儀師というのもあるんですが、僧綱に数えられるのは僧正と僧都と律師です。
これはいわば、玄蕃寮から任命されてくるお坊さんの世界の官職なんです。この人たちにお坊さんたちの世界の監督をしてもらおうということになったのでした。今でいうと玄蕃寮にあたるのは、文化庁の宗務課と思います。
仏教と朝廷の関係
今、日本は仏教教団がいろんな宗派に分かれてますから、全体を統べるものがなくなってしまいました。しかし、僧綱は、実質的な機能を失いましたが、お坊さんたちの集団の中で、上下関係を形成する指標として生きています。 平安京に移って800年代の後半ぐらいまで実質的な機能を持っていたようです。やがて、集団の中の上下関係を表す称号として転用されていくようになり、これが各宗門の中に残ったのであろうと考えられます。日本の仏教教団というのは、朝廷との関係を抜きにして考えることができません。その上で大きな働きをしたのが桓武天皇です。桓武天皇は先ほどの律師や僧都、僧正に任命されていくのを位置づけたのです。これによって日本の仏教界は法会と学問を中心とする仏教へと変質します。
実際にどんな法会が存在したかを示した資料として、『三宝絵』というものがあります。これは10世紀の半ば過ぎですけども、源為憲という方が冷泉天皇の第二皇女であった尊子内親王のために書いた仏教の紹介書みたいなものです。
その中に毎月どのような行事が仏教界の中には存在してるかを書き上げております。お正月には修正会、御斎会。また比叡懺法、温室、布薩とか。二月になると修二会、西院阿難悔過、山階寺、それから石塔。これらの法会が挙げられています。
こういう法会で聴衆や講師を勤めるというのが、お坊さんたちにとっての一番の名誉であると考えられていきます。
それが11世紀の半ばぐらいでも生きておりまして、藤原道長について書いた資料の一つ、『栄華物語』の中にも出て参ります。「『法華経』28品を、一日に一品を当てさせ給て、論議にせさせ給う・・・・」と出てきます。
為政者、貴族たちに招請される、これがすごく大事なこと、名誉だと考えて勉強します。それはお坊さんたちにとっての大事な営みだという認識が、社会の中に存在していたことを物語ってくれる資料です。
新しい僧侶の出現
こういうお坊さんたちに対して、平安の末になりますと、新しい意識から批判する人たちが登場して参ります。法会を中心に出世していくお坊さんたちは、お寺さんに所属していたので「寺僧」という名前で呼びます。そういうお坊さんたちは、法会の場に出て議論をし、優秀な仏教学の成績を修めて出世していきます。でもそれは、出家の世界じゃないんじゃないか。悟りを求めるのが本当の仏教なんじゃないか、と考える人たちが登場してくるのです。院政期ごろから「遁世門」という名前で呼ばれる方たちなんです。勉強はあまり得意じゃないが、修行は好きというお坊さんたちもいたようで、「禅衆」という名前で呼ばれるお坊さんたちが登場してくるんです。
それに対して学問を一所懸命やる人たちは、「学侶」という名前で呼ばれるようになります。
実は、古代では、このような分化は見られません。院政期の末ぐらい、12世紀後半ぐらいになりますと、学侶からの遁世が出てきます。この遁世の人たちが基本的に真摯に仏教を求めていくお坊さんたちになっていきます。
南都(奈良)の方で活躍していくのが解脱房貞慶とか、律宗の叡尊とか覚盛とかいうお坊さんなんです。比叡山の方から輩出されていく遁世門が、法然とか親鸞とかあるいは日蓮とか、いわゆる鎌倉新仏教の祖師といわれるような人たちです。
この時期の南都系のお坊さんたちがどういう思想を持っていたかといいますと、この人たちが戒・定・慧の三学の復興をいい始めるんです。「戒」の復興を最初に手がけるんですが、「定」の復興もきちんとしましょう。復興というのを提唱するようになっていきます。
つまり勉強のための仏教ではなくて、実際に戒めを守り瞑想体験をして、そしてお釈迦さんと同じような悟りに到達するというのを目標にした仏教を興していかなきゃいけないのではないか、というようにいい始めるわけです。
ところで、「定」って一体何をやったのかです。これは実は瞑想体験なんですけども、インドの基本から考えていくと分かりやすいのだろうと思います。
止と観について
インドにおける瞑想の体系というのは、実はサマタ(止)とヴィパッサナー(観)に分けられます。お釈迦さんが悟りを開いたといいますけど、お釈迦さんの悟りの中身ってなんだったのでしょうか。一つはインド思想の伝統の中にその出発点があると思います。インドの一番古い時代のヴェーダの中に登場するのは、輪廻思想です。輪廻思想の中では生存が繰り返されると主張されます。
ある仙人さんは「人間の行いが次の生存を決定する原動力である。良い行いをすれば良いところに生まれ、悪いことをすれば悪いところに生まれる」と言いました。じゃあ人間の行いは一体何によって生じているのでしょうか。
そして、わたしたちの行動を作っているのは、わたしたちの心の中に生じる思い意思であると考えました。ということはインドの人たちが一般に認めている輪廻から脱却するためには、輪廻の原因になっている行いを正す。行いを正すためには、行いの元になっている、わたしたちの心の思いをしっかりしていけばなんとかなるんじゃないかと考えたように思われるのです。
輪廻の問題を解決するには、心に何ものも生じないように静かにしてしまえばいいんじゃないか。心の働きを静かにさせていくためにはどうしたらいいのかというのを考えていくんだと思います。
わたしたちの心に今生じている思い、例えば怒りの気持ち、あるいは眠いなっていうのでもいいですし、あ、そういう思いが生じているなというふうに気付きます。それを気付き続けていると、心が次第に静かになっていきます。心を一つの対象に結びつける、これは心一境性というふうに翻訳されます。じゃあ練習として強制的に何かに結びつけてしまえば、良いのでは、と考えたようです。
一番最初に強制的に結びつけるものを目の前に置きます。なんと粘土で円盤みたいなものを作って、それを目の前に置いてずっと見つめ続ける、ということもやったんです。これがなくなってもそこに円盤があるように、そのくらい心を一つの対象に結びつけて集中していきました。
やがて、では集中する対象としては別に円盤じゃなくてもいいじゃないかと。例えば光がある。光が遍満する様を観察する。
このような観察の仕方は「三摩地」(三昧・samadhi)という言葉で呼ばれました。そして、心を一つの対象に結びつけていると、次第に心静かになっていくというのが分かったようでありまして、やがてこれを続けていくと、心の中に生じる働き、これが捕まえられるようになってきます。
また、呼吸を観察する、即ち心の働きを呼吸に結びつけるというやり方が、非常に一般的に行われました。呼吸は道具がなくていいんです。入る息・出る息を観察する、入息出息。入る息―鼻の頭に精神を集中してじっとしてると、体の方が呼吸しますから、鼻の頭のところで風が通るような感じがする。その時に「入る」というふうに心で捕まえます。出ていく時には「出る」というふうに捕まえます。これを繰り返します。
ところが入る出るを観察していながら、きょうのご飯はなんだったっけなとか、ああ眠いなとか、そんな思いが生じます。そのときには考えてるというふうに気付いて、また鼻の方に戻って、入る出るに戻ってくる。
こうして入る出るをずっと見続けていると、次第に自分の心が静まってきて、心の働きみたいなものも捕まえられるようになります。
もっと面白い捕まえ方というのもありまして、それは歩くというのを捕まえることをやりました。歩く時に右足、左足、右足、左足というふうに、自分で捕まえながら歩くんです。これをもう少し細かく分けられるようになったら、上げる、出す、おろす、上げる、出す、おろす。もっと細かく分けるんでしたら、六つぐらいに分けられます。
一つ一つ観察しながら、心の働きを一つの対象に結びつけていきます。これが実は「経行」(きんひん)と呼ばれる修行法なんです。これをすると自分の心が次第に落ち着いてきまして、よそに働いていかないようになります。
止観から縁起へ
こういうふうに静まっていく瞑想の方をインドの世界では、「止」というふうに名前をつけて呼びました。でもこれは、バラモンの伝統の中に入っている瞑想なんです。お釈迦さまは、確かに心は落ち着くんだけど、わたしたちの喜怒哀楽とか日常で生活していく上で生じるさまざまな感情、こういう問題を解決することはできないと考えました。そこで、「止」の瞑想ではなくて、ちょっと視点を変えると違うところが見えてくることに気が付くんです。これが「観」といわれるものです。
入息出息は、心を静める意味の「止」として使うこともできますし、「観」の方でもできます。
それは次のようなものです。
息は入りっぱなしじゃなくて、出るっていう動作が生じて、それに対して出るっていうふうに心の中で名前をつけてるなと。
こういうふうに最初は一つだと思っていたものが二つに分かれていきます。色と名という二つのものに分離することができる。一つ一つの動き、生じては滅してるんです。捕まえられてるものも捕まえてる心も、永遠を保ってるものがない。生じては滅してるなというのが、自然に見えてくるんです。永遠じゃないというのが「無常」というふうに表現されます。
そういう存在をしてるものって私たち人間にとっては「苦」だな、という認識も生じてきます。でもこれ、自分の思い通りにはならないんだなっていうので、「無我」なんだなというふうに捕まえることもできてきます。
また、こういうふうに、あるもの(捕まえられるもの)があるときに、こちら側にあるもの(捕まえるもの)があるんだな、というのが見えてくると、それは、これが条件になってあれが生じている。条件というのは「縁」というんですけども、「縁」によって生起してるんだな。そして「縁起」という価値観が生じてくるようになります。
もう一つ重要なのは、観察をするときに入る息出る息だけで見ましたけれども、本当はもっといろんなところで捕まえられるんです。音が入ってくる、わたしは今音を聞いているというふうに捕まえる練習ができます。椅子に座ってたら、お尻が、硬い、柔らかい、いろんな感覚をつかまえられると思います。
これをやってみますと、わたしたちの心に生じてくるものは、外界の刺激を受け、それに対して実は心の中でぱっと受け止めるっていう働きが起きていることがわかるようになります。そこで止まると、その先に行かなくて済むようになります。
雪国の人が冬の初め雪が降ってくるのを見た。窓際に白いものがすうっと落ちた。雪だ、ぱっと見て白いものが落ちたというふうに見たところで止まればいいんですけども、雪国の人はそれを見て、わ、雪だ、積もるな、雪下ろししなくちゃ、大変だな、やだな困ったな、と一気に心が走ります。
ところが観の練習、すなわち触れた、聞いた、見たという練習をしていると、心がそこで止められるようになります。その先の反応を起こさなくなってきます。わたしたちが日常社会の中で接しているこの喜怒哀楽は、心が生じさせる働きなんです。
これがわたしたちが生まれてから今まで身につけた反応のパターンです。これを「止」とか「観」、心を静めるという練習をして、その上で自分の心に生じた働きを一つ一つ、見た、聞いた、触れたというような感じで捕まえることをやっていくと、わたしたちの心は次第に静かになっていって、その先に暴走しなくなってくる。これが実は「観」の持っている非常に大事な視点だと思うんです。
お釈迦さまは実はその辺りのところをきちんと見つけ出して、それをすることによってわたしたちも今持っている問題点を解決することができるというふうに、提示したんじゃないかなと思います。
禅者の言葉の中に、「第二の矢がない」というのがあります。一つ目の矢は外界の刺激を受け止めるところなんです。受け止めて普通は次の反応を起こすんですけども、その反応がなくなってきます。
ものをそのまま見て、きちっと受け止めていますよと。自分で反応を起こして、人間が普通は持ってる喜怒哀楽の反応を、簡単に起こさないようなところまでちゃんと訓練できますよといってます。
最後に挙げた文章は、江戸時代の白隠さんですけど、そういう瞑想をきちっととらえた上でなければ出てこない言葉のように思います。「世の中はただに座頭の丸木橋 渡る心で渡るなるらん」。今起きてることに集中して、心を一つの対象に集中させて、そして生きていくのが大事ですよといってます。
また、良寛さんは「災難に遭う時節には災難に遭うが良く候。死ぬべき時節には死ぬが良く候。」なんと冷たいといわれるかもしれませんが、今起きてることをしっかり受け止め、一所懸命やっていけばいいんだよという言い方です。インドから生じた仏教の修行論の「止」と「観」の流れの上にしっかりと乗っかったことをいっているのです。
こういうふうに、修行道という観点をもう一度しっかり見直そうというのが、中世の時代に生じてきた新しい新仏教の運動だったはずなんです。ところが、主流でありました奈良の世界からずっと伝わってきた法会を中心とし、学問を中心とする仏教の方にずっと流されてしまいます。
わたしも大学に入って勉強し始めたときに、学問としての仏教を教わったんです。でも学問としての仏教は、わたしたちの生活に直接に関係してきません。知識は増えます。教義はよく分かります。でもわたしたちが今直面しているいろんな問題を解決するためには、ほんとはきちんとしたものがしっかりあったんだから、そっちの方を体験的に把握していく方が大事なんじゃないかなと最近は感じている次第です。
= 終わり =







