蓑輪顕量先生

日本仏教史概論[ダイジェスト版]

2006年6月20日 第19期スクーリング講義録(ダイジェスト版)

 今日は現在の私たちに一番身近な現状に近い形のお寺さんが、どういうふうにしてできてきたのかお話をしてみたいと思っています。日本に仏教が入ったのが一体いつかと言いますと、これは正式なところでは五三八年です。
 仏法を信仰することによって望みがかなえられる。実際に六世紀の前半には、東アジア世界の多くの国々が仏法を信仰しています。(仏教という言い方は明治以降のことです。)このときに、どこの仏教を受け入れたかといいますと、日本は百済経由で百済の聖明王が初めてもたらしたということになっています。朝鮮半島経由で仏教を受け入れていくのであります。
 注目したいのは、経由地「朝鮮半島」の前に南地(中国・南京)にどんな仏教が存在していたかということです。
 実は南地には、教典を講じる講経の伝統があったと言われてます。教典を解説する伝統が南地のほうには栄えていました。北地は、瞑想体験を一生懸命するという伝統があったと言われています。朝鮮半島に入ってくる仏教は、陸伝いで高句麗のほうから入ってくる仏教ものと、南の山東半島からダイレクトに入ってくる両方がありますが、日本に大きな影響を与えたのは南地の仏教のようです。それが、仏教経典を呉音で読んでいるということにつながったと想像されます。
 日本には、まず百済のお坊さんたちが入ってきまして、その後に高句麗からのお坊さんたちも入ってきます。慧聡、観勒、曇慧、日羅、豊国。これはみんな百済のお坊さんです。この後、聖徳太子の師匠になりました慧慈という方が出てきますが、その方は高麗出身だと言われています。
 こうした、お坊さんたちの務めるべき仕事は何かというと、法会において教典を講じることで、『大般若経』や『法華経』、やがて『般若経』、『金光明経』を講じることでした。日本で一番大きな法会は、大仏開眼供養が記録に残っています。東大寺の大仏開眼供養は八世紀の半ばですが、このときの記録は『東大寺要録』というのに残されております。
 法要を大事にするという伝統ができ上がって、朝廷が仏教を受け入れたときに、自分たちの望みをかなえる、あるいは自分たちの先祖の供養をする、国家の安寧を祈ってもらう、そのために教典を講じてもらい、法要を行うことによって、いろいろな願い事をかなえてもらうという形ができ上がってきます。天皇家が実際に仏教に関心を持つようになって、仏教と大きくかかわるのは、七世紀の前半からです。
 最初は大官大寺(大安寺)が創られました。それから、天皇家の氏寺としてでき上がるのが薬師寺です。少し時代が下りますと、国分寺、国分尼寺が聖武天皇によって発願され、そして最終的に、非常に有名な東大寺ができ上がります。
 これは東アジア世界の特徴だろうと思いますが、仏教に朝廷が関与します。例えば玄蕃寮という寮が朝廷の中につくられます。そして天武天皇のころからでき上がったと言われていますが、僧綱とができます。玄蕃寮というお役人さんたちのもとに、お坊さんの世界の中で一番偉い人をだれか決めて、ピラミッド型に支配しようとしました。
 僧綱のトップは僧正と言います。二番目は僧都です。三番目が律師です。この下に威儀師と従儀師がいるんですが、僧綱に入ったのはこの三職です。僧正一人、僧都二人、律師四人、非常に少ない人数です。
 これで、一つの体系が平安時代の初期にでき上がります。このシステムに拍車をかけて、仏教は学問が中心なんだ、というお墨つきをつけた天皇が登場します。桓武天皇です。桓武天皇の仏教政策は、奈良から京都に都を移しますので、平安京に新しくできた天台宗と真言宗を含めながら、仏教の力があまり強くならないように、かつ、そうはいっても現実には非常に強いので、そのお坊さんたちの世界をどのように支配してゆくかを考えていました。
 そして、後になりますと、かの有名な藤原道長が登場しまして、仏教に大きな影響を与えます。道長は自分の私邸で法華三十講を開催しました。お坊さんたちを集めて三十日間にわたって『法華経』を講じさせたのです。『法華経』は二十八品ぽんありますので、開経の『無量義経』と結経の『仏説観普賢菩薩行法経』を合わせて三十にして、それを一日一品ずつ講じていくと三十日かかるんですが、これを始めました。お坊さんを選ぶのが時の第一権力者でありますから、選ばれるとすごい名誉だと、お坊さんたちが考えていたという記述が、『栄華物語』の中に出てきます。
 やがて法会には格式の高いもので三講という名前で呼ばれるものが登場しました。南部のものに付加する形で、京を中心に形成されました。これが法勝寺で行われる『法華経』を講じる御八講、それから宮中で行われる最勝講、それから仙洞御所(上皇のお住まいの場所)で行われる仙洞最勝講です。
 勉強を中心とするお坊さんたちは、学侶という名前で呼ばれました。ところが、学侶だけではお寺は動きません。当時、中世の時代ですと律令制は壊れていますから、荘園の経営に当たるお坊さんたちも必要です。そういう人たちは、堂衆という名前で呼ばれてなっていました。
 学侶と堂衆のうち、学侶の方たちが寺院の中で頂点に立ちます。当時は僧正・僧都・律師というのもまだ存在してますが実質は喪失していました。これが現在にずっと伝わってきまして、お坊さんの世界の中に、序列を作ることになります。
 でも、こういう仏教に対して、何か変じゃないかと感じる僧も登場しました。これが鎌倉時代の初期あたりです。寺僧でありながら、遁世をするお坊さんたちです。悟りを目指して、まじめに仏法を求めます。十一世紀から十三世紀(院政期)の間、まじめな行動をとる人たちが登場してます。彼らは名聞利養から離れますので遁世門と呼ばれます。
 それから、やはり遁世の仲間ですけれども、中国の宋代の仏教がこの時代に日本に入ってくるんです。この人たちが禅宗と中世の時代の律宗のお坊さんになります。禅のほうでは栄西が最初とされます。ただ本格的に大きな仕事をなし遂げていくのは円爾えんに弁円という方です。律宗のほうでは唐招提寺を復興した覚盛と西大寺の叡尊。それから忍生です。
 ここで注目したいのは東大寺です。真剣に仏教の復興のために戒律も守りましょう、坐禅もやりましょう、勉強も一生懸命やりましょうと言いまして、そういう大きな流れを作り出す人の登場です。ですから、中世の時代の東大寺のお坊さんたちは、法会を大事にして、法会の中で出世していくことを大事にするお坊さんが主流を占めますけど、三学の視点から一生懸命やろうというお坊さんたちも出てきます。これが、東大寺の懐の深いところではないかと思います。
 禅にもふれなければいけませんね。禅とは一体何なのか。インドの伝統に輪廻思想というのがあります。インドの人たちは輪廻の次の生まれ変わり先を決定している人間の行いの原因は何か、ということを考えました。インドの人たちは、行いの原因は私たちの心に生じる思念であると見ました。心の思いが行動になります。そこで、輪廻の原因になっているところの行動を考えたときに、行動が全部なくなってしまえば、輪廻の原因も簡単に全部なくせるのではと考えました。ところで私たちの心に生じてくる思いを一個一個気づいていくと、次第に心が静かになってきます。
 そこで、何かいい手だてはないかと考えました。そこで、生きているときに私たちの中でずっと動いているものがあります。それは呼吸です。呼吸を見詰め続けます。伝統的には鼻の先頭で呼吸を観察します。入る息を入るとつかまえ、出ていく息を出るとつかまえます。このように、自分の心を一つのものに結びつける訓練をすればいいのだと気がつくんです。つまり心を一つのものに結びつけます。これは専門用語では、心一境性と言います。もとの言語は何かというと、サマーディー(三摩地)です。これは『倶舎論』の中に「三摩地とは心一境性を謂う」と出てきまして、これが瞑想の基本です。
 その伝統は、お釈迦さんも現実に行ってました。ところが、お釈迦さんは心が静かになっていっても、あれは最終段階じゃないと捉えました。そこのところに悟りの大事なところがあるとは考えなかったようです。次の段階の方が重要と捉えたようでしてそれが観です。「これあるとき、かれあり。それが滅するとき、これ滅す」。縁起の理法というのも、実は瞑想体験の中から出てくるのです。
 これは中世の時代に、日本の社会にもきちんと入りました。円爾弁円等の著作を見ていきますと、一つは心を静めるというのを大事にしています。日本の仏教は、インド仏教をかなりしっかりと、瞑想の上では理解して伝えてきていたはずです。
 この心一境性でいえば、曹洞宗の有名なお坊さん、良寛さんも同じようなことを言っています。「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候 死ぬる時節には死ぬが良く候」、そのときそのときを真正面から受けとめていく。これが仏教だといっています。
 ところが日本の仏教は、古来から学問を中心とする流れがありまして、それが現代にまで反映されています。心を観察することのほうが本当は最初だったと思います。自分の心に生じてくるものを一つ一つ気づき続けていく。これが一番基本で、やがてお釈迦さんと同じような意識がほっと芽生えてきますよと。あまり難しいことは言ってなかったと思うんですね。それが、いつの間にかすごく難しい仏教学になっていったんだと思います。

= 終わり =

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