「Tsunami」は八雲の作品から
昨年の開講式で私は「ある眼科医の悲願」というお話をさせていただきました。千葉県の八日市場市にお住まいでありました布施郁三という目医者の先生のことでしたが、今回のお話はその布施先生とも関係がありますので、ここで簡単に復習しておきますと、布施先生は東大医学部出身でございましたけれども、仙台の旧制高校時代に白井成允という先生の仏教の講義をお聞きになりました。東大に入学されてからは宇井伯寿先生などの仏教の講義に出席されたりいたしまして、大変感銘を受けられ、「仏教によって精神的孤独から救われ、人格の尊さと連帯性の限りなさを教えられました」とおっしゃっております。布施先生は科学技術の顕著な発展、物質文明の著しく驚異的な進展の半面、精神文化の衰微ということを痛感されておりまして、仏教精神は物質文明による人間の変態化を救うものなのだというようにお考えになりました。そこで仏教をはじめとする人文科学の研究の伸展を願って、先生と関係のある医学部ではなくて、全く関係のない文学部の印度哲学研究室を中心にした文学部全体に多額のご寄付を申し出られたのでございました。これは大変珍しいことでございまして、文学部としては大変な感激をしたわけでございます。そのために当時、印度哲学研究室の主任をしておりましたものですから、私は布施先生のいわば担当になりまして、先生の晩年の八年間ほどご厚誼をいただくことができました。
ある日先生から、一体、小泉八雲は仏教徒だったのかという質問を受けたのでございます。よもや目医者の先生から、そのような質問を受けるなどということは、考えてもいなかったわけでございます。しかも私は当時、小泉八雲といえば、『耳なし芳一』だとか『雪女』とか、いわゆる怪談の作者であるといった理解しかございませんでした。恐らく今日ご出席の方々の多くはそういうご理解ではないだろうかと思います。
私はシャッポを脱ぐだけで、何の返事もできないでいたわけです。そこで私は先生の質問にいずれはお答えをしたいという考えで、専門の印度哲学とか仏教学の研究のかたわら、小泉八雲の研究を少しずつ始めたわけでございます。その結果として今日こうして皆様方にもお話することができるようになったわけでございます。
昨年は小泉八雲の名前がマスコミでしばしばささやかれると申しますか、あるいは大きな声で語られるというようなことがございました。その一つの理由は、ちょうど小泉八雲が亡くなって百年が去年だったわけでございます。九月二十六日が命日でございましたけれども、そのために日本の各地で小泉八雲に関するいろんな記念行事が行われました。もう一つは、そういう理由とは全く関係のないことから小泉八雲の名前が出たのでございます。
それは今年もあるようでございますけれども、昨年は大変に天変地異の多い年でございまして、特に十二月二十六日に発生いたしましたスマトラ沖地震と、それに伴ってインド洋沿岸の十数カ国を襲う十五万人もの死者が出る記録的な大災害が起こったのでございます。いわゆるインド洋大津波が起こったわけでございまして、皆さんの中には没後百年で八雲の名前が出るのはわかるけれども、大津波と関係があるというのはどういうことであろうかというように思われた方もあるのではないかと思います。
このインド洋大津波のときに、ローマ字で「Tsunami」という日本語が世界じゅうを駆けめぐったのでございます。私はそのとき初めて津波という日本語が世界語であるということを知ったのでございますけれども、それとともにその言葉を世界語にしたのは、実はほかならぬ小泉八雲であったということを知って二度驚いたわけでございました。ご存じの方も多いかと思いますけれども、あるいは私のように知らない方もいらっしゃるかと思いますので、その話を少しお話してみたいと思います。
小学校五年生のとき、『小学国語読本』というのが昔は使われておりました。皆さんの中には私の世代の方もいらっしゃるでしょうか。私も使ったのでございますけれども、その教科書で『稲むらの火』という題の文章をお読みになった方もあるだろうと思います。こんな文章だったのでございます。
「『これはただごとではない』とつぶやきながら、五兵衛は家から出てきた。今の地震は別に激しいというほどのものではなかった。しかし、長い、ゆったりとした揺れ方は、あるいはうなるような地鳴りは、老いた五兵衛に今まで経験したことのない不気味なものであった」と、そういう言葉で始まる『稲むらの火』を感動を持ってお読みになった方もおられるのではないかと思いますし、私もその一人でございます。
実はこの大変に印象深い話は、昭和九年に文部省が新しい国語と修身の教材を公募した際に、和歌山県の湯浅町の一小学校の教員でありました中井常藏という先生が応募された文章で、それが文部省に採用されたのでございました。
中井先生が住んでおられた湯浅というところは、安政元年の十一月五日に実際に津波に襲われたのでございます。物語では主人公が五兵衛ということになっておりますけれども、本当は、濱口儀兵衛(梧陵)という名前であったのです。なぜ濱口儀兵衛を濱口五兵衛とその先生はされたかと申しますと、小泉八雲の作品『仏国土拾遺』の中の『生神様』(ALiving God)という作品の中に、五兵衛という名前で出ていたからなのです。
では、ハーンはどうしてこのような作品を書いたかといいますと、明治二十九年六月十五日に実際に起こった宮城・岩手・青森三県を襲った、そして死者二万人にも及んだ三陸大津波というのが新聞に出たわけでございまして、それに触発されて小泉八雲は『生神様』という一文を書いたわけであります。その『生神様』の中で日本語の「津波」がローマ字で「Tsunami」と表現され、「"Tsunami"shrieked the people」なんていう文章が出てまいります。
「『Tsunami!』と人々は叫んだ。とっさに群衆は叫んだ。そのときである、山のような海水のうなりが彼らの立っている台地のすそにずしんと一撃、重い響きを与えたと思うと、稲妻の散るようなしぶきの泡をどっと上げながら海辺に打ち上げたと見る間に、人々の叫喚、怒号の声がありとあらゆる音響、それを聞く力、一切が百雷の音よりもすさまじい言語を絶した一大衝撃のうちに、あっという間に飲み込まれてしまった」と、こういう文章が『生神様』というハーンの書いた文章でありますけれども、この「Tsunami」という言葉がここで使われている。それが世界じゅうで使われることになったのでございます。
災害の多い日本の、いわば象徴みたいな話でございますけれども、この『稲むらの火』並びにハーンの『生神様』がどのようにして成立したかということに関しましては、大変に興味深い話がまだまだほかにもございます。今は時間がありませんので省略いたしますけれども、ご興味のある方は、小泉八雲研究の第一人者と言われております平川祐弘先生の『小泉八雲 西洋脱出の夢』という書物が出ておりますけれども、その中に詳しく解説されておりますので一読されることをお勧めいたします。
さて、ラフカディオ・ハーン、後の小泉八雲は一九〇四年(明治三十七年)の九月二十六日、午後八時過ぎに東京・西大久保の自宅で夕食後、二度目の心臓発作に襲われまして、「ママさん、先日の病気また参りました」と小さな声で妻セツに訴えて間もなく、あっけなく五十四歳の生涯を閉じたと言われております。心臓発作が二度目であった、一度目は何とか免れたのですけれども二度目の心臓発作が起こって、そこで亡くなってしまったのであります。
心和む妻セツとの会話
ラフカディオ・ハーン、後の小泉八雲は一九〇四年、明治三十七年の九月二十六日、東京の自宅で心臓発作のため五十四歳の生涯を閉じたと言われておりますが、そのときのことを、松江で結婚した八雲の奥さん小泉セツは『思い出の記』という作品にこのように書いています。「午後には満州軍の藤崎さんに書物を送って上げたいが、何がよかろう、と書斎の本棚をさがしたりして、最後に藤崎さんへの手紙を一通書きました。夕食をたべました時には常よりも機嫌がよく、冗談など言いながら大笑いなどいたしました。『パパ、グッドパパ』『スウイト・チキン』と申し合って、子供等と別れていつものように書斎の廊下を散歩していましたが、小一時間ほどして私の側に淋しそうな顔をして参りまして、小さな声で『ママさん、先日の病気また参りました』と申しました。私は一緒に参りました。暫くの間、胸に手を当てて、室内を歩いていましたが、そっと寝床に休むように勧めまして、静かに横にならせました。間もなく、もうこの世の人ではありませんでした。すこしも苦痛のないように、口のほとりに少し笑を含んでおりました。天命ならば致し方ありませんが、少し長く看病をしたりして、いよいよ駄目とあきらめのつくまで、いてほしかったと思います。余りにあっけない死に方だと今も思われます」。
セツの文章の中に満州軍の藤崎さんということがございました。満州事変のときかと一瞬思いますけれども、満州事変は一九三一年九月に起こりましたから、今から七十三年前のことですので、満州事変ではなくて、これは日露戦争のときのことでございます。ラフカディオ・ハーンは来日するまで戦争の経験は全くありませんでした。
ハーンが来日したのは一八九〇年(明治二十三年)でございましたけれども、松江から熊本に移り住んでいた一八九四年八月一日には日清戦争が勃発しております。これはご存じのように日本と清国が朝鮮の支配権をめぐって争ったのが原因でございます。その日清戦争の勝利によりまして日本は欧米の資本主義列強と伍して、それに負けまいとして極東における帝国主義的な、あるいは軍国主義的な政策の中に巻き込まれていったのでございます。
ハーンが亡くなったころは、一九〇四年の二月八日から翌年九月五日の日露戦争の真っただ中でございました。日露戦争は日本が初めて遭遇した本格的な大戦争で、そこでロシアに対して大勝利をおさめたのでございます。そして日本がますます軍国主義、帝国主義へとのめり込んでいくようになったわけであります。
九月三十日になりますと、瘤寺と俗称を言っておりますが、市ヶ谷の富久町の円融寺で、仏式でハーンの葬儀が行われました。ハーンは東大に五、六年勤めておりましたけれども、そのときには東大をやめさせられまして早稲田に移った年であったわけですけれども、早稲田大学の同僚でありました村上専精さん、後に東大の印度哲学の教授になられるのですが、その村上専精師が小泉八雲に「正覚院殿浄華八雲居士」という法名をつけたのでございます。
八雲は生前、妻セツにこういうように言っていたんです。「私死にますと、泣く、決していけません。私の骨、田舎のわびしいお寺に埋めてください」。葬儀の後いろいろな事情で、雑司ヶ谷の共同墓地に埋葬され、当初は木の標札が立っていましたけれども、三回忌を機に石塔に改められて今日に至っております。
市ヶ谷の富久町の円融寺で葬儀が行われたのですが、なぜ瘤寺で葬儀が行われたかと申しますと、セツは先ほどの『思い出の記』の中に次のように書いています。「富久町にひき移りましたが、ここは庭がせまかったのですが、高台で見晴らしがよい家でございました」と。この家は、今はないんですね。記念碑が建っております。学校の庭の中に建っていますけれども、「高台の見晴らしがよい家でございました。それに瘤寺という山寺のお隣であったのが気に入りました」。
成女学園の地所だと思いまけれども、その学園の近くに瘤寺というのがあるんです。「山寺のお隣であったのが気に入りました。昔は萩寺と申しまして萩がなかなかようございました。お寺は荒れていましたが、大きい杉がたくさんありまして淋しい静かなお寺でした。毎日朝と夕方は必ずこの寺へ散歩に出かけました。たびたび参りますので、その時のよい老僧とも懇意になり、いろいろ仏教のお話などいたしまして喜んでいました。それで私も折々参りました。
日本服で愉快そうに出かけていくのです。気に入ったお客などが見えますと、『面白いのお寺』というので瘤寺に案内いたしました。子供等もパパさんが見えないと『瘤寺』というほどでございました。
よく散歩しながら申しました。『ママさん私この寺にすわる、むずかしいでしょうか』。この寺に住みたいが何かよい方法はないだろうかと申すのです。『あなた、坊さんでないですから、むずしいですね』『私坊さん、なんぼ、仕合わせですね。坊さんになるさえもよきです』『あなた、坊さんになる、面白い坊さんでしょう。眼の大きい、鼻の高い、よい坊さんです』『同じ時、あなた比丘尼となりましょう。一雄小さい坊主です。如何に可愛いでしょう。毎日経読むと墓を弔いするので、よろこぶの生きるです』『あなた、ほかの世、坊さんと生まれて下さい』『ああ、私願うです』」。
私はこの二人の片言の日本語の会話が大変好きでございまして、ほほえましさを感じるわけでございますが、心和むものを感じます。このように瘤寺というお寺はハーンにとっては大変にお気に入りのお寺でございました。しかしあるとき、瘤寺に生えておりました大きな杉の木が切り倒されたのをハーンが見つけたんです。それで彼はそれ以来、瘤寺には行かなくなってしまった、残念に思って遂に行かなくなってしまったのです。
いずれにいたしましてもこのような最晩年の、そして最期のハーンを見てまいりますと、ハーンはいかに仏教に傾倒していたかということがおわかりいただけるかと思います。その文章はハーンが書いたのではなくて、ハーンを最もよく知っているはずの妻のセツが書いているわけですから、美化されている面もあるかもしれませんけれども、真実をよく伝えているのではないかと思います。
ラフカディオ・ハーンは一八九〇年の三月八日、四十歳のときにC・D・ウェルドンという挿絵画家と一緒に日本を目指してニューヨークを出発いたしました。同じ年、明治二十三年の三月十八日、カナダのバンクーバーの港からアビシニア号という船に乗りまして、およそ二週間の船旅で明治二十三年の四月四日に横浜港に到着いたしました。そして山下町九十三番地にあるインターナショナルホテルに泊まることになりました。
ところが横浜に到着早々上陸するやいなや、人力車を雇いましてハーンは食事の時間さえも惜しんで、まず寺を訪問するんです。この寺が一軒だけではなくて二、三軒出てくるようでございますけれども、その寺がどこであったのか長い間不明とされてまいりました。しかし最近になりまして、それは野毛山不動尊だとか延命院だとか言われております成田山横浜別院ではないかというようにインターネットでは教えております。どこまで信憑性があるのかちょっと私も言えないのでございますけれども、そういう一つの説がございます。それが本当だとすれば成田山横浜別院にまず彼は人力車で行ったわけでございます。
そのとき偶然、英語に堪能な真鍋晃という青年がそのお寺にいたんですね。二人の間に交わされた興味深い会話が彼の作品の中に残されております。私はいろんなところでその文章を紹介しましたので詳細は省きますけれども、ハーンは当時の西洋における最新の仏教研究について、正確にしてしかもすごい理解を持って来日したということは明白でございます。
当時はヨーロッパ、特にイギリス、ドイツ、フランスなどで仏教研究が非常に盛んでございまして、その最新の知識を持ってハーンは日本に来ているわけです。ところが当時日本では、まだ新しい仏教研究というのが起こっていなかった。南条文雄や高楠順次郎といった先覚者がイギリスのオクスフォードに留学して新知識を吸収しに行った時代、その時代にハーンは既にそういう見識をしこたまためこんで、そして日本にやってきているわけでございます。
H・スペンサーの影響
小泉八雲すなわちラフカディオ・ハーンは明治二十三年の四月に横浜港に着いたのですが、当時の日本では、まだ新しい仏教研究というのが起こっていなかったのに、ハーンはすでに、仏教に関する新しい見識をしこたまためこんで日本にやってきているわけでございます。ハーンはそういう仏教に関する非常に豊富な知識などをどのようにして得たのかということでありますけれども、なかなかそれは難しい問題でございまして、正確なことはよくわからないというのが正直なところでございます。大西忠雄という先生は、米国時代(一八六九~一八八九年)と日本時代(一八九〇~一九〇四年)の二つに分けています。さらに米国の時代を、一つはシンシナチ市にいた時代(一八六九~一八七七年)と、シンシナチから南部のニューオーリンズに移った時代(一八七七~一八八九年)に分けておられます。そしてシンシナチ市時代は、仏教研究に着手する準備の時期であり、ニューオーリンズ市では仏教研究の本格化した時代で、その構想ないし計画がほぼでき上がった時期であるというように考えておられます。日本時代は、その計画の実現あるいは仕上げの時期であるということでございます。日本に来たときは仕上げの時期というわけですから、豊富な知識をすでにアメリカで得ていたわけです。
日本に参りまして、先ほど申しました成田山不動尊でしょうか、横浜別院かどうかはっきりしませんけれども、そこに行って真鍋晃という青年と仏教の話をするんです。幸いなことに真鍋晃は英語が堪能であったわけです。そのことは大変ハーンにとっては幸福なことでございまして、ハーンは一言も日本語を知らないで来ているわけであります。
旅館からお寺に行くときに、「寺へ行け」ということを人力車に言いたかったのですが、言えないわけです。ホテルから出かけていったんですけれども行くことができなくてホテルに一回戻るんですね。そしてホテルの支配人かだれかに聞いて、「寺へ行け」ということを教えられてやっとその寺へ行くという目的を達したというほど、日本語に関しては、全く知識のないままに来ているわけであります。
真鍋晃という人は、恐らく大変進歩した人であった。横浜あたりは外人もたくさんいたわけで、英語は堪能だったと思いますけれども、仏教のことをハーンと英語で話し合うというのは、当時としては珍しい立派な方であったと思います。不思議なことに真鍋晃さんというのは、ようとして分からないんです。通訳として松江までハーンに同行するんですけれども、松江に行ってからどこか姿が消えてなくなってしまうわけです。その後どうなったのか、関心はあるんですけれども分からないのです。
ハーンはすでに米国時代に仏教への関心の高まりから仏教関係の資料をたくさん買い集めておりまして、東洋文庫と言っていいほどのものを持っていたというように言われておりました。そのことは現在でも富山大学にお行きになりましたらば、富山大学の図書館にヘルン文庫という文庫がございます。それはどういう文庫かと申しますと、小泉八雲が日本にいた間に持っていた蔵書がすっかりそこの中におさめられている文庫でございます。
その中にどういうものがあるのか、カタログなどもできているということです。皆さんがもし内容を知りたいということであれば、図書館に一筆お書きになれば、立派な目録をくれるかどうか、ちょっと保証の限りではないですけれども、いただけるかと思います。しかしお行きになれば許可が得られればごらんになれるのでございます。それを見ますと仏教関係の書物が大変たくさん入っています。大体がアメリカから持ってきたものであると同時に彼が買った蔵書でございます。
ハーンの伝記にはいろんなものがございます。その中の一つにE・スティーブンスンという女性の方が書いた『評伝ラフカディオ・ハーン』という日本語になったものが恒文社から出ています。その中に、一八八二年の十月八日の日曜版のデイリー・シティ・アイテムで、ハーバート・スペンサーの社会学原理を書評したということがきっかけになりまして、生涯にわたってハーバート・スペンサーという社会思想家、哲学者に傾倒するようになったということが書いてあります。
スペンサーという人は大変重要な存在でありまして、ハーン自身がそのことをはっきりと認めております。スティーブンスン女史は、「ハーンの人生を決定づけたもう一つの体験はエドウィン・アーノルドの『アジアの光』との出合いがあった。これはブッダの生涯を装飾的な言葉でうたった物語詩であるが、誠実さは見えても生彩が欠けている。しかしハーンには大きな影響を与えた。書評はすでに一八七九年十月二十四日のアイテムに発表しているが、ハーンはその『アジアの光』を一八八〇年代を通じて読み続けている」と書いております。
残念ながら一八八九年にデイリー・シティ・アイテムという新聞に発表したと言われている『アジアの光』についての書評は入手することはできておりませんけれども、その四年後の一八九三年に『アジアの光』の新刊を読んだときの感想を、ハーンがアメリカ人の親友のW・D・オーコーナーという人に次のように報告しております。
「君はアーノルドの『アジアの光』のすばらしい新版を見ましたか。私を魅了してしまいました。不思議に新しく美しい礼拝の芳香で私の心は満たされてしまいました。結局のところ、ある深遠な形の仏教が未来の宗教になるかもしれません」と。ハーンがいかに大きな影響を『アジアの光』から受けたか。あちこちに『アジアの光』について彼が書いたり書評をしたり評価をしていることでもおわかりになるかと思いますけれども、ハーンはこの中で、仏教は未来の宗教になるかもしれないというように高く評価をしております。
ハーンは仏教のどんな点に関心を抱いたのかということでございますが、彼の作品に「高度な仏教」というのがございます。これは時々、あまり仏教のことをご存じない方が大乗仏教というように翻訳されておりますが、そうではなくて高度な仏教程度の意味の「TheHigherBuddhism」という小論文でありますけれども、その中でハーンがこういうことを言っております。「私はあえて自分自身をハーバート・スペンサーの学徒と呼ぼう」と。
ハーバート・スペンサーはイギリスの社会学者で、進化論を社会学の中に取り込んだ人ですけれども、日本でも一時大変はやった人でございます。ハーンも大変大きな影響をハーバート・スペンサーから受けています。「ハーバート・スペンサーの学徒と呼ぼう。私が仏教哲学にロマン的な興味以上の関心を持つようになったのは、ハーバート・スペンサーの総合哲学に親しんでいたからである。仏教もまた一つの進化論であるから」というふうに書いています。すなわちハーンはスペンサーの学徒である。スペンサーの進化論を高く評価しています。仏教も進化論であるというところにハーンの共感を呼んだ、一時的な興味ではなくて、もっとまじめな関心を引くことになった理由でもあったわけであります。
仏教が一つの進化論であるというのはどういうことかと申しますと、仏教が持っている輪廻の思想です。このことを彼は進化論と考えております。先ほど紹介いたしましたハーンの友人への手紙の続きをとらえてまいりますと、「輪廻は遊牧民から文化人へと、数えきれないほど無数の動物の形を通じて、ウジ虫から王様へと大きく進化するところに証明されるのではないでしょうか。あらゆる近代の哲学は、目に見えるものは目に見えないものの流出したものに過ぎない。あるいは妄想、至高の夢の所産である、あるいは影である、などといろんな考え方をしているけれども、私は正しい人間は今や東洋の信仰を教えることによって、全西洋の宗教世界に大変革を起こすことができるのではないかと考えています」というようなことを述べているわけです。
ではなぜハーンは輪廻の考え方を高く評価したのかということですが、今でも実はアメリカ人の半数ぐらいは進化論を拒否しているというか、学ぼうとはしないのです。そんな中でハーンは、下等な動物から上等な動物に進化しているという進化論を高く評価していたわけで、その関係で、ヒンドゥー教から一部は受け入れたわけですけれども、仏教の輪廻の考え方を高く評価しているわけであります。
仏教指向のルーツ
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は人間的な考え方を大事にしたのですが、それにはわけがあると私は思います。昨年のことでございますが、私は六月四日から十二日間、アイルランドへの旅をいたしました。ご存じの方も多いかと思いますけれども、ハーンはギリシアのレフカダ島という島で生まれました。そこのローザという女性とハーンの父とが恋に落ちまして、そこで愛の結晶として生まれたのがハーンであります。二歳ぐらいのときに母親と一緒にアイルランドに行くことになりました。それから十九歳まで首都ダブリンの周辺のところに住んでおりまして、十九歳のときにアメリカに渡ったわけです。「三つ子の魂百まで」という言葉がありますけれども、ハーンはギリシアか、あるいはアイルランドか、いずれかで「三つ子の魂」を失ったことになるわけで、両方が恐らく人間形成の上で大きな要素になっていると思います。私がアイルランドに行きたいと思いましたのは、ハーンの人生の人間形成期に住んでいた場所がどんなところであろうかというので行ったわけでございます。
ダブリン市内にハーンのゆかりの場所が四カ所ばかりありますけれども、そことメイヨー県という名前がもう少し北の方にありますが、そこのコングという所も訪ねたりいたしました。私はそれまでアイルランドにつきましては全く無知でございまして、この機会にほんの申し訳程度ににわか勉強をいたしまして、ケルト人の本来の宗教というのは、山や大地や川や湖などの神を信仰する自然崇拝であると。そして五世紀にセント・パトリックというカトリックの司教さんがアイルランドにやってきて、キリスト教を広めたわけですけれども、それまでは自然宗教的なものを信じていたのであります。それが現在まで残っていてたくさんの妖精たちが存在し、輪廻転生の思想が残っているということがわかりました。
アイルランドのキリスト教のお墓に参りましたところ、キリスト教のお墓は大体十字ですが、単なる十字ではなくて十字のところに丸が一緒になって建っております。ハイクロスと言っておりますけれども、そういう特殊な十字架なんです。その輪は何を表わすかと申しますと、一つには輪廻を表わすというようなことを言っておりまして、また、太陽を表わすとも言われておりまして、私はどちらかわかりませんけれども、そういうような特殊性もアイルランドにはあるわけでございます。
しかもハーンの曾孫に当たる小泉凡さんは松江の記念館の館長さんをしておられる方ですが、小泉八雲のご長男一雄さんのご長男である時さんのご長男が凡さんです。その凡さんが文章の中にこういうことを書いています。こうした多面性、多くの面をハーンは持っていると。それと周辺性、中心的なものでなくて周りとかかわりを持つというか、ハーンは、それに呼応するかのごとく循環的な知性感の持ち主でもある、と。
「つまり元来、多神教であるギリシア人、ケルト人、日本人に共通するような、霊魂は死によって肉体を離れるが、生によって再び肉体につながり、輪廻転生を繰り返すという考え方に共感していたのである」。それゆえかハーンはカルマと行為について、カルマをする、行為をすればそれが直ちに消えるのではなくて、その印象が残されていく、それが業となって蓄積されていくわけですが、そういうカルマという言葉を好んでいた。そして因果応報についてよく語っていた、というように凡さんは語っております。
確かに仏教そのものも、世界の大宗教であるキリスト教とかイスラム教に比べれば周辺の宗教であるわけですけれども、それとともにハーン自身が非常に多面性を持っていた。そのハーンにふさわしい研究の対象に、仏教というのはそういう意味でなり得たというように思われるわけですが、その上に仏教というのはケルトの心とも言えるような輪廻転生を説いている宗教であったということ。
ハーンの仏教観
今までるるお話をしてまいりましたけれども、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が日本で研究したいと思ったことの重要な一つが仏教であった、これは動かせないことであろうと思います。そこでハーンの仏教観というのは一体どういうものであったのかということをお話しして、この講演を終わりたいと思います。ハーンに、『涅槃』という作品――「涅槃」というのはご存じだと思いますが、意味するところは「解脱」や「悟り」と同じでございます。仏教徒の求める最高の境地ということですが、「涅槃」というのは「Nirvana」という言葉の音を写したものです。Nirvanaというのは、本来は赤々と燃えている、その火をフッと吹き消すということです。火が消えた後の寂静の境地、それがいわば涅槃、悟りの境地になるわけですけれども、そういう語源をもった言葉ですが、『涅槃』と題する作品があります。
これは書きはじめて三年ぐらいかけて仕上げられた作品です。『涅槃』の中でハーンが仏教の代表的な教えとして紹介しているのが、「無我説」という考え方です。無我説こそ仏教の代表的な教えとして彼は取り上げておりまして、仏教の無我説が道徳的に価値の高い重要な教義である、それにもかかわらず西洋の宗教家たちは正しい評価を伝えていない、そういうことを指摘しておりました。
ハーンによりますと、「西洋人の考えている『我』(エゴ)というのは、我々の感情・観念・記憶・意志を意味するものであって、これはこの世に存在するものの中で最も確実で信頼のできる永遠の霊魂にほかならない」、これがハーンの西洋における「我」(エゴ)というものの理解になっています。霊魂、そしてそれは永遠不滅のものであるわけです。そういうように西洋の人たちは考えている。
さらにハーンによりますと、仏教徒はそういうものをどう考えているかと申しますと、「それと反対に、西洋人が『我』と言っているものはことごとく偽りである、と言っている」。それが仏教の考え方です。「仏教徒は『我』というものを、人間の肉体的・精神的経験によってつくられた感覚・衝動・観念のほんの仮に結ばれた集合体に過ぎない」と考えています。
すなわち西洋人は「我」とか「自我」というものを実在する最も信ずべきよりどころであるというように固く、固く信じている。仏教徒は、そういう「自我」というものは幻影、夢、幻のごときものなのだと。あらゆる忌憚とか罪業の根源であって、決して我々の頼るべきものではない。夢、幻のごときものであるというふうに仏教徒は考えている。そういうように彼は考えています。西洋に根強く見られる仏教と相反する思想というものを取り上げまして、それがいかに多くの人類の不幸を引き起こしているのかということを書いています。
仏教は先ほど申しました常のものはない、自我と称するものは夢、幻のごときものだというわけですから、それと正反対の信仰というのが西洋の考え方です。「つまり、固定したものがあるという妄想、言いかえれば性格、身分、階級、信条の区別は、ある不変の法則によって定められているという妄想。不変で不死である有情の霊魂は、神の気まぐれによって永遠の幸福か、永遠の煉獄へ行くように運命づけられているという妄想。これらの妄想からいかに多くの人類の不幸が起こっていることであろうか」、これはキリスト教への批判ですね。
彼は大変キリスト教を嫌っていたわけです。その理由に関して、「疑うまでもなく、神というものは怨みを持ったら最後、どこどこまでも怨み続けるという観念、罪は贖(あがな)うことができず、罰は切り捨てがたいという観念、このような観念は社会の進歩がずっと未開の時代でなければ価値のない観念であって、これからますます進歩する未来の人類進化の道には、そんな観念はお払い箱になってしまうに決まっている」と、そのように断言しております。
そしてさらに続けて言っております。「東洋思想と西洋思想が接触することによって、そのような西洋的な観念が一日も早く衰滅し、明るい結果を招くことが望まれる。そんな西洋的な観念の発達させた感情が、我々の中に尾を引いている間は、本当の意味の寛容の精神なぞ生まれるわけがないし、真の人類同胞の観念も、世界愛の目覚めも起こりっこはないのである」と。
こういうように永遠不滅の自我というようなものを認めていけば、性格、階級、民族の差別というものを認めない無我の立場に立つ仏教というものとの大きな隔たりがありまして、自我というものがあったら、慈悲とかそういうような考え方が生まれてこない。相手の立場に立つということもできないわけですから、そういうのは無我の立場に立つ仏教の持っている今日的な未来的な意義である。そういうようにハーンが考えていたというように私にも思われるのでございます。
少し前の時代に自我の確立なんていうことがよく言われました。日本人は自我の確立が足りないのだというようなことが言われまして、西洋的な自我というものに、猿まねのように同調する人がおりましたけれども、西洋的な自我の行き着くところは、やはり人類の滅亡以外の何物でもないわけです。それは現代の世界の有り様がよく示しているかと思いますけれども、それぞれが自我を張り上げていますね。戦争以外の何物も起こってこないわけでございます。人類の滅亡ということが目に見えているわけであります。
ハーンがすでに百年も前に仏教の無我説の今日的、未来的な意義を見出して、東洋思想と西洋思想が一日も早く手を握ることを望んでいたということは、驚嘆すべきことではないかと思います。世界の状況が今日のようにグローバリゼーションが進みまして多くの民族が協調しなければならない時代になってまいりますと、共生の理想、共生という言葉は仏教とは少し違うようですけれども、そういう理想の実現が焦眉の急になっているわけであります。そういう時代にやはり仏教の無我説という考え方がますます重要になっていくのではないかと思います。
私の恩師の中村元先生のお墓が多摩墓地にあって墓碑が建っております。中村先生は松江にお生まれになった方でありますが、松江といえばハーンが一年滞在したところですし、それも中村先生が世界的な学者になられた因縁かもしれません。
先生のお墓には、仏教聖典の『スッタニバータ』から、みずからバーリ語から翻訳されて奥様がお書きになった言葉が、「ブッダの言葉」という題になって刻まれています。先生は若いころから最晩年に至るまで仏教の慈悲という精神を大変大切にしてこられました。これこそが永遠の真理であるとまで強調されているのでございますけれども、先生は『温かなこころ―東洋の理想―』という書物の中でこういうことをおっしゃっております。
「仏教では無我を説くと申します。無我というのは自我がない。霊魂がないという意味にとる学者もおりますが、そうではなくて、我執を離れろということなのです。人と人とがどうかすると対立することがあり得る。国と国だって対立します。けれども人間関係について言うならば、他人との対立、争闘を離れましてそこにおのずから他人に対する温かい共感の心が情となってあらわれるということもまたございます。我も人である。彼も人である。ともに感じるという気持ちになるわけです。人間における我がものという観念を捨てて、心を統一し哀れみに専念する。我執を離れたところからおのずからもろもろの境地が出てくるわけであります。そのもろもろの美徳、人間にはいろいろな美徳がありますけれども、それは究極的には慈悲であるということです」と、このように先生はおっしゃっております。
無我の本来の意味は、我執を離れるということです。我執を離れたところに慈悲の精神が生まれてくる。人を思う心なのです。そこにラフカディオ・ハーンも東洋思想と西洋思想の大きな違いを見出しているわけでございます。そのことを中村先生はご存じであって言われたわけではありませんけれども、無我というものを慈悲の心として大変大切にされた。それを自分の墓碑のところに奥様と共同制作のものを建てられ、後の世に知らせておられるのです。
= 終わり =







