前田專學先生

ある眼科医の悲願

2004年4月23日 第17期開講記念講演

布施郁三先生との出会い

これから私が申し上げるお話は、昨年の八月に在家仏教協会でお話したこととほとんど同じであります。そのお話は、その後、在家仏教協会で出版されている『在家仏教』という雑誌の今年の三月号と四月号に分けて出版されました。それはこのお話が大変に重要なことと思っているからです。皆様方が今後活躍される上で是非とも心得ておいてほしいと思うからです。

 私がこれからお話するある眼科医というのは、千葉県八日市場の布施郁三先生のことです。私の七十三年の人生のうちのほんの十年ほどの間、ご厚誼をいただいただけですが、何回も同じ話をするほどに、私の人生に消しがたい足跡を残して逝かれました方です。
 布施先生と私との出会いは、私が、中村元先生(編集人注=文化勲章受章。九九年逝去)の後任として、東京大学に就職し、東大文学部の印度哲学研究室の主任をしていた頃でした。
 およそ総合大学で、文学部ほど寄付と縁のない学部はありません。そのような文学部に突然、まさに青天の霹靂のように寄付の話が起こりました。あれは、およそ二十年前の昭和五十九(一九八四)年のことでした。当時の文学部長が、教授会で「東大の医学部出身の布施という目医者さんが、総長のところにお出でになって、文学部への寄付を申し出られました」と報告されたときには、文学部教授会が一瞬「沸いた」といってよいほどだったように覚えております。
 布施先生の強いご意向として、文学部の中でも、とくに印度哲学研究室へ寄付をしたいということもあって、その当時印度哲学研究室主任であった私が、布施先生のご寄付の問題を担当するようにという学部長の指名を受けることになりました。そこで評議員の先生と事務局の会計主任と私の三人で、さっそく千葉県の九十九里平野の北部にある八日市場市の先生のお宅に伺いました。これが、布施先生と私との最初の出会いでした。
 行ってみて、正直なところ驚きました。そのお屋敷は広いものの、先生の居宅はじつに質素というより、まさしくおんぼろで、これが多額の寄付を申し出られている先生のお住まいかと内心吃驚したものでした。玄関にはいると、小柄な、白髪の、どこか気品のある先生が、飄々と出てこられました。その頃先生は七十九歳で、もう目医者さんはお辞めになっておられ、奥様とお二人で住んでおられました。まったく飾らず、訥々と事情を私どもにお話になったのです。
 先生は、昭和五十九年に、先生のご専門とはまったく関係のない中国の古典に関する三百頁ほどの研究書を出版されました。私などにはさっぱり分からない本でございますが、この專門書を自費で出版されたのでした。そのとき思いがけないほどの多額の費用がかかったことに驚かれ、それが、大学に寄付を思いつかれる一因となったそうです。
 これでは金銭に縁の薄い仏教などの精神文化の研究者には大変であろうとお考えになり、精神文化の研究の高揚と普及に役立ててほしいという希望を述べられました。その後も何回か、先生のお宅にお伺いし、先生とお話する機会がありました。そのたびごとに先生は、駅の近くのレストランでお寿司をご馳走して下さいました。

布施先生の人となり

 布施先生は、明治三十八年六月十一日、千葉県八日市場町八―六七八番地にお生まれになりました。先生は布施家の四代目で、初代は布施文四郎(文亮)と言い、天保元年の生まれでありました。
 布施文四郎は、江戸に出て、神田お玉ケ池にあった千葉道場に赴き、幕末の剣客として有名な北辰一刀流の祖千葉周作の門に入り、「北辰一刀流兵法箇条目録」一巻――先生に見せて頂いたことがあります――の伝授を受けたほどの剣の達人でありました。千葉道場でその目録を貰ってから、嘉永七(一八五四)年正月二十六日、華岡青州(1760―1835)が開いた塾に入門されました。
 初代文四郎は、大変に勇猛果敢な人物でありました。一八六四年に、八日市場村近郊の貝塚において、水戸藩の尊皇攘夷派であった天狗党とそれに対立する書生党との激しい白兵戦が行われたとき、文四郎は臆せず戦場内に進入し、負傷者の治療を行い、数十人を救ったという。布施先生がこの初代の話をされるときには、いつも何かしら興奮気味で誇らしげな雰囲気がありました。先生には古武士を思わせる何ものかがあったのは、おそらく初代からの血のせいであったように思います。
 布施家四代目である布施郁三先生は、大正七年四月、千葉県立成東中学校へ入学、大正十一年四月に、旧制の第二高等学校(仙台)に入学されました。先生はここで白井成允教授の仏典講義に出席、『勝鬘経』の講義を聞かれ、深い感銘をうけられた。これが先生と仏教との出合いでした。先生は、私への私信(平成四年十月十六日)の中で、当時を偲んで、
「私が高等学校に入学したのは十八歳でした。このとき、私は親や親戚の重い期待を負わされて、ひとり孤独の感に堪えませんでした。勉強する以外に余念を持つことを許されませんでした。それで罪の意識などというものは皆無でした。その私が仏典にめぐり会って、うれしさ一杯になり、東洋に生まれたことを実に幸福に感じたのです。私が仏典をすばらしいと思うに至ったのは、全く自然必然で、何等の無理も先入観も無かったと言ってよいのでした」
と回想されています。白井成允先生と『勝鬘経』との出合いが、先生の人生の原点であったのです。
 布施先生はその後、大正十四年四月、東京大学医学部医学科に入学されましたが、東大では医学部の講義ばかりではなく、在学中機会あるごとに、高楠順次郎、木村泰賢、宇井伯寿など、文学部印度哲学梵文学科の教授による仏典関係の講義に出席されたのでした。まさしく布施先生は、当時印度哲学仏教学の最高峰の先生方の講義を聴かれたのでした。
 昭和四年医学部を卒業、その年九月から昭和六年三月まで、眼科教室にて研究、昭和六年から昭和十年三月まで、細菌学教室にて研究、昭和十年四月から昭和十一年三月まで、泉橋慈善病院内科にて研究、昭和十一年医学博士となられ、同年四月以降、八日市場において眼科医を開業されました。
 先生は単なる眼科医ではありませんでした。文化の向上には、経済的なゆとりの必要性を感じられ、眼科医開業と同時に農村の振興を図られました。敷地内で牛や馬を飼い、ハムやチーズ、イワシの薫製作りを教えられたり、桃の木を配布して果物生産を奨励されました。郷里の周辺にあった多くの農業学校を歴訪し、教示を請われた。当時は、学校長はみな東大農学部出身者であったので、大変に便宜を与えられたということです。
 第二次大戦後の荒廃期には、布施医院の宅地内に「布文館」を建設し、地元講師による英語やバイオリン教室、青年団の集会、子供達のための電気教室、コンピューター教室などを開いて青少年の育成に尽力されました。そのかたわら、さきほどすでに言及しましたが、いつ研究を進められたのか分からないのですが、昭和五十九年九月に、まったく先生のご専門とはほど遠い領域の大変綿密な中国古典の研究書を自費出版され、色々な図書館に寄贈されました。
 この本について、コメントする資格はまったくありませんし、先生からお聞きする機会もなかったのですが、先生はおそらくそのお家柄から、小さいときから漢文の素読をされた方で、漢籍にはご造詣が深い方ではなかったかと思います。

財産投げ打ち、仏教の発展願う

 布施郁三先生(注=千葉県八日市場市の眼科医)はまた、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)に強い関心をお持ちでした。ある日思いがけないときに、先生からハーンと仏教との関係について質問を受けたのです。私の手元には、先生からのお手紙があり、その追伸のところに
「別の話ですが、私が読んだことですが、小泉八雲が、自分の息子を仏教徒にしたいと語っていたそうですが、これはどんな訳でしょうか。前田先生がご存じならばいつかお聞かせ頂きたいと存じます」
という質問が記されております。当時の私は、ハーンといえば日本のよき理解者で、雪女や耳なし芳一などの怪談の作者ぐらいにしか考えていなかったのですから、私に答えられるはずがありませんでした。
 この先生の意表をつくご質問に何とかお答えしようと思って、少しずつ調べ始めたことが、私がハーン研究に手を染める契機になったのでした。考えてみますともう、二十年もの間、ハーンと関わっております。この意味で、布施先生は、私の先生でもあります。私は現在、恩師の故中村元先生が三十年前に創立された、学歴・性別・年齢・国籍を問わず、真に勉強がしたい人のための「寺子屋」である東方学院で教えていますが、その講義の一つが「ラフカディオ・ハーンとインド」でした。ちょっと脱線をいたしますと、今年はハーンが亡くなってちょうど百年になります。ハーンが愛した松江市の近くの安来市の清水寺で、その没後百年に因んで「ラフカディオ・ハーンと仏教」という題でお話しすることになっております。
 布施先生は、平成六年三月十三日、多くの人々に惜しまれながら八十九年の生涯を閉じられました。同年三月二十一日付け『朝日新聞』(千葉版)は、「『仁術の人』逝く」と、「八日市場の開業医・布施さん」の死を悼んで、大きく追悼の記事を載せました。大変に慎ましやかな、夫唱婦随であったご夫人は、昨年五月二十一日に、先生の元に旅たたれました。
 このようにして(注=前号掲載)、昭和五十九年十二月一日、文学部(注=東京大学)は布施先生から金八百万円の寄附の申し出を受けました。先生七十九歳の時でした。布施先生からは、その後、昭和六十年に五百万円、同六十二年二月に一千万円、同年八月に二千万円、などという具合に、先生の先祖からの遺産であった農地や宅地が売れる度ごとに、ご寄付を頂きました。最終的に総額は二億八千万円に達しました。この基金から生まれる果実によって、文学部が主催する公開講演会、学内の様々な講演会、海外研究者の招聘、海外への派遣、若手研究者の研究費並びに出版費の補助などが現在でも行われてきています。
 先生は、大学院時代に、日本女子大学で英文学を専攻された星子様と結婚されました。お二人の間には、三人の男子、四人の女子の、計七人のお子様に恵まれておられました。しかし先生の後、布施家には、四代続いた医業を継ぐ後継者がありませんでした。そこで布施先生は、文学部が、いわば布施家の第五代目として、先生のご遺志を継承してほしいというご希望がございました。
 そこで文学部として何らかのご恩返しをすることを考え、ご芳志を顕彰するために、ちょうど文学部に三号館が完成したのに伴い、その心字池を見下ろす景勝の地に位置する三号館の地下一階に、記念閲覧室が設置されました。そこに布施記念文庫を設け、先生に関係の深い『大正新脩大蔵経』全百巻をはじめ、主としてリファレンス・ブックを備えて読書子のための閲覧室として、またたこつぼになりがちな文学部の研究室間の障壁をこえた文学部教官共通の談話室として、さらには文学部主催またはそれに準ずる学術講演・コロキアムなどの会合の場所として利用されることが目指されました。
 それとともに、私の発案で、この記念閲覧室を、先生のご許可を得て布文館と命名し、先生の青少年育成の悲願をも受け継ぐことになったのです。布文館という名称は、布施家初代の布施文四郎にちなんで、先生が命名されたものです。この経緯を後代に伝えるために、「布文館縁起」という銅板のパネルが布文館の壁に埋め込まれました。
 布施家の布文館の鉄門扉には、シューベルトの有名な「菩提樹」の歌詞の一節Kommherzumir,Geselle,hierfindstdudeineRuh!(来よ、いとし友、此処に幸あり!)に対応する楽譜が書かれておりました。これは布施先生がこよなく愛されていた歌であり、先生がこの一節をドイツ語で暗唱されていたのを二、三回聞いた覚えがあります。布文館の名称をいただくのであれば、先生の理想と布文館の雰囲気をも頂戴したいという私の希望で、それを図案化した額を天井近くにかけることにしました。
 昭和六十二年十二月十六日、午後二時から、布施先生とそのご家族四人をお迎えし、文学部長をはじめ、文学部の教授会メンバーのうち四十三人が出席して、布文館の開館披露式典並びに祝賀会が和やかに行われました。

「仏教精神は人間を救う」

 布文館の開室にあたって用意したチラシに、先生の「ごあいさつ」文をお寄せ下さるようにお願いいたしました。そこには医師であった先生の切々たる悲願が述べられておりますので読ませて頂きます。
 「この度、布文館の開館にあたり、是非一言書くように、とのご依頼がありましたので、筆をとることにいたしました。
 去る九月二十五日には、新三号館落成の記念式典にご招待頂きまして誠に有り難うございました。その際には、森亘総長先生をはじめ、貴顕の諸先生方に紹介して頂きまして、感激致しました。また披露宴の席上では、私の事に関しまして、丁寧にご説明頂き、非常に嬉しく存じました。当日は、帰途、本郷にて、同伴した子供ら(女三人男一人)と夕食を共に致しましたが、子供らが皆、お目出とうと言ってくれました。子供らも喜んだのであります。
私は、東大医学部昭和四年の出身で、長く八日市場市に於て眼科医を致しており、文学部とは、直接の関係はございませんでした。しかし学生時代に、二高で白井成允先生、東大で宇井伯寿先生などから仏教の講義を聞き、大変な感銘を受けました。今日になっても、その時の感激を忘れることが出来ません。私ども日本人は、古代から、豊かな仏教思想・文化の中に生き、聖賢の深い智慧の恵みに浴してきました。現時、科学技術の発展には、目を見張るものがあり、物質文明は私どもに驚異を与えています。然しその輝きの陰に入って、精神文化は顧みられず、今衰微しようとしております。
 私は、若年多感の時に、仏教によって精神的孤独から救われました。人格の尊さと、連帯性の限りなさとを教えられました。私は仏陀と、学んだ先生とに生涯の恩誼を感じます。もし仏教が無くなったら、私の生命も亡びます。仏教精神は、物質文明による人間の変態化を救うものであります。
 私は、私自身のいのちのために、また救われて喜ぶ友人の尚おおからんために、仏教の伝統が守られ、又栄えんことを念願します。この願いを以て私は、私の祖先が残してくれた財産と私個人の財産とを、東大文学部に寄託し、仏教などの精神文化の高揚と研究とに役立たせて下さるよう、お願い申し上げました。
 幸い、学部長先生を始めとする、文学部の諸先生がたにお喜び頂きまして、新三号館の一番素晴らしい一室を、私が郷里に建てた青少年育成施設の名に因んで、布文館と命名し、私の志を末永く継いで下さいますとの由、身に余る光栄と存じます。皆様がたのご高配に対しまして心から厚く御礼申し上げますとともに、文学部の益々のご発展を祈念致す次第であります。」
 さて、この文章の中で、布施先生は、科学技術を偏重し、哲学や宗教などの人文科学を軽視する、布施先生の場合には仏教を軽視する、今日の教育の在り方に対して激しく警鐘をならしておられます。それが自ら眼科医として科学技術の恩恵をどっぷりとうけられ、生涯、科学技術で生きてこられた先生の警告であるだけに、心を打つものがあります。親子四代で守ってこられた先祖からの財産を投げ打って、仏教の、人文科学の発展に貢献したいと思われた布施先生のご遺志はまことに尊いものに思われます。私が本日皆さんに是非お話したいと思った理由でもあります。
 確かに最近の科学技術の発展の素晴らしさは、驚くほど、というより恐ろしくなるほどであります。私の身近な例を考えましても痛切に感じます。私が、ワープロを使い始めましたのは、もう20年ほど前になりますが、東大の文学部の教員80数名の中でももっとも早くこの文明の利器を利用し始めたひとりでありました。

恐るべき 科学技術の発展

 最初にワープロを使ったときには、まず自分の名前を入力してみました。「まえだ」と打って、変換いたしますと、「前田」と漢字に変わりました。最初は奇跡のように思えたものでした。おもしろくなりまして、つぎに「専学」と打って変換致しました。びっくり仰天であります。「もっぱらまなぶ」とでてくるとばかり思っておりましたら、「浅学」とでているではありませんか、あわててもう一度変換致しますと、「先学」とでております。ついに私の名前はでてきませんでした。これが機械の機械たるところで、人間があらかじめ教えてないことは何も出来ないのです。でもこの機械も大変に役に立ってくれました。しかし半面、漢字を忘れてしまい、当然書けなければならないような字まで書けなくなってしまいました。この機械が、私の大事な漢字能力を奪ってしまったのです。今では、この機械の前に座らなければ、論文も、この講演の草稿も、葉書すらも書けなくなってしまいました。
 そのうちワープロ専用機は、時代遅れとなり、ついに私もパソコンに切り替えました。いろいろな原稿などをフロッピー・ディスクに残すように致しました。フロッピーもはじめの頃は、こうしておけばウィルスにやられても、記録は安泰だと思っておりました。最近、五年ほど使っていたパソコンが駄目になり、新たに買い換えました。ところが、最近のパソコンには、フロッピー・ディスクが使えるようにはなっておらず、フロッピー・ディスクを使うには、別売りしているフロッピー・ディスク・ドライブと称する付属品を買わなくてはならなくなっておりました。もうフロッピー・ディスクのような容量が少なくかつ破損しやすいものに記録するのはすっかり時代遅れになっておりました。 これまたびっくりいたしました。折角今までせっせと大切に貯めておいたフロッピー・ディスクがまったくこの最新鋭のパソコンには使えなくなってしまいました。大急ぎで、別売りのフロッピー・ディスク・ドライブを注文し、十日ほどたってやっと従来のように使えるようになりました。
 ことほどさように、科学技術の発展は急速であり、それにつれてもろもろの公害などのような負の面(マイナス)も大きくなりつつあります。この世の事柄には、光あれば必ず影があるものです。公害だけではなくて、臓器移植・生体肝移植・人工授精・クローン人間・DNAの組み替えの問題など、今まで人類が経験したことのないような、様々な倫理・道徳上の問題なども起こってきております。また携帯電話は、大変に便利ではありますが、小中学生をも事件に巻き込んだりして、社会問題に発展してきております。インターネットの目を見張るような発展は、不可解な集団自殺の手段を与えたり、爆発物の秘密の売買の手段に使われたり、誰も予想もしなかったような忌まわしい事件や性犯罪の温床となっております。
 科学技術の発展は、確かにわれわれの生活を容易にし、快適な日常生活を可能にしました。私の机には所狭しと一台のパソコン、2台のプリンターが陣取り、先ほども申しましたように、パソコンなしでは論文一つ書けないような状況になっております。しかしこのパソコンがあれば、世界中の研究者と直に繋がっており、国際会議ともなれば、大変な威力を発揮いたします。さきほど申しましたインドの国際会議の場合にも大変に有力な武器となりました。そればかりか研究上必要な膨大な量の資料――大蔵経やサンスクリット原典など――は小さなパソコンの中に入れて、何処へでも持って行けるのです。大きな図書館が小さなパソコンの中に入っているようなものです。
 また湾岸戦争やイラク戦争などを、テレビでみていると、その科学技術の凄さを実感致します。また、宇宙飛行士たちが、時には失敗はあるものの、確実に宇宙に行って戻ってくるのを見ると、科学技術は万能であるかのように思えてくるのです。そして宗教とか倫理とか道徳とかについて、何か恥ずかしいような、時代遅れなことのように思えてくるのです。科学技術立国という美名のもとで、日本の教育は、科学技術の教育が強調され、哲学や宗教や倫理、その他いわゆる人文科学の教育はないがしろにされる傾向が顕著になってしまいました。
 大学では専門教育が重視されて、人文科学などを教える一般教育が無視される傾向が強くなって参りました。私立の大学では、いわゆる心の教育に欠かせない一般教育や人文科学の教育は、就職に役立たないとして、何か手っ取り早く資格のとれる科目に、就職に役立つ実用的な科目に取って代わられてしまいました。
 昔は、英語・英文学を専攻するといえば、シェークスピアなどの文学を読み、味わい、教養を高め、人生の糧としたものでした。ところが最近は、英語教育といえば、実際生活に役立つ、英語の会話能力を養成するところに変わってしまいました。そのためにもう一昔前から、英会話の出来ない英文学の先生は、どんな大家であっても、お払い箱にはならないまでも、肩身の狭い思いをせざるを得ないような状況になってきております。
 しかし昔から「人はパンのみにて生きるにあらず」といわれているように、今や日本人は、日本の青少年の多くは、精神的に飢餓状態にあるといってよいように思います。精神的な砂漠の中にありながら、それに気づかないでいるか、気づいても、周りが全部砂漠で、オアシスが見つからないのです。オウム真理教の場合にも、純粋な大変に才能のある自然科学の専攻の学生が多く入信したのも、このような精神的飢餓状態の青年が多いということを示しているように思います。かれらはたまたまオウム真理教にオアシスを見いだしたのでした。

科学技術の性格

 日本の教育で、強調される科学技術とは、いったいどのような性格のものであるのか、考えてみたいと思います。
 インドには、十一世紀に書かれた『ヴェーターラ・パンチャヴィンシャティカー』(『屍鬼二十五話』)と言う有名な説話集があります。この日本語訳としては、東大の上村勝彦先生が訳されました『屍鬼二十五話』(平凡社の東洋文庫)がございます。私が好きで、ときどき引用する話しは、その中の第二十二話「ライオンを再生した兄弟」という話であります。この話は、あるいはご存じの方もいらっしゃるかも知れませんが、科学技術の性格をよく示していますので、お話しましょう。
 その話によりますと、インドのあるところに、バラモンの夫婦がおりました。その夫婦には四人の息子が生まれましたが、息子達が幼年時代を過ぎたころに夫婦とも亡くなってしまいました。その後、両親を失くした四人の兄弟は大変苦労をし、長男は自殺を企てたことすらありました。しかし、四人の兄弟はいろいろ考えたすえ、各々神通力――今日のハイテクに相当するのでしょう――を探し求めてそれを習得しようと決心致しました。そこで、落ち合う日と場所を約束して、それぞれ四方に向けて、神通力を習得するために出発致しました。
 さて、時がたち、それぞれ神通力を習得した兄弟達は約束の場所に集まって、各々どのような神通力を習得したかを話し合いました。長男は、どんな動物でもその骨の一片を得たならば、その動物に相応しい肉を即座に作り出すことが出来る神通力を習得いたしました。二男は、骨片に肉が生じたら、その動物に相応しい毛と皮を作り出すことが出来る神通力を習得しました。三男は、その骨と皮と肉と毛が生じたら、その動物の体を作り出すことが出来る神通力を獲得しました。最後の四男は、体が生じたら、その動物に生命を与えることが出来る神通力を習得したのでした。
 そこで、その四人の兄弟は、各々の神通力を見せるために、骨片を探し求めて、森の中に入って行きました。そこで兄弟は、運命のまにまに、何の動物の骨か知らないで、骨片を拾い上げました。まず長男がその骨にふさわしい肉を作り出しました。次男は、それに皮と毛を作り出しました。三男は、さらに、それに相応しい体を作り出しました。最後に、四男は、そこに横たわっている骨と肉と皮と毛と全ての体を完備した動物に生命を与えました。
 ところがどうでしょう、その骨は、不幸にもライオンの骨だったのです。四男がその動物に生命を与えた直後に、恐ろしいライオンがたてがみを振り立てて立ち上がりました。その飢えたライオンは自分の創造者である四人の兄弟に向かって跳びかかり、かれらを殺してしまい、森の中へ入って行きました。
 この話の作者は、この話に対して次のようなコメントを付け加えています。

科学技術は無明の産物

 インドで十一世紀に書かれた説話集『屍鬼二十五話』(平凡社の東洋文庫)の第二十二話「ライオンを再生した兄弟」(前号で紹介)の作者は次のようなコメントを付け加えています。
「このように、このバラモンたちはライオンを創り出すという過ちを犯したために、身を滅ぼしてしまったのです。実際、有害な生物を創り出したところで、いかなる人の心を喜ばせるでしょうか。
運命が裏目に出るときは、いくら努力してすぐれた能力を獲得しても、それは繁栄をもたらさないだけではなく、むしろ破滅をもたらすのであります。概して人間の努力という樹は、運命というその根がそこなわれることなく、叡知の水によって潤され、思慮分別という潅漑用の溝に囲まれている場合に、はじめて果実を結ぶものなのです。」
 これは、いまから千年も前の十一世紀に発せられた言葉ですが、核兵器という恐ろしいライオンを創り出し、人類滅亡の危機におののいている二十一世紀の人類の運命を的確に予告しているように私には思えるのであります。
 このライオンの話は、じつは科学技術の性格と欠陥をよく物語っております。自然科学のもっている宿命的な欠陥の一つは、自然科学は常に、ある事柄を、例えば人間を、必ずある角度から眺め、捉えるものであるということです。自然科学は、その事柄のもつ他の面を全く顧みることなく、ある一面のみを取り上げ、これを抽象して取り扱い、こうして果てしなく進むものであります。このような性格から、どうしても細分化されるという運命が必然的であります。
 その結果、科学は事実上、相互に有機的関連のない、多様な諸相においてしか存在しえないものであります。学問の各分野では、ほとんど全く他の分野と無関係に、「研究の自由」という錦の御旗のもとに、一方では止むにやまれぬ真理の探究心から、他方では功名心や利己心から、全く独立して、他を顧慮することなく、研究が進められております。
 細分化の欠陥は大きな綜合病院にお行きになるとよく実感出来ることと思いますが、内科、外科、泌尿器科などと分かれていて、相互の連絡はほとんどないままになっております。私の家内の母は、手術の失敗で亡くなりましたが、外科と泌尿器科の間の連絡の緊密性の欠如が最大の死因であったように思います。
 私は、この時期よくのどを痛めます。それで耳鼻咽喉科の先生の所にまいりますと、以前には見たこともない細い黒い管のさきに小さな電気のついた最新の検査器を鼻の穴に差し込んでよく診てくださった後、「赤くなっているだけで何も重大なことはありません。結構です。ただし、耳鼻咽喉までで、その奥のことは分かりません」とおっしゃいます。その奥の方が悪いのではないかと、かえって心配になってしまいます。
インド的な考え方によれば、人間は、無明をもったまことに不完全な存在であります。しかもインド的な人間観は、人間も動物も植物も自然も、すべて同一の原因から生まれたものに他ならず、人間だけが特別の存在である訳ではなく、その意味で本来人間も動物も植物も自然も平等であることを教えております。人間に人権があるならば、動物にも動物権があるし、また植物にも植物権があるはずです。
 しかしながら人間はその事実に気がつかず、最近の科学技術の成功に、ますます傲慢になっているように思います。その上に、西洋的人間観というよりも、むしろキリスト教的人間観の誤った理解と、自然科学のもっている宿命的欠陥が相乗作用を起こし、地球環境は無残に破壊され、生態系の崩壊はまた人間を含めた地上のあらゆる生物生命を脅かしつつあります。
 科学技術は、人間の自然にたいする思い上がった支配欲を推進力としております。まさしく科学技術は、人間の無明の産物であります。人間の無明の産物が、その無明を滅すことが出来るはずはありません。科学技術はいくら発達しても、無明を助長することはあっても、それを滅すことは不可能であります。
 お話し致しましたインドのライオンの話の、いまひとつ別の伝承『パンチャ・タントラ』によりますと、先程とは少し異なっておりまして、一番下の弟は、兄達が習得したようなすぐれた知識と技術をもっておりませんでした。しかし、兄たちがそのライオンを生き返らせようとしているのをみて、その試みの危険なことを知って、そのことを止めるように忠告致します。しかし兄たちは、その危険な実験に夢中となって、止めようとはしなかったのであります。そこで弟は、ライオンを生き返らせるのを待ってもらい、大急ぎで木に登りました。他の兄弟は皆、その生き返ったライオンのために殺されてしまいましたが、危険をさとって木に登った一番下の弟だけは助かった、というようになっております。現代のわれわれには、この弟のような叡知が、思慮分別が要求されているのであります。
 無明はよく、真っ暗な暗黒に例えられます。真っ暗な部屋に、太陽光線が入ればたちまち暗黒はなくなるように、叡知の光が、智慧の光明が差し込めば、それまで覆っていた無明の暗黒が追い払われるのであります。無明の暗黒が追い払われる時、己の傲慢さにくのではないでしょうか。
人間の心が無明に支配されているという状況は、恐らくどんなに科学が進歩しても、変わらないと思います。医学が進歩すれば、老化の進行を遅らせ、不治の病気も回復させることが出来、若干死を遅らせることができるようになるかもしれませんが、しかし老・病・死から全く自由になることは不可能であります。万一可能となれば、現在すでに問題になっているように、益々老人問題は深刻化し、今でさえ深刻な世界の人口問題がさらに深刻な状況になって参り、果ては食料不足で人類は絶滅することになると思います。

「仏教が人間を救う」と布施先生

 私の尊敬する布施郁三先生は、本来科学技術の世界に身を置かれた方でありますが、しかしその欠陥を反省され、精神文化の高揚のために、東大文学部に多額のご寄付をされたのでした。ここで、先ほどご紹介した先生のお言葉をもう一度ご紹介したいと思います。
 「現時、科学技術の発展には、目を見張るものがあり、物質文明は私どもに驚異を与えています。然しその輝きの陰に入って、精神文化は顧みられず、今衰微しようとしております。
 私は、若年多感の時に、仏教によって精神的孤独から救われました。人格の尊さと、連帯性の限りなさとを教えられました。私は仏陀と、学んだ先生とに生涯の恩誼を感じます。もし仏教が無くなったら、私の生命も亡びます。仏教精神は、物質文明による人間の変態化を救うものであります。
 私は、私自身のいのちのために、また救われて喜ぶ友人の尚おおからんために、仏教の伝統が守られ、又栄えんことを念願します。この願いを以て私は、私の祖先が残してくれた財産と私個人の財産とを、東大文学部に寄託し、仏教などの精神文化の高揚と研究とに役立たせて下さるよう、お願い申し上げました」。
 科学技術は決して万能ではありません。科学技術は、人間はいかに生きるべきであるか、ということは決して教えてくれません。科学技術が対象としているのは、あくまでも物質の世界であって、こころの世界ではありません。心の世界を対象とするのは、あくまでも宗教であり、哲学であり、倫理学であり、人文科学の諸学問です。
 最近よく聞く言葉に、DNAがそうなっているから、という言葉があります。人間の寿命も、病気も、すべてDNAで決まっている、というようなことが言われます。これは一種の運命論です。生物学的運命論とでもいえるかと思います。このような運命論を克服できるのは、やはり宗教であり、哲学であり、倫理学であり、人文科学の諸学問であろうと思います。
 最近の、倫理,道徳の退廃は目を覆いたくなるほどでありますが、科学技術の偏重と人文科学、特に宗教の軽視に関係があるように思います。
 布施先生は、科学技術は必要ではないといっておられるのではありません。科学技術も、人文科学と同様に必要なのです。しかし今や、科学技術の偏重の時代であり、宗教や哲学や倫理学などの人文科学の諸学問が、不当に無視されている傾向に警鐘を鳴らしておられるのです。布施先生がおっしゃるように人間の変態化を是非とも避けるべきだと思います。

= 終わり =

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