ソウルで学術大会共催
謝罪の意味も込めて
昨年は日韓共催のサッカーのワールドカップをはじめといたしまして、 いろんな形の日韓の交流が行われました。 日本の印度学や仏教学の研究に従事している研究者の集まりに日本印度学仏教学会という学会がございまして、 会員は約二千四百名を擁しております。 この学会は一昨年、 創立五十周年を迎えましてお祝いをいたしました。 昨年は次の五十年の歴史的な第一ページをどういうふうにして飾ろうかというようなことをいろいろ考えてみました。
この学会を韓国で開催するに当たりまして、 一つの大きな問題が起こりました。 それはどういうことかと申しますと、 学会の名前が日本印度学ということで日本という国名が冠になっていることでございます。 日本とわざわざつけてある学会を韓国で開くということを考えたころは、 今よりずっと韓国の対日感情が悪い状況でございました。 日本ということはタブーのようでございまして、 なぜあの日本の学会をわざわざ韓国の大学で開く必要があるのか、 そういうような問題が提起されるであろう。
そのために日本ということが正面に出ないように、 本来ならば第五十三回日本印度学仏教学学術大会というふうにすればよかったのですけれども、 わざわざ韓国の韓を前に置きまして韓・日共同日本印度学仏教学学術大会といたしまして、 日本と韓国の共催という形にしたのでございます。
そのほか、 学術大会で用いる言葉の問題とかいろいろな困難な問題がございましたけれども、 何とか克服いたしまして、 韓国の曹渓宗で建てております東国大学校で開催することができたのでございます。 東国大学校の宋総長が大変に積極的であったということが、 実現に当たっての大きな原動力になりました。 また日本側でも積極的に協力してくださる方が多数ございまして、 何とか開催することができたのでございます。
韓国で学会を開くということは私が言い始めたことでございましたものですから、 他の会員の方々よりも一日早く、 七月四日の早朝の大韓航空で韓国に参りました。
折しも夏の台風五号と六号の予報がございまして、 二つとも運悪く韓国に向かっているというわけです。 七月の五日と六日、 ちょうど学術大会の前日と当日に韓国に上陸するであろうという予測でございました。 あらかじめ旅行会社であります近畿日本ツーリストにお願いをいたしまして韓国行きのツアーを組んでもらいまして、 大会前日の五日には日本から合計三百名近い参加者が、 札幌から東京から名古屋から関西から、 そして福岡から飛行機でソウルに集まる予定でございました。 事もあろうにその重要な五日に、 大型の台風が韓国に上陸するという予想でございました。
天気予報というのは大抵当たらないから心配ないと、 私もそう思っておりましたが、 しかしこの時だけはどうしたことかちゃんと当たったのです。 大変に気をもんだのでございますが、 幸いなことに前日の五日に予定通りに続々と日本から参加者が無事に到着されまして、 ほっとしたわけでございます。
会議終了後の七月八日、 二種類の韓国見学旅行が用意されておりました。 一つは仏教の交流とともに栄えた古代の新羅の都でございました慶州。 いま一つは、 今なお軍事境界線を挟んで緊張が続いております板門店でございました。 私は前に慶州へ行ったこともございましたものですから、 今度は板門店へ行くことにいたしました。
韓国の板門店といえばご存じのことと思います。 写真は許可されたところでなければ撮ってはいけない、 あるいはいたずらに手を挙げてはいけないとかいろんな注意をバスの中で受けました。 途中から国連軍の若い兵士が警備のために乗り込んでまいり、 一層の緊迫感が背筋を走ったのでございます。
やがて軍事境界線を挟んで南北でテーブルを挟んで話し合いがなされる場所に到着いたしました。 軍事境界線を境にいたしまして南北対称の位置に双方に立派なコンクリートの建物が向かい合って建っておりました。 韓国側のほうは自由の家 (フリーダムハウス) という名前がついております。 北朝鮮側のほうは管理本部、 板門閣と言っているそうです。 その二つの建物が軍事境界線を挟んで両側に建っております。 そこで見物をすることになるわけであります。
この南北両側のコンクリートの建物はおよそ百五十メートルか、 あるいは二百メートルぐらいの間隔を置いて建っておりますけれども、 そのちょうど真ん中に、 かまぼこ型の四角い小さな建物が二つ建っておりました。 その建物が、 南北の間で事あるごとに軍事休戦委員会会議というのが開かれる場所であります。 私どももそのコンクリートの建物から下りまして、 そして小さな建物の中に入りました。 建物の中には軍事境界線が通っております。 机があればその机の真ん中にマイクロホンがありまして、 そこを線が走っております。 それが軍事境界線でございます。 お互いに双方から二、 三人の代表が向かい合って協議をするのがその場所であります。
そこは二、 三十人入れば満杯になるぐらい小さなところでして、 MP、 立派な体格のアメリカの兵隊が立って監視をしている。 我々はこのテーブルから中のほうに入りましたら、 そこは既に北朝鮮側であるということで、 ビザもなしに入ったので何かゾクッとした覚えがございますけれども、 そういう場所でございます。 それがいつも休戦協定の場所で、 会議が行われるところでございます。 何の変哲もない木製のテーブルとイスが置いてある、 そういうところでございます。
その場所を去りましてその後、 一九五三年七月二十七日に休戦条約が締結された場所とか、 あるいは一九七六年に北朝鮮の兵士に国連の兵士が殺害されたというような場所とか、 あるいは一度渡ったら二度とは帰れないというブリッジ・オブ・ノーリターンという橋とか、 そういうようなところを見て、 最後に国連の兵士たちが食べる食堂で食事をして、 帰途に着いたのでございます。
帰路バスに揺られながら、 第二次世界大戦後、 北緯三十八度線で同じ朝鮮民族が南北両朝鮮に分断された民族の悲劇を思わされました。 西洋列強の猿まねをして日本も中国のみならず隣国の韓国に対しまして手ひどい仕打ちをしたのでございます。 そういう過去の日本のことを思い起こしまして、 いろいろなことを感じたのでございます。
今回、 韓国で学術大会を開催することにした理由も、 同じ仏教を研究する研究者の集まりである学会として韓国の方々に謝罪をし、 真摯に反省の意を表して過去の取り返しのつかない先人の犯した所業を踏まえつつ、 今後の日韓両国の仏教研究者が前向きに協力して仏教研究を進めていこうという趣旨で、 このような学会を開くということになったのでございます。
仏教は韓国から日本へ
日本が侵略の歴史も
先ほど、 日本の仏教の故郷である韓国というような言い方をしましたが、 ご存じのように、 日本へ仏教が初めて公伝したのは、 五三八年または五五二年と二つの説があります。 その歴史を語るとき、 韓半島という言い方をするのは韓国のほうで、 北のほうでは朝鮮半島という言い方をしておりました。 こういうお話をするときは大変難しいことになってしまいますけれども、 韓半島という言葉で言いますと、 韓半島の百済の聖明王という王様が日本の欽明天皇に仏像とか経巻を贈ったというようにされております。 それが日本へ仏教が公に伝わったことでございます。では韓半島に初めて仏教が公伝したのはいつかということになりますが、 日本公伝よりも二百年近くも早い三七二年のことでした。 当時、 中国の秦の王様でありました符堅という人が順道という仏教僧を韓半島の高句麗に遣わしまして、 仏像と経文を贈ったのです。 これが中国から韓半島に仏教が公伝した初めでございます。
この時代には朝鮮半島全体はまだ一つの国に統一されていなかった時代でありまして、 先ほどの高句麗と新羅と百済という三つの国が並立する三国時代で、 互いに覇を競っていた時代であります。 この三国時代は紀元前五七年から紀元後六七六年までとなっておりますけれども、 日本ではまだ飛鳥時代の前の弥生時代でございました。
高句麗に最初に仏教が入ったあと、 百済には十二年後の三八四年に伝わることになります。 どういう形で伝わったかと申しますと、 東晋からインド出身のマラナンダという坊さんが仏教を百済のほうに伝えたのが百済への仏教の公伝であります。 百済の王室にマラナンダが迎えられて仏教の公の伝播が行われたのです。 そして日本に仏教が公伝するということになります。
これは日本の歴史では大変に大きな事件でありまして、 朝鮮半島がくれた大きな贈り物であったということができるかと思います。 日本語の中に 「くだらない」 という言葉があります。 一つの可能性のある語源は、 「百済のものではない」 というので、 「くだらない」 になった。 その当時、 百済というのは文化国家であり、 百済のものは大変に尊重されて、 それ以外のものはつまらない、 くだらないものである、 そういうことがくだらないという言葉になったというのが一つの語源解釈ですが、 そういう解釈ができるほどに、 百済は当時は日本よりもはるかに先進国家であったわけです。 現在、 法隆寺にはすばらしい百済観音というのがありますが、 この解釈が正しいかもしれないというように思われるのでございます。
さて、 その後の日本と韓半島との関係で重要な事件は何かと申しますと、 豊臣秀吉という名前が思い出されるのでございます。 文禄・慶長の役というのが豊臣秀吉によって起こされるのは、 豊臣秀吉がかなり高齢になってヨタヨタしているころになりますけれども、 その時に文禄・慶長の役というのがありました。 これこそ日本が韓国に行った、 二回にわたる大義名分の全くない侵略戦争であったのでございます。
先ごろ、 アメリカとイギリスの連合軍がイラクを攻撃しました。 今やイラク全土を掌握して大規模な戦争はもはや終わったような状況ですけれども、 この戦争は大義名分がないということで大変な批判を受けております。 世界中の強い批判が起きているのは皆さんもよくご存じだと思いますけれども、 豊臣秀吉が起こした文禄・慶長の役というのは、 それ以上に大義名分のない侵略戦争でありました。
文禄の役の場合には総勢十五万八千人もの兵を派遣したのであります。 十五万人というのは大変な勢力で、 アメリカがイラクの攻撃に備えて最初のころ集結したのが十五万人ぐらいの勢力でした。 そして二回目の慶長のときには十四万の兵を派遣しました。 しかし結局、 慶長三年八月に秀吉が戦争半ばで死んでしまいまして、 やむを得ずその死を伏せて停戦協定を結んで無益な戦いは終結しました。
日本では無益な戦争で済ませることができるかもしれませんけれども、 しかし攻め込まれた韓国のほうは大変な耐えがたい事件であったわけで、 四百年以上も前のことですけれども今なお韓国の人たちには深刻な影響を与えている、 記憶に新しいのでございます。
しかもさらに悪いことには、 一九一〇年 (明治四十三年) には韓国併合に関する日韓条約が調印され、 日本による統治が始まった。 すなわち韓国は日本の植民地になったわけです。 これが韓国では、 「日本帝国」 を詰めて日帝時代と言われている時代でございまして、 一九四五年 (昭和二十年) の独立に至るまでおよそ三十五年間続くわけです。 そしてこの間に、 韓国の仏教教団とその思想が、 日本の帝国主義に色濃く色付けられるというようなことになります。 この時代には本当に申しわけない、 おわびのしようもないようなことが、 日本政府――朝鮮総督府と言っておりますが、 朝鮮総督府によって韓国の方々に強要したのでございます。
例えばどんなことがあるかと申しますと、 皇民化政策というのがあります。 これは天皇を絶対者として、 その皇民、 臣下となる、 臣民であるということを他民族に強要する政策でございます。 具体的にはどういうことかと申しますと、 一つには創氏改名、 二つ目は日本語の強要、 三つ目には神社礼拝の強要というようなことでございます。
創氏改名というのは、 一九三九年 (昭和十四年) に公布され、 その翌年の昭和十五年に施行された政策です。 日本が植民地支配のために朝鮮半島の人々に日本式の姓名に変えようと強制的に変えさせた政策でございます。 韓国では日本と異なりまして結婚しても姓を変えない。 それほどに姓を大事にする民族ですが、 それだけに創氏改名は、 いかに屈辱的なことであったかとご想像いただけるかと思います。 日本語の強要にしても、 神社礼拝の強要にしても、 韓民族の方々にはやはり耐えがたいものであったとおわかりいただけるかと思います。 それは民族のアイデンティティーはもちろんのこと、 個人のアイデンティティーすらも否定してしまうようなものでございました。
ではこの日帝時代に日本の仏教教団はどのようなことをやったか、 ということです。 仏教精神とは相反するような日帝の皇民化政策に批判するということもなしに、 むしろその皇民化政策の路線に乗って増長するような形で、 宗教による皇民化というものを進めていったのです。 その一つが日本仏教の押しつけでした。
例を申しますと、 日本の仏教では、 浄土真宗の開祖親鸞が仏教の伝統を破って妻帯を公然化する、 明治になってからは僧侶が妻をめとるということが公式に認められました。 しかし、 これは仏教としてはまことに異例なことです。 私がアメリカに留学していたころ、 何気なくアメリカ人と話をしておりまして、 自分は仏教の僧侶の息子であるというようなことを申しましたら、 向こうがびっくりしたような顔をして、 お前は庶子かというようなことは言わなかったのですけれども、 そういうような印象を持たれるほどに仏教としては異例のことなのです。
他方、 韓国ではどうかと申しますと、 出家主義、 独身主義というものが原則です。 そこへ僧侶に妻帯させようとする政策がとられたのです。 そのために妻帯する僧や、 蓄妾すると申しますか妾を囲う僧が続々とあらわれるようになりまして、 旧来の曹渓宗の伝統が破られてしまったのです。
一九四五年八月十五日。 この日は皆さん覚えていらっしゃると思いますけれども日本が敗けた日、 ポツダム宣言を受諾、 敗戦の日でございます。 日本が敗戦した結果、 大韓民国が独立することになりますけれども、 韓国の仏教というのは、 日本仏教の支配と影響というものを否定するということから始めなければならなかったのです。
まずどういうことをしたかと申しますと、 日帝によって制定され、 そして韓国仏教を束縛してきておりました寺刹令というものが廃止された。 不幸にも一九五〇年六月二十五日に勃発した朝鮮戦争後には、 仏教徒の間に自覚が高まりまして、 韓国仏教は独立、 自立の道を本格的に進め始めることになります。 その第一歩が妻帯僧の追放ということであったのです。
一九五四年 (昭和二十九年) に、 李承晩という韓国民の初代の大統領が、 妻帯僧は寺刹 (寺院) より退去せよという談話を発表しました。 これをきっかけとして、 教団は妻帯派と非妻帯派とに分かれて互いに争うことになったのです。 しかし一九六九年 (昭和四十四年) にそれも解決して、 出家主義の曹渓宗が韓国の現代の主要な宗派の仏教徒であり、 大部分が曹渓宗に属しておりますが、 曹渓宗から分かれ出た妻帯を認める太古宗、 その両方ともが存続することになります。
韓国仏教は総合仏教
共有可能な価値観
では次に、 韓国の仏教の特徴は何かということですけれども、 日本の仏教は皆さんよくご存じのように宗派仏教と言ってよろしいかと思います。 すなわち華厳宗、 三論宗、 浄土宗、 浄土真宗、 曹洞宗というように、 いろんな宗派に分かれている宗派仏教と言ってよろしいかと思います。 それに対しまして韓国仏教は、 宗派に分立しない総合仏教と言ってよろしいかと思います。 その総合仏教の思想的な基盤をつくったのは、 七世紀に活躍をいたしました新羅の偉大な学者でございました元暁という人でございます。 六一七年から六八六年に活躍した元暁でございます。彼はあらゆる教義を融和させ、 一つの仏教にする立場 「和諍 (わじょう)」 を主張いたしました。 華厳も法相も三論も浄土も渾然として融合した仏教というものを唱えたのでございます。 これが韓国のその後の仏教の伝統となったわけでございます。 そして後になりますと、 知訥という人が出てまいりまして、 華厳と禅をを一つに統合するというようなことが行われのでございます。
以上、 韓国の仏教をかいま見てまいりましたけれども、 そのような韓国の仏教というものが、 従来、 日本ではどのように見られていたのかということでございます。 鎌倉時代に大変有名な坊さんが出ております。 凝然という華厳宗の坊さんでありますけれども、 この凝然が 『八宗綱要』 という仏教概論に当たるもの、 もう一つは 『三国仏教伝通縁起』 という仏教伝道史と申しますか、 伝播史と言うのでしょうか、 そういう書物を書いております。
この 『三国仏教伝通縁起』 の三国というのは、 一体何をもって三国と言うのかと申しますと、 インドと中国と日本を指しているのでございます。 お気づきのように韓国がそこからすっぽり抜け落ちているのでございます。 凝然自身は韓国を意図的に無視したわけではないのでございますけれども、 結果として日本では、 仏教の伝播ということを考えるときにはインド、 中国、 日本の三国をもって、 韓国の仏教を無視してしまうという習慣ができてしまっておりました。
歴史的に見ますと、 遣唐使や遣隋使というのは直接中国に派遣され、 韓国に行かなくなってしまったということも大きな歴史的な事実ではありますけれども、 こういうことが結果いたしまして、 韓国の仏教というものが欠落してしまっているのでございます。
さて、 そういうような韓国の仏教は日本人によってどのように見られていたのかということでございます。 今のような、 韓国仏教というのは無視されてしまうというようなことが恐らく原因にあったと思いますけれども、 従来、 日本では韓半島の仏教というのは、 中国仏教の亜流であるというように見られているような感じで、 そして独自性が乏しいというように理解されてきていたようでございます。 しかし最近になって、 ようやくそれが間違いであると主張する学者があらわれてまいりまして、 そういう今までの間違った評価というものを変えようというような動きが出てきているのは大変喜ばしいことに思います。
そろそろ締めくくりをしたいと思いますけれども、 韓半島の仏教というのは紛れもなく日本仏教の源流、 もとになったもの、 ふるさとでございます。 日本の仏教というのは我々日本人の精神的、 文化的基盤と申しますか、 バックボーンと申しますか、 日本人のバックボーンの一つの重要なものが、 ある意味仏教ということでございます。 そういう重要なものを韓国から我々はいただいているわけでございます。 本日お話しいたしましたように、 日本は韓半島から大きな恩恵を受けているにもかかわらず、 その大恩に報いるどころか、 日本がその大恩に対しましていわばあだで返すと申しますか、 そういう形になっていると申しても過言ではないのではないかと思います。
豊臣秀吉が起こした文禄・慶長の役といわれる侵略戦争から始まりまして、 一九一〇年 (明治四十三年) には日本は韓半島を植民地化していって、 さまざまな形で韓半島の人々に精神的、 物質的に計り知れない苦痛を与えてしまいました。 それにもかかわらず残念ながら日本人、 日本の仏教徒はそのことにほとんど気がついてすらいないというように思います。 その大きな理由は、 日本人は韓国の仏教について知らない、 また知ろうともしなかったからではないかと思います。 そのように言う私自身もついこの間までは韓国の仏教について知らなかったし、 知ろうともしなかったのでございまして、 私も反省を込めて申し上げているのでございます。
先ほどお話しいたしましたように、 韓半島の仏教というのは中国からの伝来によって始まったということは、 紛れもない歴史的事実でございます。しかも韓半島の仏教というのも日本と同じように、 中国の仏教徒によってサンスクリットなどから中国語に訳された 『大蔵経』に基づいているわけでございます。 それにもかかわらず、韓半島の仏教というのは中国の仏教とも日本の仏教とも異なった独自の仏教を形成しているのではないかと思います。
日本の大学を見てみますと、 インド仏教やチベット仏教、 あるいは中国仏教の講義は行われております。 しかし韓国仏教の講義が行われているというのは、 私が知る限りは皆無ではないかと思います。 あるとしてもせいぜい一つとか二つぐらいだろうと思います。 書物にいたしましても、 私の知る限り韓国仏教を本格的に扱っている書物というのは、 ほんの一部にとどまっているのでございます。
しかし昨年の韓国での韓日共催の学術大会では、 韓国の研究者のことを考えまして、 日本では設けたことのない韓国仏教をテーマとする部会をつくりました。 するとその部会で、 韓国の学者が驚くほどに、 日本の研究者が数多く韓国仏教について発表いたしました。 日本の仏教研究者、 特に若い世代の日本の仏教研究者の間に次第に韓国仏教に対する関心が高まっているということを知りまして、 大変うれしく存じた次第でございます。
私の恩師の中村先生がつくられました東方学院には、 今年から韓国出身の碩学であります金漢益博士が 「韓国仏教入門」 という講義をされることになっております。 こういうようなこともありまして、 今後は着実に日本の研究者の関心というのはインド、 中国、 チベットの仏教のみならず韓国の仏教にも向かうことになるでありましょうし、 またそうでなければならないと考えております。
まことに残念なことでありますけれども日韓関係というのは、 かつての不幸な関係から、 教科書の検定の問題やあるいは首相の靖国神社の公式参拝の問題などが起きるたびごとに、 毎年ぎくしゃくいたしております。 しかし日本の仏教徒と韓国の仏教徒は、 国境や民族を越えて普遍的な仏教といったものを通じて同じ価値観、 人生観、 世界観というものを共有できるはずであります。 日本の隣国と友好関係を保ちえないで日本が世界平和に貢献することなど夢のまた夢ではないかと思います。
質 疑
事務局長 新聞の世論調査によりますと、 日本の若者は宗教と問われると 「ない」 とか、 ほとんど関心を示さない。 ところが韓国では若者でさえも 「私はクリスチャン」 「私は仏教徒」 と、 はっきりと宗教に対する姿勢とを表明するという数値が出ておりました。 そのあたりの実態はどうなんでしょうか。前田 私の印象としてもやはりそれは当たっていると思います。 日本人は宗教にかかわりを持つこと自体が沽券 (こけん) にかかわるような風潮が若い人たちの間にはありますけれども、 韓国ではそういうことはないように思います。 恐らく教育制度などが違うのではないかと思います。 日本では宗教教育は学校教育の中に全然取り入れられないですね。 アメリカ、 ヨーロッパにおきましても宗教教育というのは実際にはなされているわけです。 日本では宗教教育とか道徳教育とかいったものが学校教育の中で行われていない真空状態である。 宗教というものに対して全く真空状態にあるのが、 日本の若者たち。 オウムの事件とかも、 そういうところにつけ入った事件というような解釈もございますけれども、 それほど当たっていないわけではないように思います。
宗教教育というようなものではなくても、 文化としてでもよろしいしのですが、 そういうものをもう少し学校教育に取り入れていく必要があるのであろうと思います。
(4月18日、 東大仏青でのご講演から。 )
= 終わり =







