小島寅雄先生追悼・100号記念掲載
私は八十八歳になりました。 数えで八十九歳ということになります。 この間に遍歴してきたことをかいつまんでお話をしたいと思います。
たまたまここに今日 (二〇〇二年六月六日)、 ここへ (東京・本郷、 東大仏青会館) 来る途中に知人から返してもらった本があります。 『茄子馬』 という句集です。 茄子馬というのは、 お盆のときにナスをつかって馬の形をつくり精霊棚に飾るのですが、 うちではひ孫がつくるんです。 そうすると大概、 ひっくり返っちゃってみんなで大笑いするんですけれど。 この句集にこういう句があります。
きょうのほんとのお話はこれからです。 これはけさの 『読売新聞』 の 「編集手帳」 という切り抜きです。 読みます。 これに句があるんです。 その句が出ている本は、 『住宅顕信 (すみたく・けんしん) 読本』 という、 中央公論新社から出た俳句の本です。 きょう、 来るときに大船で降りて、 大船のちょっと大きな本屋へ行きました。 本屋の人は住宅 (じゅうたく) の本のところを一生懸命探しているから、 「それは俳句の本なんだよ」 といったら 「あ、 そうですか」 と。
そこにこういう句がある。
普通、 芭蕉の言っている俳句は十七音でしょう。 五七五、 季題、 季語が入ります。 そして切れ字、 「や」 や 「けり」 がある。 それから俳句精神というのがある。 この四つの要素を全部捨ててしまったのです。 残った俳句精神だけを大事にした。 要するに、 芭蕉の言っているわびの精神だけを出してスタートした俳句です。 皆さん、 種田山頭火をご存じですね。 山頭火もこの句です。 尾崎放哉という方のもこの句です。
私もこの自由律俳句に入っておりましたから、 おかげさまで二十歳ちょっと過ぎたころに山頭火に会うことができました。 これは東京の築地に、 今あるかどうかわかりませんが、 息吹という料理屋で、 『層雲』 という季刊誌の二十五周年記念の全国俳句大会が開かれました。 そのときに出席をし、 山頭火を見ました。 ヤギひげを生やしてね。 本当に色あせた墨染めの衣を着て、 顔も真っ黒に日焼けしてしわだらけでした。 その山頭火は、 今でも我が家に写真がございますけれども、 二十三歳くらいの私が横っちょのほうに和服を着ています。 今を去ること六十数年前の写真で、 とてもハンサムに写っています。 今は見る影もありませんけれども。
それはさておき、 またこの人の俳句をご紹介します。
この住宅という人は、 実は二十五歳で白血病で亡くなっているのですが、 間近になって死期がもうそこに来ているという思いが、 じっとこうして、 啄木じゃないけどじっと手を見る、 という行為をさせるのです。 そうすると、 淋しい手をしている。 淋しい手をしているということは、 自分が淋しいのです。 淋しいから手が淋しく見える。 自分が楽しければ楽しく見えるのです。 この手はよく働いてくれたなあ。 何十年間、 私のために働いてくれた貴重な手だというふうに見えるけれども、 ずっと病身で床の中に横になっていて、 何も役に立たなかった。 何のためにおれは生まれてきたんだというようなことを考えてこの手を見ているというと、 何とも淋しい思いがする。 だけれども、 つめだけがちゃんと伸びていくという。 それがなお淋しいのだということを歌っているんです。
この人のお師匠さんは、 井泉水のお弟子さんで尾崎放哉という人です。 尾崎放哉は東大を出て、京都のある大きな問屋さんのところへお婿さんに入りました。 そして、 結核も患っていたのでしょうけれども、 そこを出たんですね。 そして、その自由律の俳句に入ってきて、 例えば
というのは、 私のうちで飼っているわけじゃないですけれども、 ホトトギスが朝から晩まで鳴いている。 いいものですね。どこで鳴いているのか全然見えないのですけれども、 あちらでもこちらでも鳴いている。 ついこの間、 夕方外へ出て眺めておりましたら、空を一羽の鳥が横切っていくのが見えました。 あれはホトトギスだと。 だけれども、 どんな姿をしているかわからない。 まるで見えませんから。そういうことを感じましたけれど、 それが通り過ぎた後の空というのは、 またひときわ閑寂ですね。 静かになる。 だから、 今の「咳をしても一人」 というのは、 非常に淋しい運命を持っている。 その運命は自分でつくったのかもしれませんよ。非常に悲しい運命を持っている尾崎放哉が自分の内面を祈るようにしてつくった句だと、 こう思います。
この 「編集手帳」 を書かれた方は、 その句についてこういうことを言っています。 文芸評論家の西田勝さんは、 「哲学感、過剰感が自由律俳句の魅力だ」 と言っています。 だから、 孤独感でしょう。 哲学感か。 まあ、 孤独感と言ってもいいですね。 自分は落後者だ、自分は一人だ、 だれも相手にしてくれる人がいないというような、 何か知らないけれども孤独な思い。 そういう思いと、これじゃあだめだといって必要以上に何かを求めようとする。 今の現実に満足できないで、 何か絶えず求めようとしている。求めようとすればするほど欠落感を味わうのです。 この自由律俳句というのは、 きっとそういうものなのです。
私もこの俳句に飛び込んだわけですから、 ああ、 これはおれのことを言っているなという思いがするのです。若いのに何でそんなところへ入ったのか。 「青雲の志」 とかいう言葉があるけれども、 青雲どころじゃないんです。 「暗雲の志」 みたいなもので。若いころ、 ニヒリズムです。 虚無感。 厭世観。 センチメンタリズム。 ロマンチシズム。 そういったようなものが、 若いころは押し寄せてくる。そしてその思いに自分を支えきれなくなってしまったとき、 どこかによりどころを求めようとする思いがあったのでしょう、 きっと。
だから、 これを読んでいると、 若いころのおれのことを書いているという気がするんです。 若いころというのは二十歳前後のことですよ。本当は恋をしていればよかったのですね。 そのころ。 相手がいない。 いたなと思うとみんな逃げていっちゃう。 それで、ぜひこの本を買って読みたいと思っていますけれども、 本の最後にこういう句が載っているのです。
この間の総会は佐渡の相川で行われました。 佐渡良寛会というのがあって、 これを機会に碑を建てたのです。 良寛さんのお母さんというのは、佐渡の相川から来たのです。 やはり山本家といって、 出雲崎の良寛の生まれた橘屋と遠い親戚なんです。 ここから良寛のお母さんが養女に入ってきた。そこで、 まだその子孫がいらっしゃるので、 その子孫のいらっしゃる土地に碑を建てたのです。 「中元歌」 という良寛の長い歌で、とても長いので覚えられませんけれども。
どんな歌かというと、 最初のところだけは覚えています。
「母去って 悠々 父また去る」
お母さんが亡くなってしばらくしてお父さんがまた死んでしまった。 そして、 元気だったと思っていた佐渡にいたお母さんの二人の妹、 おばさんも、この年に姉さんが亡くなり、 その翌年に妹が追うようにして去っていった。 みんな死んでしまった。 まことに淋しいというような句があります。
これは、 まあ、 死んだんだから淋しがったってしょうがない。 死ぬのが運命だから。 坪田譲治という人がいるでしょう。私も子供のころから童話が好きで、 坪田譲治の作品はほとんど読んだ気がします。 この方が、 『せみと蓮の花』という自伝的な話を書いているんです。 それを十年くらい前に本屋で見つけてきたのです。 なぜかというと、 実は、 『大乗仏教』 という雑誌に、ある大学の先生で浄土真宗の方がいらっしゃった。 もう死んでしまったのですが、 その方がガンの宣告をされた。 ガンの宣告をされて、いよいよ死ななければならない。 死ぬのにはどうしたらいいのだろうといって、 本屋を探して歩いたけれども、 死ぬ人のための本は一冊もなかった。みんな生きるための本しかなかった。 こういうふうに書いてあるんです。
やがてその方は亡くなったのですが、 大学の先生だけれども、 多分仏教の先生でしょうね。 そういうことが書いてあるぐらいですから。それじゃあ本当にそういう本はないのかと思って本屋に行って探してみたんです。 そうしたら、 たまたま坪田譲治の 『せみと蓮の花』が目につきました。 何か関係あるのかと思って買ってきましたら、 最初に 「人はみな死ぬる」 と書いてある。そして自分が知っている範囲で父方の死んだ人を数えていく。 二十人ぐらいいた。 母方のほうも数えてみる。 やはりそのくらいだ。 四十数人です。このとき坪田譲治は六十二歳でした。 六十二歳のときにそうやって数えてみると自分の知っている人で、しかも親せきで死に遭っている人は四十人を超えた。 だから、 「人はみな死ぬる」 と書いた。 それで、 だんだんと読んでいくと、「まことによく死ぬる」 と書いてありました。 そこにはたしか国木田独歩の詩の一節なのですが 「もの皆逝けるなり」 という句が載っておりました。
だから、 ものはみんな逝っちゃうんです。 逝っちゃうのは当然なのだけれども、 なぜそうなるのか。 なぜ死を悼むのか。 これは私、さっき八十八歳と言ったでしょう。 その辺に阿弥陀さんが見えるんです。 死が見えるんです。 見えると、毎日いつでも死ぬことを考えながら生きている。
川端康成の小説の中に 『末期の眼』 というのがあります。 この言葉は私も忘れません。 随分昔に読んだものですよ。よくお茶の世界で一期一会などと言います。 この茶会は一生のうちに一度きりない。 この人にきょう会ったのは一生のうちに一度きりない。またあした会いましょうねと言っても、 きょう会ったそれはあしたと違う一回なのだ。 一期一会というのそういうことだといいますね。 特に井伊宗観 (直弼) の 『茶湯一会集』 にはそのことが詳しく書いてあります。 ところが、 『末期の眼』 というと、 なおそれがはっきりするではないか。
もう、 死の寸前になると、 ああ、 もうあなたには会えないという思い、 この景色にももう会えないのだ、 この道ももう歩けないな、これももう食べられないという思いがあったとすれば、 どのくらい相手のものに愛着を感じているかわかりますね。 そういう目で、もしすべてのものを見られれば、 どのくらい思いやりがわいてくるかということもわかるでしょう。
私はよく、 あなたはどうして良寛さんに若いころからそんなに取りついたのと聞かれることがあります。 実際に私が良寛を知ったのは二十歳前です。だから、 数えてみるともう七十年に近いんじゃないでしょうか。 その間、 別に良寛の研究をしたわけじゃない。 一生懸命良寛の本を読んだし、良寛関係のところへいろいろと行きました。 そして、 ここを良寛が歩いたのだな、 ここに住んでいたのだな、こういう修行をしたのだなとなどと思いながら、 だけど良寛の本当のことはわからないのですよ。 会ったことがないんだから。
ある小さな雑誌の企画で奈良国立博物館の中世仏教が専門の学芸員の方と東京の上野のウナギ屋さんで対談をしたのです。そのときにお釈迦さんの話が出たんです。 その方が、 私はお釈迦さんに一度会いたかったとおっしゃる。 僕も良寛さんに一度会いたかった。かねてから思っていたから、 思わず二人の考えが同じになった。 会えばわかるという世界がある。 だから、 会いたい。 だけど、 会えない。そこで、 会ったのと同じような体験を私はしなければいけない。
それで、 何のためにお釈迦さんに会いたいのか。 何のために良寛さんに会いたいのかというと、 良寛を知るためではないのです。お釈迦さんを知るためではないのです。 良寛研究のためじゃないのです。 釈迦研究じゃないんです。 では、 何なのか。 自分の研究のためなのです。
おれは何でこんなことをしているのだろう。 こうお思いになるでしょう。 おれはどうしたらいいんだろう。どういう生き方をしていけばいいのだろう。 これをしょっちゅう私たちは考えているに違いない。 そのためにお釈迦さんが必要だし、良寛さんも必要だ。 それを説明しようと思ったことが一度あるんです。
私は小学校の教員でございました。 昔は高等科というのがありました。 戦後の方は知らないでしょうけれども、戦前には小学校六年を出ると高等科というのが一年、 二年とありました。 その高等科までが尋常高等小学校といっていたから、 義務教育だった。あるときに私の教えた子供が、 六年生だったか五年生だったか忘れましたけれども、 しょっちゅう教室で居眠りをしていたのです。毎日そうだったから僕は困って、 「おまえ、 なんで居眠りするんだ」 と。 「眠たいからだ」 と言うのです。 「何で眠いんだ」と少し声を荒げたら、 「新聞配達をしています」 というふうに言われたんです。
そのころの農村というのはすごく疲弊していましたから、 皆、 貧しい暮らしをしていました。 私は新聞配達したことはないから、どのくらい眠いかわからない。 「それは眠いだろうけれど、 授業中に居眠りをするのはよくないよ」 と言って、 教壇に戻ってきた。その年の夏休みに、 私は一カ月新聞配達をやりました。 やっぱり眠いんですね。 それはやってみなきゃわかんないんです。
私は鎌倉の人間ですから、 鎌倉で新聞配達をやるのはちょっと格好悪いので、 隣村の藤沢・鵠沼というところがあります。 江ノ島の向かい側です。あの辺は潮干狩りとか、 夏はいっぱい来るところなのです。 そこで七十五軒の新聞配達をやりました。 自転車の後ろに乗せてね。そのとき私の実家は鎌倉の一番隅っこにあって、 江ノ島と向かい合っていました。 朝三時半に起きて、 そこから自転車で藤沢の駅まで行きまして、貨車に積んであった新聞をホームに放り投げておろすんです。 それを担いできて外へ出して仕分けして、 そして自転車の後ろへつけて走り始める。
配っていると、 大概あの辺は別荘ですから、 女中さんが台所でお仕事をしている。 私が行くと 「あんた、 新米だね。うちのご主人はもう勤めに出ちゃったから今ごろ持って来たって役に立たない」 と叱られるんです。 全部が全部じゃありませんけどね。 「すみません」と言っているけれど、 心の中では 「おれは新聞配達じゃない。 おれは学校の先生だ」 という思いがある。 しかし、そんなことは通用しないのです。 自転車の後ろに新聞を積んで、 自転車をチリチリ鳴らしながら走っていれば新聞配達に決まってるじゃないですか。ところがそういうふうになりきれないのです。 そうやって走っていても、 ついつい頭の中では、 おれは小学校の先生だ、 と。おれはどっちなのだと思ったので、 翌年の夏に信州の碩水寺というお寺へ参りました。
これは、 禅とは何かとか、 釈迦の教えは何かとか、 曹洞宗の寺ですから毎日毎日修証義を読んでいて、 私も理屈はわかる。理屈はわかるけれども、 新聞配達をしていて、 私は頭の中で学校の先生だと思っている。 こういうちぐはぐな思いを理解できない。 わからない。そこで雲水さんのまねをさせてもらっていると、 そこの老師が教えてくださったのは簡単なことでした。
よその家に上がるときには、 げたをちゃんと直して上がるということを教えてくださったのです。 おふろへ入るときには湯船の中に手ぬぐいを入れるな、 と。 そういうことをおっしゃった。
なぜか。 それはこの次に入る人のためにでしょう。 それから、 げたをこうするのも、 そこの家の人にお手数をかけないために自分でやっておく。 こういうことではないか。 そういうことを私に教えてくださった。
さて帰りがけに、 かばんの中に入れておいた白い着物と手甲脚絆、 笠を取りだしてそれらを身に付けて歩き始めました。そうすると不思議なことに出会いました。 一つは、 宿屋で泊めてくれない。 今いっぱいですよ、 と断られる。 そういうことが一つ。
バスに乗るときに細かいお金がなかったので、 すぐそこにあった荒物屋に寄って、 「すいませんけど、 両替してくれませんか」と五円札を出したんです。 そこのおばさんは私の姿を見て、 それを持って外に出たんです。 すかして見ている。 随分失礼な話です。そんな格好をした人が五円札を持っているはずはないと向こうは思ったんでしょう。 それは無理からぬことです。 向こうはそう思ったけれど、僕は思わない。 食い違いがあるわけです。
もっと致命的なことがあったんですね。 小諸のほうの田舎道を歩いていた。 両側で鶏がコッコッコッコッコ、 セミがジージーと鳴いているんですね。そこを歩いていたら、 子供が三人後ろから来たんです。 そして、 抜き足差し足で私の横をサッと通り抜けていった途端に 「こじきだ!」。こう言った。 学校へ行くと、 「先生」、 父兄の中には、 「あの先生はいい先生だ」 と褒めてくれる人もいる。 それがね、 同じ子供が「こじきだ!」 と言ったから、 これはショックでした。
何なのだ一体おれは、 という思いが若いころにして、 私も自由律の俳句をつくったものです。 「墓は日だまり」 という句をつくった。そのころからお墓に興味があったんですね。 実は僕のうちの垣根の葉っぱと葉っぱの間からのぞくと向こうが見える。 そうすると、 墓地だった。そこに観音堂というのがあって、 夕方になるとお経の声が聞こえてくる。 そういうところに住んでいたから、墓というものにはすごく興味があったんですね。
私が仕事をやめたのは七十一歳です。 その年の十月三十一日が私の任期が切れたときです。 そして十一月十九日に得度したんです。 真言宗です。真言宗というのは弘法大師さんでしょう。 子供のころはあまり好きじゃなかったんです、 だけど大人になって、 ああ、 偉い人だなあと思った。あの人が中国から帰ってきたときに、 種智院という学校をつくりますね。 庶民の学校。 当時の大学。 日本で一番小さな大学だといっています。その開校式にお弟子さんを集めて、 慈悲を子供のために施せ、 という意味のことをおっしゃった。
弘法大師の次は良寛です。 良寛が修行した岡山県玉島の円通寺には 「西来家訓」 という教えがあるのです。その家訓の中にも同じことを書いてあるんです。 「沙門はまさに慈悲をもって体となし、 忍辱 (にんにく) を衣となすべし」 という項目がある。良寛はそういう修行をしてきたに違いない。
そういうことも考えて、 弘法大師さんというのはやはり偉い方だなということを、 正直に思いました。 僕は教員をしていたころですから、なおさらそんな思いが強くなったのでしょうね。 それで、 弘法大師の本もできるだけよく勉強をして、頭の中でよく知っていてもどうにもならないと思いますけれども、 それで得度をしたのです。 名前もいただいたのですが、 恥ずかしくて使えない。あまりに立派な名前なので。 私は、 買ったお墓が臨済宗なのです。 生まれたところは日蓮宗。 そして好きなのは浄土門なのです。なんだかわからないですね。 (笑)
実はきのう、 私は、 建長寺のちょっと手前のコーヒー屋で息子が展覧会をやっているものですから、 一回のぞいてやろうと思って行ったのです。うちの奥さんも一緒でした。 そして、 帰りに歩道を歩いているとカブトムシの子供が山のほうへ歩いているんです。 しゃがんで見ていたら、ほかの人たちものぞき込みながら踏まないで歩いて行きました。
それを見ていながら思ったのは、 浜田廣介という童話を書く人がいます。 『泣いた赤おに』 を書いた方です。 あの人の童話も好きで読みました。その浜田廣介が、 小さいときの、 言ってみれば自分の自伝みたいなものを書いた本の中に、 こんな話があります。
お母さんがかごを背負って野良仕事に出かけていく。 その後をつけて畑のあぜ道を歩いていたら、 お母さんが 「ちょっと待って」と立ち止まったというのです。 なんだろうと廣介が見たら、 虫が歩いていたから踏むといけないから通り過ぎるまで待っている、というふうにお母さんがおっしゃった。 これが、 その思いやりが恐らく廣介の童話の原点じゃないかと僕は思っているんです。
お盆がまいります。 お盆のときには、 亡くなったおじいさんやおばあさん、 場合によるとお父さん、 お母さん、 自分の兄弟などへの思いやりが浮かんでくるじゃないですか。 もうちょっと長く生きていてくれたらよかったとか、 あのときには世話になったなとかいうような思いが出てきます。 その思いを広げていくと、 ダライ・ラマさんのおっしゃっている、 思いやりになるのです。 そこまで行っちゃうんじゃないですか。 だからそこのところが人間として生きていく上ですごく大事なんじゃないかなと、 こう思っているんです。
では締めくくりです。 モンゴルにガンダン寺というお寺があり、 その近くにあまり目立たないがモンゴル随一の尼僧院がある。 尼さんの数は十七人。 そのうちの二十三歳になる若い尼僧に、 ぶしつけとは思ったが、 何のために出家したのかということを聞いたのだそうです。 「未来において安楽の生活に生まれたいから」 とか 「苦しみや悩みから解放されたいから」 などと言うだろうと期待していた。 すると、 案に相違して彼女は 「苦しんでいる衆生を救いたいから」 と言ったというのです。
私たちの身の回りに目を向けてみると、 不幸な人がたくさんいるんです。 自分も不幸であるかもしれない。 自分も不幸であるかもしれないけれど、人を救うということは自分も幸せになることだと考え、 だからそういう仕事をしたい。 そのために尼僧になったというのです。
最近出た本に、 『世界がもし百人の村だったら』 という本があるんです。 いま地球の人口は六十三億ですか、 それをこの本では百人に凝縮してある。 そうすると、 女の人が五十二人で男の人が四十八人。 富の所有をみると、 全世界の富の五九%をたった六人、 しかもアメリカの六人が所有している。 五十人が栄養失調に苦しみ、 一人は瀕死の状態にある。 こういう姿が私たちには見えてこなければいけない。 見えるようにしてくれるもの、 それこそダライ・ラマのおっしゃっている思いやりでしょう。 思いやりの気持ちがなければそういう現実も見えてきません。
私が今日お話ししたいのはそこに尽きる。 俳句をいろいろ引用したのもそのためです。 そうした俳句のように自分が悩み苦しんでいると、人も悩んでいる、 この人も苦しんでいるということがわかる。 ヘッセという人の文学論の中にも「文学とは自分のそばに人がいるということがわかることだ」 とあります。
ということは、 自分というのは悩みが深いでしょう。 ニコニコしているようでも、 一人でじっとしていると、 何でこんなにおれだけ悩まなければいけないのかということを思います。 それをもっと徹底して冷静にみてみると、 隣にいるあなたもそうなんだということがわかってくる。 そうするとそこに思いやりが生まれてくる、 ということを言っているのです。 これで終わりです。 どうも失礼いたしました。

自由律俳句にみる淋しさ

たまたまここに今日 (二〇〇二年六月六日)、 ここへ (東京・本郷、 東大仏青会館) 来る途中に知人から返してもらった本があります。 『茄子馬』 という句集です。 茄子馬というのは、 お盆のときにナスをつかって馬の形をつくり精霊棚に飾るのですが、 うちではひ孫がつくるんです。 そうすると大概、 ひっくり返っちゃってみんなで大笑いするんですけれど。 この句集にこういう句があります。
あれも母へこれも母へと魂まつり
何か知らないけれども、 どうもいいんだね、 これが。 「あれも母へこれも母へと魂まつり」、 なんて。 皆さんのお母さんは、 いやあ、 もう亡くなったよという人もいるでしょうし、 いやまだ元気だよ、 しょっちゅうケンカしているよ、 なんていう人もいるかもしれないけれども。 私は、 小さいときに母が家出したものですから、 何ともいえない思いがあるんです。 私には母の記憶はないけれど、 母への思いがある。 近ごろ、 そんなことを考えているんですけれども。きょうのほんとのお話はこれからです。 これはけさの 『読売新聞』 の 「編集手帳」 という切り抜きです。 読みます。 これに句があるんです。 その句が出ている本は、 『住宅顕信 (すみたく・けんしん) 読本』 という、 中央公論新社から出た俳句の本です。 きょう、 来るときに大船で降りて、 大船のちょっと大きな本屋へ行きました。 本屋の人は住宅 (じゅうたく) の本のところを一生懸命探しているから、 「それは俳句の本なんだよ」 といったら 「あ、 そうですか」 と。
そこにこういう句がある。
雨音に目覚めてより降り続く雨
俳句というと五七五ですから、 へんちくりんだなとお思いでしょうけれども、 自由律の俳句といって、 かつて明治の終わりごろに荻原井泉水が提唱した、 言ってみれば新傾向の俳句なのです。普通、 芭蕉の言っている俳句は十七音でしょう。 五七五、 季題、 季語が入ります。 そして切れ字、 「や」 や 「けり」 がある。 それから俳句精神というのがある。 この四つの要素を全部捨ててしまったのです。 残った俳句精神だけを大事にした。 要するに、 芭蕉の言っているわびの精神だけを出してスタートした俳句です。 皆さん、 種田山頭火をご存じですね。 山頭火もこの句です。 尾崎放哉という方のもこの句です。
私もこの自由律俳句に入っておりましたから、 おかげさまで二十歳ちょっと過ぎたころに山頭火に会うことができました。 これは東京の築地に、 今あるかどうかわかりませんが、 息吹という料理屋で、 『層雲』 という季刊誌の二十五周年記念の全国俳句大会が開かれました。 そのときに出席をし、 山頭火を見ました。 ヤギひげを生やしてね。 本当に色あせた墨染めの衣を着て、 顔も真っ黒に日焼けしてしわだらけでした。 その山頭火は、 今でも我が家に写真がございますけれども、 二十三歳くらいの私が横っちょのほうに和服を着ています。 今を去ること六十数年前の写真で、 とてもハンサムに写っています。 今は見る影もありませんけれども。
それはさておき、 またこの人の俳句をご紹介します。
淋 (さみ) しい指から爪がのびてきた
つまらないなあと思うでしょう。 だけれども、 じっとこうしてつめを見ていると、 はあ、 おれも年をとったなあと。 汚くてしょうがない。 人に見せられない。 しわだらけでしみだらけ。 この手をじっと夜など見ていて、 つめが伸びたなあ、 切らなくちゃなあと思う。 その中に、 実は僕の八十八年の人生が凝縮しているのだ。 だから、 汚いなどということを言えないと思いながらつめを切ることもあります。この住宅という人は、 実は二十五歳で白血病で亡くなっているのですが、 間近になって死期がもうそこに来ているという思いが、 じっとこうして、 啄木じゃないけどじっと手を見る、 という行為をさせるのです。 そうすると、 淋しい手をしている。 淋しい手をしているということは、 自分が淋しいのです。 淋しいから手が淋しく見える。 自分が楽しければ楽しく見えるのです。 この手はよく働いてくれたなあ。 何十年間、 私のために働いてくれた貴重な手だというふうに見えるけれども、 ずっと病身で床の中に横になっていて、 何も役に立たなかった。 何のためにおれは生まれてきたんだというようなことを考えてこの手を見ているというと、 何とも淋しい思いがする。 だけれども、 つめだけがちゃんと伸びていくという。 それがなお淋しいのだということを歌っているんです。
この人のお師匠さんは、 井泉水のお弟子さんで尾崎放哉という人です。 尾崎放哉は東大を出て、京都のある大きな問屋さんのところへお婿さんに入りました。 そして、 結核も患っていたのでしょうけれども、 そこを出たんですね。 そして、その自由律の俳句に入ってきて、 例えば
咳 (せき) をしても一人
という句があります。 お寺の隅っこの庵に住まわせてもらって、 一人暮らしをしていました。 結核ですから、 せきが出るでしょう。 そうすると、 せきをした後で、 非常に部屋の中がまた深閑とし、 静まりかえるわけです。 例えば鳥が飛んでいって、 バタバタッと鳥の音がして消えていった後、 なお静けさが増すようなものです。というのは、 私のうちで飼っているわけじゃないですけれども、 ホトトギスが朝から晩まで鳴いている。 いいものですね。どこで鳴いているのか全然見えないのですけれども、 あちらでもこちらでも鳴いている。 ついこの間、 夕方外へ出て眺めておりましたら、空を一羽の鳥が横切っていくのが見えました。 あれはホトトギスだと。 だけれども、 どんな姿をしているかわからない。 まるで見えませんから。そういうことを感じましたけれど、 それが通り過ぎた後の空というのは、 またひときわ閑寂ですね。 静かになる。 だから、 今の「咳をしても一人」 というのは、 非常に淋しい運命を持っている。 その運命は自分でつくったのかもしれませんよ。非常に悲しい運命を持っている尾崎放哉が自分の内面を祈るようにしてつくった句だと、 こう思います。
この 「編集手帳」 を書かれた方は、 その句についてこういうことを言っています。 文芸評論家の西田勝さんは、 「哲学感、過剰感が自由律俳句の魅力だ」 と言っています。 だから、 孤独感でしょう。 哲学感か。 まあ、 孤独感と言ってもいいですね。 自分は落後者だ、自分は一人だ、 だれも相手にしてくれる人がいないというような、 何か知らないけれども孤独な思い。 そういう思いと、これじゃあだめだといって必要以上に何かを求めようとする。 今の現実に満足できないで、 何か絶えず求めようとしている。求めようとすればするほど欠落感を味わうのです。 この自由律俳句というのは、 きっとそういうものなのです。
私もこの俳句に飛び込んだわけですから、 ああ、 これはおれのことを言っているなという思いがするのです。若いのに何でそんなところへ入ったのか。 「青雲の志」 とかいう言葉があるけれども、 青雲どころじゃないんです。 「暗雲の志」 みたいなもので。若いころ、 ニヒリズムです。 虚無感。 厭世観。 センチメンタリズム。 ロマンチシズム。 そういったようなものが、 若いころは押し寄せてくる。そしてその思いに自分を支えきれなくなってしまったとき、 どこかによりどころを求めようとする思いがあったのでしょう、 きっと。
だから、 これを読んでいると、 若いころのおれのことを書いているという気がするんです。 若いころというのは二十歳前後のことですよ。本当は恋をしていればよかったのですね。 そのころ。 相手がいない。 いたなと思うとみんな逃げていっちゃう。 それで、ぜひこの本を買って読みたいと思っていますけれども、 本の最後にこういう句が載っているのです。
若さとはこんな淋しい春なのか
わかりますね。 二十五歳で亡くなっている人で、 まだ若い。 だから、 若さと言えるわけです。 だけれども、 なぜこんなに......。 春、みんなが外へ出ようとしている自然界。 そういう春。 これから夏を迎えていこうとする春。 なのに、どうしてこんなに淋しいんだろうということです。 この辺が、 私は、 人間を知るための原点のような気がします。 大事なことだと思います。良寛に引かれて
私は全国良寛会の会長を十年やってこの五月に名誉会長にしていただいた。 名誉会長って何だ、 なんてよく考えるんですけれども、 まあそういうことです。この間の総会は佐渡の相川で行われました。 佐渡良寛会というのがあって、 これを機会に碑を建てたのです。 良寛さんのお母さんというのは、佐渡の相川から来たのです。 やはり山本家といって、 出雲崎の良寛の生まれた橘屋と遠い親戚なんです。 ここから良寛のお母さんが養女に入ってきた。そこで、 まだその子孫がいらっしゃるので、 その子孫のいらっしゃる土地に碑を建てたのです。 「中元歌」 という良寛の長い歌で、とても長いので覚えられませんけれども。
どんな歌かというと、 最初のところだけは覚えています。
「母去って 悠々 父また去る」
お母さんが亡くなってしばらくしてお父さんがまた死んでしまった。 そして、 元気だったと思っていた佐渡にいたお母さんの二人の妹、 おばさんも、この年に姉さんが亡くなり、 その翌年に妹が追うようにして去っていった。 みんな死んでしまった。 まことに淋しいというような句があります。
これは、 まあ、 死んだんだから淋しがったってしょうがない。 死ぬのが運命だから。 坪田譲治という人がいるでしょう。私も子供のころから童話が好きで、 坪田譲治の作品はほとんど読んだ気がします。 この方が、 『せみと蓮の花』という自伝的な話を書いているんです。 それを十年くらい前に本屋で見つけてきたのです。 なぜかというと、 実は、 『大乗仏教』 という雑誌に、ある大学の先生で浄土真宗の方がいらっしゃった。 もう死んでしまったのですが、 その方がガンの宣告をされた。 ガンの宣告をされて、いよいよ死ななければならない。 死ぬのにはどうしたらいいのだろうといって、 本屋を探して歩いたけれども、 死ぬ人のための本は一冊もなかった。みんな生きるための本しかなかった。 こういうふうに書いてあるんです。
やがてその方は亡くなったのですが、 大学の先生だけれども、 多分仏教の先生でしょうね。 そういうことが書いてあるぐらいですから。それじゃあ本当にそういう本はないのかと思って本屋に行って探してみたんです。 そうしたら、 たまたま坪田譲治の 『せみと蓮の花』が目につきました。 何か関係あるのかと思って買ってきましたら、 最初に 「人はみな死ぬる」 と書いてある。そして自分が知っている範囲で父方の死んだ人を数えていく。 二十人ぐらいいた。 母方のほうも数えてみる。 やはりそのくらいだ。 四十数人です。このとき坪田譲治は六十二歳でした。 六十二歳のときにそうやって数えてみると自分の知っている人で、しかも親せきで死に遭っている人は四十人を超えた。 だから、 「人はみな死ぬる」 と書いた。 それで、 だんだんと読んでいくと、「まことによく死ぬる」 と書いてありました。 そこにはたしか国木田独歩の詩の一節なのですが 「もの皆逝けるなり」 という句が載っておりました。
だから、 ものはみんな逝っちゃうんです。 逝っちゃうのは当然なのだけれども、 なぜそうなるのか。 なぜ死を悼むのか。 これは私、さっき八十八歳と言ったでしょう。 その辺に阿弥陀さんが見えるんです。 死が見えるんです。 見えると、毎日いつでも死ぬことを考えながら生きている。
川端康成の小説の中に 『末期の眼』 というのがあります。 この言葉は私も忘れません。 随分昔に読んだものですよ。よくお茶の世界で一期一会などと言います。 この茶会は一生のうちに一度きりない。 この人にきょう会ったのは一生のうちに一度きりない。またあした会いましょうねと言っても、 きょう会ったそれはあしたと違う一回なのだ。 一期一会というのそういうことだといいますね。 特に井伊宗観 (直弼) の 『茶湯一会集』 にはそのことが詳しく書いてあります。 ところが、 『末期の眼』 というと、 なおそれがはっきりするではないか。
もう、 死の寸前になると、 ああ、 もうあなたには会えないという思い、 この景色にももう会えないのだ、 この道ももう歩けないな、これももう食べられないという思いがあったとすれば、 どのくらい相手のものに愛着を感じているかわかりますね。 そういう目で、もしすべてのものを見られれば、 どのくらい思いやりがわいてくるかということもわかるでしょう。
私はよく、 あなたはどうして良寛さんに若いころからそんなに取りついたのと聞かれることがあります。 実際に私が良寛を知ったのは二十歳前です。だから、 数えてみるともう七十年に近いんじゃないでしょうか。 その間、 別に良寛の研究をしたわけじゃない。 一生懸命良寛の本を読んだし、良寛関係のところへいろいろと行きました。 そして、 ここを良寛が歩いたのだな、 ここに住んでいたのだな、こういう修行をしたのだなとなどと思いながら、 だけど良寛の本当のことはわからないのですよ。 会ったことがないんだから。
ある小さな雑誌の企画で奈良国立博物館の中世仏教が専門の学芸員の方と東京の上野のウナギ屋さんで対談をしたのです。そのときにお釈迦さんの話が出たんです。 その方が、 私はお釈迦さんに一度会いたかったとおっしゃる。 僕も良寛さんに一度会いたかった。かねてから思っていたから、 思わず二人の考えが同じになった。 会えばわかるという世界がある。 だから、 会いたい。 だけど、 会えない。そこで、 会ったのと同じような体験を私はしなければいけない。
それで、 何のためにお釈迦さんに会いたいのか。 何のために良寛さんに会いたいのかというと、 良寛を知るためではないのです。お釈迦さんを知るためではないのです。 良寛研究のためじゃないのです。 釈迦研究じゃないんです。 では、 何なのか。 自分の研究のためなのです。
おれは何でこんなことをしているのだろう。 こうお思いになるでしょう。 おれはどうしたらいいんだろう。どういう生き方をしていけばいいのだろう。 これをしょっちゅう私たちは考えているに違いない。 そのためにお釈迦さんが必要だし、良寛さんも必要だ。 それを説明しようと思ったことが一度あるんです。
私は小学校の教員でございました。 昔は高等科というのがありました。 戦後の方は知らないでしょうけれども、戦前には小学校六年を出ると高等科というのが一年、 二年とありました。 その高等科までが尋常高等小学校といっていたから、 義務教育だった。あるときに私の教えた子供が、 六年生だったか五年生だったか忘れましたけれども、 しょっちゅう教室で居眠りをしていたのです。毎日そうだったから僕は困って、 「おまえ、 なんで居眠りするんだ」 と。 「眠たいからだ」 と言うのです。 「何で眠いんだ」と少し声を荒げたら、 「新聞配達をしています」 というふうに言われたんです。
そのころの農村というのはすごく疲弊していましたから、 皆、 貧しい暮らしをしていました。 私は新聞配達したことはないから、どのくらい眠いかわからない。 「それは眠いだろうけれど、 授業中に居眠りをするのはよくないよ」 と言って、 教壇に戻ってきた。その年の夏休みに、 私は一カ月新聞配達をやりました。 やっぱり眠いんですね。 それはやってみなきゃわかんないんです。
私は鎌倉の人間ですから、 鎌倉で新聞配達をやるのはちょっと格好悪いので、 隣村の藤沢・鵠沼というところがあります。 江ノ島の向かい側です。あの辺は潮干狩りとか、 夏はいっぱい来るところなのです。 そこで七十五軒の新聞配達をやりました。 自転車の後ろに乗せてね。そのとき私の実家は鎌倉の一番隅っこにあって、 江ノ島と向かい合っていました。 朝三時半に起きて、 そこから自転車で藤沢の駅まで行きまして、貨車に積んであった新聞をホームに放り投げておろすんです。 それを担いできて外へ出して仕分けして、 そして自転車の後ろへつけて走り始める。
配っていると、 大概あの辺は別荘ですから、 女中さんが台所でお仕事をしている。 私が行くと 「あんた、 新米だね。うちのご主人はもう勤めに出ちゃったから今ごろ持って来たって役に立たない」 と叱られるんです。 全部が全部じゃありませんけどね。 「すみません」と言っているけれど、 心の中では 「おれは新聞配達じゃない。 おれは学校の先生だ」 という思いがある。 しかし、そんなことは通用しないのです。 自転車の後ろに新聞を積んで、 自転車をチリチリ鳴らしながら走っていれば新聞配達に決まってるじゃないですか。ところがそういうふうになりきれないのです。 そうやって走っていても、 ついつい頭の中では、 おれは小学校の先生だ、 と。おれはどっちなのだと思ったので、 翌年の夏に信州の碩水寺というお寺へ参りました。
これは、 禅とは何かとか、 釈迦の教えは何かとか、 曹洞宗の寺ですから毎日毎日修証義を読んでいて、 私も理屈はわかる。理屈はわかるけれども、 新聞配達をしていて、 私は頭の中で学校の先生だと思っている。 こういうちぐはぐな思いを理解できない。 わからない。そこで雲水さんのまねをさせてもらっていると、 そこの老師が教えてくださったのは簡単なことでした。
よその家に上がるときには、 げたをちゃんと直して上がるということを教えてくださったのです。 おふろへ入るときには湯船の中に手ぬぐいを入れるな、 と。 そういうことをおっしゃった。
なぜか。 それはこの次に入る人のためにでしょう。 それから、 げたをこうするのも、 そこの家の人にお手数をかけないために自分でやっておく。 こういうことではないか。 そういうことを私に教えてくださった。
さて帰りがけに、 かばんの中に入れておいた白い着物と手甲脚絆、 笠を取りだしてそれらを身に付けて歩き始めました。そうすると不思議なことに出会いました。 一つは、 宿屋で泊めてくれない。 今いっぱいですよ、 と断られる。 そういうことが一つ。
バスに乗るときに細かいお金がなかったので、 すぐそこにあった荒物屋に寄って、 「すいませんけど、 両替してくれませんか」と五円札を出したんです。 そこのおばさんは私の姿を見て、 それを持って外に出たんです。 すかして見ている。 随分失礼な話です。そんな格好をした人が五円札を持っているはずはないと向こうは思ったんでしょう。 それは無理からぬことです。 向こうはそう思ったけれど、僕は思わない。 食い違いがあるわけです。
もっと致命的なことがあったんですね。 小諸のほうの田舎道を歩いていた。 両側で鶏がコッコッコッコッコ、 セミがジージーと鳴いているんですね。そこを歩いていたら、 子供が三人後ろから来たんです。 そして、 抜き足差し足で私の横をサッと通り抜けていった途端に 「こじきだ!」。こう言った。 学校へ行くと、 「先生」、 父兄の中には、 「あの先生はいい先生だ」 と褒めてくれる人もいる。 それがね、 同じ子供が「こじきだ!」 と言ったから、 これはショックでした。
何なのだ一体おれは、 という思いが若いころにして、 私も自由律の俳句をつくったものです。 「墓は日だまり」 という句をつくった。そのころからお墓に興味があったんですね。 実は僕のうちの垣根の葉っぱと葉っぱの間からのぞくと向こうが見える。 そうすると、 墓地だった。そこに観音堂というのがあって、 夕方になるとお経の声が聞こえてくる。 そういうところに住んでいたから、墓というものにはすごく興味があったんですね。
私が仕事をやめたのは七十一歳です。 その年の十月三十一日が私の任期が切れたときです。 そして十一月十九日に得度したんです。 真言宗です。真言宗というのは弘法大師さんでしょう。 子供のころはあまり好きじゃなかったんです、 だけど大人になって、 ああ、 偉い人だなあと思った。あの人が中国から帰ってきたときに、 種智院という学校をつくりますね。 庶民の学校。 当時の大学。 日本で一番小さな大学だといっています。その開校式にお弟子さんを集めて、 慈悲を子供のために施せ、 という意味のことをおっしゃった。
弘法大師の次は良寛です。 良寛が修行した岡山県玉島の円通寺には 「西来家訓」 という教えがあるのです。その家訓の中にも同じことを書いてあるんです。 「沙門はまさに慈悲をもって体となし、 忍辱 (にんにく) を衣となすべし」 という項目がある。良寛はそういう修行をしてきたに違いない。
そういうことも考えて、 弘法大師さんというのはやはり偉い方だなということを、 正直に思いました。 僕は教員をしていたころですから、なおさらそんな思いが強くなったのでしょうね。 それで、 弘法大師の本もできるだけよく勉強をして、頭の中でよく知っていてもどうにもならないと思いますけれども、 それで得度をしたのです。 名前もいただいたのですが、 恥ずかしくて使えない。あまりに立派な名前なので。 私は、 買ったお墓が臨済宗なのです。 生まれたところは日蓮宗。 そして好きなのは浄土門なのです。なんだかわからないですね。 (笑)
実はきのう、 私は、 建長寺のちょっと手前のコーヒー屋で息子が展覧会をやっているものですから、 一回のぞいてやろうと思って行ったのです。うちの奥さんも一緒でした。 そして、 帰りに歩道を歩いているとカブトムシの子供が山のほうへ歩いているんです。 しゃがんで見ていたら、ほかの人たちものぞき込みながら踏まないで歩いて行きました。
それを見ていながら思ったのは、 浜田廣介という童話を書く人がいます。 『泣いた赤おに』 を書いた方です。 あの人の童話も好きで読みました。その浜田廣介が、 小さいときの、 言ってみれば自分の自伝みたいなものを書いた本の中に、 こんな話があります。
お母さんがかごを背負って野良仕事に出かけていく。 その後をつけて畑のあぜ道を歩いていたら、 お母さんが 「ちょっと待って」と立ち止まったというのです。 なんだろうと廣介が見たら、 虫が歩いていたから踏むといけないから通り過ぎるまで待っている、というふうにお母さんがおっしゃった。 これが、 その思いやりが恐らく廣介の童話の原点じゃないかと僕は思っているんです。
お盆がまいります。 お盆のときには、 亡くなったおじいさんやおばあさん、 場合によるとお父さん、 お母さん、 自分の兄弟などへの思いやりが浮かんでくるじゃないですか。 もうちょっと長く生きていてくれたらよかったとか、 あのときには世話になったなとかいうような思いが出てきます。 その思いを広げていくと、 ダライ・ラマさんのおっしゃっている、 思いやりになるのです。 そこまで行っちゃうんじゃないですか。 だからそこのところが人間として生きていく上ですごく大事なんじゃないかなと、 こう思っているんです。
では締めくくりです。 モンゴルにガンダン寺というお寺があり、 その近くにあまり目立たないがモンゴル随一の尼僧院がある。 尼さんの数は十七人。 そのうちの二十三歳になる若い尼僧に、 ぶしつけとは思ったが、 何のために出家したのかということを聞いたのだそうです。 「未来において安楽の生活に生まれたいから」 とか 「苦しみや悩みから解放されたいから」 などと言うだろうと期待していた。 すると、 案に相違して彼女は 「苦しんでいる衆生を救いたいから」 と言ったというのです。
私たちの身の回りに目を向けてみると、 不幸な人がたくさんいるんです。 自分も不幸であるかもしれない。 自分も不幸であるかもしれないけれど、人を救うということは自分も幸せになることだと考え、 だからそういう仕事をしたい。 そのために尼僧になったというのです。
最近出た本に、 『世界がもし百人の村だったら』 という本があるんです。 いま地球の人口は六十三億ですか、 それをこの本では百人に凝縮してある。 そうすると、 女の人が五十二人で男の人が四十八人。 富の所有をみると、 全世界の富の五九%をたった六人、 しかもアメリカの六人が所有している。 五十人が栄養失調に苦しみ、 一人は瀕死の状態にある。 こういう姿が私たちには見えてこなければいけない。 見えるようにしてくれるもの、 それこそダライ・ラマのおっしゃっている思いやりでしょう。 思いやりの気持ちがなければそういう現実も見えてきません。
私が今日お話ししたいのはそこに尽きる。 俳句をいろいろ引用したのもそのためです。 そうした俳句のように自分が悩み苦しんでいると、人も悩んでいる、 この人も苦しんでいるということがわかる。 ヘッセという人の文学論の中にも「文学とは自分のそばに人がいるということがわかることだ」 とあります。
ということは、 自分というのは悩みが深いでしょう。 ニコニコしているようでも、 一人でじっとしていると、 何でこんなにおれだけ悩まなければいけないのかということを思います。 それをもっと徹底して冷静にみてみると、 隣にいるあなたもそうなんだということがわかってくる。 そうするとそこに思いやりが生まれてくる、 ということを言っているのです。 これで終わりです。 どうも失礼いたしました。

= おわり =







