鎌田茂雄先生

生きていくこころ構え

2000年4月21日

仏縁との出合い

 一年に一遍、 こうして皆さんにお会いしております。 皆さん、 仏教塾には何となく何かの情報誌を見て入ってきたとか、 友達からすすめられて入ったり、 と、 お一人おひとり全部違うと思います。 しかし、 何らかの因縁をもちまして仏教とのつながりができるということは、 何か過去世においていいことがあったのかもしれません。
 私も仏教とは何の関係もなかったのです。 幼年学校の航空兵科にはいりまして、 そのまま行けば、 あの自殺機、 特攻機に乗ってそのまま死んでしまうような運命だったのですが、 幸い、 ちょっと年齢が低かったので助かったようなものです。 「仏教」 のぶの字も聞いたことがなかった。 ただただ天皇陛下のために死のうということだけを考えて生きていたわけです。
 復員して、 たまたま家が鎌倉だったものですから、 散歩するのに北鎌倉の円覚寺なんていうのはいいところなんです。 山門の前を歩いていたら、 「日曜説教」 と書いてあるんです。 坊主の名前なんか一人も知らないのですが、 朝比奈宗源と書いてありました。 兵隊から帰ってきてやることがない。 戦士の虚脱状態でしょう。 じゃあまあ聞いてみるか、 というので二、 三回聞いているうちに、 何となく縁ができたということなんです。
 そうして五十年。 五十年もやってしまうと逃げるに逃げられないので、 仕方ないと思って、 今もまた仏教の勉強なり、 毎日、 毎日こうしているわけです。
 若いときはなかなかわかりませんが、 年を取るとだんだん、 仏教というのもわかってくるんです。 禅宗も浄土真宗も真言宗も皆同じなんです。 人間の考えることは全く相違はないので、 だんだんキリスト教にも興味を持つようになるんです。
 円覚寺にいたころに、 上智大学の神父さんに紹介されて、 『公教要理』 とか 『新約聖書』 とか、 キリスト教関係の本を少し読んだ。 若いときにはそれで終わりだったんです。 ところが今になると何となく役に立つ。 何となく似たようなものじゃないかと思いまして、 あまりガタガタ言うこともないんじゃないかというように思っています。
 やっぱり年齢がだんだん高くなってきますと、 あまり区別したりしないようになるんです。 七十、 八十、 九十になって、 こっちがいい、 あっちがいいなんていうのでは死に切れませんよ。 もう九十、 百になればどうでもいいんで (笑)。 この宗派でなければ生きられないなどとは言っていられない。 何でもいいんです。 その人が一生歩んできたものを踏まえて、 何か生きる糧になさればいいんじゃないかという感じであります。
 きょうは生きていく心得といいますか、 昔の言葉を使えば 「修行の心得」 ですが、 生きていく心構えというようなことで、 二、 三の道元禅師のお話を交えたりしながらご紹介したいと思います。

禅林での生活

 私は円覚寺の小さな庵に入って、 老師の提唱を聞いたり、 夜は坐禅で僧堂に行ったりする生活をしていたんですが、 師匠が昔風の人で、 自分も大学を出ているのに勉強を嫌うんです。 勉強なんていうのはやる理由は全くないというようなことで、 私が本を読んでいると、 「本なんか読んでいないでしっかり作務をせぇ」 と。 禅宗では労働のことを作務と言いますが、 仕様がないからいろいろとやりました。 薪を切ったり、 水を汲んだり。 深い山の井戸で、 つるべを使うのですが、 うまくすくえない。 そこで年中、 庭掃除です。 学校へ行く前も帰ってからも庭掃除。 うるさいことに、 「泥を運ばないで掃除をせぇ」。 草取りも大変なんです。
 そのころは若いから、 表面だけきれいにしておけばいいと思うでしょう。 そうじゃなくて、 竹のヘラを使って下まで取らなければいけない。 取った後がいけない。 そのまま捨てると怒られるんです。 土を落とさなければいけない。
 禅宗というのはどうも掃除と炊事が中心みたいなんです。 ご飯をつくるというのがまたうるさいんです。 そして食べるときは一汁一菜で、 よくあれで栄養失調にならないなと思うんですが、 不思議なことに体というのはそういう貧しいものを食べると、 全部が栄養になっちゃうんじゃないですか。 今みたいにごちそうだらけでしょう。 それをふんだんに食べても半分も栄養にならないで、 みんな捨てられてしまう。 ところが、 お粥とたくあんみたいな食事だけれども、 それを全部体に吸収しちゃうんじゃないでしょうか。 味噌汁も自分でつくったお味噌でしょう。 それに野菜のくずみたいなものを入れて何となくつくるでしょう。 そうすると禅林では栄養が欠けるので、 茄子なんかは夏は必ず胡麻油で炒めるんです。 それから煮るでしょう。 だから栄養は十分にあるだろうとは思います。 しかし、 そういうものはごちそうで、 滅多に食べられないけれども、 何となくそういう食事が案外体にいいような感じもいたします。 今は飽食の時代ですが、 たくさんのごちそうがあるのでかえって体を壊しちゃうということがあるわけです。

見直される 「東洋」

 このごろ、 栄養学とか食品学の学会の集まりによくよばれるんです。 それは東洋の食事、 あるいは禅宗の食事とか、 仏教では食事というものをどういうふうに考えるのかというような話をさせられるんです。 栄養関係の先生方がみんな聞いているわけですが、 栄養学とはおよそあまり合わないけれども、 しかし、 現在は時代の転換期で、 栄養学会や食品学会でも東洋のそういうものを見直そうという風潮になってきたんです。
 世の中全体が変わってきているんです。 大きく変わって、 今までの価値観ではいけないんだ。 次の新しい世紀は東洋の考え方を取り入れた新しい考え方に基づかないと、 栄養学もだめだということになっているのです。
 先ほど作務の話をしました。 作務衣という、 服というか着物というか、 あれを着てやると背広とネクタイをしているのと比べてずっと楽なんですが、 作務というものはどういうことかと言うと、 労働なんです。 これを禅宗では大変重んじて、 修行の一つとしているんです。 それでその心得を書いてあるものがあるんですが、 作務のような労働をするときに必ず 「衆より先にす」 ということが大切だと。 作務というのはいやな仕事でしょう。 そういうものを仲間よりも先に率先してやるというところに非常に重要な意味があるというんです。 どうせやるんだから率先してやろうという気持ちがないと、 作務というものは成り立たないと昔から言われています。 確かにそうかもしれません。 いやだ、 いやだと思ってやると余計いやですし、 疲れます。 率先してやるということが必要なんです。
 私は軍隊で何でもさせられましたし、 お寺でも何でもさせられていましたから、 年を取って今、 手先を動かすのは全然いやじゃないです。 洗濯でも炊事でも、 結構炊事なんていうのも、 人参を切ったり大根を切ったりするのも、 やっぱり年中やっていると活力になっているんです。 だからこれを使えないようになるとどうしようもないわけです。 ほかに体の悪いところができても、 指だけは動かせるといえば、 随分活力が違ってくるんです。
 皆さん、 定年になられたら何もなさらないかもしれませんが、 奥様だけに任せないで、 ご自分でやるように心掛ける。 お一人で暮らしている方は、 あまり外食のところで買ってきて食べないで、 自分で何となくつくってみると気持ちが違ってきます。 材料に対する気持ちも違ってきます。 愛情も湧きます。 そういうことがまた健康にもいいと思うんです。

百丈禅師の遺訓

 作務は大切だと言ったのは、 中国の百丈という和尚さんです。 武漢があって長江が流れております。 洞庭湖があって、 そのあたりの百丈山という山に住んでいたんです。 この人が作務とか労働というものも仏様の教えに従う修行だと初めて言いだしたのです。
 インドでは自分で働いて耕して食べ物を得てはいけません。 全部托鉢によります。 これもほかの精神でそうするわけです。 一般の在家の方に功徳を積ませるという意味です。 ですからタイでもミャンマーでも朝になると何百人という僧が応量器、 頭鉢を持って歩いています。 そうするとそこへ、 両側の家から皆飛び出してきて、 ご飯を入れてくれるわけです。 それを持って帰っていただいて食べるのが原則で、 自分で畑を耕してはいけないことになっています。
 畑をつくるとそれは所有になるでしょう。 そういう所有の観念はいけないので、 何も持たない。 だから畑もないんです。 食べ物は全部托鉢によってのみ得られるわけです。 これはこれで一つの理念があってやっているんです。
 百丈和尚のころは、 唐の中ごろで、 いろいろ戦乱が続いたり何かして、 田舎ではお経を上げて歩いていてもだれも入れてくれなかったのでしょうね。 あるいはお米が取れなかったのかもしれません。 いずれにしろだれも入れてくれないので食べ物がないでしょう。 ですから自分で耕して収穫するようになった。
 私も百丈山に二回行ったことがありますけれども、 大変です。 大きな街から一日かかって車で行くわけですが、 四方を山に囲まれた盆地なんです。 そこに現在、 百丈寺というのが残っている。 ボロボロですけれども。 そのあたりは見てみると水田が開けているんです。 このあたりに百丈和尚がいたんだなというので、 非常に懐かしい思いがしました。
 山は全部、 孟宗竹もうそうちくです。 日本の孟宗竹の三倍ぐらいの高さで、 こんなに太い。 だからタケノコは幾らでも食料になるんです。 中国人もタケノコを油でいためて食べます。 ですから食料になるので非常にいいと思うんですが、 ここでこういう有名な言葉があるんです。

一日作さざれば一日食らわず

  「一日作なさざれば一日食らわず」。 これは有名な言葉です。
 百丈和尚は九十歳ぐらいになっても、 やっぱり鍬くわを持って畑へ出るんです。 お弟子さんたちが、 うちの老僧は気の毒だと。 そんな年をしても働く手を緩めない。 それで鍬を隠しちゃったんです。 そしたら畑へ行けないでしょう。 そうしたら百丈和尚はその日はだまっていたんです。 それで夜、 食事をお持ちしたら手をつけないんです。 お弟子がびっくりして、 どうして和尚様はお食事を召し上がらないのかと聞いたら、 「一日作さざれば一日食らわず」 と答えたんです。
 一日仕事をしない。 自分も一日食事をしないんだと。 自分で耕して食事のもとを得ていくんだ。 自分はきょうは何も畑へ出て仕事をしていない。 だから自分は食べないんだと。 弟子がびっくりして、 これはいかんと。 やっぱり鍬をお部屋の前に置いて、 やりたいときにはそっと労働をさせておいたほうがいいんじゃないかと思ったんです。 「一日作さざれば一日食らわず」 なんて、 大変な発想ですよね。
 今はそうでもないですが、 中国で文化大革命のころ、 毛沢東主義で真っ赤に塗られたでしょう。 仏教なんていうのはだめだと。 こんなものは封建的な思想で、 こんなことをやっていると革命政治ではなくなってしまう。 仏教なんかつぶせというので、 お寺の仏像の首を切ったんです。 それでお寺をみんなつぶした。 そのときに、 周恩来が、 仏教の中でも百丈禅師という人は 「一日作さざれば一日食らわず」 とおっしゃった。 これこそ労働精神の権化ではないかと言ったんです。 そしたらみんなびっくりして。
 寺を壊したんですよ、 よくまああれだけ壊したなと思って。 今から十五、 六年前、 五台山というのが初めて開放されたんです。 それでNHKの取材班を連れて行ったんですけれども、 そのころはめちゃくちゃだった時代です。 二千二百メートルのところにお寺があったんです。 それは古い名刹です。 その寺へ偶然訪ねて行ったんですけれども、 五台山には牛や馬を放牧しているんです。 夜になるとそれをつなぐ部屋にしていたんです、 大雄宝殿を。 大雄宝殿の仏像をみんなつぶして放っぽって、 馬や牛をそこへ夜になるとつなぐというふうにしていた。 それは文革が終わった後に行ったものですから、 私が見たときには馬や牛はいませんでしたけれども、 大雄宝殿を馬や牛が夜寝る部屋にしていたんではどうしようもない。 馬や牛にとってはありがたいかなと思うけれども (笑)。 荒れてどうしようもない状態だった。 今はそれが立派に復興して、 ちょっと行けないところですけれども、 その寺は普通の観光コースに入っていませんので行けませんが、 そういうことなんです。
 でも 「一日作さざれば一日食らわず」 というこの考え方を現在適用するとなると大変です。 現役の人は夜のご飯はいただけるけれども、 定年になった人はどうするんですか。 月給も稼いでないし、 恩給を稼いでいるからそれでもいいのかもしれませんけれども、 つらいですね。 もっともっとつらいのは、 お体の悪い方々です。
 寝たきりになってしまったら、 もう食べないのか。 この百丈禅師のようにすれば食べないんです。 こういう人はどんな老後になっても働いているでしょう。 体が丈夫なんですね。 死ぬときは二、 三日、 食事をとらないと枯れ木のようにふっと切れちゃうんですね、 こういう方は。 大病で苦しむということがまるでないんです。 枯れ木が落ちるように死んでいくんです。 しかし、 死ぬまでは何か動かしている。
 今の時代はそうならないでしょう。 老後になって体の具合が悪くなったら、 だれかにみていただかなければやっていけないというのが現実ですから。 今はこんなことを言ったら大変です。 要するに仕事をしない人は食べないようにというようなことは言えないんですが、 これは単純に、 お寺の周りにある畑でそう言っているんです、 というようにご理解いただければと思います。
 これは有名な言葉ですので覚えていただきたいです。 「一日作さざれば一日食らわず」。 別に実行する必要はないのです。 日曜日に昼寝したから夕食は食べないとか、 そんなことをする必要は全くないです。 ただ、 禅の労働というのは、 そういう厳しい精神でできてきたんだということです。

平常心是道

 百丈という人は、 そういうふうにいろいろなことを言いましたけれども、 修行というのは平常心是道だとも言っているんです。 平常の心掛け、 それが修行だと。 普段の気持ち、 それがみんな修行にかなわなくてはいけないということなんです。 では平常心というのは何かというと、 日常の生活なんです。 仏教では一日の生活をこう言っているんです。 行、 歩くことでしょう。 住、 じっとしていること、 とどまっていること。 坐、 座ること。 臥、 横に体をすること。 ということは、 一日の生活ということなんです。 歩くこと、 じっとしていることもありますし、 座ることもありますし、 そして体を横にすることもあります。 そういうものが全部修行だと。 全部それが仏道にかなっていないといけないということを言ったわけです。
 だから寝るのでもそれは一つの修行なんです。 ご飯を食べるのでも一つの修行で、 ただ栄養のあるものをとればいいというのではなくて、 やはりご飯を食べるときには一つの法則がありまして、 儀式に則って丁寧にそれをいただくということが修行になっていくわけです。 ですから絶えず普段、 日常生活の中でみんな修行なんだというのが禅宗の一つの修行観であるわけです。

道元禅師の体験

道元禅師
 鎌倉時代に道元禅師が中国へ留学されました。 日本の貿易船に乗り、 東シナ海の波濤を越えて船が入ったのは現在の寧波 (ニンポー) です。 長江の河口から一キロぐらい上流です。
 そこで上陸許可を待っていたわけです。 そうしましたらある日、 阿育王寺という寺の和尚様がシイタケを買いに船に来られたんです。 この和尚様は六十一歳の老僧ですが、 「典座」 という役目であります。 これは炊事係という意味です。 六十一歳ですよ、 その和尚様が、 シイタケの買い付けに来た。 実はシイタケじゃないかもしれないんです。 キクラゲかもしれませんが、 原本には 「じん」 という字を書いているんです。 こういうものを買い付けにきたんです。 日本の貿易船が九州からこれを中国に輸出していたんです。
 栄養学会のときに質問があって、 先生方は、 「この字は桑の実じゃないか。 桑の実というのは生でも食べられますけれども、 干して持って来ているんじやないか」 と。 もう一説は 「キクラゲじゃないか」 というんです。 それで干しシイタケぐらいにしておくと便利だから、 干しシイタケで話を進めたんです。
 今の大分県で採れるような肉の厚いすごく立派なシイタケが当時の日本で採れたかどうか知りません。 しかし、 現在でも中国シイタケというのは肉がないんです。 葉は開いているんだけれども厚みがない。 だから日本のシイタケが珍重されたのかもしれません。
 その六十一歳の炊事係の老僧が、 二十何キロの道のりを歩いてそれを買いにきたんです。 道元禅師が初めて接する中国のお坊さんなんです。 ですから、 修行とはいったいどういうことをしたらいいのか、 どういう勉強をしたらいいのか、 この中国のお坊さんからお話を聞こうとしたわけです。 それで船の上に丁寧にお招きして、 会話は出来ないから筆談で、 いろいろお聞きしようとしたわけです。 名前を聞いたりしたわけです。
 そうしましたら、 自分は食事係だと。 食事係というのは出汁だしじるをつくるとか、 材料の仕入れが使命でしょう。 自分は阿育王寺のお坊さんたちにおいしいものを食べてもらいたい。 同じうどんを作るにしても出汁をちゃんと作りたい。 それで買いにきたんだと。 道元禅師は飲み込めないんです。 炊事係としてシイタケを買いにくるようなことが修行になるんでしょうかと聞いたわけです。 そうしましたら、 こうおっしゃったんです。 自分は老人でこの職を務めているのは、 老人としての修行をしているのであり、 どうしてこれを他人に譲れましょうか。 自分は老僧としての修行をしているんだと。
 道元禅師はまだ分からないんです。 道元禅師は修行というと、 禅の本を読んだり、 坐禅したり、 お経を読んだりすることだと日本で植えつけられている。 まして道元禅師は貴族ですからそういう教育を受けているわけです。 それで、 えーっ、 炊事係の仕事をするのが修行なんだろうかと。 それでこう聞いたんです。 「どうして坐禅、 弁道をしたり、 古人の文字、 お経、 そういうものを見ないのですか」 とお尋ねしたんです。 そうしましたら、 その老僧が、 「お前さんは外国の立派な人のようだが、 まだ修行ということも、 文字を見るということもわかっていない」 と言ったんです。
 道元禅師はびっくりしちゃった。 何も分からないわけです。 だいたい貴族出身の人というのは何も分からない人が多いけれども、 ここにおられたら取り消します (笑) 。
やはり高貴な人というのは、 何かできない。 下々のことってできないでしょう。 昔、 幼年学校のときに皇族が入ってきたりもしたけれども、 学科の授業や教練は一緒でも、 夜寝るのは皇族舎と言いまして、 皇族の住みかへ行っちゃうでしょう。 やっぱり下々のことは分からないんです。 道元禅師もあまり下々のことが分からなかったのではないかと思います。
 そういうことをまず中国留学の最初に経験した。 頭が混乱しちゃったんです。 本当の修行とは何かというのが分からない。 どうしてあんな六十一歳の立派な和尚さんがシイタケの買い付けに来るのか。 それが分からない。
 そして、 やっとのことで上陸許可をいただきました。 道元禅師は、 寧波から船で途中まで行って、 それから山道を歩いたんでしょうか。 今でもありますが、 天童寺というお寺、 天童山へ上山していったんです。 これは禅の修行道場ですので立派な大きな寺です。 現在も曹洞宗や何かでお金を出して立派にしておりますが、 私が行った文化大革命のちょっと前はひどいものです。 紅衛兵がいて、 紅衛兵というのは毛沢東主義の亡霊みたいなものでしよう。 年齢が十四か十五歳。 あの頃、 一つのイデオロギーで 「進めーっ」 とやると、 人間は誰でもそうなってしまいます。 それで文化大革命というのは推進されていったんですけれども、 めちゃくちゃです。 文化財をセメントでなすっちゃった。 昔から伝えられた羅漢を彫刻している壁があるんですが、 それを全部セメントで塗っちゃったんです。 また当時は本堂を授業に使っていたんです。 やっぱり邪魔なのは仏様です。 授業をやるときに三尊仏の三人の仏様が見ているんじゃ、 何だかね。 結局、 仏様を下ろしてつぶしちゃうわけです。 壊すかつぶすかする。 私が行ったときには、 セメントをそろそろはがそうというので、 足の踏み場もない状態でした。 長い歴史の中ではそんな目にもあいましたが、 もともとは大変立派な禅宗の本山です。

他は是れ吾にあらず

 そういう天童寺へ道元禅師が行かれた。 それでまず本格的な修行ができると喜んでいたんですが、 ここでもまた一つ、 道元禅師に衝撃を与えた事件があります。 それは六十八歳の典座の言うことなんです。 名前は 「用」 という人です。 この人から教えられたんです。
 ある夏の暑い日に、 昼休みに庭へ出ていったんです。 そうしましたら、 地上にキノコを干しているんです。 「苔たい」 と書いてあるんだけれども、 食用になるものだと思うんです。 それを一生懸命干していた。 暑いし、 ひなたでしょう。 それで道元禅師が、 その老僧に年齢を尋ねました。 そうしましたら六十八歳だと。 「そんなお年なら、 だれかに手伝わせたらどうですか」 と言ったんです。 そうしたら、 用和尚の答がふるってる。 「他は是れ吾にあらず」。
 どういうことかと言うと、 自分の修行はどこまでも自分の修行だ。 他人と自分とは修行の面では関係がないんだと。 だから他人にこの仕事をやらせれば他人の修行になっても自分の修行にはならない。 自分の修行は自分でやるんだ。 手伝わさせれば、 手伝ってくれた人の修行になってしまうでしょう。
 道元禅師がまたびっくりして、 あんまり和尚様がお年寄りなので、 こんな暑い日中にやらないで、 もう少し涼しくなってからなさったらどうでしょうかと言ったんです。 そうしたら用和尚はすかさず、 「さらに何れの時をか待たん」 と答えたんです。
 これはどういう意味かと言うと、 今やっているこの仕事、 苔を干すという仕事は今の仕事だと。 その今の仕事をあしたやればいい、 きょうの夕方やればいいとかいうように延ばすことはできない。 今の弁道をあすに延ばすことはできないという意味なんです。 あすやればいいと普通は考えるでしょう。 あしたできなければあさってやればいいと。 ところがこの老僧は、 人間はいつ死ぬか分からない。 あす死ぬか分からない。 だから仕事を延ばすということはできない。 今の仕事は今やらなければいけないと答えたんです。
 道元禅師ははっとなったんですね。 修行というのはいったい何だろう。 強烈な一種の無常観、 人間というのはいつどうなるか分からない。 来年なんて言っていられないんです。 あすとは言っていられない。 来月とは言っていられない。 いつ倒れるか分からない。 だから今生きているときには今の仕事をしっかりやっておくんだということを、 道元禅師は悟ったわけです。

『典座教訓』 の教え

 中国に渡った道元禅師は、 老僧に出会ったりして修行というものがどういうことなのかということがだんだんわかってきた。 もちろん、 天童寺でもほかの寺でも坐禅をしたり何かしております。 最後は、 お悟りを開いたのは坐禅をしているときですから、 修行の坐禅もやっているし、 講義も聞いたと思うんです。 ところが、 典座という人から炊事をつくるということ、 これが大変な修行なんだということを初めて悟った。
 それで日本に帰ってきてから 『典座教訓』 という本を書いたのです。 食事をつくる心構えという本を書いた。 家庭の奥様方はみんな食事をつくっておられるわけですから、 修行をしておられる。 旦那さんはそれをただ食べているだけですから、 あまり修行にならないんです。 つくる心構えというのは大変だということで道元禅師は 『典座教訓』 を書かれたわけです。
 その中で、 三つの心ということが典座には必要だとおっしゃっている。 この三つの心というのは食事をつくる典座だけではなくて、 ありとあらゆる事をなすに当たっての大切な心構えなのです。
 まず、 三つの心とは何かと言いますと、 それは、 「喜心」、 「老心」、 「大心」 ということです。 この三つの気持ちを持って炊事に当たらなければいけない。 炊事だけではありません。 一切の修行をする。 あるいは一切の修行だけでもありません。 我々が何かをするとき、 この三つの心、 「三心」 です。 これをもって事に当たってほしいということなんです。
 まず最初の 「喜心」 というのは何かというと、 これは喜びの心です。 字のとおり。 他人のために何かをする喜ぶ心です。 他人に役立つということをするので大変に喜ぶ心のことです。 他人にもいろいろありますが、 炊事係がつくった朝のご飯は仏様に差し上げますでしょう。 仏様というのは仏、 法、 僧の三つに差し上げるわけです。 これを三宝と仏教では言いますが、 これにまず朝のお膳を捧げます。 三宝にご飯を捧げることができる、 三宝に供養できるということは自分としては大変な喜びだと。 現在でも日本海側や北陸の方へ行きますと、 浄土真宗の方のお家へ行ってごらんなさい。 立派な仏壇に毎朝、 毎朝ご飯を変えて、 お茶も変えたりして捧げている。 これなんです。 それはご先祖様にお供えするわけですが、 道元禅師は仏様にそれを差し上げる。 三宝に差し上げる。 仏壇にそれを供える。 こんな大きな喜びはないと考えられたんです。
 喜びといっても、 小さな喜びからさまざまな喜びがありますが、 道元禅師にとっては仏法に会えたとか、 仏法のために役立つとか、 仏法に供養するとか、 そういうものが大きな喜びだったんです。
 一つの喜びを例示して、 袈裟のかけ方を知ったときの喜びを道元禅師は書いておられます。 袈裟というのは皆さんご存じないかもしれませんが、 これからお寺さんや何かへ行きますと、 袈裟、 衣の上に横にかけるものです。 お坊さんがご着用になるものですが、 袈裟のかけ方というのはお経に書いてあります。
 道元禅師も日本にいるときにそれを知っていたんです。 ところが、 天童寺で最初に行って目にしたのが、 朝課、 朝のお勤めに出てくる何百名という坊さんの姿です。 みんなが袈裟を持って集まって来ます。 その袈裟を頭の上にいただいて、 そしてお経を唱えて静かに着けていくわけです。 その姿を見て、 日本ではお経には書いてあるけれども、 そんな風にやる人はいないんです。 生まれて初めて実際に袈裟の着け方というのを見たんです。 書いてあるのを読むのと、 実際に見るのとでは全然違います。 特に天童寺の朝課は今でも朝の三時ですから、 真っ暗でしょう。 そういうところで、 カッコウが鳴いている声ぐらいしか聞こえない。 ろうそくが揺れ動いているでしょう。 そういうところでみんなが頭の上に袈裟を捧げてお経を唱えて、 それから静かに袈裟を着ける。 それを見た道元禅師は本当に感涙にむせんだようです。

道元禅師の喜び

 後に 『正法眼蔵』 の中で、 それをごらんになったときの道元禅師は、 「身に余り感涙秘かに落ちて襟を浸す」 と書いておられます。 余りの喜びにうれし涙が垂れてきて、 襟を浸したというのです。 これは仏法を求め得た喜び。 こんな喜びは普段はありませんけれども、 普段でも何か一生懸命自分がやっていて、 そして何かでき上がったときの喜びというのはありますけれども、 道元禅師はその有り様を見て、 これだっ!と思ったんですね。
 それは長い間、 求めておられたからそういう喜びが倍増して生まれてきたんだろうと思います。 その喜びの心を持って何かをする。 これが喜心です。 これは作務だけではありません。 食事をつくるときだけではありません。 何でも喜びの気持ちを持ってやるのと、 イヤだ、 イヤだ、 イヤだと思ってやるのでは全然違う。 喜びの気持ちを持ってやればあまり疲れないでしょう。 イヤだ、 イヤだ、 イヤだと思ってやると疲れてしようがないです。 ですから、 何をなすのでも喜びの気持ちを持って事をなすということが必要で、 食事をつくるときは特にそうだということを道元禅師はおっしゃっているんです。
 なかなかできないけれども、 くしゃくしゃして、 イヤだ、 イヤだと思って奥さん連中も炊事するのではなくて、 もっと楽しみながらつくる。 喜びまでいかなくても楽しみながらでもいいんです。 どんなことでも楽しみながらやること。 イヤイヤながらやるんじゃ随分違いますから。 心のほんのちょっとした持ち方ですから、 イヤイヤながらしないで何となく楽しみながらする。 もっといけないのは怒ってすることです。 カンカンに怒って何かしたりするのは一番いけない。 危ない。 けがしたり何かすることもあります。 だから気持ちを豊かにして喜びの気持ちを持って事をする。 それが一番の喜心です。
 二番目の 「老心」 というのは老いの心というのではないんです。 「老心とは父母の心なり」 と道元禅師は言っておられるんです。 老心というのは父母の心、 親の心。 老婆心と言うでしょう。 老婆親切なんていう言葉もあるでしょう。 老婆心、 それは父母の心というふうに道元禅師は定義をしております。
  「譬えば、 父母の一子を念うが若く」。 父母が一人の子供のことを念ずるようなものだ、 というのです。 原文を読んでみます。 「三宝を存念すること一子を念うが如くせよ。 貧者窮者、 強に一子を愛育す。 其の志如何。 外人識らず、 父と作り母と作って、 方に之を識る。 自身の貧富を顧みず、 偏えに吾が子の長大ならんことを念う。 自の寒きを顧みず、 自の熱きを顧みず、 子を蔭い子を覆う。 以て親念切切の至りと為す」 「然れば乃ち水を看、 穀を看るに、 皆、 養子の慈懇を存すべき者歟」。 非常にわかりやすく説いているんです。
 要するに父母が子供をかわいがるでしょう。 愛するでしょう。 そして我が子の長大ならんことを願うわけでしょう。 寒さや暑さに対しても子をかばうでしょう。 そういう子を思う心と同じように、 水を見るにも穀を見るにも、 穀はお米と言ってもいいです。 炊事の材料である水もお米も、 もちろん麦も野菜も、 材料、 それを思うのにも老心の気持ちで思わなければいけない。 例えば今から野菜を調理するときでも、 親が子を愛するような気持ちで、 野菜を見るんだと。 昔の禅林では野菜はしっぽまで使ったんです。 野菜は全部捨てない。 カブや何かの小さなしっぽでもきれいに洗って、 そして食べたんです。 だからどんな野菜でも捨てるということはない。 そのものを生かし切る。 今ではみな捨ててしまいますが、 それを禅林ではちゃんと味わうわけです。

「大心」 とは?

 道元禅師が 『典座教訓』 の中で説かれた 「喜心」 「老心」 「大心」 という三つの心のうち、 喜心、 老心については前号までに触れましたが、 それでは、 三番目の大心というのはなんでしょう。 道元禅師は、 「其の心を大山にし、 其の心を大海にし、 偏無く党無き心なり」 と書いておられます。 気持ちを大山、 大海のように大きく持つこと。 大きな気持ちでものに処するということです。 一番いけないのは 「偏」 です。 偏り、 差別、 そういうような見方をしてはいけません。 それが 「大心」 です。
 だから食事をする前にも、 どんな材料でもみんな同じように平等に見る。 きょうは大したものじゃないからいい加減につくればいいというんじゃないんです。 どんな材料に対しても大きな心で接する。 だから大心だと言うんです。
 軽いものはどうも軽々と扱うでしょう。 重たいもの、 重要なものは重々しく扱うでしょう。 差別、 それがいけない。 高価なものは高価なもののように扱うでしょう。 安いものはまあいいやというのでいい加減に扱うでしょう。 でも、 そういうものじゃない。 どんなものでも平等に扱うことが一番必要なんだ。 「大の字を書くべく、 大の字を知るべく、 大の字を学ぶべきなり」。 大という字をひとつ覚えてください。 大というのは何かと言うと、 差別しないことなんです。 区別しないということが大ということなんです。
 私たちは年中、 差別してこっちがいい、 こっちが悪いと。 おいしいものは丁寧に料理するけれどもまずいものは捨てちゃえとか、 そういうものではないんだと。 どんなことでも区別をしてはいけないということなんです。 これが出来るようで出来ない。 区別しないということは、 自分でもそう心掛けてはいるんですが、 なかなか出来るものではないんです。 だから大心を持つということは非常に難しい。 難しいけれどもこれを持たないといけない。
 一つ例をお話ししましょう。 また五台山のお話です。 中国の山西省にある五台山で食事に関する話です。 日本人で一番早く五台山へ登ったのは円仁という人です。 そして帰ってきまして 『入唐求法巡礼行記』 という本を書いているんです。 円仁は帰ってきてから比叡山の座主にもなります。 これはライシャワーという人が英訳しています。 ライシャワーというアメリカの大使はもう亡くなりましたが、 この人の学位論文が円仁の 『入唐求法巡礼行記』 の英訳です。 ハーバード大学にいらしたころの彼の博士論文がこれなんです。 これの漢文を解読するのは大変なことです。 日本語にも習熟しなければならないし、 漢字にも習熟しなければならない。 それを英語に移すというのは大変なことなんです。 それをやった。 すばらしい本です。
 その中で、 五台山のことを書いているんです。 これが現在でも同じなんです。 「五台山の五頂の下は深渓邃谷 (しんけいすいこく) にしてその底を見ず」。 谷底が深い。 湧泉澗水。 泉や水です。 流れの響くを聞くのみ。 そんなようなところなんです。 そして二千メートルぐらいから上には、 一切の樹木がありません。 完全に高山植物だけなんです。
 高山植物が花を開くのは七月でしょう。 円仁が、 七月の五台山の状況を描いていますが、 現在と同じです。 寸分も違わない。 円仁が描いたのは八四五年ごろの状態です。 今は二〇〇〇年でしょう。 それが寸分も違わない。 描写している草花の咲いているような状況が今も同じです。 私も 『入唐求法巡礼行記』 を持って五台山の山の上へ登ったんですけれども、 本当に克明に書いてある。 今と全く同じです。

五台山での一例

 そういう五台山について、 円仁はこう言っているんです。 五台山に入山すると、 平等の心が起こってくるという。 原文は 「この山に入る者、 自然に平等の心を起こしうる。 山中、 斎をもうくるに、 僧俗、 男女、 大小を論ぜず。 平等に供養し、 その尊卑、 大小を見ず」。
 五台山には何百人というお坊さんがいるでしょう。 そのお坊さんにある信者がお金を出してお粥を炊いて供養するわけです。 そういうのを斎会と言うんです。 五台山でも信者が寄付をして斎会をしばしば設けております。 食堂 (じきどう) があるでしょう、 そこへずっと並ぶとどなたにでもお椀にお粥をよそってくれるわけです。
 あるとき華厳寺で斎会を開いたわけです。 そしたら男女、 乞食、 貧困者がたくさん集まってきたんです。 施主は山中のお坊さんに供養するために炊いたので、 乞食が来るのは困ると。 そうしたら、 その中に子を孕んだ女がいました。 その女の乞食は、 自分の食事をよそってもらったら、 さらにお腹の子の分も要求したわけです。 私にはここにも子供がいるから、 その分もよそってくれと言ったんです。
 そうしましたら施主が怒ったんです。 おまえのお腹の子はまだ生まれていないじゃないか。 これも人間の数だからご飯をくださいとは何事だと。 おまえの子供は生まれていないのに飯が食えるのかと怒鳴った。 施主としてはお坊さんに供養するのが目的でしょう。 普通の方でも困った方、 乞食の人に供養してもいいんですよ。 だけどお腹の子にまでご飯をくれというので、 食えるはずがないだろうと怒鳴った。
 すると、 その女の人は、 自分のお腹の子にご飯をくれないのなら、 自分も食べることはできないと言って、 立ち上がって食堂を出た。 食堂をわずかに出た途端、 この孕み女の姿は文殊菩薩に変わった。 光明を放ちあたりを照らし出した。 金毛の獅子に乗り、 無数の菩薩を従えて天空に昇っていった。 斎会に集まった数千の人々は、 外に走り出て茫然として地面に倒れ伏し、 声を上げて懺悔し、 謝り、 涙を流した。 人々は大聖文殊師利に声がかすれるまでに御名を唱えた。 こんなふうに円仁が書いているんです。
 これを見ても、 やはり平等ということは大変なことなんです。 大きな心がないとなかなか平等ということはできない。 五台山ではそれから以後、 斎会を行うときには男女、 僧俗、 大小、 尊卑、 貧富を論ぜず、 すべからず平等に供養すべしというようになった、 と円仁は書いているんです。
 文殊菩薩が女の姿を借りて試したわけです。 集まった人たちの心根を試したわけです。 普通の常識でも二人前はくれませんでしょうけれども、 しかし、 それが文殊菩薩の化身であった。 それで五台山では良き伝統として、 お坊さんが先に着いたときはお坊さんが前、 次に乞食の人がついたらその次は乞食、 その後に信者がついたら信者。 要するに集まってきた順に並んで、 あらゆる区別なく斎会、 ご飯をいただくことができた。 それが五台山の伝統となったということなんです。
 円仁という人が、 今からざっと千二百年も前にそういうことを見て、 そういうことを感じて、 そしてこういうものを書いて残してくれているわけです。 どうぞ皆さん、 今の三つの心。 どんなことをするにも三つの心を持っていただきたい。
 最初にお話し申し上げましたように、 修行というのは仏典を読むだけではないということです。 あるいは坐禅をしたり、 念仏をしたりすることだけではない。 朝から晩まで一日中やることに対して、 三つの心を持ってやるようにするのが本当の修行であるということをきょうはお話ししたわけです。
 これから塾できょうの講義を聞いたり、 実践をいろいろなさると思うんですが、 どうか作務とか掃除、 トイレの掃除、 こういうものも一つの修行だというふうにご理解いただきまして、 そういうものも進んで 「衆に先立って」、 みんなに先立って、 喜びの心を持ってやっていただけたら仏教塾へ入塾した目的のなにがしかがかなえられるのだろうと思います。
 どうぞ、 その気持ちでお元気でご勉強いただくように願っております。 ご清聴ありがとうございました。

= おわり =

<お知らせ>
平成13年5月5日、塾創立以来昨年まで、 特別講師として毎年一度、 講演を続けられた東京大学名誉教授鎌田茂雄先生が示寂されました。

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