藤井正雄先生

死生観と葬儀の行方(第14期スクーリング講義録)

2001年6月20日 第14期スクーリング講義録

葬法の意義

 私に与えられた科目は 『宗教概論』 ですが、 お葬式を中心にして話をするということになっていますので、 葬儀の原点、 人間はなぜ葬送をするのか、 という点から話を進めてまいります。 まず、 よく問題になるように、 そもそも葬儀は必要なのかどうかという議論があります。
 人間はだれでも一人残らず死にますが、 死を宣言されてからも、 身体の細胞は生き続けます。 髭 (ひげ) の濃い人などは六時間も髭は生え続ける。 ですから死ぬということは、 全細胞が死ぬときに死といえるのか、 心臓がとまったときに死といえるのかというのは、 まだわからないんです。 正確に言うと、 我々は全細胞死に向かって死んでいくんです。 やがては腐敗していく。 ですから、 お医者さんの宣言というのは点としての死であって、 プロセスではない。 死というのはプロセスなんです。
 よく聞かれることに、 「生前」 って一体何だ、 ということがあります。 それは、 生に基準をおいて考えるから分からなくなる。 生きている前だから前世のことかと。 そうではなく死を基準に考えると、 死の前は生きていたわけですから、 それが 「生前」 ということになる。 ということは、 生・死といった場合には、 死から始まる、 ということにもなります。
 以上のような理由で、 ともかく死後の処理をしなければならない。 その方法を 「葬法」 と言っています。 葬法には、 例えば 『阿毘達磨倶舎論』 だとか、 『釈氏要覧』 という、 今でいう百科事典なんかでも出てきますが、 昔から四つの葬り方がありました。
 ご承知のように、 五輪塔と呼ばれるものがあって、 下から、 「地」 「水」 「火」 「風」 で、 一番上が 「空」 となっております。 これを人間についてみると、 目に見える肉体を意味する地の中に、 水の要素がある、 火の要素がある、 風の要素があるというふうに考えていく。 人間の体の大部分は水です。 火の要素というのは、 熱です。 我々は熱を持っている。 具体的には血液が流れている。 風の要素というのは、 呼吸をしているということです。 私たちが目に見える形の肉体を持っていて、 肉体の中には、 水分があふれ、 熱があり、 そして呼吸をしている。
 密教の真言宗などでは、 「大 (だい)」 という使いますが、 大というのは要素という意味です。 ですから水の要素で 「水大」、 火の要素で 「火大」、 風の要素で 「風大」、 そして 「空大」 といって、 全部で五つありますから、 「五大」 という。 このうち地水火風の四つを 「四大」 といいます。 「四大不調」 という言葉は、 体の調子が悪いということです。
 私たち人間というのは、 そういう要素が集まっており、 縁が尽きると無くなる。 「縁」 というのも難しい言葉です。 人間の体は、 あるいは万物ということで考えてもいいのですが、 形のあるものとないものがある。 ないものは、 中に含まれている。 ですから仏教の場合には、 原因があって結果がある。 これは科学的に見ても当然のことです。 「因果 (いんが)」 という言葉もあるし、 条件として出てくるのが 「縁」 というものです。 縁というのは条件なんです。
 そうすると、 こういう体の要素からいえば四つの要素というのが、 縁によって結ばれている。 しかもそれぞれのものに、 原因があって結果があるわけです。 ただ原因が直ちに結果をもたらすわけではない。 例えばここに一つの種があります。 この種はここに置いといてもいつまでも種なんです。 その種が土の中に入り、 太陽の恵みをいただき、 雨の慈しみをいただき、 それで初めて縁をいただいて、 花が咲き、 実を結ぶということですね。
 私たちがいまある結果も縁が尽きると、 元の世界に戻っていく。 死ぬことによって、 地というものはなくなる。 土葬で葬れば土の中に還る。 水の要素で戻せば水葬になる。 火の要素で戻せば火葬になる。 肉体を自然の風化に任せる、 あるいは野獣に肉体を食べさせる。 これを野葬といいます。 チベットなんかで広まっている鳥葬。 鳥に食べさせる。 そして元の状態に戻していく。
 そうすると、 四つの葬り方があるんだということは、 五輪塔の原理、 つまりは因縁の法則から来ていることが分かります。 それが葬法ということです。

供養と回向

 人が亡くなると、 土葬でも火葬でも、 処理された肉体は墓に入るわけですが、 では、 「霊」 というのはどうなるのか。 恐らく霊というものが遊離するであろう。 そうすると、 霊と遺族との関係を新しい意味で取り結ばなければならない。 それが実は葬式であり、 法事になるわけです。 そこに出てくるのが僧侶です。 そのときに出てくるのが、 「供養」 とか、 「回向」 という考えです。
 お葬式をするのはわかるけれども、 死んだ人にお経を聞かせてもわからないじゃないか。 そう質問されると難しいですね。 答えを出すにはまず 「霊」 というものがあるのかどうかが問題になりますが、 これについては、 お釈迦様も 「無記」 と言われた。 つまり死んだ経験をもつ人はだれもいないわけですから、 証明することも記述することもできない、 ということで、 お釈迦様は沈黙を守られた。 しかし、 言葉がほかにないものですから、 遺体から遊離してくると思われるものを 「霊」 と言っているわけですが、 果たして供養の結果、 あるいは効果というものはあるのかどうか。
 お経ではミツバチの例が挙げられている。 ミツバチは花から花を渡り歩いて、 確実に蜜を採っていく。 ところが、 ミツバチがいなくなった後も、 花の色や形、 香りは全く変わっていない。 しかし確実にミツバチは蜜を採っているではないか。 そうすると、 結果があったのか、 ないのかというのは、 どこで決めるのだろう。 同じようにたとえばバナナなどの供物を本当に食べているのか、 食べていないか、 どうやって証明できるのか。 私は信仰を持っているから、 必ず仏様は来てこのバナナを食べてくれる。 つまりエッセンスを食べてくれる。 そして私たちはお下がりをいただくということになるのでしょうが、 そう考えていると、 ものの考え方というのは逆転してきますよね。 難しいですよね。
 回向というのはどういうことか。 これはちょっと違うんです。 人間は、 ある目的のためにある手段を媒介させれば、 結果が得られるということで、 例えばお念仏をすることによってお浄土に行くというのならば、 これはお念仏が一つの往生極楽の手段になる。 これが間違いなんです。 これは宗教ではない。 目的的な呪術である。
 それに対して、 お墓の前でお念仏を唱える。 題目でも構いません。 そうすると、 気持ちがすっとしてくる。 これを仏教では、 「七仏通戒の偈」 という。 「諸悪莫作、 衆善奉行、 自浄其意、 是諸仏教」 です。 諸々の悪をなすこと少なく。 そして、 あらゆる善を行じ奉る。 わかりやすくいえば、 悪いことはしない。 いいことをする。 そうすると、 おのずからその意、 清まる。 ああいいきもちになった。 すーっとしてきますね。 是が諸々の仏の教えなり。 そうすると、 心が清らかなことを最終的に求めるのが仏教なんです。 仏の教えなんです。
 そうすると、 どういうことをしたらいいかということで、 するべきことがいろいろ出るわけです。 そこで行をする。 お念仏なり、 お経を読むなり。 それが 「功徳 (くどく)」。 功徳を積む。 だから 「行」 というのも、 電車の中で席を譲るというのも、 自分のためにしているんですよ。 他人のためにかわってやったと思ったら腹が立つでしょう。 ああ、 こういう気持ちをいただいた。 だからそこに相手を拝めるという。 法華経の中に 「不軽菩薩」 が出てくるのはそういった意味なんです。
 それは目的を超えた結果として得られるもの。 目的的にやってはいけない、 結果的でやらなければいけないというのが仏教なんです。  英語でいえば、 self satisfied。 要するに自分が自分で満足する。 お念仏は他人のために唱えているのではない。 いいことをするのも、 結果的、 客観的には他人のためになるかもしれないけれども、 それは自分のためだ。 そういうふうに仏教というのを理解していただけると、 結果的に功徳が得られるんです
 ただ、 それを目的的にしてしまったら、 目的を達成したら終わりでしょう。 そうではなくて、 目的なしにその行為を行うことによって得られるのが功徳なんです。 功徳を、 今度は自分の本当の気持ちをあなたに差し上げるということなんです。 これが回向。 回向というのは、 振り向けるという意味です。

お葬式の役目

 お葬式のとき遺族は二つの矛盾した気持ちに包まれます。 一つは、 哀惜の念にかられます。 私の父は九十三で亡くなりました。 母は八十八で、 一般からいえば天寿を全うしたのだからいいではないかというけれども、 やはり別れは悲しいですね。 もう少し生きていただきたかった。 なぜ死んでしまったのか。 これが哀惜の念です。
 もう一つは、 肉体の滅びに伴う恐怖感や嫌悪感。 この哀惜と嫌悪という二つの矛盾する要素に包まれる。 ですからお葬式をするということは、 二つの矛盾する感情を中和することにあるのではないか。 中和することによって遺族の気持ちを元の状態、 日常生活の場に戻してあげるということがお葬式なんだということです。
 我々は、 ここで一つは、 亡き人、 死者、 そしてその新しい霊、 亡くなった人の霊の安住を求めて、 僧に読経を頼んでその人が仏になることを願う。 これが葬儀の基本ですが、 現実的には葬儀屋さんが間に入り、 遺族の心が満足できるようにする結果、 ああ、 今日はすばらしい葬儀だった、 すごい立派な飾り付けで、 お坊さんも声もよかったし、 衣服も立派だった。 おまんじゅうもおいしかった。 本当にそれがいい葬儀なのか。 今ではそういうふうに文化装置というのが構築されているから、 それでその葬儀がいいとか、 悪いとか判断されてしまうわけです。
 ということで、 何が目的で葬儀が営まれるかわからなくなっているけれども、 では、 葬儀の社会的な機能は何かということで、 まず宗教の機能をみてみると、 一つ考えられることは 「不満解消の通路づけ」 というのがある。 自分の鬱積 (うっせき) したものが発散されるというもの。 実は 「解消」 の機能。 発散されるんです。 自分の鬱積 (うっせき) したものが発散されるというもの。 例えば上司からいじめられた。 「このやろう」 と思うけれども、 殴ったら首になってしまう。 ぐっと我慢をする。 だから一時、 モグラたたきがはやったでしょう。 このやろう、 このやろうって。 あれで発散をする。 それは解消の機能なんです。
 もう一つは、 解消ではなくて 「解決」 なんです。 なぜ私たちは死ぬのか。 生きている指針として何があるのかということで、 人生の根本問題を解決をするところに宗教というものの真骨頂があるわけです。
 だからお寺へ行ってお坊さんのお説教を聞いて心がスーッとするだけではだめなんです。 ある新興教団の子供たちが言っていました。 お母さんは教団の中へ行くとなんか機嫌がいいけれども、 次の日はまたもとどおりになってしまう。 だから毎日、 教会へ行ってください、 と。 そんなばかなことはない。 教会というのは解消の場なんです。 ストレスを解消する場なんですが、 不満解消の通路づけは宗教の入り口としてあるけれども、 目的は、 生き死にの問題を解決するところにある。
 ですから葬送の宗教的機能というのは、 救済機能でなければならない。 いわゆる生き死にの問題を解決しなければならないわけですから、 僧侶は、 解消というものを入り口にして、 解決に向かわななければいけないのです。 法華経の 『薬草喩品』 に、 「現世安穏 後生善処」 という言葉があります。 現世は安らかにして穏やかに暮らし、 死んだ後にはいいところに生まれたい、 これが二つの願いだと。 この願いがかなえられるように、 努力をしなければいけない。
 そこを踏まえてお葬式に関していうと、 防御機能というのがある。 例えば八百屋さんだとか小さな企業の場合には、 ご主人がすべてをやっていたとなると、 奥さんだけではそれにかわることができない場合があります。 ということはその家庭が崩壊する危険にさらされるということです。 そこでお葬式をすることによって、 同業者の人に来てもらう。 葬儀委員長をやってもらう。 そして、 まだどこかの会社にいた人に会社をやめてもらって家業を継いでもらう。 そのためにノウハウを教えてくれということで、 同業者が来て、 「亡くなった人と同様、 ご交誼のほどお願いいたします」 というあいさつをしますでしょう。
 昔は、 死者を前にして誓ったことは実行しなければいけないということで、 守られたんです。 今はそれが違っている。 葬儀そのものは一体どこにあるのかわからなくなってきたということは事実なんですね。 では、 なぜそういうふうに葬儀が見えなくなってきたのかというと、 実は私たちを取り巻いている死生観というのが変化してきたからである。

死生観の多様性

 人が亡くなると葬儀ということになりますが、 なぜ葬儀をするのか、 葬儀にはいったいどんな意味があるのか。 最近の葬儀をみていますとそのへんがよく見えなくなってきていますが、 それというのは結局は死生観に関る問題なのです。
 人の死は医師によって判定されます。 これは法律的な死ですが、 日本では、 一八五八年 (万延元年) に西洋医学が解禁されます。 東洋医学から西洋医学に移り、 明治三十九年になりまして、 お医者さんが死の判定をするんだという専権事項として認められる。 これが医師法の成立です。 それ以降は、 死亡届の欄に必ずお医者さんの証明がいるということになるわけです。
 ではどうして死を判断したのか。 心臓の鼓動の停止と、 呼吸の停止と、 瞳孔の散大が死の三つの要件です。 ですから昔のお医者さんは、 まず脈を取り、 それから聴診器を取り出して、 心臓の部分に充て、 心臓が動いているかどうかを確認する。 そして丁寧な人はハンカチを出して口元にあて呼吸を確かめ、 瞳孔の反応をみるわけです。 こうして死を判定するわけですが、 これは点としての死です。 ところが実際に命がなくなるまでには全部の細胞の死にいたるまでの時間的な経過が伴うのです。
 実は生まれるということもわからないんです。 日本では優生保護法が改正されていま母体保護法になり、 優生思想の部分は全部外されましたけれども、 厚生次官通達で、 中絶期間というのが決められる。 始めは二十八週。 それがだんだんだんだん狭められて、 平成三年のときに満二十二週未満となりました。 この一例からも分かるように、 人間が命を自由に操作できる時代になった、 ということです。 となると、 次にでてくるのは命をどう考えたらいいかという問題です。
 産科婦人科学会が一九八三年の十月に発表した 「体外受精・胚移植に関する見解」 で、 「ヒトの生命がいつ始まるかは議論のあるところ」 ではあるとしながらも、 「臓器の分化の時期をもって生命の始まりとする」 立場を表明しました。 ですからアメリカ大統領の声明なんかでも、 受精後十四日に限って実験は認めるということになっています。 十四日たつと受精卵が分割をして、 心臓だとか肝臓だとか肺臓に分化する。 ですから、 それまでにしましょう。 それ以降にやると、 人間になってしまう。 だからクローン技術というものの応用はそこまでにしましょうという取り決めがあるわけです。
 このように死のとらえ方、 生のとらえ方は時代によって変わっているわけで、 日本では死を重視するからか、 脳死論議が盛んに行われていますが、 アメリカの大統領選挙の際には、 命の問題、 堕胎、 中絶といった問題が必ず入ってまいります。 日本とはちょっと違います。
 科学的に生と死の整合性をどのように見るかは大きな問題ですが、 死というものは点ではない。 点というのは約束事であって、 生物学的にみた場合には、 それは全細胞死に向かって死んでいく存在なのです。 それに死というものを、 いつとらえるか。 それは文化によっても違ってきます。
 日本では民法の第一条に、 「人間は出生とともに私権の享有を受けられる」 と書かれています。 私権の享有。 要するに人間としての権利というのは、 生まれなければだめですよということです。 死んで生まれてきた場合には、 なんにもない。 別の条文には、 死によって相続が始まる、 とも書かれています。 死んだら哀れなものです。 相続です。 だからあまり残さないほうがいい。 (笑) もめるだけです。 適当な時期に寄附すればいいんです。 私はそうしています。 おやじが稼いだ金を息子が受け継ぐことはない。 私はそういう考えですから。
 そうすると、 人は言います。 その金があれば家を直せるではないか。 (笑) 家を直すのは簡単です。 だけどおやじはなんで稼いだか。 社会の人のおかげよって得られたんだ。 だから当然それは還元する。 そうすると気持ちがスーッとするんです。 そんなことはどうでもいいんですが、 そういったことで、 死というのは点として決められる。 で、 そういった状況も含めて葬送の習俗というものが展開されてくるわけです。

「枕経」 にみる 「死」

 さて葬儀の意味についてお話ししますと、 曹洞宗ではお坊さんが亡くなると、 亡僧 (ぼうそう) 葬法か尊宿 (そんしゅく) 葬法かということになります。 亡僧葬法というのはまだ修行中だった場合で、 尊宿は立派に修行を積んだ人の場合です。 ですから尊宿の場合は、 葬式批判が強い現代でもありますから簡単でいいはずなんです。 引導を渡してもらう必要はないわけですから。 浄土教の方でも、 お浄土に一人で行ける人というのが修行を積んだ人です。 だからこそ修行を積んでいない一般の人に引導を渡せるわけで、 お坊さんには引導が必要でなくなるんです。 だからお坊さんの葬式は簡単でいいんだけれども、 現実は逆でしょう。 あれはおかしい。
 一般の人の場合はどうかといいますと、 昔は、 高熱を出したりして生死の境を行ったり来たりする場合があった。 経験によって、 もう死にそうだと思ったりすると、 お経を読んであげたんです。 それが 「枕経 (まくらぎょう)」 で、 先程の一人前の僧ではない修行僧に読経を許したのです。
 ということは、 枕経というのは、 死んでいないことを想定したものなのです。 亡くなったから、 といってすぐにお棺に入れますか。 布団に寝かせるでしょう。 ということは、 生きているからなんです。 亡くなった人として扱っていないんです。 ですから、 喪が始まるのは次の日です。 その日には始まりません。 昭和天皇の時もそうでした。
 私は、 父が亡くなりましたときに、 親不孝で外国におりました。 大慌てで次の日に帰ってきたけれども、 もうすでに万般でき上がっていた。 後でお葬式の後片づけをして、 お香典を調べていたら、 その中に 「病気お見舞い」 というのが何通かあったんです。 なぜだろうと。
 ということは、 亡くなったその日にたまたま行ったら亡くなってしまったと。 慌てて香典を置いてこようかどうしようかというときには、 病気お見舞いとして置いてくればいいんです。 昔の人というのは考えたんですね。 死んではいない。 だからなるべく早くお坊さんを呼んできて、 亡くなった人を、 息をまだしている、 生きている人と扱ってお経を読んでもらう。 これが枕経なんです。
 それに最近では、 擬似死体験というものがあります。 定年になって職がないというような人は疑似死体験、 死んだと同じ体験をしているんです。 どういうことかというと、 会社にいるときに窓際族というのがありました。 窓際に机を置いて新聞だけを読んでいればいいんです。 そうすると、 人間として生きているということはどういうことなんだろう、 などと考えます。 ですから社会論などでは、 ステータスロール、 地位とそれに伴う役割がなければ生きているということではない、 とも言われるんです。
 それに例えば子供が東京の大学に入った。 電話をする。 そうすると、 「今忙しいのよ、 ガチャン」 と子供に切られた経験はありませんか。 これも疑似死体験。 呼べば答えるところにコミュニケーションが成立するわけですが、 問いかけるけれども答えてくれない。 両面通行が片面通行になる。 これが 「死」 なんです。 だから我々は擬似死体験というのをしているんだ。 そうすると、 本当の死に対して感動性というのが少なくなるということにもつながってきます。
 生死を超えた宗教的死というものがあります。 曹洞宗の開祖道元さんは 『正法眼蔵』 の中で、 「この生死はすなわち仏の御いのちなり。 これをいとい捨てんとすれば、 すなわち仏の御いのちを失わんとするなり」 と言っています。 それから浄土宗の法然さんの言葉もあります。 「本願の念仏には、 ひとりだちをさせて助をささぬ也。 ??善人は善人ながら念仏し、 悪人は悪人ながら念仏して、 ただむまれつきのままにて念仏する人を、 念仏にすけさせぬとは申す也」。 これは 「自然法爾 (じねんほうに)」、 すなわち自然のままに、 ということです。 ということは、 自分の人間というものをよく見つめる、 直視する。 それによって人間の本性というものを味わい、 理解する。 そこから宗教というのは始まるんだということになります。

現状と問題点

 昔は、 「死体は単なるモノではない。 意志、 感情をもち、 生者の難病をいやす力を秘めた存在で、 また一方では、 供養しなければ祟る存在にもなる」 と思われていました。
 第二次世界大戦のときに、 原爆が広島と長崎に落とされました。 岩波新書の 『原爆に夫を奪われて農婦たちの証言』 という本の中に書いてある話ですが、 広島で罹災して夫は亡くなり、 子どもの小学五年生がやけどを負った。 夫のお葬式をして帰宅し、 その骨をすり鉢で砕いて粉にして息子のやけどに塗るんです。 お父さんの最後の力で子どもを助けてくれといって塗り込むんです。 その効なく、 子どもは亡くなってしまうのですが、 要するに死体というのは、 死んでからでも生者のために何とか役に立ちたいという気持ちで死んでいる。 それほど大事にしなければいけませんよ、 ということになるわけです。
 ところで葬儀を巡る問題点を考えますと、 少子高齢化とのかかわりが見過ごせなくなります。 一九九九年の厚生省発表によると、 日本人の平均寿命は、 男が七七・一〇歳、 女は八三・九九歳。 死亡者は、 二〇〇〇年には百万人。 二〇一〇年には百二十九万人で、 二〇一〇年になると、 死亡者数が出生者数を上回り、 生まれてくる子どもより死ぬ人の方が多くなる。 二〇二〇年の死亡者は百五十六万人で、 二〇三〇年には百七十三万人。 二〇三六年には百七十六万人の死者が出る。 なぜ二〇三六年で区切るかというと、 団塊の世代つまりベビーブームのときに生まれた子どもが死に絶えるため、 ということでしょう。
 一方、 出生率、 一人の女性が一生涯かけて産む子どもの数は一九九九年で一・三四人ですが、 二・〇六から〇八人までないと、 現状の人口を維持することができない。 そのときにはどうなるかというと、 さまざまな面で日本は変わってくる。 檀家は半分に減ってきます。 それに檀家が継承されるとは限らないわけですから同時に檀家離れも激しくなる。 そんな状態になったとき宗教というものが滅びるか、 あるいは本当の宗教が生まれるか、 ということなどが問題になります。
 それに葬儀の形です。 今の日本における火葬場のキャパシティーというのは百万です。 だいたい八十万とも言われている。 二〇三六年には百七十六万人が死ぬのですから、 死んでも焼いてもらえない時代が来るのです。 我々のころまでは、 いや、 焼いてくれないかもしれませんね。 そういう時代が来ると、 お葬式は延びる。 ということは、 まずともかく火葬に付されたとしても、 次にいい日取りを選んでお葬式をするとなると、 お葬式の形態は変わってくるであろうということです。
 現に、 今はもう、 野辺の送りがなくなったから野辺の送りを舞台の上に実現しようということで、 ハイテク葬儀が行われる。 大阪の葬儀屋さんは、 プラットホームにカートを動かして光のトンネルをつくって、 その中にカートが入っていく。 まさにお浄土に旅立ちというわけです。 それから、 札幌などではやっていますが、 祭壇の裏に大きなスクリーンがあって、 そこに雲が動いているんです。 天井には星座がきらめく。 それこそショー的な要素が強い。 なぜショー的な要素なのか。 カラオケブームの影響です。 私はそうだろうと思うんです。 なりきってしまう。 そうすると、 葬儀というものが、 ますます見える葬儀、 見せる葬儀というものに変わってきてしまうのではないか。
 エンバーミングといって死体処理の技術もすすむでしょうし、 子どもが少ないからか、 生前予約のシステムというのも出てきています。
 仏教の場合、 前に言いましたように死んでからなんで戒名を与えるのか。 お経を読んだって死者に通ずるのかなど、 いろいろと問われるようになった。 ですからお坊さんは教化のことも含めてもう少し勉強しなければいけない。 その点は、 皆さんは一生懸命勉強しようと思っているのですから、 皆さんに期待して申し上げるわけです。 今日はいろいろと取り上げましたけれど、 そういう状況にいま来ているのだということを、 宗教の分析を通してお話をしました。

= おわり =

このページの先頭へ