藤井正雄先生

変わる葬儀(第12期スクーリング)

1999年6月20日 第12期スクーリング講義録

迫られる発想の転換

 この講座は「宗教概論」ということになっておりまして、ことに葬儀についてお話しすることになっておりますが、現代は一体どういうふうになっているのかという状況をお話します。
 まず私は宗教学を専門にしております。宗教学なものですから、現象を中心に考えるものなんですね。そこで葬儀をまず数字で見ることになりますが、亡くなっていく人がいないと葬儀というものはできない。そうなると死者の数はどうなっていくんだろうかということになります。
 ごくわかりやすく言いますと、だんだん死者の数は増えていきます。そうするとまずお墓はどうなるのか。千葉県浦安市の例ですが、人口統計や人口動態を調べると、まず一つ一つの墓地を小さくすること、これが基本である。ところが、建設省の墓地計画標準というのがあって、一基当たり四平方メートルいうのが最小のお墓として規定してある。
 そこで境目なしというものをつくろう。ということは、日本がどういう方向に進んでいくかということで、この狭い島国の中で、塀をめぐらせて小さなそんなことをやるよりも、境目のない空間といったものの都市づくりをしていかなければいけないんじゃないか。同じようにまず墓地からやろうということで、全体に境目なしという原則を立てた。
 そして、それを芝生にしよう。お墓というのは明るくしよう。憩いの場所にしよう。浦安のシンボルゾーンとしよう。そういういろいろな提言を出した。要するに、我々が今まで発想していたものを一つ転換しなければだめなんだ、と。

出生率さらに低下へ

 少子化とか出生率低下という問題もある。一人の女性が一生の間に産む子供の数というのが一・三人になってきたということはどういうことかというと、長男長女時代で、非婚か晩婚とかの人もいるから、出生率はどんどん減っていく。
 厚生省の統計なんかによりますと、出生児は一九七〇年 (昭和四十五年) では百九十三万人がピークであったんですけど減少し始めまして、二〇二五年、平成三十七年には九十七万人、そしてさらに減り続けるということが予測される。
 それで二〇一〇年 (平成二十二年) になりますと、死者の数が出生児を上回るということになるんですね。そうなってくると、今度は先ほど言いましたように長男長女ですから、二つの世帯が合併しますね。合併しますと、その子供は父方と母方、四人の葬儀を出さなければいけない。そうするとどうなるかというと、その二つの世帯が違った宗派であった場合、どっちを選択するかによって、あるいは選択しないという場合も出てくる。
 死者の数は、来年は百万人になるわけです。現在は九十万人です。昨年、二、三年前では八十万、日本の火葬場のキャパシティは八十万。そうすると、今度は死んでしまったらなかなか焼いてくれない (笑)。こういう世の中がやってくる。 ということは、皆さんいまお笑いになったけれども、葬祭業はいまや三兆円産業になっている。全産業が入ってくる。棺桶にはドライアイスを使うのですが、どうしても濡れちゃうんですね。そこで今は、棺桶を入れるさらに柩 (ひつぎ) があるんです。柩が壁の側面にピタッとついているんです。後ろにコンセントがある。コンセントを入れますと、ふたのところに冷気を入れる。そうすると、均等に死者を冷却するという形で、一月ぐらいもつんだそうです。
 こういうことを考えますと、死生観の問題もありますが、死者の数は増えても今までお寺のお坊さんがやっているのが増えていくわけではないということだけは念頭においてもらいたいですね。
 いわゆる現在の死者が二倍の百七十六万人に達するのは結局二〇三五年がピークです、そのときに仏教の今のお寺でお葬式をしているのが何パーセントかというと、数はものすごく減ってくる。それには無宗教葬だとか、そういうものがある。

多様化の中で宇宙葬も

 今アメリカでは宇宙葬が話題になっている。 ロケット、 ほんとに口紅みたいなカプセルに7グラム入れまして、 人工衛星の側面にピッタリくっつける形になっているんですけれども、 それで100万円、 消費税含めて105万円でしょう (笑)。 日本人はまだ数人しか申し込んでおりません。 打ち上げ基地が決まっているわけではないんですが、 商業的な通信衛星だとかを打ち上げるときに、 そういうものを希望者に応じてくっつけてやる。 そして軌道にうまく乗れば4、 5年回るんですけれども、 うまく乗らない場合には1年間ぐらいで大気圏に突入して流れ星になる。 非常にロマンチック (笑)。?
 うちのお父さんは宇宙旅行に行ってみたいと、 いつも宇宙に対する関心があった。 それじゃ、 親孝行ですね。 せめてロケットに乗せてあげよう。 死んだら星になる。 そういう発想です。 そうすると昔に死んだおばあさんはあれだ、 死んだおじいさんはこれだといった星というのが流れ星になるけれども、 ある一定期間宇宙を回りますから、 地球を何回も目で見ながら極楽へ旅立つというイメージを持つんです。 だから、 散骨よりももっといいわけですよ。

散骨の問題点

 散骨で、 ある作家が言いました。 山にまくと、 野獣その他のおしっこがかかるからいやだわと。 海にまいてくれ。 海にまくと魚に食べられますよ、 それはいやだと。?
 アメリカでは、 ドゥ・ノーハームというんですね。 他人に対してノーハーム、 危害を加えない、 迷惑をかけないというのが民主主義の基本なんです。 それがプライバシーということですね。 ですから、 プライバシーを守るといったら、 自分の土地にまいてもかまわないんですが、 行動においては制限されるというのが原則なんですね。?
 日本の法律の場合は 「墓地埋葬等に関する法律」 というのが厳然としてある。 それは第4条に埋蔵ということをいうんです。 これも皆さん、 覚えておいたほうがいい。 蔵というのは大蔵省の蔵というふうになりますけれども、 これは見えなくするという意味ですね。 ですから、 地下に埋めるという意味なんです。 そうすると、 墓地埋葬等に関する法律、 骨をまいた上に土をかけたならば違反になりません。 しかしそれが土地というのは、 都道府県知事が認可した土地が墓地ですから、 それ以外には墓地をつくれないという基本になっていますから、 それは墓地埋葬等に関する法律違反ということになって、 それは罰せられるということになる。?
 ですから、 今の散骨をする人たち、 自然葬の場合には、 絶対に土はかけていないはずです。 土をかけたら私は訴えますということになります。放送局が土をまいているのを放送したというのは不見識甚だしいということを僕は書いたことがあるけれども、 無視された。 法律がある以上、改定しない限りいけないわけですね。 そういう規制があります。?
 現にアメリカなんかでは、 50%火葬率を超しているのはハワイ州だけです。 後は50%近くというのはカリフォルニア州とかワシントン州だとか、 アリゾナ州、 ネバダ州、 そんな程度ですね。 非常に低いんです。 全体にアメリカでは20%弱ということになります。 そうすると、 そんな少ない火葬の中で散骨というのは、 ほとんどマイナーな葬り方で、 ほとんど行われていません。 行われているのは太平洋岸と高地、 ネバダとか高いハイランドですね、 そういった地域だけです。
 私も散骨の問題が起こってすぐに、 ヨーロッパのスキャータリングガーデンとか、 スキャータリンググラウンドというのをいち早く紹介しました。 アメリカを2週間飛び回りまして、 州法を収集していろいろ聞いて回った。
 その結果言えることは (前回記載した死者数の増加など) 数字の上からいくと、 お葬式というのもお墓というのも変わっていかざるを得ない。 さらにそういう状況の中で、 大きな変化というのを見ていかなければいけないのは、 私生活というのが多様化したということです。 そうすると、 当然いま言った数字と違って、 イデオロギー、 アイデオロジーのレベルで違ってくるんだ。 こういうことですね。

死生観との関係

 死生観は葬儀とどう関係してくるのでしょう。 たとえば、 火葬場での骨拾いをみますと、 一番理想的な姿としては、 男と女がペアになる。 そして東京の場合にはこんな竹のはしなんですけれども、 ごく典型的にいうと竹のはしと木のはしで、 長さの違うはしを使います。 そして、 遺骨をつまんで骨壷に入れるというのが 「はし渡し」 という習俗です。?
 ところがこのはし渡しというのは、 これは 「橋」 と、 発音が一緒なんです。 臨死体験の中では、 必ず川に出合う。 川に出合って向こう岸に行くと死んでしまうんだと。 ところが、 向こう岸から来るなと言われてハッと目が覚めて生き返った。 これは日本だけじゃなくて、 宗教の違いを超えて、 一つの世界を隔てるというのは、 川を越すということなんですね。 そうすると、 はしというのは、 この世からあの世への橋ということになる。 だから、 荼毘にふしてはし渡しをするときに泣いている人がいますか。 不思議にいないんですよ。 カラッとしている。?
 骨が出てくると関西、 京都なんかでは、 全部葬儀社さんが直して、 これが頭で、 これが足でと人類学の講義をしますよ。 そして、 「三途の川をこれから渡っていくのに、 これだけしっかりした足だったら大丈夫ですわね」。 なんだかしらないけれども、 遺族に対してそういう話をするんですね。 全部拾い終わったところで、 「ほかの骨をどうしますか」 と聞くんです。 そうすると、 「処分してください」 で、 そのまま火葬場で処分してしまう。

あの世では

 では、 あの世、 極楽というのはどういうふうに見たらいいのか、 たとえば長野県では、 棺桶にいろいろ入れてあげるんですね。 土葬でしたから。 そうすると、 わらじを入れてあげたときに、 「わらじは切らなければだめだ」 という年寄りがいまして、 切っていたんですね。 「戻ってこないように」 というのが一般的な理由なんですが、 それでは亡くなった後には、 屏風を逆さにしますね。 あれは何ですか。 それから着物も合わせ方が逆になりますね。 あれはどうしてですか。 それは昔の人は、 この世とあの世というのは、 この世の写しがあの世であると考えた。?
 鏡を考えればわかるように、 これは入れ替わりの論理なんです。 鏡では、 我々の左手は右手になるわけでしょう。 向こうの世界は逆の世界になっている。 お彼岸というのは、 この岸を離れて、 向こう岸に渡るということですが、 それにはどうやったらいいですか。 左前にするのもそうですが、 何でも逆にするということで、 鼻緒は切らないと向こうでは履けないんです。 そういうふうに考えたらどうでしょう。 みんなぴったりくるでしょう。?
 そうすると、 戻ってこないようにというのは、 二つの感情の違いというのが出てくるんだということで、 説明があるんですね。?
 まず、 わらじの鼻緒を切ってしまうということは、 戻ってこないように、 だということです。 ですけど、 人間の感情というのは、 死者に対して、 哀惜の念というのがあるわけですね。 亡くなった人の遺体に取りすがって泣き叫ぶ。 何で死んでしまったんだ。 これはいくら年を取っても自分の親との別れは非常につらいものですね。 親が死んでよかったという人はいないですよ。
 つい一週間ぐらい前に、 私の母の姉ですね、 私にとっては伯母ですが、 もうじき百というところで亡くなった。 そのときには涙を流して、 確かに百ですから、 よく長生きしたと。 だけど、 やっぱり悲しいですよね。 ものを言わない。
 ですから今はお墓で死後も話したいというので録音しておく人がいるんですね。 スイッチを押すと、 「今日はよくお参りくださいました。 私はいま極楽で楽しい生活を送っています」 (笑)。
 それが一時受けたんですよ。 それをいくつかパターンをつくっておいて入れ替える。 あれはテープレコーダーですから、 テープを入れ替える。 皆さん、 どうですか。 「よくお参りくださいました。 楽しくやっていますよ、 どうぞいらしてください」 と (笑)。 それが一時はやったということは、 日本人の宗教観がガラッとかわったということなんです。

「過ぎ越していく死」

 人が亡くなると当然悲しみが湧くわけですが、最近ではその「哀惜の念」というのを超えてしまうんですね。そうした状態を私は「過ぎ越していく死」と言っているんです。なぜかというと、現代というのは、疑似死体験が非常に多すぎると、アメリカの学者が言うんです。
 疑似死体験というのはどんなものでしょう。死ぬとお墓にはいるため、お墓に向かって話しかけたりするわけですが、それは一方通行。いくら言ったって、おうむ返しに返ってくるだけです。
 ところが皆さん経験していませんか。自分の娘がどこかに行った。電話したって「忙しいから」と切ってしまう。これも一方通行で、現代では一方通行が多くなっているんですね。
 いま大学で双方向授業ということが言われている。しかし学生に一々言ったって、学生にはそれだけの知識がないわけですから、黙ったままです。やりにくい。活発にやってくれればいいが、そうじゃない。一方通行的です。そういう疑似死体験というのが多いんですよ。娘に電話してもいつも留守番電話、電話してうるさいと電話しない。だから夜がけ朝がけ。そうすると怒って切る(笑)。そうなってくると、例えばその娘が交通事故で死んじゃったという通知を受けた、そうしたらどうですか。そうすると、死というのはスッと通り抜けてしまうんですね。
 それからもっと具体的に言うと、お父さんとお母さんが一緒に住んでいて、一人娘がいたとする。お父さんが入院しちゃった。そうすると、母子の生活になる。長期療養を繰り返している病院で死んでしまう。帰ってくるのは、肉体じゃなくて遺骨となってしまう。
 そうした場合に、母子の生活というのは、長期化すれば変わってこない。だから淡々としてくるし、また入院が長引いて、面倒でゴタゴタゴタゴタ言うと、早く死んでくれと、思ってはいけないけれども、思うことがあった。ついに死んじゃった。ホッと安心しちゃう。涙も出ない。こういう家庭が実は増えているんです。だから、これは、そういう意味では社会的な死なんです。
 そういう例が非常に多くなってくる。そこで葬儀も、形式になってしまうという側面がどうしてもあります。これをほんとに立て直さなければならない。死というものはどういうものかという点から立て直さなければならない。これがそういうことであります。一つ社会的な死というのもあるんだということです。

恐怖感への対処

 哀惜の念が減ってきたという話をしたんですが、もう一つは恐怖感の問題ですね。遺体は腐敗しますね。やっぱり怖い、恐怖感がある。
 亡くなると、すぐに今は葬儀屋さんに電話しますね。名古屋では葬儀屋さんがパソコンを持って来ます。ノート型パソコンを見せて、「どこでお葬式しましょうか」。「お寺を使いたい」というと、「あなたの住んでいるところはここだから、お寺はどういうのがあるかパッと出してみましょう」。パッパッと出るんです。「何人ほどの弔問者がいますか」というと、それに合ったお寺を探してくれる。「宗旨はどうですか」。このご宗旨だと、食事はどこどこから取り寄せることになる。そうすると、パッとメニューも出るんです。今度は計算書、パッと一覧表が出て選択できるんですよ。いや、葬儀産業というのは進んでいるなと思いますね。冷蔵庫付き柩というのも出現するわけです。
 そこで恐怖感をどうするかです。アメリカでエイズが出てきたときに、その処理の仕方がどうなるのかということを聞きましたが、感染症で一番うつるのは結核です。結核の場合にはうつります。ですから、昔の解剖医というのはほとんど結核にかかったといわれます。ところがいまは、その予防のための何とかパウダーというのが出ているんです。それをシュッシュッとまくと、なくなるという極秘兵器というのがいっぱいあるんです。そんなふうに、恐怖感を除くこともいま葬儀屋さんでは工夫されている。

決別の儀礼

 人の死には、 人間の愛情のこまやかな面と、 恐怖感の念が伴うわけですが、 こういう相矛盾する感情を中和するところに実は葬儀の意味があるんです。 また、 それまでの生活とは全く違った空間が現れてくるわけですから、 そういう異常な空間を元の生活空間に戻してあげるというのが、 葬儀をやる基本になるわけです。
 私が死んだならば葬儀なんてしなくていいということで、 「故人の遺言によってお葬式はいたしません」、 それは結構ですよ。 ところが、 亡くなったということを知らなくて、 後で 「亡くなった人には大変お世話になった、 こういうふうに世話になったんだ。 恩返しをしなくてはいけないと思っていたのに、 死に目に会えなかったし」 ということで、 せめてお線香の一本でも上げさせてほしいという人が出てくる。 だからこの世からあの世へ送る一つの決別の儀礼でもあるんですね。
 では葬儀が公の行事であるということはどういうことかというと、 死者というのは重いし、 一人で葬ることができない。 遺体を処理しなければならない。 その遺体をどういう形で極楽に送るか、 それとの関係を新たに結ぶか。 これが法事であり、 戒名という名前のもとに再生してくるわけですね。 そこに宗教的な意味もでてくるわけです。

死生観の変化

 もちろんそこにはいろんな社会的な意味が加わってくる。 社会的な疑似死体験ということもありますけれども、 社会的には、 かつては喪主というのは長男がしたんです。 今いろんな要素が加わってきました。
 昔はご養子をとった場合に、 一番最初にお焼香に出るのが血のつながらない養子なんですよ。 いまは、 「そんなばかなことがあるか、 お母さんは血がつながらなくたって、 一番死者と親しかったんだから、 喪主にしよう」。 これは意味が違う。 家を継承していくということを考えれば、 跡取りというのが喪主になる。 だから喪主というのは、 その家を継ぐものが、 血縁がつながっている、 いないにかかわらず、 していくべきなんです。 それが大きな変化があるのは、 死生観が家から情緒的なつながりに変わってきたということです。
 先祖には、 遠い先祖と近い先祖があります。 遠い先祖というのは、 系譜に基づくもので、 自分がどういう家系の中で位置づけられているかが見えてくる。 これに対して近祖というのは情緒的なんですが、 もちろん遠祖からずっとつながってくる。 中国には廟制度というのがある。 四つの廟なんですが、 四つというのは、 祖と曾祖、 高祖、 太祖、 この四つをいうんです。 祖というのは、 おじいさん、 おばあさん、 だから祖父、 祖母です。 その上は曾祖父、 曾祖母、 高祖父、 高祖母、 こういうふうになります。
 これで賢明な皆さんはすぐおわかりのように、 お父さん、 お母さんは入っていないんですよ。 お父さん、 お母さんというのは現実に夫婦ゲンカもすれば、 いやな面も子供はちゃんと見ているんですよ。 こんな飲んだくれの親父が、 あるいはボケた母親が、 死んでから私を擁護してくれるかなと、 ふと現代人は脳裏によぎるわけですね。 だからお父さん、 お母さんは先祖としては祀らないんです。
 お父さんというのは、 まだ生々しい記憶、 イメージの世界である。 イメージいわゆる情緒の世界にあるから、 それは先祖からは除いたんです。 ところが今は近い先祖、 父だとか母だとか、 そういった人に供養の重点が移っている。 それは祖先崇拝と言わないで、 メモリアリズムと呼ぼうという学者も出てくるわけです。 ですから、 ここでもお墓もメモリーとしての墓というのが出てくるわけです。 汽車が好きだったからといって、 機関車の形で墓石をつくったり、 碁が好きだったので、 碁盤の形式にしたり。 ですからお墓というのはメモリーとしての、 いわゆる個人の追憶の場としてつくっていこうということになってくる。 ですからお葬式の喪主が長男から妻にかわったりもするわけです。
 このように、 お葬式が、 家の葬式じゃなくて、 個人というものの、 二つの感情的な側面というのが強くなってきたということには原因があって、 直線的な死生観というものが優勢になってきたところに問題が出てくるわけです。

仏教的死生観とは?

 生と死というものをみた場合、 死というのは時間がたてば確認することができる。 ひげの濃い人は、 ひげの細胞は六時間生きている。 お医者さんが死を宣言してから六時間は生きている。 体温というのは、 医師が 「ご臨終です」 といったときから三時間は維持されている。 正確にいえば一・五度ぐらいしか下がらない。 ところが、 三時間が過ぎると急激に下がっていく。 そうすると血流が止まりますから、 紫斑が出てくる。 筋肉が硬直してくる。 死体の硬直が起こってくるということが死体の変化です。
 では死の判定というのはどうかというと、 まず心臓が停止すること、 呼吸が停止すること、 呼吸が停止するということは、 内臓からいうと肺臓がだめになったことをあらわします。 それからもう一つは、 瞳孔散大といいます。 要するに目の瞳が開きっぱなしになって、 光の反応を受けない。 これが死を判定する三大特徴です。 瞳孔が開きっぱなしになるということは、 瞳孔につながっている視神経、 複雑な神経が死んでいるということになります。 ですから内臓の中で、 この三つが死んだことが人の死であるわけです。
 科学というのは整合性をもたなければならない、 ということで、 心臓、 肺臓、 神経というものが死んだということが死であるとするならば、 それと対極にある生というものは、 こういう臓器が分化してくる時期が生の始まりなんだということになります。 それは、 アメリカ大統領の生命倫理リポートを読みますと、 受精後十四日と決められている。 受精卵は細胞分裂を繰り返し、 十四日たちますと、 臓器が分化していくからです。
 日本では優生保護法が廃止されて、 母体保護法に変わりましたけれども、 妊娠中絶期間というのは、 満二十二週というのが、 平成三年に厚生省の次官通達が出て以来、 変わっておりません。 二十二週です。 満二十二週を限度とします。 満二十二週以前は、 配偶者が決定すればいいことになっていますが、 二十二週を過ぎると、 胎児は法律によって保護されることになります。 母子手帳が交付される。 ですから出生前診断というのは二十二週までに出るように計算してあります。

「メモリアニズム」 へ?

 そういったことで、 我々は点としての死というもの、 それと対極にある生も、 点としての生というものを決めてくる。 結局法律的には、 この世にオギャーと生まれてから人間としての権利を認めるということで、 零歳とした。
 これはおかしい。 生命の尊重ということから、 その前のおなかの中にいる期間を入れた数え年というものが基本にならなければいけないというので、 仏教で行年とか享年というのは数え年です。 要するに命というものは受精、 そこから始まります。 仏教というのは命ということを中心に考えていきます。 死生観、 生死観、 普通にいえば死生観、 どちらでもいいんですけど、 死というものを中心に考えた場合は生という問題も出てくる。 それが循環しているというのが伝統的な死生観です。
 だからこそ循環している中での葬儀という在り方が、 喪主が跡取りであり、 例えば兄弟が三人ぐらいいた場合に、 上の長男が家を継ぐとは限らない。 三男が最初に焼香に出た場合には、 三男が家を継ぐんだなという無言の承認であった。
 結婚式の結婚披露宴というのが、 二人が結婚したから、 もうちょっかい出すなという一つの公の表明と同じように、 死というものは、 この世から鬼籍に移った、 いわゆる極楽にいったということの別れであると同時に、 後の人に対する、 世間一般に対する告示の意味を持っていた。 その喪主というのが奥さんにかわって、 祖先崇拝からメモリアニズムに移行していくということに問題が出てくるんだ、 そういうことになります。
 以上私の著書の 『仏事の基礎知識』 に書いていないことをお話ししました。 ですから、 今日お話しをしたこととあわせて、 どういう形で葬儀というものを考えなければいけないか、 宗教というものをどう考えていかなければならないかという一つの材料にしていただければ幸いです。

= おわり =

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